第弐話 嗤う人形 (前編)




 その頃、小生は神田の幽霊坂を上がり切った処にある、とある写真館の二階に間借りしていた。


 写真館の主人あるじは、まだ三十代の若さで、洋行帰りの洒落者しゃれものである。

 仏蘭西フランス独逸ドイツか忘れたが、西洋で写真術を学び、帰国して自分の写真館を開いた。店はさほど大きくはなく、場所柄もあってかあまり繁盛しているようにも見えなかったが、実家はかなりの資産家だと云うから、いわゆる金持ち息子の道楽なのであろう。

 主人の自宅は万世橋まんせいばしの近くにあって、そこで妻子と共に暮らしている。夜のうち店を無人にするのも不用心なので、書生でも番犬代わりに住まわせようかと思っていたところ、小生の姉の嫁ぎ先の紹介で、小生が二階の部屋を間借りすることになった。

 田舎から帝都に出て来たばかりで、姉の嫁ぎ先に居候をしていた小生には渡りに船と云うべきで、喜び勇んで話に応じたものの、いざ住んでみると、その界隈の夜の深さは想像を遥かに越える侘しさで、陰々滅々たる寂寥せきりょうの気配が、寄る辺ない独り身にはひどく堪えるのであった。

 なにより「幽霊坂」とやらの近くにあるのがいけない。鬱蒼とした樹木が坂の上を覆って昼間でもなお暗く、まさに幽霊でも出そうな不気味さからその名が付けられたそうだが、夜中にふと二階の窓から外を眺めると、坂の上にひっそりと佇む得体の知れぬ何者かが、こちらに向かってゆらゆらと手招きする様が幻視されるようで、こんなことなら引っ越すべきではなかったかと幾度となく後悔したものである。

 しかし姉の嫁ぎ先に居候していた頃の肩身の狭さを思えば、独り暮らしの気楽さは如何いかんとも捨て難い。他に行く宛もないので、仕方なく住んでいるうちに、いつしかそんな暮らしにも馴れてしまった。


 そんなこんなで小生が幽霊坂の写真館に居着いて数年が過ぎた、これはそんな折に起きた、とある西洋人形を巡る奇怪な事件の顛末である。


 

 それは明治三十八年の梅雨のことであった。

 昼頃から降り出した雨が強くなったせいか、写真館の主人が早めに店仕舞して帰宅した日暮れ時、一人の若者が小生の元を訪ねて来た。

 名前を塚本つかもとくんと云って、年の頃は二十歳を少し過ぎたばかりか。群馬の出身で、十五の歳に両親を相次いで亡くし、三歳違いの姉と共に親戚を頼って上京したのち、銀座の出版社に勤め口を得た。表向き編集見習いと云うことになっているが、仕事はほぼ雑用係のようなものだ。真面目な働き者で、多忙な編集者に代わって原稿を取りに来ることも多く、小生とさほど歳が離れていないのもあって、親しくなるのにそう時間は掛からなかった。

 今日は渡すような原稿はなかったはずだが、と訝しく思いながら二階の部屋に通すと、座るや否や実は先生にご相談したいことがありまして、と塚本くんが口を開く。

 歳の近い若者に先生と呼ばれるのも何だか妙な心持ちだが、いつものことなので特にやめろとも云わない。いくら親しくなっても作家と編集見習いという立場上、そのような線引きは必要であろう。

 「何だね、相談とは?」

 しかめつらしく尋ねてみたが、彼は畳の上に正座したまま、何やら急に押し黙ってしまった。

 一階の台所は好きに使って良いと、写真館の主人から許しは得ている。お茶でも淹れようと立ち上がると、塚本くんは慌てて小生を押し留めた。

 「すみません、何と話して良いものか分からなくて・・・・」

 「とりあえず落ち着きたまえ。どうせ暇な身の上だ。話を聞く時間ぐらいはあるさ」

 文机ふみつくえの上には書き掛けの原稿が散らばっていたが、実はまったく筆が進んでいなかった。

 その様子を見た塚本くんが、さすがに恐縮したように頭を下げる。

 「そういえば締め切りは来月でしたか。お忙しいところを邪魔してしまって・・・」

 「いや、気にすることはない。筆が遅いのはいつものことだ」

 小生は余裕の笑みを浮かべたつもりだが、それに成功したかはあまり自信はない。



 やがて気持ちが落ち着いたのか、塚本くんの表情にいつもの明るさが戻って来た。

 「ところで相談事と云うのは?」

 小生が改めて問うと、塚本くんは正座したまま姿勢を正し、いきなり奇妙なことを口走った。

 「・・・・先生は、人形がわらうと思いますか?」

 嫌な予感を覚えながらも、たっぷり間を空けて小生は問い返した。

 「・・・・機械仕掛からくり人形のことかね?」

 「いいえ、違います。普通の西洋人形です。こう・・・よく小さな女の子が抱いているような」

 「それが嗤うのかね?」

 「はい」

 小生は腕組みして、首を捻った。

 「話が見えないな」

 「ああ、すみません。つまりこういうことです。僕に姉がいるのはご存知だと思いますが、その姉が今まさに遭遇している出来事なのです」


 そうして塚本くんが語り出したのは、以下のような話であった。



   ◇    ◇    ◇    ◇



 彼に三歳違いの姉がいるのは前述した通りだが、その姉が上京して間もなく、親戚の薦めで見合い結婚をした。相手は霞ヶ関の官庁に勤める官使である。等級は判人官はんにんかんと決して高くないが、平民の嫁ぎ先としては悪くない相手であろう。

 小石川の貸家に住居すまいを定め、翌年には娘が生まれた。名前を鞠子まりこと云って、つい先日、五歳になったばかりだ。

 塚本くんはこの姪の鞠子を大変に可愛がった。ときどきお菓子や玩具を手土産に会いに行っては、その成長に目を細めるのが常であった。


 五月も初旬の頃、小石川の姉の住居を訪れると、鞠子が見知らぬ人形を抱いていた。青いドレスを着せた金髪の西洋人形である。輸入品であろうか、いかにも高価そうで、資産家ならともかく庶民に手が出せるとも思えない。

 姉に人形のことを尋ねると、二週間ほど前に骨董屋で安く売られているのを、夫の隆彦たかひこが見付けて買って来たのだという。

 彼は役人らしく生真面目な性格だが、同時にかなりの子煩悩でもあった。東北の貧しい村の出身で、随分と苦学をしたらしく、そのせいもあってか娘には色々と物を買い与える癖がある。この西洋人形も、鞠子の喜ぶ顔が見たくてつい買って来たのだろう。鞠子もその人形をいたく気に入ったらしく、片時も離そうとしない。その様子を、夫の隆彦は満足そうに眺めているという。

 真面目一辺倒の義兄あにの意外な一面だが、しかし姉はあまり浮かない表情である。夫が娘を甘やかすのを心配しているのかと思いきや、そういうことでもないらしい。

 どうしたのかと尋ねると、姉は辺りをはばかって耳打ちするように「あの人形・・・・何だか怖いのよ」と云うのである。

 

 姉の話によると、あの西洋人形が我が家に来てから、家の中でおかしな出来事が度々起こるようになったそうだ。

 例えば誰もいないはずの隣室や廊下から、人の歩き廻る音がする。小さな軽い足音なので娘の鞠子かと覗き込むと、そこには誰の姿もない。

 また、後ろからグイッと着物の裾を引っ張られ、やはり鞠子かと思って振り向くが、これもやはり誰もいないのであった。

 それから失せ物が急に多くなった。たいていは裁縫道具や筆記用具、茶碗などの小物である。何処へやったかと探していると、どうしてこのようなと思う場所から発見される。つい先日は台所に置いた買ったばかりの魚が、ちょっと目を離した隙になくなり、箪笥たんすの奥から見付かるという珍事があったばかりだ。

 失せ物自体は鞠子の悪戯いたずらではないかと思うのだが、いくら問い質しても知らぬ存ぜぬの一点ばりである。嘘を付いている様子でもない。そもそも鞠子は元々おとなしく聞き分けの良い性格で、今さら母親を困らせるような真似をするのは如何にも不可解であった。

 

 姉は鞠子の行動を、今まで以上に注意して見守るようになった。

 鞠子は夫に買い与えられた西洋人形を相手に、毎日毎日、飽きることなくままごと遊びを繰り返している。

 しかしときどき、妙なことが起きた。姉が家事などをしていると、隣室で人形遊びをする鞠子の声に混じって、別の誰かの声が聞こえて来るときがあるのだ。それは酷くしわがれた老人のような声で、不審に思って様子を覗くと、ただ無人の室内に人形を抱える鞠子の姿があるだけであった。

 「いま誰かいなかった?」と尋ねても、鞠子は首を横に振るばかりである。

 姉は鞠子の抱える西洋人形を凝視した。もしかしてさっき喋っていたのは、この人形ではないかと、我ながら信じられないような疑念が湧いたのだ。

 正直に云うと、姉は最初からこの人形が気に入らなかった。見た目は確かに愛らしいが、しかし何処か得体の知れない薄気味の悪さを感じてもいたのである。

 とはいえ夫が買って来た人形にケチを付けるのも気が引ける。それで我慢していたのだが、人形に対する奇妙な怖れと疑念が消えることはなかった。

 

 人形が喋るなど、にわかには信じられない話である。

 姉の話を聞いて、塚本くんは改めて姪の鞠子と西洋人形を注視してみたが、特に変わった様子は見受けられなかった。姉は元々、少し神経質なところのある性格だ。気の所為せいや考え過ぎではないかと思ったが、姉の真剣に困っている表情を見ると、正面からそう指摘するのも何だか気の毒に思える。

 塚本くんはその日はそれで帰ったが、十日ほどしてからふと気になって、再び姉の元を訪ねてみた。

 姉は普段とあまり変わりないように見えたが、しかし表情にどこか陰りがある。何か悩みを抱えているようであった。原因はやはり鞠子とあの西洋人形のことであろうか。

 そこで鞠子の様子はどうかと話を向けてみると、姉はおずおずとした口ぶりで、実は・・・と語り始めた。


 それは、つい数日前のことであった。

 鞠子は人形に対する依存をますます深めているようであった。少しでも人形を手放すのを嫌がり、食事の間ですら胸に抱いていようとする。昼食の際、その行儀の悪さを見兼ねて、姉は鞠子を叱りつけ人形を取り上げようとした。すると鞠子は幼児とは思えぬ力強さで、人形を掴もうとする姉の手を叩き落としたのである。

 呆気に取られる姉を尻目に、鞠子は立ち上がって台所を出て行こうとする。待ちなさい、と姉は腰を浮かせて鞠子の肩に手を掛けた。そのとき鞠子の腕に抱かれた人形が、鞠子の肩越しにこちらに顔を向け、いきなり「ケケケケケッ!」と嗄れた不気味な声で、嘲るように嗤ったのである。 

 

 ヒッと小さな悲鳴をあげて、姉はその場に凍り付いた。動かないはずの人形が、自らの意志でこちらに顔を向け、嗤い声を立てたのである。自分の目がまるで信じられなかった。

 その間にも鞠子は人形を抱え、何処かへ姿を隠してしまった。慌てて後を追ったが、すでに影も形もない。あちこち探したが見付からず、ご近所にも声を掛けて一緒に探して貰ったが、しかしそれでも鞠子の行方は分からない。

 やがて、日が暮れ落ちて来た。かどわかしの可能性を考えて警察に届けるべきではないかと、近所の人々が口々に言い始める。鞠子が人形を抱えて無事に戻って来たのは、それから間もなくのことであった。

 姉は涙ながらに鞠子を叱った。いったい何処へ行っていたのかと問い質したが、嫌々と首を振るばかりで何も話そうとしない。まぁとにかく無事で良かったと近所の人々が三々五々散り始め、姉は彼らに何度も頭を下げて礼を云った。

 ふと振り返ると、鞠子の腕に抱かれた物云わぬはずの人形が、じっとこちらを睨むようであった。青いガラス玉を嵌め込んだだけの無機質な眼に、冷酷な悪意が宿っているように感じられて、姉は背筋がゾッと寒くなるのを抑えられなかった。

 

 その夜、姉は昼間の奇怪な出来事を、夫の隆彦に話した。しかし彼はそれを信じようとはしなかった。

 「まさか人形が嗤う訳ないだろ。何かの見間違いだ」

 そう決め付けて譲らない。

 「それにいくら躾といっても、子供から無理に人形を取り上げるのは良くないよ。お人形遊びをしているのも今のうちだけだ。どうせすぐ飽きてしまうさ」

 でも・・・と、なお反論しようとする姉を制して、夫の隆彦はこう云った。

 「それより鞠子が半日もいなくなった方が大変だ。ご近所にも迷惑を掛けてしまったし、万が一にも事故があったらどうするんだ。君には母親として、もっとしっかりして貰わなきゃ困るよ」

 これには姉も言葉を詰まらせ、はい申し訳ありませんと頭を下げるしかなかった。


 その日の夜中のことである。

 寝室に彼ら家族は、鞠子を真ん中にして寝ている。昼間のことがどうにも気掛かりで、姉はまったく寝付けずにいた。壁時計の針が午前零時を打っても目が冴えて仕方がない。

 隣では鞠子が、例の不気味な西洋人形を抱いたまま寝息を立てている。その向こうでも夫の隆彦が、人の気も知らずに呑気にいびきを掻いていた。

 腹ただしさと不安が同時に湧いて来て、姉はさらに眠れなくなったが、それでも昼間の疲れが今ごろ襲って来たのか、いつの間にか寝入ってしまった。


 ふと、目が醒めた。

 部屋の中は真っ暗であった。壁時計の時刻は見えなかったが、夜中の最も深い時間であるように思える。空気がしんと静まり返って、耳に痛いほどに感じられた。

 ヒソヒソと誰かの話す声が聞こえる。娘の鞠子の声だと気付いた。それからもう一つの声。ひどくしわがれて、壊れた蓄音機みたいな不快な声だ。夫のものではない。その声を相手に、鞠子が声を潜め、何やら楽しそうにお喋りをしている。

 ―――誰と話をしているの?

 寝惚け眼で隣に顔を向ける。鞠子の布団はもぬけの殻であった。

 いったい何処へ行ったのか。昼間のことが脳裏に浮かぶ。僅かに身を起こし、辺りを見回すと、部屋の片隅で小さな影が蠢いている。それが娘の鞠子だと気付いて、ホッと安堵した。

 

 部屋の片隅で、鞠子は両手に抱えた人形を相手に、お喋りをしているようであった。

 幼児とはいえこんな真夜中に奇態な振る舞いだが、単にそれだけなら何も問題はなかったろう。だが信じられないことに、人形もまた鞠子に応じて何事か話をしているのである。

 その嗄れた声はあまりに小さく囁くようで、内容までは聞き取れない。それでも断片的な単語から、日本語ではないように思われた。

 「―――鞠子」

 思わず娘の名を呼んだ。いけない。それ以上、その人形に関わっては。

 娘が振り向く。そして人形もまたこちらを振り向いた。生命のないはずの人形が、まるで生きているかのように、ごく自然に、当たり前のようにこちらを振り向いたのだ。 

 暗闇のなかで、人形の目だけが青く炯々けいけいと輝いている。まるで鬼火のようだと思った。

 あゝこれは、この世のものではない。生きている人間が、決して触れて良いものではない。

 そう思ったとき、人形がおもむろに口を開き、甲高く嗄れた不快な声で「ケケケケケッ!」と、嘲るように嗤った。


 目が覚めると、朝になっていた。

 どうやら気を失っていたらしい。慌てて身を起こすと、隣の布団のなかで鞠子が人形を腕に抱いて、すやすやと眠っていた。その向こうでも、夫が相変わらず呑気そうに鼾を掻いている。

 ・・・・あれは夢だったのだろうか?

 そう思ったが、しかしそれにしてはあまりに生々しく怖ろしい夢であった。

 朝食の間も鞠子の様子に気を配ったが、特におかしなところはない。しかしどうにも胸騒ぎがしてならなかった。あの人形はいずれ、とんでもない不幸を我が家にもたらすのではないか。そんな怖れと不安が脳裏に渦巻いて、姉の神経を掻き乱した。

 朝食のあと出仕のために身支度を整える夫に、姉は昨夜のことをそれとなく話してみた。結局、最後に頼れるのはこの人しかいないのだ。 

 しかし夫は姉の話を途中で遮り、眼尻を吊り上げて姉を睨んだ。

 「いい加減にしろ。俺が買って来た人形がそんなに気に食わないのか!」

 夫がこんなふうに声を荒げたことは、今まで一度もない。姉はその場に固まって声も出せなかった。

 夫は不機嫌な様子で、そのまま出仕して行った。絶望的な気持ちで夫を見送り、振り返ると、玄関の上がり口に鞠子が立っていた。

 そしてその腕に抱かれた青いドレス姿の西洋人形が、悪意を秘めた冷ややかな眼差しで、嘲るように姉を見つめているのであった。

 

      

   ◇    ◇    ◇    ◇



 「先生、この話をどのように思われますか?」

 一通り話し終えた塚本くんが、膝を乗り出してそう尋ねる。小生は何だか頭痛がするのを覚えて、親指でこめかみを強く押さえた。

 小生には昔から奇妙な悪縁というか、巡り合わせがある。こちらが望みもしないのに、怪談が向こうから勝手にやって来るのだ。

 小生の生業なりわいは物書きである。昨今は怪談が流行はやりらしく、そうした幽霊譚や奇怪な因縁話などを出版社から依頼されることも多い。頼まれた以上は引き受けるが、しかしそれはあくまで食い扶持を稼ぐためのやむを得ぬ方便に過ぎない。小生が真に書きたいのは純粋なる文学だ。

 だが、そうした小生の都合を無視して、怪談は向こうから一方的に押し掛けて来る。はなはだ迷惑この上ないが、しかし本筋の文学より、怪談執筆によって日々の糧を得ていることもまた事実であって、そう無碍むげにも出来ないのが頭の痛いところであった。


 「・・・・ところで君は、その人形が嗤うところを見たのかね?」 

 気を取り直して、小生は塚本くんに尋ねた。

 「いいえ、僕は見たことはありません」

 塚本くんは、そう云って首を横に振った。 

 「その人形に何か不審な点を覚えたことは?」

 「それもありませんね」

 小生はしばらくく思案した。幼児が人形を相手に、まるで友達のように話し掛けるのはよくあることだ。ときには声色を変えて、人形が喋っている風を装うこともある。夜中で室内は暗く、起き抜けのぼんやりした頭なら、それを人形が喋っているように思い込んだとしても、決しておかしくはないだろう。

 その点を指摘すると、塚本くんは「では昼間に人形が、姉の方を向いて嗤ったという話は、どのように解釈しますか?」と尋ねて来た。

 小生の考えはこうである。人形は骨董店で安く売っていたのだから、それなりに古い物なのだろう。例えば首のめ込み部分が緩くなっていて、抱きかかえる角度によっては、人形の頭が動くこともあり得る。

 それから嗤い声の正体は、おそらく鴉だ。この東京には今、無数の鴉どもが我が物顔でのさばっている。奴らはときどき妙な声で啼く。例えば家の軒先に止まった鴉が、人形の首が動いた瞬間、偶然にも人間の嗤いに似た啼き声を上げ、それを姉上が人形が嗤ったのだと誤認した、ということも考えられる。

 我ながら無理のある解釈だと思ったが、少なくとも人形が嗤うよりは遥かに現実的であろう。塚本くんも釈然としない様子ながらも、これといって反論も思い付かないようであった。

 

 「さっき君は、姉は神経質なところのある性格だと話したが、何か他に悩んでいることはないのかね?」

 小生がそう尋ねると、塚本くんは天井を仰いで少し考え込んだ。

 「・・・・いや、特に思い当たる節はありませんね。姉は些細なことに気の回る性質たちで、その分だけ気苦労も絶えないようですが、他に悩みがあるとは聞いていません」

 「単に話していないだけかも知れない。独身の君に、家庭生活のアレコレを話しても理解されないだろう。夫との関係や子育て、近所や親戚付き合いなど、主婦には目に見えぬ苦労が絶えぬものだ。そうして積り積もった悩みや不安が、たまたま夫の買って来た人形の不気味な印象に投影されて、様々な“怪異現象”という形で、姉上の目に映ったとも考えられる」

 小生は自分でも独身の癖に、まるで家庭生活の悟ったようなことを滔々と説いた。それが説得力を持ち得たかは分からないが、塚本くんは考え込むように首を捻った。

 「つまりは全て姉の妄想によるもの、ということですか。いや、妄想ならそれで良いのですが、しかし問題は、それでは本人が納得しないだろうということです」

 「確かにその通りだ。いくら理を説いたところで、本人が納得しなければ意味がない」

  「こういう場合はどうしたら良いのでしょう? 例えば霊術家や拝み屋などに、鑑定なりお祓いなりを依頼すれば、少しは本人の気も晴れるでしょうか?」

 「いや、それはどうかな。金をドブに捨てるようなものだと思うが」

 文明開化のこの時代においてなお、科学的思考に乏しい者は幽霊や妖怪、先祖の因縁などに、不可思議な物事の原因を探ろうとする。そうした迷信に付け込んで、霊術家を称して人心を惑わし、金銭を騙し取る詐欺師も多い。官憲が取り締まりに躍起になるのも当然であろう。

 「下手に怪しげな霊術家や拝み屋なんぞと関わって、金を騙し取られたり官憲に睨まれたりする危険を考えると、それは止めた方が良いと思う」

 「なるほど、確かにそうですね」

 小生の主張に、塚本くんは頷いた。

 「とりあえず、もう少し様子を見てはどうだろう。つまるところ、その人形が目の前にあるのがいけない。姉上の夫氏が云うように、幼児の人形遊びなどすぐ飽きが来るものだ。いずれ見向きもしなくなる。それでもまだ人形が不気味に思えるなら、その人形はこっそり寺にでも持ち込んで、お焚き上げしてしまえば良い」

 我ながら凡庸な意見だが、他にこれと云って妙案もない以上、それが最も現実的な対処法に思われた。

 「・・・・そうですね。僕もそれが一番良いように思います。お忙しいところを、つまらぬ相談など持ち掛けて申し訳ありませんでした」

 とりあえず話をして気が晴れたのか、塚本くんがそう云って頷いた。


 それから少し世間話などをして、塚本くんは帰って行った。

 雨はまだ降り止まずにいる。辺りはすっかり宵闇に包まれてしまった。瓦斯ガス灯もない幽霊坂を、塚本くんは傘を差して独り下ってゆく。

 坂とは此岸と彼岸を分かつ境界の暗喩メタファーだ。まるで黄泉へ赴くようだと、不吉なことをふと思った。

 あのとき、幽霊坂を下って行く彼の後ろ姿に一抹の不安、あるいは胸騒ぎを覚えたのは、果たして気の所為せいであったろうか。



 それから梅雨も明けた七月のある昼下がりのこと、編集者の篠山しのやま女史が、小生の元を訪ねて来た。昨今、とみに増えたいわゆる職業婦人である。小生より五歳ほど年上で、夫と離縁し、子供を育てながら何人もの作家の担当をこなす活力溢れる女性であった。

 「そういえば最近、塚本くんの姿を見ませんが、彼は元気にしていますか?」

 ひと月ほど前に此処ここを訪ねて来て以来、小生は塚本くんと会っていなかった。例の人形の件はどうなったろうと何気なく尋ねたのだが、しかし篠山女史から返って来たのは意外な言葉であった。

 「あら先生、ご存知なかったんですか? 塚本くんなら出版社を辞めてしまいましたよ」

 「―――辞めた? それはいつのことです?」

 「つい半月ほど前です。なんでもお姉さんが亡くなったとかで、そのお姉さんの遺した子供の面倒を見るためだとか」

 あまりに予想外な話に、小生はしばらく二の句が継げずにいた。

 「塚本くんが、亡くなったお姉さんの旦那だけで子供の面倒は見られないだろうと云うので、それなら子守でも雇えば良いのにと云ったのですが、なんでもその子守が雇ってもすぐ辞めてしまうのだとか。まぁ子供と子守にも相性というものがありますから・・・・」

 篠山女史はそう云ってさして疑問も持たない様子だが、そのとき小生の脳裏に浮かんだのは、例の「嗤う人形」の一件である。

 

 今にして思えば、事態は小生のちっぽけな想像力などを遥かに越えていたのだ。

 小生は愚かな思い違いをしていたのではないか。塚本くんの話を、もっと真剣に聞くべきではなかったか。彼が此処を立ち去る際に感じた一抹の不安や胸騒ぎが、後悔と共にふいに思い出されてならなかった。

 

 そしてこれより間もなく、この西洋人形がもたらした奇怪な死の連鎖と、その背後にある得体の知れぬ闇の深さを、小生は心底思い知らされることになるのである。



               

                (後編に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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