第弐話 嗤う人形 (後編)




 ―――戒厳令の夜であった。


 明治三十八年九月五日、東京日比谷公園で開かれた日露講和条約反対の国民集会は、膨れ上がった火の玉が炸裂するように群衆を駆り立て、内相官邸や新聞社、警察署を次々と襲撃させた。帝都は暴動の坩堝るつぼと化し、それは翌六日になっても収まらず、政府はついに日本で初めての戒厳令を施行する。

 この戒厳令に基づいて皇居を中心に各所に検問所が儲けられ、暴徒の取締りが強化された。焼き討ちに遭って機能を著しく低下させた警察に代わり、近衛軍このえぐんが出動して通行人に対し厳しい検問が行われている。


 日比谷公園は皇居を挟んで、すぐ目と鼻の先である。幽霊坂の写真館の二階から窓の外を眺めると、何処かで火の手が挙がっているらしく、夜空を赤々と染めているのが見えた。電車が運行を停止し、暴徒と見物人が混然となってシュプレヒコールを叫び、軍と警察がそれを鎮圧しようと躍起になる。帝都とは思えない混乱と騒然の有様であった。

 戦争のために働き盛りの若者達が兵隊に取られ、物価と税金は上がるばかりで国民生活は苦しく、多大な犠牲を払って大国の露西亜ロシアにようやく勝ってみれば、肝心のポーツマス条約では外国の横槍で満足な賠償金も得られない。となれば、溜まりに溜まった民衆の不満が爆発するのも当然であろう。

 政府の連中には小生も石礫いしつぶての一つも投げてやりたい気分だが、なにせ徴兵検査で呆気なく不合格にされた生まれついての虚弱体質である。暴動に巻き込まれたら誰よりも早く死ぬであろうことを考えると、おとなしく家に閉じ籠もる以外にどうしようもないのであった。


 洋燈ランプの下で本に目を落とすものの、内容は一向に頭に入って来ない。外の様子ばかりが気に掛かる。諦めて本を閉じ、再び窓の外を眺めていると、幽霊坂の暗闇の向こうに、ふと何か動くものがあるのに気付いた。

 どうやら坂を上って来る人影のようである。小生には、それがまるで黄泉からふいに現れた亡霊のように思われて、背筋がゾクリと粟立つのを禁じ得なかった。

 坂を上がり切った人影は、そのまま写真館の玄関先へと近付いて来る。それから程なくして呼び鈴が鳴った。小生はその人影に見覚えがあった。急いで階段を降り、玄関扉を開ける。そこに立っていたのは、出版社を辞めて以降、音信不通になっていた塚本くんその人であった。

 「君・・・いったい、どうしたのだね!?」

 驚いてそう尋ねると、塚本くんは少し寂しさを混じえた表情で頭を下げた。

 「ご無沙汰しています、先生。その節は相談に乗っていただいたにも関わらず、ご挨拶もせず出版社を辞めてしまって申し訳ありませんでした」

 「いや、それは良いさ。とりあえず元気そうで何よりだ。それより君、姉上が亡くなったと聞いたが本当なのかね? だとしたら大変気の毒なことだ。あれからどうしているのだろうと、心配していたのだよ」

 「・・・・はい、姉が亡くなったのは本当です。実はそのことで先生にお話があって訪ねて来たのです。少しお時間をよろしいでしょうか」

 「もちろんだ。さぁ、入りたまえ」

 小生は塚本くんを二階の部屋へ通した。彼は少し大きめの行李鞄こうりかばんを片手にぶら下げていた。こんな荷物を抱えて、いったい何処へ行くのだろうと頭の片隅で思った。まるでとても遠い処へ旅立つみたいじゃないか。

 「いま、お茶を淹れよう」と、一階の台所へ行こうとするのを、塚本くんが制止する。 

 「いえ先生、お構いなく。それよりどうぞ座ってください」

 塚本くんの言葉に従って、小生は文机を背にして座った。小さな円卓テーブルを挟んで、その向かいに塚本くんが腰を下ろす。彼の傍らに置かれた色褪せた麦色の行李鞄が、何故か妙に気になって仕方がない。

 「それにしても、よくここまで辿り着けたものだ。今、市内は軍による検問の真っ最中じゃないか。途中で厳しく詮議されたりしなかったかね?」

 「ええ、なるべく検問所を避けて通ったので、遠回りになってしまいましたが」

 塚本くんの様子は妙に落ち着いていた。姉を亡くしたばかりだからか、以前のような若者らしい溌剌さが消えてしまって、どこか沈鬱な気配を身に帯びているようにも見える。

 「それにしても急なことで大変だったね。篠山女史から聞いた話では、君は亡くなられた姉上に代わって、姪の面倒を見るために出版社を辞めたそうだが」

 小生の言葉に、塚本くんは表情を変えず頷いた。

 「ええ、僕もまさかこんなことになるとは夢にも思いませんでした」

 「それにしても、姉上はどうして亡くなられたのかね。どこか身体を悪くしたのかい?」

 「いいえ、姉は死ぬ直前まで元気でした」

 「それなら事故?」

 塚本くんは首を横に振った。

 「いえ、事故でもありません。姉は・・・・あの西洋人形に殺されたのです」

 「あの西洋人形? 例の“わらう人形”のことか」

 塚本くんが、ゆっくりと頷く。

 「君は先ほど、その姉上の死について話があると云ったが・・・・いったい何があったのだね?」

 塚本くんは小生の問いに少し黙ったあと、遠くを見るような目で天井を睨みながら、やがてこう口を開いた。

 「・・・・とても怖ろしい話です。僕の大切な家族に何故このような悲劇が襲い掛かったのか、今もって理解することが出来ません。もし神が実在するなら首根っこを捕まえて、その理由を問い質してやりたいほどに。・・・・いや、前口上は止めておきましょう。あの日、僕が先生に例の人形についてご相談申し上げた後、姉とその家族の身にいったい何が起こったのか、ぜひお聞きください」


 塚本くんの言葉に、小生は黙って息を呑んだ。 

 その日、我が国で初めての戒厳令の夜は、実に暗く得体の知れない闇を、小生の元に運んで来たのである。


     

   ◇    ◇    ◇   ◇



 

 ―――僕が先生にご相談申し上げてから数日後のことです。

 姉の元を訪ねますと、姉は精神的にひどく参っている様子でした。

 人形の怪現象はその後も続いていました。姪の鞠子は人形を片時も手放さず、無理に取り上げようとすると気が狂ったように暴れ出します。近所の友達とも遊ばなくなり、様子がおかしいことから、むしろ避けられているようでした。

 それから鞠子はよく姿を隠すようになりました。日中、ふいにいなくなり、慌ててあちこち探すと、納戸や物陰に隠れて人形と喋っている。そんなときは鞠子の声だけでなく、あの老人のようにしわがれた奇怪な声も一緒に聞こえて来るそうで、それはやはり例の人形が喋っているとしか思えなかったそうです。

 このままでは、鞠子が何処かへ連れ去られてしまうのではないか。姉の心配は否が応でも募るばかりです。夫に何度も相談したそうですが、やはり気の所為だの一点張りで、姉の話を信じようとはしませんでした。それどころか自分の買い与えた人形にケチを付けられたようで不快なのか、非常に不機嫌になるそうです。肝心の夫が頼りにならず、姉は傍目にも追い詰められているように思えました。

 

 それから十日ほど経った頃のことです。

 出版社で仕事をしていると、姉から電報が届きました。「火急ノ用件、スグ来ラレタシ」とのこと。その文面に驚き、社長に断りを入れて早退した僕は、そのまま姉の住居すまいへと駆け付けました。

 玄関の戸を開くと、姉は上がり口に腰掛け、灯油を入れた小瓶と燐寸マッチを片手に、僕の到着を待ち受けていました。

 その傍らには、青いドレスを着た例の西洋人形が横たわっています。居間の柱には縄で縛り付けられ、さらに猿轡さるぐつわを噛まされた鞠子の姿がありました。彼女はそのいましめから逃れようと、気が狂ったように足をバタバタと暴れさせています。

 あまりに異様な光景に驚いて、僕は姉に説明を求めました。すると姉は暗い表情のまま、無言で庭の方を指差します。

 庭を見ろ、と云うことなのでしょう。とりあえずそう判断した僕は、庭先に出ました。そして目の前の光景に気付いて、思わず言葉を失いました。

 隣家との境界を仕切る、柵の内側に植えられた小さな木々の枝先に、かえる蜥蜴とかげなどの小動物や、バッタなどの昆虫が串刺しにされていたのです。

 最初は百舌鳥モズ早贄はやにえかと思いました。しかしあれは秋の習性なので時期が違います。するといつの間にか背後に立った姉が「・・・・鞠子がやったのよ」と、疲れ切った声で云いました。

 そんな馬鹿な、と信じられませんでした。鞠子は至っておとなしい優しい娘で、小動物や虫を残酷に殺すなど出来ない性分なのです。

 「私だって信じたくないわよ!」と、姉は顔を覆って叫びました。


 姉の説明によると、台所で昼食の準備をしている最中、ふと鞠子の姿が見えないことに気付きました。さっきまで傍らで人形遊びをしていたのに。そう思って庭先に探しに出てみると、鞠子は人形を腕に抱いたまま、この百舌鳥の早贄を思わせる光景を、ただじっと眺めていたそうです。その小さな手は、蜥蜴や蛙を枝に突き刺したときに付いたであろう、体液と血で汚れていました。

 足が竦んだようにその場に立ち尽くしていると、鞠子が姉の顔を見上げ、ニヤニヤと嗤いました。それは我が娘ながら嫌悪を催すような、ひどく歪んだ不気味な嗤い方でした。すると、そのとき「ケケケケケ!」という、あの人形の嘲るような嗤い声が耳に届いたと云うのです。


 「・・・・あの人形が鞠子にやらせたのよ。きっとそうに違いない。私はもうこれ以上、我慢がならない。あの人形は今すぐにでも燃やしてやるわ。その間、鞠子を一人にする訳にいかないから、どうか家にいて頂戴」と、姉は云います。姉の家ではお手伝いさんを一人雇っていたはずですが、鞠子と人形の様子を怖がって、つい先日辞めてしまっていたのでした。

 僕が返事をするより先に、姉は玄関に戻って人形をむんずと掴むと、もう片方の手に灯油入りの小瓶と燐寸を持って、そのまま足早に玄関を出て行きました。追い掛けようかと思いましたが、人形を求め、縛めを解こうと暴れる鞠子を放っては置けません。とりあえず猿轡だけは外してやり、鞠子を何とか宥めつつ、姉の帰りを待つ以外にありませんでした。

 しかしいくら時が経っても、姉が帰って来ることはありません。そのうち日が暮れ始め、やがて義兄あにの隆彦が帰って来て、柱に縛られた鞠子を見て驚きました。

 いったい何事かと問い詰められ、しどろもどろで事情を説明しているところへ、今度は制服姿の巡査が訪ねて来ました。なんと、姉が死んだと云うのです。


 ・・・・警察署の遺体安置所で対面した姉の姿は、それは酷いものでした。上半身が真っ黒に焼け爛れ、顔は完全に炭化して、人相すら分かりません。

 姉が死んだのは、近くを流れる神田川の河川敷でした。釣り人が何人かいて、その様子を目撃していたそうです。彼らによると、土手の上から河川敷に降りて来た姉が、片手に持っていた小瓶の中の液体をいきなり頭から被り、燐寸で火を付けたと云うのです。

 驚いた釣り人たちは、何とか火を消し止めようとしてくれましたが、火の勢いがあまりに激しく、どうすることも出来ないまま、姉は無残にも焼け死んでしまいました。その傍らには、あの西洋人形が落ちていたそうです。

 辺りは大騒ぎになり、巡査が駆け付けました。野次馬の中にたまたま近所の者がいて、姉の着物の柄を見憶えていたために、そこから身元の特定に繋がったのでした。


 ・・・・先生、果たしてこんなことがあるでしょうか?

 姉が小瓶に入れていたのは確かに灯油です。しかしその量はほんの僅かで、いくら頭から被って火を付けたからといって、消し止めようもないほど激しく燃えるとも思えません。それに姉は焼身自殺をするためではなく、あの人形を燃やすために灯油と燐寸を持ち出したのです。なぜ自分に火を付ける理由があるのでしょうか?

 理解出来ないことだらけですが、しかし目撃者の証言や現場の状況から、姉の死は自殺と断定されました。


 死に方が死に方ですから、姉の葬儀は近親者だけでひっそりと行われました。

 鞠子はまだ幼いこともあって、母親の死をよく分かっていないようでした。ふと見ると、鞠子の腕には例の西洋人形が抱かれています。

 人形は遺留品として警察に押収されたはずですが、いったいいつの間に戻って来たのか。義兄に尋ねても首を捻るばかりで、結局誰が持って来たのかすらも分かりません。

 人形の顔を見ると、その青い眼は嘲りを含んだ悪意を宿らせ、僕たちを嗤っているように思えて仕方ありませんでした。

 


 姉が死んだあと、義兄あには子守りの少女を雇って鞠子の面倒を見させました。日中は仕事があるので、鞠子を家に一人で置いておく訳には行きません。

 しかし最初の子守りは、たった五日で辞めてしまいました。次の子守りは三日、その次に至っては僅か半日です。いずれも皆「あの人形が怖いのだ」と証言しました。これは尋常なことではありません。

 鞠子の人形に対する異常な執着と、子守りの少女たちの証言。そして何より、姉の不可解としか云いようのない死に様。さすがの義兄も今さらながら、自分が買い与えた西洋人形に対して、怖れと疑念を抱くようになったようです。

 義兄に改めて相談され、僕は出版社を辞める決意をしました。誰かが鞠子の面倒を見なければならなかったし、何よりあの得体の知れない人形から、鞠子を護りたかったのです。

 

 義兄の家で寝起きを共にするようになって、鞠子の異常さが改めてよく分かりました。とにかく四六時中、人形と一緒にいなければ気が済まないのです。少しでも離そうとすると烈火の如く怒り、手が付けられないほど暴れる。いくら幼児とはいえ、これほどまでに人形に執着するものでしょうか。

 そして日中、鞠子は人形と共によく姿を隠しました。どんなに気を付けて見張っていても、いつの間にかいなくなっているのです。それは納戸の中だったり、暗い物陰だったり、場所はまちまちですが、一度などは姿が見えないと思って近所中を捜し回っていると、郊外の方へ向かって人形を抱いて歩いているところを、警官に保護されたこともありました。その警官によると、鞠子は保護されている間も人形を相手にずっと一人で喋り続けており、何だか気味が悪いほどであったと云います。

 このままでは鞠子が、人形によって何処かに連れ去られてしまうのではないか。生前、姉の危惧していたことが、今さらになって不安と共にまざまざと押し寄せてなりませんでした。



 そこで僕は、人形の正体を探ることにしました。

 あの人形が何であれ、まずその正体が分からなければ、対処の仕様がないと思ったのです。

 義兄にあの人形を何処で買ったのか尋ねたところ、意外にあっさりと教えてくれました。銀座の煉瓦通りから少し外れた処にある、小さな骨董店だそうで、その店の名も憶えていました。

 義兄の仕事が休みの日、僕は義兄に鞠子を預け、その骨董店を訪れました。その際、一枚の写真を持参しました。義兄があの人形を買って来てから間もなく、鞠子の五歳の誕生日を記念して撮った家族写真で、そこには鞠子の腕に抱かれたあの人形も写っていました。

 

 骨董店の店主は、六十過ぎぐらいの老人でした。年を取っても記憶力は確からしく、写真を見せるとあの人形のことをよく憶えていました。

 店主によると、元々人形を持ち込んだのは若い女だそうです。名前をお多江たえといって、窃盗の前科のある、あまり素性のよろしくない女でした。身元を偽って資産家や華族の屋敷に家政婦として潜り込み、そこにある宝石や調度品の類などを盗んで売り捌くらしく、その界隈では悪名高かったそうです。

 店主もそれを知っていたので、最初は人形を買うのを断りました。しかしお多江は、どうしてもこの人形を買ってくれと迫って譲りません。その様子は、どうも何かに怯えているようだったと云います。

 彼女のあまりの執拗さに根負けして、店主は僅かばかりの金でその人形を引き受けました。見たところ外国の品らしく、それなりに高価なようだが、警察が来て面倒なことになっても不味いので、二束三文でさっさと売ってしまえば良いと思ったそうです。

 僕は、そのお多江という女の居処いどころを教えて欲しいと頼みました。しかしそれは無駄だと、店主は云いました。何故なら人形を持ち込んで間もなく、お多江は死んでしまったからです。詳しくは教えて貰えませんでしたが、何やら悲惨な死に方だったという話でした。

 しかしお多江が最後に勤めていた処は知っている。人形を盗んだのはたぶんその家だろうから、必要なら訪ねてみれば良いと、店主は云いました。

 お多江が最後に勤めていたのは、麻布に住む、とある子爵の屋敷でした。しかしその子爵と奥方はすでに亡くなっており、跡取りもいないため、屋敷は空き家になっているそうで、行っても無駄足になるだろうとも付け加えられました。しかし、ようやく掴んだ手掛かりです。僕はとりあえず、その子爵の屋敷へ向かうことにしました。


 

 その子爵の屋敷は、麻布の閑静な住宅地にありました。華族や資産家が多く住む山の手だけに、立派な邸宅が軒を並んべています。

 肝心の子爵の屋敷は、その一角にありました。二階建て洋風の立派な屋敷で、庭は広く、塀は高く、門扉は固く閉ざされています。確かに空き家のようで、人の住んでいる気配は感じられません。

 ここまで来たものの、やはり無駄足で終わるのかと、屋敷の塀に沿って歩いていると、庭木に梯子を立てて枝を切っている男の姿がありました。

 この人なら何か知っているかも知れない。僕は思い切って声を掛けました。

 男は最初こそ不審がっていましたが、僕が例の家族写真を取り出し、そこに写った人形を指差して改めて尋ねると、彼の顔色がさっと変わりました。何かを知っているに違いない表情でした。

 男は少し考え込んでいましたが、やがて辺りをそっと見回すと、黙って顎をしゃくりました。裏口に回れと云うのでしょう。そう理解した僕は、頷いてその通りにしました。

 屋敷の裏手にある鉄製の小さな門扉の前で待っていると、やがてそれがギイッと音を立てて開きました。

 「入れ」という短い言葉に促され、僕は裏門を潜ります。そこに待っていたのは、先ほどの男でした。背が高く、肩幅ががっしりしていて、日焼けした職人という雰囲気です。白髪の多い頭で、年齢は五十前後というところでしょうか。

 男は自分を、この屋敷の庭師だと云いました。

 主人とその奥方が亡くなって、財産は主人の弟が継いだものの、しかし弟は別に家を構えているので、いずれこの屋敷は売りに出される。男はそれまでの間、屋敷の管理を任されているという話でした。


 男は僕を、庭の片隅にある四阿あずまやに案内しました。そこの長椅子に腰を下ろし、僕は自分の素性を明かした上で、これまでの経緯について説明しました。円卓テーブルを挟んで真向かいに座った男は、それを黙って聞いていましたが、やがておもむろに口を開きました。

 「・・・・その人形は、この家の亡き旦那さまが、病気のお嬢さまのために取り寄せたものだ」


 男の説明によると、この屋敷の主人と奥方の間には、四歳になる一人娘がいました。年を取ってから生まれた子供で、それはそれは宝物のように大事に育てられましたが、あいにくと生まれ付き身体が弱く、しょっちゅう病気をしては寝込んでいたそうです。

 同じ年頃の友達もなく、屋敷の外へ出ることも滅多にない。娘を不憫に思った主人は、知り合いの西洋人を通じて、わざわざ外国からその人形を取り寄せました。娘はそれを喜び、人形を片時も離さず側に置き、まるで妹が出来たかのように可愛がったそうです。

 しかし喜びも束の間、五歳の誕生日を迎えて間もなく、娘は病のためにこの世を去ってしまいました。主人と奥方の嘆きは深く、特に奥方は心身を深く病んで寝付いてしまったそうです。娘が大事にしていた人形を胸に抱き、その人形に向かって娘の名を呼び掛けるなど、傍目にも痛ましい様子で、屋敷中の誰もが黙って奥方の様子を見守っていました。


 ある日のこと、一人の女が馬車に乗って、この屋敷を訪れました。年の頃は二十二、三の若い女で、洋装に身を包み、それなりに身分の高い令嬢のように見えたと云います。

 女は屋敷の奥の一室に通され、主人と奥方、奥方付きの看護婦以外、誰も立ち入りを禁じられました。

 看護婦がのちに洩らした話によると、やはり女はさる華族の令嬢で、西洋で降霊術を学び、身分の高い人たちを集めて密かに降霊会を開いているらしく、奥方がその噂を聞き付け、直々に招いたという話でした。

 果たしてその一室で、いったい何が行われたのか。しかし周囲の者がいくら尋ねても、看護婦は決してそれ以上明かそうとはしませんでした。


 その日を境に、屋敷の中で奇妙な現象が頻発するようになりました。

 屋敷の何処からか嗤い声がする。嗄れた何とも不快な響きを持つ声で、声の出処は分からない。そのうち足元を何かがパタパタと駆け抜ける気配がして、慌てて足元を覗くと、廊下の角を青い小さな何かが去って行くのを目にした。そんな話をする家政婦が相次いだそうです。

 また別の家政婦は、あの青いドレスの西洋人形が、奥方を相手に嗄れた声で喋るのを目撃したとも云います。

 逸失物や原因不明の家具の破損、使用人の怪我など、不気味な現象が続き、そのうち一人辞め二人辞めして、屋敷に残ったのは庭師の男と奥方付きの看護婦、そして例のお多江という盗っ人の女だけでした。

 屋敷の中は何処か荒廃した雰囲気が漂い、奥方の具合は日増しに悪くなって行く。そしてある朝、看護婦が起こしに行くと、寝台ベットの上で奥方が亡くなっているのが発見されました。その表情は酷く苦しんだ者のそれで、傍らにはあの西洋人形が横たわり、嘲るような不気味な嗤いの表情を浮かべていたと云います。


 奥方の葬儀を終えたあと、主人は庭師にそっとこんなことを打ち明けたそうです。

 「日本には反魂の法といって死者の魂を呼び戻す霊術があるそうだが、西洋にも似たような術があるという。妻はそれを聞きつけ、娘の魂を呼び戻すために、あの令嬢にそれを依頼したのだ。娘が大事にしていた例の西洋人形を依代よりしろにしてね」

 主人が止めても、奥方はそれを聞き入れませんでした。おそらくは妻の寿命もそう長くない。そう思った主人は、それなら気の済むようにしてやろうと、仕方なくそれを認めたそうです。

 決して安くない謝礼が支払われ、そして令嬢の降霊術は成功しました。生命を持たないはずの人形が自ら首を傾け、奇妙な声を出して嗤ったときは、腰が抜けるほど驚いたと云います。本当に死んだ娘の霊魂が、人形に乗り移ったのだと、最初は主人もそう信じていました。

 「だが結果は見ての通りだ。あの人形に乗り移ったのは、決して娘の魂などではない。もっと禍々しい何者かだ。・・・・いったい我々は、何を呼び入れてしまったのだろう?」

 それから間もなく、その主人も亡くなりました。死因は心臓麻痺だそうです。書斎の椅子に腰掛けたまま、ひどい苦悶の表情で息絶えていたのを、庭師の男が発見しました。そしてその傍らの円卓テーブルの端には、あの西洋人形が腰掛けた姿で置いてあり、嘲るような表情で主人の亡骸を見つめていたそうです。


 「その後、主治医を呼んだり警察に届けを出したりと、忙しくて気付かなかったが、あの人形はお多江という女が持ち去ったんだな。ここにいるときは和子かずこと名乗っていたが、偽名だったか。あんな人形でも少しは金になると思ったのだろう」

 「骨董店の主人の話によると、お多江は死んだそうです。詳しくは知りませんが、ずいぶん悲惨な死に方をしたとか」

 僕がそう話すと、庭師の男は無言で頷きました。ひょっとすると、お多江が人形を盗んだと云うよりは、人形の方が彼女の欲心を利用して屋敷の外へ連れ出させたのかも知れない。あの人形なら、それぐらいのことは朝飯前にやるような気がしました。

 「あの人形の中に何かが入り込んだのだとして、それが亡くなったお嬢さんの魂でないのなら、その正体はいったい何なのでしょう?」

 「・・・・さあ、俺には何とも分からないが」

 庭師の男は何かを考え込むように黙ったあと、やがてこう云いました。

 「ただ一つ、思い当たる節があるとすれば、日本に妖怪変化や悪霊がいるように、西洋にも神に逆らい人に害を成す魔物がいると、以前に聞いたことがある。・・・・“悪魔”と云うそうだが」


 「・・・・悪魔、ですか」

 西洋の悪魔のことはよく知りませんが、あの人形の持つ禍々しさや、それに関わった者たちの悲惨な末路を思うと、“悪魔”という呼称は確かに相応しいように思われました。

 明治以降、文明開化の名の元に西洋の文物は次々と日本に流入しています。いや、考えてみればそれより遥か以前、宣教師によって基督キリスト教は日本に伝えられているのです。光と影が一対のものであるのなら、神の教えが流布されると共に、それに反逆する悪魔が密かに入り込んでいてもおかしくはないでしょう。

 いずれにせよ聞くだけのことは聞きました。僕は庭師の男に礼を述べると、その場を辞して家路に着きました。


 帰る途中、考えるのはあの人形に憑依しているであろう悪魔から、どうやって姪の鞠子を護るか、ただそればかりです。

 日本の神仏の加護は、果たして西洋の悪魔に通用するのだろうか。いや「蛇の道は蛇」なら、やはり基督教の神父に助力を求めるべきではないか。

 聞くところによると、羅馬ローマ教皇によって認められた“悪魔祓い《エクソシスト》”なる者が、かの宗教には実在するという。日本に上手く、その“悪魔祓い《エクソシスト》”が滞在していれば良いのだが・・・・。

 ともかく急いで帰って、このことを義兄あにの隆彦に報告し、今後のことを相談しなければと思いました。義兄は今もって人形による怪異にどこか懐疑的でしたが、僕の話を聞けば流石に信じざるを得ないのではないか。


 ・・・・しかし、全ては無駄でした。何とか日の暮れる前に家に辿り着いたものの、僕が見たのは突然いなくなった鞠子を捜して、泣きそうな顔で右往左往する義兄や、近所の人々の姿だったからです。


 結論から先に申し上げます。

 ―――鞠子は死にました。見付かったのは近くにある、姉が葬られた寺の墓地です。死んだ母親の墓石に寄り添うようにして、鞠子は冷たくなっていたのでした。

 その姿はまるで眠るようで、身体のどこにも外傷はなく、表情にも苦しんだ様子は見受けられません。幼子に対しては、悪魔にも多少の慈悲はあったのでしょうか。魂がすっぽりと抜け落ちてしまったかのような、とても綺麗な亡骸なきがらでした。

 

 義兄の話によると、その日はずっと鞠子の側に付きっ切りでいて、片時も目を離すことがないよう注意していたそうです。

 しかし午後三時頃、居間で鞠子が人形遊びをするのを見守っていると、ふいに何者かが玄関先で訪いを告げました。それで応対に出たのですが、しかし玄関には誰の姿もない。気の所為かと思って居間に戻ると、そのときには既に鞠子の姿は人形と共に消えていたのです。

 これもまた悪魔の策略だったのでしょうか。玄関先から聞こえた声は、まるで老人のような嗄れ声だったと云います。


 鞠子の葬儀のあと、義兄は脱け殻のようになりました。勤め先の官庁を辞め、毎日酒浸りになって、鞠子の形見であるあの西洋人形を抱きながら、娘の名を呼んで泣いてばかりいます。

 すっかり心を病んでしまい、もはや立ち直るのは困難なように思えました。僕も義兄の面倒ばかり見ている訳にもいかず、生活のために早く次の仕事を探さねばなりません。義兄には気の毒ですが、しばらくは癲狂院てんきょういんに入って貰うことも考えました。

 ・・・・しかしその必要はなくなりました。義兄もまた、死んだからです。

 職探しから帰ったある日、義兄は居間の梁に縄を結んで、それに首を掛けてぶら下がっていました。遺書はありませんでしたが、きっと妻も子も喪った絶望に耐えられなかったのでしょう。

 その足元にはあの西洋人形が、嘲るような嗤いの表情を浮かべて、ぶらんぶらんと振り子のように揺れる義兄の死体を見つめていました。



    ◇   ◇   ◇   ◇



 塚本くんが語り終えると、しばしの間、沈黙が室内を満たした。遠くから聞こえる暴徒たちの歓声も、今やまったくの別世界の出来事のように思える。

 小生は言葉を失ったままでいた。たった一体の西洋人形のために、一家三人が僅かの間に死に絶えたのである。いや、人形を最初に手に入れた子爵夫妻や、それを盗んで骨董店に持ち込んだ女も含めると、計六人ということになる。こんな恐るべき事態を、いったい誰が想像し得たであろうか。


 「・・・・先日、義兄の葬儀も無事に済ませました。今は同じ墓石の下で、妻子と共に眠っています」 

 「・・・・それは何と云うか、その・・・・お悔やみを申し上げる」

 塚本くんの言葉にはっと我に返り、小生は悔みを述べようとしたが、声が掠れて上手く言葉にならなかった。しかし意図は伝わったようで、塚本くんが静かに一礼する。

 「ありがとうございます。先生にはご相談に乗っていただいたのに、こんな結果になってしまって、本当に残念でなりません」

 「・・・いや、こちらこそ何の役にも立てず申し訳ない」

 再び沈黙が室内を満たした。

 小生はふと、塚本くんが傍らに置いた麦色の行李鞄に目をやった。先ほどから何故か、どうしてもそれに目が引き付けられてならないのだ。

 塚本くんは黙っている。静けさがひどく重苦しい。

 「・・・・それで、これから君はどうする気だね?」

 その静けさに耐え兼ねて、小生はいささか遠慮がちにそう尋ねた。

 「・・・・これから、ですか?」 

 「家族を亡くしたばかりで気の毒だが、君には仕事が必要だろう。良かったら出版社に戻って来ないか。僕からも社長に頼んでみようじゃないか」

 彼は姪の面倒を見るために、出版社を辞していたのだ。しかしその姪は、永遠に喪われてしまった。大切なものを亡くしてなお、人生は続く。酷ではあるが、生活のためには働かねばならない。

 しかし彼は少し寂しそうな笑みを浮かべ、こう応えた。

 「いえ、僕はこのまま帝都を離れようと思います。何だかひどく疲れてしまって、もう此処で暮らして行くことは出来そうもありません」

 「そうか・・・そうだろうな。無理もない」

 彼の心情を思い、小生はそう頷くしかなかった。

 「・・・・しばらく旅に出ようと思います。鞠子が大きくなったら共に旅をして、色々な風景を見せてやるつもりでいたのです」

 塚本くんが、傍らにある行李鞄にそっと手を置いた。その途端、ふいに背筋がざわざわと粟立った。先ほどから、彼の行李鞄がどうしても気になって仕方がなかった。その理由がようやく分かった気がした。


 「・・・・ところで付かぬことを訊くが、例の人形はどうしたのかね?」

 小生がそう尋ねると、塚本くんが「・・・人形ですか?」と、ひどく虚ろな目で呟いた。

 「そうだ。悪魔が取り憑いたという、例の西洋人形だ。そのあと人形をどうしたのだ。処分したのかね?」 

 塚本くんがゆるゆると首を横に振る。その動きは不自然なほど緩慢で、まるで操り人形のようであった。

 「・・・いいえ、処分などしていません」

 「・・・それなら人形はいったい何処に?」

 小生の問い掛けが終らぬうちに、その人形なら・・・・と、塚本くんが行李鞄に手を掛ける。

 あゝ止し給え・・・と、小生は呻いた。最初から嫌な予感はしていた。そして大抵の場合、そういう予感ほど当たるものだ。

 洋燈ランプの灯がゆらりと揺れて、室内が一段と仄暗くなった。油が尽きようとしている。それと同時に、行李鞄が静かに口を開いた。そこにあるのは奈落の闇であった。塚本くんが、その闇の中に躊躇ためらうことなく手を伸ばす。

 駄目だ、それを表に出してはいけない。彼を制止しようとしたが、しかし時すでに遅かった。


 「―――その人形なら、此処にありますよ」


 塚本くんの腕の中には、青いドレス姿の西洋人形がそっと抱かれていたのである。

 小生は息を呑んだ。思わず後退りした背中が文机にぶつかり、積み上げた本が落ちる音がした。

 人形は二十センチほどの大きさであった。材質はよく分からないが、白人を模した肌色は白く滑らかで、髪は金髪である。鼻梁は尖っており、口は小さい。睫毛は長く、まなこは深みを帯びた青色である。その眼が炯々と輝いて、小生を嘲るように、また睨むように見つめている。

 あゝこれが本物の悪魔か、と小生は全身からサッと血の気が引くのを覚えた。


 「・・・・何故、それを君が持っているのだ?」

 恐怖におののきながらも、小生は何とか言葉を搾り出した。

 「何故と云われても・・・これは姪の鞠子が遺した大切な形見です。すぐそばに置くのは当たり前でしょう」

 塚本くんは、そんなことを訊くのが不思議でならないという面持ちでそう答えた。

 「だがそれは、君の家族を次々と奪った悪魔の人形ではないのか」

 「ええ、確かにその通りです。しかし良く見てください。この柔らかく微笑んだ表情、まるで生前の鞠子に生き写しだ。・・・・ああ、そういえば先生は鞠子に会ったことがありませんでしたね。それなら分からなくても仕方がない」

 塚本くんは人形の正面を自分に向き直させると、その顔をじっと覗き込んだ。彼の目は何かに取り憑かれたように恍惚としていた。

 「僕には分かります。鞠子の魂は、この人形の中に封じ込められているのです。嘘だとお思いですか。しかしときおり、鞠子の魂がこの人形を通じて、僕に話し掛けて来るのですよ。今やこの人形こそが、僕にとっての鞠子だ。それを処分するなど、出来るはずがない」

 塚本くんの目には、いったい何が映っているのであろうか。彼が恍惚の表情で語れば語るほど、人形の表情は不気味に歪んでゆくように思われた。それこそ、まさに悪魔のように。

 塚本くんは人形の正面を改めてこちらに向けると、どこか晴れやかな表情を浮かべてこう云った。

 「お別れです、先生。僕はこの人形・・・鞠子の魂と共に行きます。おそらく、もう二度とお会いすることはないでしょう」

 塚本くんはそう云って一礼し、どうぞお元気でと微笑んだ。すると驚くことに、生命のないはずの人形が自ら顔を上げ、小生を嘲るように睨みつけると「・・・ケケケケケッ!」と嗤い出したのである。

 その途端、洋燈ランプの灯が音もなく消えた。漆黒の闇の中に、ただ悪魔の人形の嗤い声だけが響いていた。

 そして小生の意識は、そこでプッツリと途絶えたのである。


 目覚めると、窓から朝日が射し込んでいた。どうやら気を失っていたようである。すぐに身を起こしたが、しかし塚本くんと人形の姿はどこにもなかった。

 あれは戒厳令の夜が見せた夢か、あるいは幻であったのだろうか。

 だが、あの闇の中に響いた悪魔の嗤い声は、しばらく耳の奥に残って消えず、後々までも小生の心胆を寒からしめたのである。

 

 塚本くんは人形と共に、帝都から姿を消した。いったい何処へ向かったのか。風の便りにすら、その消息を聞いた者はいない。

 

 ―――あれから数年の月日が流れたが、塚本くんと人形の行方は、今も知れないままである。



                  (終)



 

 

 

 


 

 

 

 

 



 

 

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明治月影綺談録 月浦影ノ介 @tukinokage

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