第十四話:軍師なんて。買いかぶりすぎですよ
「……で、旦那様は、病院にも行きたがらず、ユリカさんに何も話そうとせず……ですか」
ユリカさんの独白をひとしきり訊き終えて。カエデが形の良い顎に手を当てて言った。
「そうなの……。私から何を訊いても『ごめん』って言うだけで」
「ユリカさんから見て旦那様の以前と違った様子は?」
カエデが淡々と質問する。
「顔に元気が無いのと……笑顔に力が無いのと……あとは、以前よりテキパキ動けないみたい」
「朝起きられない。起こしても起きない、などは?」
「ないわ。むしろいつもよりも早起き、かも」
「昼間、ずっと寝たきりになっている、とかは?」
「いいえ。岡平さんが手を回してくれたみたいで、会社から『しばらく安め』って言われてて。やることがなくて手持ち無沙汰なのか前よりも色々やってくれるくらい」
「そうですか……」
ふ……む、とカエデが唸る。
眉間に皺を寄せて、なにか考えているようだ。
「カエデ?」
「ああ、すみません。思った以上に、今のところはお元気そうでしたので」
「元気そう?」
「はい。だからこそ、切迫している可能性もあります」
「うん、よくわからない。ごめん。詳しく教えてくれないか?」
俺が訊ねると、カエデが顎から手を離して俺を見た。
「心身の健康を極限まで損ねてしまうと、何もできなくなります」
「何も?」
「はい。例えばベッドから起きられなくなります。夜頻繁に目が覚めるようになり、一度目覚めると中々寝付けません。結果、昼間も眠くて疲れ果ててしまって、活動できなくなります」
「そうなのか」
「ですが、逆にそんな状態であれば、それこそ自傷したり、自殺したりしないので、ある一面ではマシです。衝動的に行動する元気も有りませんから」
「……じゃあ、今の鈴川さんはやばいんじゃ……」
「いえ、推測ですけど、それほどひどくは無いでしょう。風邪の引き始めみたいなものです」
カエデがそこまで言ってから、「飽くまで、医者ではない素人の意見ですが」と付け加えた。
その後で、カエデがユリカさんの顔を見た。
「ユリカさん、安心して下さい」
「安心?」
「話を聞く限り、まだそこまで酷くはありません。多分」
「そう……なの?」
「はい。ですが、問題は……」
カエデが人差し指を伸ばした右手を挙げる。
「病院に行きたがらないことです」
「わかってる……のだけど……」
「しょうがありません。引っ張ってでも連れて行くべき、と言いたいところですが。大の大人、それも男性をユリカさんがどうこうできるとは思っていません」
ユリカさんがカエデの言葉を聞いて悲痛な表情を浮かべる。どうこうできるとは思えない。事実上の打つ手なし宣言に聞こえてもおかしくはない。
しかし、カエデが振り返って、俺を見た。
「ですが、ヨウ君なら、なんとかできるかもしれません」
「俺?」
驚いて思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
俺に何ができるというのだろう。鈴川が最も信頼しているだろう人間であるユリカさんでさえどうにもならなかったのだ。
「……ここからは単なる推測です」
カエデがなぜか声を潜めて喋り始める。
「旦那様はお話を聞く限り……仕事もできて、頼りがいがあって、優しく、男らしい。そのようなイメージであっていますか?」
ユリカさんが真剣な表情で頷く。
「昨今男女平等が声高に叫ばれ、女性の権利を主張する運動が活発になりました。その動きには私も大いに賛同します。ですが、一方の男性はどうでしょう? 今まで優遇されていた? 確かにそうかもしれません。ただ、家族を養わなければならないという責任。守るべきもののために強くあらねばという強迫観念。感情を表に出さないことが美徳とされる風潮。仕事で常に優れた成果を出さなければならない圧力。そこに加わった、ユリカさんのご懐妊という事実。共働きであれば、家事も育児も折半するのは当たり前。ごもっともです。夫婦の間では不文律です。しかし、あいにく社会はそう思ってはくれません」
カエデがつらつらと語る。
「元来、男性に求められる責任と、女性に求められる責任というのは異なるものでした。しかし、男性にも女性の責任が、女性にも男性の責任が求められるように変化してきています。本来は、向き不向きがあるのです。性別ではなく、その人の個性として」
身振り手振りを交えながら、カエデの演説は続いた。
演説ではないだろう。しかし、俺には、淀み無く喋り続けるカエデの姿は演説しているようにしか見えない。つまり何が言いたいかというと、カエデは半端ない。
「人間は弱い生き物です。しかし、男性はその弱さを積極的に表現できません。なにしろ小さい頃から『男らしくあれ』と教育されてきたのですから。そして、こと守るべきものの前では、男性は歯を食いしばって、意地を張って、頑張りすぎてしまうんですよ。それが美徳とされた世界で生きてきたんです。勿論一概には言えません。そういった傾向が強いというだけで、世界はグラデーションに富んでいます。ただ、鈴川トウジさんは……旦那様はまさにそういったタイプに当てはまりそうではないですか?」
一呼吸置いて、「独断と偏見ですけどね」、とカエデが付け加える。
確かに……。鈴川はそういうタイプかもしれない。
あの優秀な男は、自身の弱みを見せたがらないだろう。特に、ユリカさんには。
カエデの言葉にユリカさんが難しい顔をする。
「そのお顔を見るに、心当たりがおありでしょうか?」
「そう……そうね……。トウジさんと知り合って間もない頃、あの人色々と問題を抱え込んでいて……。あの時は無関係な私だったから、色々と話してくれて……。でも、今は……」
ユリカさんがぶつぶつと呟いて、わずかにうなだれた。
「……私ったら、だめね……」
「いえ、誇るべきことです。ユリカさんは旦那様にとって、かけがえのない大切なもの、なのですから」
「でも、そんな関係、私は望んでない……」
「そうなんですよねえ」
カエデが苦笑いを浮かべる。
「私の父も、一度目はそうでした。母にも私にも、何も言わず我慢して。二人で示し合わせて、力ずくで説得したものです」
力ずく。カエデの……。しかも、カエデの母親も追加、か。
ぶるりと震える。あまり想像したくない。
小さい頃のカエデの性格を知っているわけではないが、理詰めで淡々と詰め寄る姿が想像できてしまう。
もっとも、疲れ果てた父親に俺が想像するような強い言葉で論破する、というのは実態とは違うのだろうけど……。
でも、カエデだしなあ。
ただ、そんなどうでもいいことは置いといて、一つわからないことがある。
「カエデ」
「なんですか? ヨウ君」
「それで、なんで俺ならどうにかなるんだ?」
「それはですね。ヨウ君は、鈴川トウジさんにとって『無関係な人間』に該当する可能性があるんですよ」
俺が無関係?
確かに、カエデの言う「守るべきもの」からは外れているとは思うけど。
「少し言葉足らずでしたね。関係がなさすぎてもだめなんです。見知らぬ誰かに自分の思いの丈を吐き散らかす人間は、そう多くはありません」
「そりゃ、そうだろうけど」
「ちょうど良い距離感というのがあります。仕事でも家庭でも関係が浅く、鈴川トウジさんにとって責任を取る必要のない人間。それが、ヨウ君です」
「いや、理屈はわかるけど……」
俺が鈴川にあれこれ言ったとして、どうにかなるとも思えない。
どうしろと?
「あの……」
ユリカさんが控えめな声を出す。
「流石に、その結論は乱暴じゃないかしら?」
首を縦に振ってしまいそうなきれいな理屈に聞こえたが、ユリカさんのツッコミももっともだ。
「私は『ヨウ君なら絶対になんとかできる』なんて一言も言ってませんよ?」
ユリカさんのツッコミに、カエデがけろりとした表情で言ってのけた。
「こういうのは、二の手三の手を準備しておくのは当たり前です。まず手始めにヨウ君、というだけですよ」
なるほど?
「一の手でうまくいけば良し。だめなら、次の手を。取れる手段はどんどんと取っていきます」
「……カエデちゃん、なんか軍師っぽい?」
悪そうに笑う、とは俺が勝手に思っているだけだと思っていたが、カエデの表情にヒマワリもほぼ同じような感想を抱いたらしい。
しかし、「軍師」ねぇ。カエデにぴったりと言えばぴったりだ。
カエデが将来なりたいと言った外交官も、こういった手練手管を弄して、外国との利害関係を調整する仕事、と言っていいのか?
そうなると、今からこんな様子のカエデが将来大成したとき、どんな偉業を残すのか計り知れない。
「軍師なんて。買いかぶりすぎですよ」
そう言って誇らしげに笑うカエデの表情は、
§
その後、ヒマワリが電話をし、鈴川がどこにいるかをおばさんに訊ねた。
鈴川は今朝おばさんが家まで送っていったのだという。
俺は、「ごめんね、お願い」としきりに謝るユリカさんからタクシー代をもらい、まっすぐに鈴川夫妻の家に向かうこととなった。
タクシーに乗り、考える。
カエデから何を聞き出すべきなのか、何を話すべきなのかについて、ざっくりと教えられたが、正直ざっくりすぎて何を話せばよいか纏まっちゃいない。
――一の手とは言いましたが、二の手三の手は不要かも、と私は思っています。
自身に向けられたカエデの信頼感たっぷりな笑顔を思い出す。
――ヨウ君なら、きっと鈴川トウジさんの感情に共感してあげられます。少なくとも私は、そう信じています。
そう言われても、自信なんてさっぱりない。
ただ、鈴川が困っているなら、弱っているなら、助けてやりたい。そう思う俺がいるのは間違いない事実だ。
ただ、「男らしさ」みたいなものについては、俺にだって一家言ある。
男らしい男になりたくて努力してきたのだ。他ならぬユリカさんに似合う男になるために。
辛かったか? と問われれば、辛くはなかった。ただ、それは、ユリカさんと鈴川が婚約するまでだ。
今の俺はどうだろう。
ヒマワリが発破かけてくれたこともあって、少しばかりやる気になっちゃいる。
けれど、今の俺は一種の燃え尽き症候群のようで、今までやってきた習慣を惰性でだらだらと続けているだけだ。
この虚脱感に対して「辛くないか?」と問われたなら、話は変わってくる……のかもしれない。
父さん母さんが言うには、俺には「努力する才能」があるらしい。
その才能が本当に自分にあるのかわからないけれど。本当にそんなものが俺にあるのなら。
「頑張るしかない……か」
いきなり脈絡もないことを呟いたからか、ルームミラー越しに運転手と目が合った。
愛想笑いで誤魔化す。
とにかく、俺にできることは、真摯に鈴川に向き合って、ヤツがどういった思いなのか、何を不安に思っているのか聞き出すことだ。
ちなみに、カエデから絶対に言ってはならないことについては、軽く説明された。
励ましたり、頑張れと言ったり、否定したり、アドバイスしたりするのは控えろ、と。
ただ、その上で、俺が思っていることをまっすぐに伝えろ、とも言われた。
難しい注文だ。
だが、ああも信頼を顔に出されれば、何が何でもなんとかしてやる、とも思う。
まぁ、「あまり気負うと、逆効果ですからね」なんて、カエデから念押しされているのだけれど……。
ナビが、あと数分で目的地に着くことを知らせる。もうすぐ、鈴川とユリカさんの家にたどり着く。
「っし!」
両頬をパチンと叩いて気合をいれる。
運転手にまたまた変な目で見られたのはご愛嬌と言ってほしいところだ。
タクシーが止まり、金を払い、車から降りた。
鈴川夫妻の住むマンションが越えられない壁のように、そびえ立っていて、俺はごくりと生唾を呑み込んだ。
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