第4話 誰が為に咲く花

「ねえ、レキ!」


 黒髪の少女は藤色の瞳を丸くして、はしゃいだ声を上げた。


「何ですか?」


 男の纏うマントを引っ張り、少女は屋台に並ぶ赤い果実を指差す。それから上目遣いでレキをじっと見つめる。


「……こんなので良いんですか? お菓子なら他にありますよ?」


「これがいいの。わたし、果物なんて食べたことないんだもの」


 レキの藤色の瞳がふっと和らぐ。そうして、リンゴ二つください、と少女の分と自分の分を果物売りのおやじさんに頼む。


「かわいい娘さんだな、オマケしとくぜ」


 人の良いおやじは三つリンゴをレキに手渡そうとする。が、その前に少女が食いついた。


「娘じゃないわ、妹よ」


 やけにきっぱり断言する。おやじはそんな少女の様子が面白かったのか、豪快に笑った。


「……なるほど確かに。父親にしちゃあ、少し若──」


 マントで隠されていたレキの顔を真っ直ぐ見たおやじの言葉がふつりと途切れた。


「……お前さん、使徒か?」


 声を低め、おやじは尋ねる。レキの目がすっと細められた。鋭利な刃物のような視線に貫かれ、おやじが顔を青くして息を止める。


「違う」


 氷のような冷たい声だった。少女は不安になって、ぎゅっとレキのマントを引く。


「──すみません。リンゴ、ありがとうございました」


 ほんの僅かの沈黙の後に穏やかにそう言ってレキは軽く頭を下げた。


 街を出て、少女とレキは森へと足を踏み入れる。しばらく歩き、街がだいぶ遠くなった頃、リンゴを胸にホクホクと抱えた少女の髪の色が変わった。


 溢れるような眩しい金色。お日様の色をした髪は光の中でふわりと揺れる。空を見上げた瞳は、それと同じ澄んだ蒼色。


「シュノ、ここにしましょう。それを食べたら、魔法の練習です」


 レキが足を止めたのは、川の側の木陰だった。シュノはこくんと頷いて、石の上にちょこんと座る。


 さわさわと風の吹く音がする。ちゃぽん、と魚の跳ねる音がした。少しだけ目を閉じて、森の鼓動に耳を澄ませた。


「──リンゴ、食べないんですか? 食べないなら、俺がいただきますが」


「だめー!」


 目を開け、思わず叫ぶ。肩を震わせる気配が隣からした。


「冗談です、食べませんよ。それはシュノの物ですから」


「……レキの意地悪」


 小さな悪態を吐いて、シュノは真っ赤な果実を一口かじった。じわりと甘くみずみずしい味が舌の上で踊る。


 果物を口にするのは初めてだ。灰の中では間違いなく食べることはできないし、罪人になる前だって硬いパンが精一杯の食事だった。


 ともすると、レキはかなり裕福なのだろう。服装を見れば明らかだが、社会階級の高い人。それならなぜ、灰の中を旅していたのだろうか。その問いはまだ、口にできていない。訊いてしまえば、きっとこの奇跡のような日々は終わってしまうから。


「──レキ、使徒って、何?」


 同じようにリンゴを齧っていたレキが固まった。迷っているような、そんな沈黙の後、レキは口を開いた。


「そう、ですね。やはり知らないままでは済まされないことでしょうね。シュノはこの世界が今どうなっているのか、知っていますか?」


「ひとつの国にひとりの神さまがいるのよね? それで、神さまが死ぬと国も滅びる」


「はい。ですが、不死の神はどうすれば死ぬのでしょう?」


 矛盾した質問だ。けれど、尋ねるということは答えがあるということ。


「……神さまなら、神さまを殺せる?」


「ええ、鋭いですね。簡単に言えば、そういうことです。しかし、神がいない土地は滅びてしまう。ならばどうすればいいか」


 レキは石の隙間から生えていた花の葉を一枚むしる。


「神の力を持つ者を作って、他の神を殺せば良い」


 何をどうやったかは分からないが、レキの持つ葉が隣の花を首から切り落とす。赤い花がぼとりと地面に落ちた。広がった花弁はまるで血だ。


「それが、使徒……」


「はい。神の武器である使徒に自由はありません。彼らは神と契約を交わし、死ぬまでこき使われるわけです」


 吐き捨てるようにレキは呟く。


「シュノは、間違っても神なんかと契約してはいけませんよ」


 その言葉は半分真面目で、半分冗談で、レキは片目をつむってみせた。


「大丈夫よ。わたし、魔法の才能ないもの。レキはわたしに魔法の才能があるかもって言ったけど、姿を弄る簡単な魔法だって全然使えないし……」


「……」


「……黙らないでよ」


 ベシッとシュノはレキの背中を叩く。むすっとしながらリンゴを無言で口に放り込んだ。


 レキが姿変えの魔法をシュノに教えているのは、金髪を隠すためだ。灰の魔女と同じ色の姿を誤魔化すため。この姿は灰の海の外で生きるためには絶対に隠さなければならないものだ。


 レキは謎の自信にあふれ、シュノは絶対に天才的な魔法使いです、なんて言ったが、蓋を開けてみれば魔力があるだけましレベル。その時のレキのぽかんとした顔にむかついて、しばらくシュノはいじけた。ちなみにさっきまでのシュノにかけられていた魔法はレキのものだ。


「──ほ、ほら、剣は上手そうですよ!」


 随分遅れたフォローだこと、と呆れながらシュノは半眼でレキを見る。


「……殴る専門だけどね」


 剣はシュノが自分からレキに教えてほしいとせがんだが、ショベル時代の長さゆえ、腕力はあるものの剣で物体を殴ってしまう始末だ。レキが珍しく、剣の真ん中で殴るなんて剣が泣きます、とかなんとかお説教を始めたこともあった。


「……」


 再びレキは沈黙。気づけばシュノはリンゴの芯を頬張りかけていた。


「──シュノ、」


 やたらと深刻そうな顔をしてレキが顔を上げる。からかい過ぎてしまっただろうかと不安になったシュノは、目を合わせた。


「シュノは世界で一番可愛いです」


 絶句。今度はシュノが沈黙する番だった。


「……ど、どういうこと」


「そのままの意味ですが」


「冗談よね?」


「いえ、本気です」


 ぷしゅう、とシュノの顔から何かが抜けていく。からかい過ぎてレキが壊れた、うん、そういうことだ。そういうことにしておこう。


「ま、魔法の練習するわ!」






 ***







 シュノとレキは旅をした。いくつかの国を訪れ、たくさんの人とものを見た。水の国、砂漠の国、花の国……。神さまによって全く違う景色も、大地の色も、空の色でさえ、レキが見せてくれるものは綺麗だった。


 夢のような幸せな時間。


 それは、本当に泡沫の夢でしかなかった。終わりは唐突。壊れないように守っていたものは、ぱちんと呆気なく割れてしまった。


 ──ここで終わりです。


 ──どういうこと?


 ──俺はもう行かなければなりません。


 ──なぜ? わたしはついて行ってはいけないの?


 ──はい。ここでお別れです。さようなら、シュノ。


 シュノを見下ろす藤色の瞳は別人のように冷たかった。それでもシュノは追い縋る。だって、置いていかれてしまったら、どこに行けば良いのだろう。魔法も剣も全く使えないのに。涙があふれた。ぼろぼろと大粒が頰を転がり落ちる。掴んだレキのマントを濡らしていく。


 おいていかないで。


 わたしをすてないで。


 わたしを、ひとりにしないで。


 レキの身体にしがみつく。黒髪の騎士は冷たく笑った。


 ──そうです、俺はあなたを捨てて行くんです。言ったでしょう? 側にはいられない、と。


 潤んだ蒼色の瞳が大きくなった。シュノが知っているレキはこんな風に喋らない。こんな怖い顔はしない。こんな、冷たい氷のような表情は。


 ──きらいよ、レキなんて。レキなんて、嫌い!


 金色の髪が揺れる。レキを傷つけるつもりで叫んで、でも、痛いのはシュノの心で。ずたずたになっていく心をもっともっと痛めつける。


 ──ええ、嫌ってください。憎んでください。


 そして、レキは嫌いだと叫びながらも離そうとしないシュノの手を振り払った。藤色の瞳がシュノを拒絶する。


 ──決して、俺を探してはいけない。


 レキの手がシュノの目を塞ぐ。その言葉と共に意識が暗転した。


 目尻から温かいものが滑り落ちる。ゆっくりと目を開くと、天井の梁が目に入った。思い出した。これはほんの三日前の出来事だ。レキがきっと魔法をかけたのだ。シュノがレキを忘れてしまうように。


 ハッとして、飛び起きた。謝らないと。


 無我夢中で木の階段を駆け降りて、扉から飛び出した。


「レキーっ!」


 名前を叫ぶ。裸足のまま、石で足を切るのもお構いなしに駆けて、騎士の名を呼び続ける。


 いくら呼んでも返事はない。返事は絶対に返ってこない。


 そんなことは分かっている。けれど、シュノは泣きながら叫ぶことをやめられない。あの人の背中を探すことをやめられない。


「レキ……」


 行き場を失くした声が萎んだ。突然、ガンッと殴りつけられるような衝撃が頭に走る。だらりと額から生ぬるい感覚がした。


「……魔女だ」


 囁き声が耳を打つ。シュノは唇を噛んだ。


「魔女」


 ──魔女だ。殺してしまえ。


 再び石がシュノの頭に当たる。つんのめって、雨上がりの泥の中に倒れ込んだ。雨の匂いと血の匂いが鼻を突いて、シュノは顔を歪めた。頭を上げて上を見ると、狂気でギラつく目が見下ろしていた。


 かつて、処刑台の上でも同じ目を見た。


 魔女は人ではない。故に魔女殺しは狂った見せ物で、罪悪感を感じる者もいない。お伽話の魔女はいつだって悪者で、魔女を愛する人はどこにもいない。独りぼっちで生きて、罪を背負って殺されるのだ。


 風を切って農具の鎌が振われた。無理矢理泥から足を引っこ抜いて転がるように、無様に避ける。走り出そうとすると、ガクンと身体が引きずられた。髪を引っ張られ、狂気に駆られた村人たちの元へ、引きずり出そうとする手に噛み付く。


「いてぇ! 魔女が噛みやがった!」


 怒号が大きくなる。


 殺せ。殺せ。魔女を殺せ。


 荒い息を噛み殺し、シュノは走り出す。どすりと何かが背中に刺さる音がした。焼けたような痛みに痺れ、また倒れ込みそうになった身体を叱咤する。


 この世界に魔女の居場所はない。騎士姫と呼んで微笑んだあの人に、捨てられたのだと思い知らされる。


 ふと、レキが触れた白い花が頭を過ぎった。水も養分も愛でる人もいない、荒れ果てた灰の中で咲く花は──



 ──灰月花は一体誰のために咲くのだろう。

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