第十五話:笑わないし誰にも笑わせない。情けないなんて思わないし、思わせない
鈴川、と書かれた表札を前にして、俺は小さく深呼吸をする。
ユリカさん達が普段住む目の前の部屋の中から人の気配はしない。だが、鈴川はこの中にいる。そのはずだ。
いざ決意を固めて、インターホンを押さんと人差し指を伸ばすも、押す直前で身体が凍りついたように動かなくなった。
考えが纏まっていない。タクシーの中でも、マンションのエントランスからここに来るまでも散々悩んだものだが……。
やはり、この扉の奥に鈴川がいて、いざこれから話す、となると何を話してよいのやらさっぱりだ。
(度胸だ)
行き当たりばったりでもなんとかするしかない。
二の手三の手をカエデが考えてくれているだろうけど、時間が経てば経つほど悪化するのであれば、今この瞬間に解決へ向かわせるのが最も良いはずだ。
深く息を吸って、チャイムを鳴らす。
部屋の中から、ぴーんぽーん、と音が聞こえ、かすかな残響の後、音が消えた。
頭の中で数を数える。一、二、三……。
十秒経っても、中からなんの反応もない。
もう一度チャイムを押す。ぴーんぽーん。また、残響の後、音がかき消える。
しかし、今度は部屋の中から緩慢な動きを彷彿とさせる、ごとりごとりどすどす、という音がかすかに聞こえた。
音は大きくなり、そしてがちゃりと鍵が開けられた。
扉がゆっくりと開く。奥から、生気のない目をした男が現れる。
「ヨウ君……」
「鈴川さん」
俺は出てきた鈴川の顔をじっと見つめる。
ユリカさんの病室で相まみえたときも感じたが、まるで別人だ。
これが本当にあの
そんな疑問が湧き出す程度に。
「入っていいですか?」
ヤツが一人でいる部屋に乗り込むのは初めてじゃない。
鈴川とユリカさんが婚約した直後の騒動でも押しかけたものだ。
だが、決定的に違うのは、あのときはヒマワリと岡平さんが一緒だったことだ。
今日は一人。心細さが段違いだ。
鈴川の虚無さえ感じさせる瞳が俺をぎょろりと睨めつける。目が落ちくぼんでいて、人によっては恐怖さえ感じるかもしれない。
数秒ほど黙りこくったあと、鈴川がゆっくりと口を開いた。
「……大したもてなしはできないが……」
一瞬、出ていってくれ、なんて言われると思ったが、あっさりと入室許可はおりた。
「感謝します」
荒みきった、なんて修飾されそうな鈴川の様子とは裏腹に、部屋の中は驚くほど小綺麗だった。
鈴川が前住んでいた部屋のように、そもそもものが少ないだとか、そういうこともない。
しっかりとした生活感がありつつも、こまめに手入れされていることが感じ取れる。
鈴川が掃除をしているのか、ユリカさんが掃除をしているのか。
いや、ユリカさんが掃除をしている、というのはないな。と言うと語弊がある。ユリカさんは掃除はできても、こうも小綺麗に片付けることはできないだろう。
小さい頃を思い出す。ユリカさんの部屋はいつだってモノで溢れていた。
非衛生的というわけではない。ぬいぐるみやら、可愛い小物やら、なんやらで敷き詰められているのだ。
本人曰く、「好きなものが溢れると、毎日人一倍元気でいられる」らしい。よく理解できないが、ユリカさんにとってはそうなのだろう。
そんなユリカさんの気質を考えれば、二人の住む家がここまでさっぱりと片付けられているはずはない。
鈴川がリビングらしい大部屋のL字型ソファにどかっと座り、俺の顔を見た。
俺は小さく頷いて、付かず離れずの距離感で腰掛けた。
「……聞いたかい?」
ややあって、鈴川が発した第一声がそれだった。
「……すみません。聞きました」
返すのは肯定。下手に隠すこともないだろう。
「情けないだろ……。笑いにきたかい?」
「笑うわけ――」
「自分でも笑えるんだ」
しかし、ヤツの顔は笑っていない。
それどころか、俺の顔を見て不安そうな顔をし始める。
「ご、ごめん……」
変な顔でもしていたのだろうか、と自分の顔を意識すると、知らず知らずのうちに眉間に力が入っていることに気づいた。
ああ。鈴川は、俺の表情にすら不安を感じるまでに追い詰められているのか、と愕然とする。
「鈴川さん」
返事はない。
鈴川は焦点の合わない目で俺をじいっと見つめている。顔に恐怖のような感情を滲ませて。
「病院、行きませんか?」
「……行かない。行きたくないんだ」
ここで「絶対に行ったほうが良い」なんて口走っても、なんにもなりゃしないだろう。
「じゃあ……」
努めて明るい口調で声をかける。
「鈴川さんが思っていること、感じていることを、聞かせてくれませんか?」
「……君に?」
「進路の相談に乗ってくれたお礼です」
鈴川の瞳がわずかに揺れる。
三秒ほど経って、「ははは」と鈴川が乾いた笑い声を上げた。
「君に相談するほど落ちぶれちゃいないさ。自分でなんとかする」
「……確かに俺は力不足っちゃあ力不足ですね」
鈴川の言葉に対する返事はすらすらと出てきた。
「まだ学生ですし、人付き合いも上手くない。アンタに比べりゃ、何もかも劣ってる」
「そんなことっ!」
突然声を荒げる鈴川に、少しだけどきりとした。
「……迷惑をかけたくないんだ」
「迷惑?」
「情けない男の下らない話なんて……」
思わず笑ってしまった。
迷惑をかけたくない? どの口が言ってるんだ。
情けない?
アンタとユリカさんの婚約が危うくおしゃかになる直前は、もっと情けなかった。
「情けなくないですよ。
俺は右腕の袖をまくって、傷口を見せつける。鈴川の顔が僅かにぎょっとした。
「話せよ」
敬語すら捨て去って、俺は語気を荒げた。
「話してくれ。アンタがどれだけ頑張ってきたのか」
「ヨウ……君?」
「笑わないし誰にも笑わせない。情けないなんて思わないし、思わせない。鈴川トウジっていう、男の中の男がここまで打ちのめされてるんだ。アンタは頑張ってきたんだろ」
静かに、しかしながらはっきりした口調で問いかける。
「アンタの頑張りは、全部察してる。だから、俺はアンタにユリカさんを任せられたんだ」
「だが――」
「今だって任せてる。任せられる。それはアンタが……」
息を吸う。
「きっと……アンタがアンタだからだ。それ以上の理由なんてない」
「でも、俺は……」
「鈴川トウジは、今でも鈴川トウジだ。ユリカさんの愛した鈴川トウジだ。アンタが鈴川トウジだという事実に理由は要らない」
鈴川が押し黙った。
「話してくれませんか?」
「言葉にできることなんて、ほとんどないんだ」
「いいです。それで。とにかく俺はアンタの話を聞きたい」
鈴川が小さく頷くのは、それから数秒してからだった。
「自分でもよくわからないんだ」
鈴川の話はそんな語り出しから始まった。
別に、仕事も家事も、苦痛ではなかったのだという。
ユリカさんの妊娠が発覚したのは、大型の提案案件が三つほど重なったタイミングだった。
けれど、自分の体力に自信もあったし、多少睡眠時間が削られても、最初は問題なかった、と。
しかし、努力が実を結ぶとは限らない。
提案案件のうち、二件は失注。残り一件。
そして、最後の一件が佳境に入ったタイミングで上司から言われたのだという。
――前の二件は気にしないでくれ。大事なのは最後の案件だ。取れれば、鈴川くんもきっと課長だ。
それほどに会社中が注目する大きな案件だったのだという。
しかし、鈴川はやはり鈴川だった。プレッシャーは感じつつも、ますますやる気を出した。モチベーションは上がりっぱなしだ。
早く帰宅し、ユリカさんを慮りながらも、持ち帰った仕事をほとんど徹夜でこなす毎日。
頭の中は、生まれてくる子供のこと、ユリカさんの体調のこと、そして仕事のこと。その三つでぎゅうぎゅうに詰まっていた。
体調の変化を感じ始めたのはその頃だった、という。
背中が痛い。ぴりっとした頭痛が煩わしい。耳鳴りがやまない。
ただ疲れているのだろう、と放置した。
そして、鈴川が俺の家に来た日。
残る一件の受注がほとんど確定した。
先方の担当者から、「この件は鈴川さんに任せようと思います」の一言を引き出したのだという。
上司からも「今日はもう帰れ。頑張ったな」と言われ。ちょうどそのタイミングで、母さんから受けていた相談を思いだして。
そしてウチへやってきて、酒を飲んで。
その帰り。ずっと続いていた背中の痛みと頭痛、そして耳鳴りがひどくなった。同時に、身体から力が抜けたように動けなくなった。
なんとかタクシーを呼んで家へ帰り、ユリカさんに心配されながらもその日は眠ろうとした。
自分でも驚いたらしい。
全く眠れない。強い眠気を感じているにも関わらず、いつまで経っても目が冴えている。
身体を襲う痛みはどんどんとひどくなる。
そして朝を迎えた。その日は一睡もできずに会社へ行った。
心配するユリカさんには「ちょっと昨日飲みすぎた」と伝えたのだという。
そこからは、階段を転げ落ちるように、どんどんと不調がひどくなった。
電車に乗ろうとすると、めまいと耳鳴りが、頭痛が、ひどくなる。最初は無視して無理やり会社へ向かったのだという。
しかし、会社に行っても、集中が続かない。
何もやる気が起きない。小さいミスを繰り返す。
やがて、自分の能力に疑問を抱き始めた。
今までは運良くやってこれただけで、本当は大した人間ではないのでは、と。
そんな自分を慕ってくれる会社の部下も、結婚してくれたユリカさんにも、酷く申し訳なく思えてきた。
そして、ついに、会社へ行けなくなった。
家から少し歩いた場所にある公園で一日中、ぼーっとしていたのだという。
「ユリカに失望されたくない」
鈴川がそうこぼした。
「こんな情けない俺なんて、もう見捨てられて当然だ……」
いつの間にか、鈴川ははらはらと涙を流していた。
「俺が、守ってやらないといけないのに……。生まれてくる子供も……」
なるほど、と思う。
鈴川は頑張って頑張って。そして、自分でも知らないうちにボロボロになっていたのだ。
同情する。頑張った結果がこれなのか? と。
でも、一つだけ。こいつは決定的な思い違いをしている。その思い違いだけは、正さねばならない。俺の根幹にも関わる、大事なことだ。
「鈴川さん」
目を腫らした鈴川が、俺を見る。
「秋野ユリカは、鈴川トウジを見捨てない。見捨てるはずがない」
こいつはユリカさんをなんだと思っているんだ。
「アンタ、勘違いしてます」
「え?」
「ユリカさんはアンタが守らないとならない存在じゃない。小さい頃からずっと見てきた俺だから言える。ユリカさんは……」
そう、ユリカさんは。
「アンタこそ、ユリカさんに守られるべき存在なんだ」
がちゃり、と扉が開く音がした。
あー、カエデが言っていた二の手三の手のうち、二の手はこれか。
鈴川が振り返る。心配するように顔を歪め、涙を目に湛えたユリカさんがいた。
「無理言って、早めに退院してきたの」
「ユリ……カ……」
「ずっと聞いてたわ」
カエデも中々に策士だ。ヒマワリが「軍師」なんて言ったのも頷ける。
俺だからこそなんとかできるとか、一の手で十分とかなんとか言っておいて、ノリにノせておきながら、決定打はちゃんと用意してるってか? 流石だよ。
……後でささやかに文句を言っておこう。
「馬鹿ね、トウジさんは……」
ユリカさんは、鈴川と同じように涙を流している。
「トウジさんはトウジさんのままで良いの」
ユリカさんが、鈴川に歩み寄り、優しく抱きしめる。
「私達、夫婦なんだから。二人で一緒に考えましょう? トウジさんばっかり頑張るなんて不公平よ」
鈴川の頭を、くしゃりと、ユリカさんの右手が撫ぜる。
「私にも頑張らせて。あなたに頼りにされたいの」
涙でくしゃくしゃになった顔で、それでもユリカさんが微笑んだ。
「それとも、私、そんなに頼りない?」
「そ、そんな……ことっ!」
「だったら、あなたの隣にいさせて? 私、別に仕事ができて、頭の良い、スーパーマンを好きになったわけじゃないのよ?」
ユリカさんは、そんなことで人の善し悪しを判断しない。
「ただ、隣にいて欲しいと思ったの。だから、あなたと結婚したの」
「ユリ……カ……」
嗚咽混じりに鈴川が声を漏らす。
「ごめん……っ」
「ううん、私もごめん」
「ごめんっ!」
「ありがとう、トウジさん。私のためにずっと頑張ってくれてたんだね」
こうして急転直下。ユリカさんの登場によって、鈴川トウジのメンタルダウンは良い方向に向かい始めた。
次の日から、鈴川は病院に通い始めた。
疎遠になっていた幼馴染は言った。「お姉ちゃんの婚約ぶっ壊そーぜ」 げっちょろべ @gecchorobe_
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