第2話 灰の下の罪と罰

 見渡す限り灰色の大地。何もかもが死んだように沈黙していた。聞こえるとすれば、耳を通り過ぎる微かな風の音だけ。草も木も生きる物全てを灰降る地は拒んでいた。崩れ落ちた建物の瓦礫が灰から突き出し、かつての荘厳な面影を失くした教会の尖塔が転がっている。


 ここは廃墟だ。ずっと昔に灰に呑まれた小さな王国の遺物で、人はとっくに死に絶えた。


 微かな光が差し込み、時間が止まったような教会の中。じゃら、と鎖を引きずる音が響いた。ぼろぼろの布切れをマントのように被った少女は瓦礫に立て掛けていた銀色のショベルに手を伸ばす。錆びた鉄の手枷と揺れる鎖を気にも止めず、そのまま仕事道具を握って外に出た。


 いつも通りの風景、いつも通りの空の色。少女は足の枷と切れた鎖で灰に跡を描きながら歩き出す。それから少し歩いて小高い丘で足を止めた。


 ずらりと等間隔で並ぶのは、十字に組まれた木の板だ。──そう、ここは墓場だった。見渡せば、延々と十字架が列を成している。新しい方になれば木も足りなくなって、墓であることを示すのは石ころになってしまっているけれど。墓の数はあまりに多くて分からない。しかし、それは少女が埋めた死者の数と同じだった。


 無言で少女は銀の刃を灰に突き立て、十字架の前にしゃがみ込む。積もった灰を指先で丁寧に払う。ふわりと散った灰は風に溶けた。


 毎日、毎日、墓守の少女はこうして墓を手入れする。灰に呑まれ、もう埋める死者はいない。掘る穴もないのにショベルを持っていくのは、たまに現れる獣を殴るため──なんていうのは結果にすぎなくて、これが無いと仕事をしている気がしないから。


 ふと、少女は立ち上がった。ごうと風が一際強く吹き荒ぶ。少女の顔を隠していたマントという名のボロ布が飛んで、淡い金色があふれた。


「あ……」


 風に乗って遠くに運ばれていくボロ布を、少女は裸足で追いかける。だが、それを掴んだのは少女ではなかった。


「これはあなたの──」


 旅人の姿のその人の、ボロ布を少女に向かって差し出そうとした手が不自然に止まる。男は空いた左手で灰から目を守っていたゴーグルをむしって、その勢いで頭のフードまで外れた。金髪の少女は蒼い瞳でじっと黒髪を見上げた。


「──姫、さま?」


 深い藤色の瞳と目が合う。


「ひめさま?」


 少女は首を傾げた。不思議そうに瞬きをしている少女を見ると、男は我に帰って頭を振った。


「いえ、何でもありません……。失礼ながら、あなたのお名前を訊いても良いですか?」


 少女はしばらく沈黙する。

 なまえ、名前、わたしの名前。

 長いこと口にしていなかったから、忘れかけていた。


「──シュノ。それが、わたしの名前」


 藤色の瞳が大きくなる。それから、男は微笑んだ、どこか哀しげに。


「そう、ですか。あなたは、ここにいたのですね」


 シュノはまた瞬きをした。さっきから、この人は何を言っているのだろう。わたしはあなたを知らないのに。


「それじゃあ、あなたの名前は?」


「レキです。レキ・ノルヴィスです」


 初めて聞いた名前だったのに、シュノはその響きに懐かしさを感じた。しかし、ふわふわとした感覚は掴もうとすればするほど遠ざかる。


「えっと……、マント、拾ってくれてありがとうございます」


 思い出したように男の手でやる気なく揺れているボロ布をシュノは奪い取った。奪うつもりはなかったけれど、久しぶりに会った生きている人間に緊張していたのだ。枷の付いた手でもじもじとマントを弄ぶ。強い風がシュノの髪を舞い上げ、ハッとして灰色の空の彼方を見る。


「──灰嵐が来る。こっち。隠れる所を知ってるの」


 度々、ここには灰を巻き込んだ風の嵐がやって来る。灰が入ると目や肺を傷つけてしまうので、シュノはいつも灰嵐の時は教会に籠ることにしていた。レキと名乗った男がついて来るかどうかはお構いなしに、背中を向けて灰の中で足を動かす。


「あなたは、ここに住んでいるんですか?」


 教会の奥、天井に大穴が空いていない部屋までやって来た時に、レキは尋ねた。シュノはマントを椅子に掛けながら、ボソリと答える。


「そう。ずっとここにいるわ」


「どのくらい?」


 シュノは目を閉じて考え込む。いつだっただろうか。正確にわからなくても、まだこの国があった頃だったのは確かだ。


「百年は経っていないはずだけど……」


 シュノのマントとどっこいどっこいのボロボロのマントを脱いだ男は、手を止めた。貴族、というよりも騎士といったような上等な服を男は纏っていた。反対にシュノは罪人に与えられる薄っぺらい布のワンピースで、少しだけ敗北感を感じた。


「──何も食べず、何も飲まず、灰の中で?」


 なぜか男の口調が強くなった。


「ええ。だってわたし、死ねないもの。死なないことは、罪だと言われた。だから、わたしはずっとここで墓守をしているの。それがわたしの罰だから」


 手足の千切れた鎖と枷は、償えぬ罪の証。いつか、処刑台に登っても死に切れなかった記憶の断片。


「罰……。あなたは、とうの昔に滅びた国に押し付けられた、有りもしない罪を背負い続ける気ですか」


 男の藤色の瞳にあったのは憤りだった。その悲痛な色が目に入って、思わずシュノは隣に座るレキの頰に手を伸ばす。


「どうして、あなたが怒るの? どうしてあなたがわたしのために悲しむの?」


 純粋な問いかけ。レキはシュノの手が自分に触れる前に顔を逸らした。シュノも、初対面の人になんてことを、ときまりが悪くなって口をつぐみそっぽを向いた。


「──すみません。ただ、寂しくはないのか、辛くはないのか、と思って」


 ぐしゃっと漆黒の髪をかいて、レキは言う。


「寂しい、辛い、か。ずっと一人だったから、心もどこかに置いてきちゃった。わたしは、すっからかんの墓守よ」


 ちょっと笑い飛ばして言ってみる。けれど、レキはまたさっきと同じ哀しげな微笑みを浮かべた。


「……あなたはいつもそうだ」


 それはシュノの耳には届かないほどの小さな呟きだった。


「何か、食べますか? そろそろ昼時ですし」


 レキは立ち上がると、持っていた袋に手を突っ込む。シュノは思わず蒼の瞳を煌めかせた。


「ほんと!? いいの!?」


「もちろんです。あまり豪華なものは用意できませんが、軽くサンドイッチくらいなら」


「全然いいわ! 何かを口にするなんて、いつぶりかしら!」


 シュノは頰に手を当てて、ニマニマしてしまう口をなんとか抑えようとしてみるが、全く努力は実っていない。レキは笑いを噛み殺しながら茶色の包みを引っ張り出す。


「どうぞ」


「あ、ありがとう!」


 手の中くしゃっといった紙の音さえも嬉しくて、シュノはワクワクしながら慎重に包みを開けた。茶色のパンに挟まって、桃色のハムと黄緑色の葉、赤い果実が輝いている。ゴクリと生唾を飲み込んで、ただしあくまで遠慮がちにシュノは口を開けた。


「……いただきます」


 じわっと口の中に味が広がる。口の中にものを入れたのがあまりにも久しぶりで、胃が悲鳴を上げる。それを無視して頬張って、シュノは自爆した。むぐむぐっと色々と喉に詰まらせてから、げほげほと思いっきり咳き込む。


「サンドイッチは逃げませんよ、姫様」


 優しくレキの手が背を撫でる。シュノはもうひとつ咳をして、藤色の瞳の男を見上げた。


「姫様って、お伽噺の?」


 そんな質問をすると、レキは目に見えて、しまったという顔をした。


「……また、言ってしまいましたね。あなたが姫様にとても似ているから」


「でも、“シュノ姫”は遠い昔の人でしょう?」


 レキは頷く。


「はい。ずっと、ずっと、昔。まだ灰も降らず、魔族が居た頃です」


 黒髪で陰になり、その表情ははっきり見て取れないが、藤色の瞳はどこか遠い場所を見ているように思えた。深く降り積もった灰よりも下、幾星霜の時の向こうを。


「わたしにこの名前をくれた母さまは、シュノ姫を英雄だと言ったわ。でも、他の人は、シュノ姫は大罪人だと言った。えっと──」


「──禍つ灰の魔女、ですね?」


「うん。王家の姫を殺し、王子を殺し、数多の屍の上で嗤う彼女は金髪碧眼で、決して傷つくことはなく、決して死ぬこともなく、けれど最期は魔族と一緒に灰になって砕け散った悪い魔女」


 かつて聞いた物語の一節を諳んじて、シュノは色の無い瞳を虚空に向けた。


「けれど、英雄でも、魔女でも、構わないわ。わたしは、ここからどこへも、行けないのだから」


「──シュノ」


 静寂の中に落ち着いた声が波紋を落とす。蒼の瞳が震えた。大きな手が少女のおとがいをそっと持ち上げる。紫水晶の色が蒼に溶けた。レキは何か覚悟を決めたように言葉を一度呑み込んでから口を開く。


「外へ行きたいですか? 見えない鳥籠を棄てて、灰の向こうへ」


 シュノは唇を噛んだ。翼があっても無くても、命があるのなら空を冀うのは当たり前のこと。誘惑はとろける蜜のように甘く、呑まれてしまわないように、レキの手を振り払って立ち上がる。そして無意識に手の枷に触れた。


「──行けるのなら。灰の果てを見たい。でも、わたしは……」


「その願いが聞けただけで良いんです」


 レキはシュノを追って立ち上がる。かつんかつんと靴が音を響かせ、レキの手が腰の長剣の柄に伸びた。引き抜かれたのは、漆黒の剣。どくん、とシュノの心臓が跳ねる。レキは剣を振りかざした。目をぎゅっとつむって、シュノは痛みを待つ。


 しかし、聞こえたのは肉の断ち切れる音ではなく、破砕音だった。


「え──?」


 そっとまつ毛を震わせ、目を開く。手足の鎖と枷は、ばらばらになって散らばっている。黒髪の男は黒の長剣を白い床に突き立て頭を垂れていた。


「あなたの罪を、俺がすべて赦します。あなたの罰を、俺が共に背負いましょう」


 それはまるで誓いのようだった。自らの全てを捧げる誓いが騎士が姫にするものなら、この誓いは一体何を意味するのだろう。お伽噺の魔女か、それとも英雄の姫に似た少女の胸の奥が疼く。なぜか、誓いの言葉は痛かった。剣の刃を素手で握ってしまったかのように。そして、それは黒い騎士も同じ。レキは顔を上げ、微笑んだ。


「あなたは自由です」


「どう、して……」


 どうして、そこまでするの?

 わたしはシュノ姫じゃない。


「──なぜ、でしょう。俺も分かりません。ですが、枷をつけているあなたを見ていられなかった」


 形の良い眉を下げ、彼は答えに窮する。剣を納めつつ、少しの間考え込んでレキは問いかけた。


「ここから出ていかなくても良いですし、どこかへ旅をするのも良いと思います。あなたはどうしたいですか?」


 まだあどけない淡い金髪の少女は、自分よりも十くらい歳上のように見える男に向かって、一歩踏み出す。


「あなたと、一緒に行きたい。それではだめ?」


「……俺はあなたの罪を共に背負うことはできても、ずっとあなたの側にはいられません」


 ずるいですね、俺は。そう言って、哀しそうに男は呟く。シュノはふるふると首を振った。


「いいわ。……途中まで、わたしと一緒にいてくれますか、レキ?」


 藤色の瞳が見開かれる。嫌がらせてしまっただろうか。心配になって、頼みを取り消そうと思いかけた。


「──はい。あなたのお望み通りに」


 しかし、レキは不快な表情をしなかったばかりか、端正な顔を蕩けるように緩める。そして、黒髪と美しい藤色の瞳を持つ騎士は金色の髪と蒼い瞳をした少女の手に口付けを落とした。


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