中華日和
ゆげ
雨、ときどき餃子
土砂降りの雨が窓を叩いている。梅雨入りしたら、日課のランニングもしばらくは休みだ。もう十年近くなるだろうか、和也にしては長く続いている趣味だった。和也は最近購入した最新のスマートホームデバイスを操作し、部屋の照明とエアコンを調整した。快適に保たれた室内で、くつろぎながら面白そうな映画の配信を探す。
和也の愛用しているそれは台湾製で、日本でビジネスを展開するHarmony Techが取り扱っている最新のIoT製品だった。ますますスマートホーム化が進んだ近年、街のいたるところでさまざまな製品やサービスが使われており、その中でもHarmony Techの製品は国産の製品と並んで人気を集めていた。
「こんな雨の日もあったなあ」
静かな部屋に響く雨音。ふと窓の外に目を向けた和也の頭の中を、数年前の出来事がよぎった。こんな日はきまって中華が食べたくなる。慣れた動作でアプリからいつもの中華料理店のメニューを開いた。何にしようか。少し迷って、麻婆豆腐を注文した。トッピングは花椒、ご飯は大盛。ほどなくしてデリバリーの弁当が届くと、和也はさっそくその蓋を開け、湯気の立つ麻婆豆腐を口に運ぶ。
「これこれ。うん、美味い」
花椒を効かせた刺激的な香りに酔いしれるように、和也は満足げな表情を見せた。
―― ☂ ――
曇りの予報が雨に変わったのは、昼を過ぎてからだった。退勤時刻間際になって雨がパラつきだす。雨は夜にかけてますます激しくなるらしい。もう梅雨入りしていて天気が不安定なのだから、本当は傘を持ち歩くべきだったのだ。和也は傘を持ってこなかったことを後悔していた。
――今日は走らないでまっすぐ帰るか。
会社の近くにランニングステーションができたのをきっかけに始めたランニング。走るのは楽しいが、無理はしないに限る。入社三年目、社内での立ち位置も少しずつ変わってきて、仕事にも張り合いがでてきたところだった。少し疲れ気味だったから、ちょうどよかったかもしれない。
いつもとは違うスーパーに寄ったのはただの気まぐれだった。少し雨足が強まっている気もしたが、まだ大丈夫だろう。珍しい品ぞろえに目移りしながら、和也は急いでカップラーメン、スナック菓子、ペットボトル飲料数種類をカゴに入れた。他に買うものはないか店内を見まわしていると、一人の青年が目に入った。同じアパートの住人だ。ゴミ出しのときに何度か見かけたことがある。青果売り場で丁寧に野菜を選ぶその姿に、何となく自分のカゴの中身が恥ずかしくなった和也は、隠れるようにレジへと向かった。
会計を済ませ、外に出ると雨は一段と強くなっていた。和也は天気予報を恨みながらその場にたたずみ、空を見上げる。振り続ける雨。あきらめてずぶ濡れのまま帰ろうしたそのとき、目の前に傘が差し出された。
「貴方傘持無? 此傘一緒入?」
さっきの青年だった。癖のある片言の日本語ではあったが、聞き取れないことはない。面食らってぽかんとする和也に向かって、青年はもう一度「傘一緒入?」と繰り返した。
「私傘大、二人使余裕余裕」
青年は「呵呵」と笑って、傘を開いた。話すのはこれが初めてだ。和也は驚いていた。いや相合傘なんて……と若干引きもしたが、相手は外国人っぽいし、こういうものなのかもしれないと無理やり納得する。親切を断る理由もない。「ありがとうございます」と和也が言い、二人は傘に入って歩き始めた。
「最近雨多、私故郷似」
青年が言った。すかさず和也が尋ねる。
「故郷って、どちらですか?」
「台湾」
「へえ、台湾。台湾も雨が多いんですね」
「雨本当多。台湾雨季、日本梅雨比雨更激」
雨音にかき消されないよう、二人は声を張り上げた。最初は敬語だった和也の口調も、雨につられてかだんだんとフランクになっていく。アパートへ着くと和也はレジ袋に手を突っ込み、買ったばかりのコーラを青年に差し出した。
「ありがとう、助かった。これ傘のお礼、よかったら」
「貴方結構濡、申訳無……阿」
コーラを受け取った青年は何を思いついたのか、自分の小さなエコバッグを目の前に掲げて、楽しそうに笑ってみせた。
「貴方今夜時間有? 私餃子作予定、一緒食如何?」
「え、あ、ああ」
突然の申し出に少し戸惑ったのも最初だけ。興味を引かれた和也は、喜んで青年の誘いに応じることにした。
三十分後。
着替えを済ませた和也は青年の部屋に来ていた。その空間は同じアパートだとは思えないほど、異国情緒にあふれていた。中華街でよく見る赤い飾り物や、『福』と『春』の字が逆さになっているでっかいポスターも壁に貼ってある。なんかすげえ、と和也は心の中で呟いた。初対面の人ん家に来るなんて俺何やってんだろ、とも思ったが決して嫌々ではない。むしろわくわくしている。
青年の名前は
和也が訪ねてくるまでの間に、下ごしらえはだいぶ進んでいるようだった。部屋の中はすでにいい香りが漂っている。
「何かすることある?」
「有難、餃子包手伝欲」
「わかった」
和也はうきうきと手を洗った。餃子を包むなんて、子どものころの手伝い以来だ。もっとも、それが本当に手伝いになっていたかどうかはわからないが。料理は嫌いじゃない。でも一人暮らしを始めてからは、ついインスタントや割引の弁当に頼りがちだった。健康のためには自炊したほうがいいのはわかるが、片付けのことを考えるとどうしても面倒くさい気持ちが勝ってしまうのだ。
フライパンの中では手羽先がこんがりと焦げ目をつけていた。軽くつぶしたニンニクと、大きめに切ったネギとショウガと、たぶん何かのスパイス。いかにも中華料理っぽい香りがする。和也はそわそわとフライパンを見つめた。劉は「
ボウルに入っていたのは、塩で水抜きした千切りきゅうりと細かい炒り卵を混ぜ合わせたものだった。劉は鮮やかな手つきでそれを皮に包んでいく。これが本場の餃子か、と和也は感心する。さっそく劉のマネをして包んでみるが、意外と難しい。和也の餃子は不格好で今にも崩れそうだったが、劉に気にしている様子はない。
「私故郷、一週間内三、四回餃子食」
「そんなに? 飽きないの?」
「全然。餃子種類色々有、豚肉、牛肉、卵、鯖、蝦……白菜、大根、椎茸……」
和也の口から「ほお」と声が漏れる。今日は市販の皮だが、台湾では皮も手作りするのだ、と劉は言う。
「それにしても……うーん、ムズっ」
「大丈夫、大丈夫。形関係無」
和也の餃子からぼろっと中身がはみ出たのを見て、劉が「呵呵、具多過」と笑った。
「来客歓迎時、台湾人餃子御馳走。今日貴方来、私嬉」
しゃべりながら作業しているうちに、いつの間にかずらりと餃子ができていた。最後の一個を、和也は丁寧に包む。
劉は電気ケトルで大量のお湯を沸かし、鍋へ移した。水餃子なのだそうだ。包んだ餃子を茹でる。そっと湯に沈めた餃子はすぐに浮かんできて、狭い鍋の中でひしめき合う。茹であがった餃子を皿へ盛る。隣のフライパンの蓋を開けると、汁がとろりと煮詰まっていた。こちらも完成のようだ。
すぐにテーブルに二皿の料理が並んだ。透き通るつやつやの餃子と、てりってりな手羽先。
「何卒、召上」
「いただきます」
茹でてしまえば、形の違いなどほとんど気にならなかった。和也は餃子を一つ、箸で挟んだ。つるりと滑ってしまいそうな、そんな感触がした。一口で食べてしまうのが惜しくて半分だけかじってみると、中から鮮やかな黄色と緑が顔を覗かせる。雨の鬱陶しさをものともしない爽やかな味わいに、しゃきしゃきと軽快な嚙みごこちに、思わず唸った。きゅうりの青臭さは全く感じない。思わずほっとため息が出た。
次にタレの絡んだ手羽先をそっと箸で持ち上げる。コーラで煮込んだ肉は驚くほど柔らかくて、すぐに骨からほろりと外れた。あっさりとした餃子とは反対に、こちらの味付けはこってり濃い目だ。かすかに香るスパイスが、本場感を演出している。美味しい。気づいたら、夢中で食べていた。
食事を続けながら、たわいもない話に花を咲かせた。互いの国の文化の話、アニメの話、仕事の話。それから劉は「研修終了後、私台湾帰。将来、日本台湾繋仕事欲、自分会社作希望」と、将来のビジョンを語った。和也は餃子を大切に味わいながら、劉の言葉に耳を傾けていた。
たまたま天気予報が外れて傘を忘れ、たまたまいつもと違うスーパーに寄り、たまたま劉と出会い、そしてたまたま一緒に餃子を作って食べている。たまにはこんなこともあるだろう。行き当たりばったりの一日だった。でも楽しかった。
それから本格的な梅雨となり、土砂降りの日が増えた。そんな日は二人は一緒に食事をした。料理をすることもあれば、買ったもので済ませることもあった。和也がカレーを作って御馳走したこともある。やがて天気が落ち着くと和也はランニングを再開し、梅雨の間に急激に縮まった二人の関係は、梅雨明けに伴ってそれぞれの日常へと戻っていった。
―― ☂ ――
場所は変わって、台湾。高層オフィスビルの一室。劉は外を眺めながらコーヒーを飲んでいた。大きなガラス窓からはいつもなら台北の街並みが一望できるが、大雨の今日、その景色はまるでモザイクがかかったかのようにぼやけ、歪んで見えていた。
半年の短期研修を終えて帰国した劉は自ら会社を立ち上げた。Harmony Tech、台湾名『
同じアパートに住んでいた和也とは、大雨の日に一緒に食事をするだけの仲だった。周りの日本人は皆親切で温かかったが、異国の地で一人、劉はいつだって拭いようのない孤独感を抱えていた。言葉や行動の細かな違いに戸惑い、親しみやすさを感じつつも、どこか一歩距離を置かれているような気がしてならなかったのだ。和也とは、なんというかノリが合った。梅雨の日だけの、ささいな出来事だったかもしれないけれど、でも。劉はあの楽しかったひとときに思いを馳せる。
「
しばらく写真を見つめていた劉は、やがて滑らかな動作でアプリを閉じると、スマホをポケットにしまった。冷めかけたコーヒーを飲みほし、デスクに戻る。目の前には山積みの仕事。来月の日本は梅雨の真っただ中である。日本行きの計画書にもう一度目を通しながら、劉はその顔にふと笑みを浮かべた。忙しさの中に、何か特別な充足感が広がっていた。
中華日和 ゆげ @-75mtk
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