第十三話:とりあえず、私は仕事を終わらせて、トウジさんを探します

 どこでボタンをかけちがえたのだろう。今更、そんなことを思う。


 思えば、新しい命をお腹に宿す少し前くらいからトウジさんの様子に違和感はあった。

 あったけれど、私は気づかなかった。いや、もしかしたら気づいていながら目をそらしていたのかもしれない。


 始まりは些細なことだった。


「ユリカ。ごめん。ちょっとしばらく忙しくなりそう」


 それまでよりも遅い時間に帰宅した彼は、ラップをかけたお夕飯をぼんやり眺めながらそう言った。

 私はなんて返したっけか。そうそう。「そうなの。頑張りすぎないでね」だ。


 トウジさんのお仕事には波がある。だから、残業で帰りが遅くなることなんて珍しくはなかった。

 それが、数日から一週間くらい続くことも。


 しかも、彼は営業職だ。このご時世にも関わらず、接待を目的とした会食も多い。


 だからその時、私は大きな問題だとは思わなかった。

 いつも通りのことで、いつも通りのトウジさんだった。


 予告どおり、トウジさんは毎日遅く帰ってくるようになった。早くて午後十一時。遅いときはタクシーで。


 そんなことを言うと勘違いされるかもしれないけれど、私は彼の残業に対して思うところはない。


 忙しいのだなあ。大変なんだろうなあ。頑張りすぎないでほしいなあ。それだけ。

 少しだけ寂しく感じはするけど、それくらい。

 特にトウジさんは、頑張りすぎる人だ。寂しさよりも心配が勝る。


 ただ、仕事の話をする彼はものすごく楽しそう。

 エネルギッシュな彼の性格に、営業という職種は合っているのだろう。そう思っていた。

 晩ごはんの最中、一緒にテレビを流し見している最中、たまに仕事の話をする彼の顔は輝いていた。


 ――岡平は、元々優秀だったけど、最近またもの凄く成長した。

 ――課長がさ、俺達を守るためなんだと思うけど、役員の方針に真っ向から逆らったんだ。いつか俺もあんな管理職になりたい。

 ――新規の案件、受注できたんだ。こういう日に飲むビールは美味しいな。


 そんなふうに、私にもわかる言葉で彼から聞かされる仕事の話は好きだった。

 だから、心配は心配だったけど。実際にはそこまででもなかった。


 それからニ週間くらいだろうか。

 彼の顔に明らかな疲労が見え始めた頃、私の妊娠が発覚した。


 元々、周期は安定していないタイプだったから、気づくのは遅かった。

 そういえば、今回はいつもよりも遅いな、なんて思っていた。


 念の為、なんて、仕事帰りに薬局へ行って検査薬を買って。帰ってから使ってみると陽性。


 嬉しい気持ちと、少し不安な気持ち、それから「本当に?」と疑う気持ち。

 そんな様々な感情がないまぜになって、いてもたってもいられなくなって。


 私はすぐに、近くの産婦人科へ行った。


 結果は言わずもがなだった。


 信じられなかった。自分のお腹の中に、自分以外の生命が息吹きはじめていたことが。


 病院から戻っても全然信じられなくて、自分の頬をつねってみたりして。

 そわそわして、そわそわして。


 晩ごはんも作れなくて。

 そして、日が変わって少ししてからトウジさんが帰ってきた。


 ただいま、と疲れた顔を見せるトウジさん。その顔を見て、言うべきか迷う。

 でも、夫婦なんだし、言わなきゃならない。


「トウジさん」

「ん? なに?」


 一日中働いて、くたくただろうにトウジさんの声はそれを感じさせない。


「あの……えっと……」

「うん」


 彼はどんな反応をするだろうか。

 喜んでくれるだろうか。嬉しく思ってくれるだろうか。


 厭わしいと思わないだろうか。


 トウジさんだ。返ってくるリアクションは一つしか無い。

 でも、なんとなく不安になった。


 声が揺れ、言葉が途切れ途切れになりながらも、私は伝えた。


「しばらく、来て無くて、それで、検査薬を買って……病院にも行って……その」


 トウジさんの顔がみるみるうちに喜色満面に変わっていく。


「できたのか?」

「……はい」

「お腹の中に?」

「……はい」

「俺の子が?」

「そうです」


 彼が右手で目を覆って少しだけ黙った。


「お腹、触ってもいいかい?」

「いいけど、まだ動かないわよ?」


 ふふ、と笑って許可を出す。恐る恐るトウジさんは、そうっと右手を伸ばして私のお腹に触れた。


「そうかあ」





 それから、しばらく来年の三月くらいに生まれてくる子供についてあれこれ話して。

 トウジさんが、お風呂に入って、その間に私が近くのコンビニで晩ごはんを買ってきて。食べて。


 深夜、二時くらい。

 流石にそろそろ寝ないとね、と二人でベッドに入って電気を消したときだった。


「ユリカ」


 トウジさんが真っ暗な部屋の中、静かに私の名前を呼んだ。


「なあに?」

「明日から早く帰ってくる」


 彼の口から出てきたのは、そんな宣言だった。


「でも、トウジさん。お仕事忙しいんでしょ?」

「上司に言って、色々融通効かせてもらうよ。ウチの会社も、ここ数年は男の家事、育児参加に肯定的なんだ。課長も理解ある人だし、何より課長が子煩悩で有名だからさ」

「そうなの?」


 明日からは早くトウジさんが帰ってくる。


 こと私に限って言えば、新婚気分はまだまだ抜けそうもない。彼が早く帰ってくること自体は朗報だ。

 僅かな嬉しさでいっぱいになる内心を押さえつけながら訊ねる。


「でも、どうして?」

「どうして……って。これから、ユリカの身体はどんどん変化していくだろ? ほら、つわりとかもあるかもしれないし」


 それが、どう、早く帰ってくることと結びつくのだろう。

 小さな疑問は、次に出てきたトウジさんの言葉によって解消された。


「しばらくユリカはゆっくりしていて。ユリカがしてくれてた家事を、俺が巻き取るから」


 そう言ってから、「それでも全部は無理だろうけど」と苦笑する。


 トウジさんは今でもちゃんと家事をやってくれている。


 例えば、お料理は私の方が得意だから、平日の炊事は私担当。でも、土日や祝日はトウジさんが作ってくれる。ちょっとこだわりが強すぎるところに、男の人だなあ、なんて思うけど、頑張ってくれる彼を見ると私も笑顔になる。

 例えば、お洗濯は完全に私担当。彼は洗濯物を畳んだり干したりするのが上手ではない。

 例えば、お掃除はトウジさんの担当。私よりも彼のほうがきめ細やかに片付けて、お掃除をしてくれる。


 トウジさんは十二分に家事を手伝ってくれている。

 でも、私の妊娠をきっかけに、もっと頑張ってくれると言っているのだ。


 嬉しく思う。でも……。


「そんなに、頑張らなくても――」

「頑張るよ。ユリカが困っているとき助けるのは、夫としての俺の役目だ」

「でも、トウジさんの方が収入が多いじゃない」

「でも、俺に子供は産めない」


 だめだ。別に口喧嘩じゃないけれど、言い合いになったら彼には敵わない。


 私は、「じゃあ、ちょっとだけ甘えますね。でも、無理だけはしないでね?」と彼に伝えた。



 §



 それからしばらくして、本格的に自分の身体が変わってきた。


 まず、つわりが始まった。と言ってもそこまで重くはなかった。

 少しだけ匂いに敏感になったのと、食事の好みが変わったのと、あとは頭が重くなっていつも寝不足みたいな感じになって。それくらい。

 勿論毎日が同じ体調というわけではない。たまに、酷い日もあった。ただ、想像していたよりも、聞いていたよりも楽だった。


 そして、トウジさんは宣言通り、あの日から毎日早く帰ってきてくれるようになった。


 疲れた顔はそのままで。


 彼は、私よりも少しだけ遅く帰ってきて、笑顔で「すぐご飯作るね」と言う。

 流石に何もかも手作りというのは私もやっていなかったので、お惣菜とかを交えながら。


 ご飯を食べたら、お風呂を沸かしてくれて。

 お風呂から上がると、晩御飯の洗い物はすべて終わっていて。


 で、以前よりも早く睡魔がくるようになった私を見て、「あとは俺に任せて早めに寝たら?」と言う。

 私もちょっとだけ甘えてしまって「じゃあ」と、早めに寝ることにする。


 朝起きると、トウジさんは朝ご飯と書き置きを残して、もう出社している。

 書き置きには「朝ご飯、無理しない程度に食べてね。行ってきます」みたいな内容が書かれている。


 ありがたさと、申し訳無さが入り混じりながら、私も準備を済ませて出勤する。


 そんな日が続いた。


 ある日、トウジさんに促されて早めに寝て、夜中にのどが渇いて起きてしまった。

 眠い目を擦りながらリビングへ向かう。


 綺麗に片付けられて、常夜灯をともしたダイニングテーブル。

 ノートパソコンの液晶からの光に顔を照らされたトウジさんがいた。


「トウジ……さん?」

「……あ。ごめん、ユリカ。起こしちゃった?」

「う、ううん。のどが渇いて」

「そうか」


 そう言って、トウジさんがまたノートパソコンとにらめっこをする。

 リビングの壁掛け時計を見る。今は……午前三時。


「お仕事?」

「うん。たまたま明日までに仕上げないといけない資料があってさ」

「そう……なの」


 彼の顔をよく見る。目の下には濃ゆいクマができている。


 でも、今は彼の言う事を信じよう。彼は「たまたま」と言った。

 だから、きっと今日だけなのだ。


 ただ、不安ではあるから。明日からは、毎日深夜に一度起きよう。

 同じくらいの時間に。午前三時くらいに。


 そう決めた。





 次の日も、その次の日も。そのまた次の日も。


 トウジさんは、私が眠りについたあとで仕事をしていた。

 時間はまちまちだ。午前三時に目を覚ますと、隣で眠っている日もあったし。


 一週間くらい様子を見て、私は彼を問い詰めた。


「トウジさん」


 晩ごはんを食べていた彼が、目を見開いて私の顔を見る。


「なんだい? ユリカ」

「トウジさん、疲れてない? 大丈夫?」

「うん、大丈夫。仕事もプライベートも今が頑張りどきだから」

「でも、深夜まで仕事をしているのは違うんじゃない?」


 少しだけきつい言い方になってしまったことに気づいて謝る。


「ごめんなさい。言い方悪くて。でも、もう、だいぶつわりもおさまってきたし、そんなに頑張らなくても」

「いいんだ。俺が頑張りたいんだ。それに今の状況がいつまでも続くわけじゃないから」

「そうだろうけど……」


 シンプルに心配だ。

 私は彼に甘えっぱなしだ。疲れた顔は全然変わってないのに。


「ユリカは心配しないで。心配ごとはお腹の赤ちゃんにも悪いから。俺は、大丈夫」

「あなたがそう言うなら……」


 本当なら、この時私はちゃんとトウジさんと話しておくべきだったのだろう。

 でも、私はしなかった。


 彼の笑顔に騙された。騙されようとしてしまった。



 §



 それから、秋になるまでは比較的平和だった。

 トウジさんの深夜作業も頻度が減ったし。なによりも、彼の顔色は少しずつよくなってきていた。


 一方でお腹の赤ちゃんは、定期検診でお医者様から太鼓判を押されるほどに順調だと言われた。

 エコー写真を見る彼の笑顔を見て、私も笑顔になった。


 トウジさんが「男の子かな? 女の子かな?」とか訊いてくるので、苦笑いしながら「どっちがいいの?」なんて返して。トウジさんが「どっちでも嬉しいな」なんて言って。


 本当に平和だったのだ。私がそう感じていただけだけれど。

 平和だった。


 岡平さんから電話が来るまでは。


 業務中、私の携帯電話がぶるりと震えた。「すみません」と周囲に頭を下げてから、自席をあとにして、非常階段の踊り場へ向かう。


「はい、鈴川ユリカです」

『突然のご連絡になり申し訳ございません。ご無沙汰しております。岡平キョウコと申します』

「はい、ご無沙汰しております」


 首をかしげる。彼女のことは知っているし、色々とお世話になったので連絡先も交換していたが、こうして電話がくるのは久しぶりだ。


『ユリカさん。鈴川さん……いえ、鈴川トウジさん、今どうしてらっしゃいますか?』

「え……? 会社に……」


 何を言われているのだろう、と思った。

 トウジさんなら、私が起きるよりも早く、会社へ向かったはずだ。いつも通り書き置きを残して。


『っ……。そういうことですか。すみません。ユリカさん。最悪の想定でお話しします。後になって大げさだったなら、いくらでも私が叱られます。ごめんなさい。鈴川さんとご連絡がつきません』

「……え?」

『先週末……木曜日から体調不良で休んでいらっしゃいまして。昨日の月曜日から無断欠勤が続いています』

「ど、どういう……」

『落ち着いて下さい。鈴川さんのいらっしゃる場所に心当たりはありませんか?』


 心当たり、と言われても……。

 でも、とにかく!


「理解しました。とりあえず、私は仕事を終わらせて、トウジさんを探します」

『わかりました。私もできる限りのことはします。なにかわかりましたらメッセージでやり取りを』

「はい」


 電話を切って、課長に説明して、急いで帰る。


 岡平さんは「最悪の想定」と言った。その内容までは触れなかったけど。


 ――トウジさん……。


 私は、不安で高鳴る心臓を手で押さえながら、家路を急いだ。






 トウジさんは家の近くの公園に居た。

 私を見る彼の目は忘れられない。


 すがるような、それでいて突き放すような。

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