第1話 今は遠き戦の記憶

 ざあざあと大粒の雨が地面を穿つ。ぬかるんだ泥を馬のひづめが荒らす。後から、騎馬の隊列は灰色に染まった空、降りしきる雨の下に続いていた。


 ばしゃん。


 痩せた木々の間からボロボロのカタマリが隊列の前に転がり出る。跳ね飛ばした泥は、少女の乗った白い馬の足をわずかに汚した。たたらを踏んだ馬を少女は止めて、するりと慣れた動きで降りた。雨から身を守るためのマントが翻る。遅れて質素なドレスの裾が揺れた。


「姫様! そのような下賤の者と──」


 少し離れた後ろから、男の慌てた声がする。姫様と呼ばれた少女は、チラリとその方向に顔をやって微笑んだ。透き通った蒼の瞳は淀んだ空気の中でさえ、澄んだ光をたたえていた。


「良いのですよ、イオルフェール。わたしはこの国の王族。民を護り、慈しむのがわたしの役目です」


 淡い金色の髪をした少女は、栄養失調で細った骨と皮だけの幼い子どもの手を取った。


「あ……、ひ、め?」


 掠れた声で子どもは少女に問いかける。この子には、姫が何であるかさえ分からないのだろう。落ちくぼんだ茶色の目は少女をただ見つめていた。


「そうです。わたしはシュノ。シュノ・エレンフェルトです。あなた方を守るためにここに来たのです」


 ひとつひとつはっきりとシュノは言う。そして、子どもが足に傷を負っていることに気がつくと、白い指先を伸ばした。びくりと身体を強張らせた気配を感じ、落ち着いた声で語りかける。


「大丈夫です。わたしはあなたに危害を加える人間ではありません。治療くらいしか、わたしにできることはありませんが、あなたの傷の手当てをさせてください」


 シュノが言葉に込めた温かさを感じ取ってもらえたようで、子どもはおずおずと警戒を解き、ねじ曲がってしまった細い足をあらわにした。シュノはかすかに目を大きくする。幼い子どもなら泣き叫ぶであろう傷も、衰弱しきって痛みを感じていないのだ。微笑んで、シュノは手をそっと傷にかざした。ぽう、と柔らかい光が灯る。その光が消える頃には、足は元通りになっていた。


 魔法の扱いに長けたシュノにはこれくらい造作もないことだ。精霊の愛し子とまで呼ばれる魔法使いとして技量と、聖剣を操る才能。誰もが口を揃えてシュノ姫を救国の姫君と称える。そして、望んでなったわけでなくても、シュノもそう在りたいと願ってここに立っていた。


「なおった……?」


 濁った茶色の瞳は少しだけ、輝いていたように見えた。シュノは子どもの手を引いて、ゆっくりと立ち上がる。


「はい。治りましたよ。これで大丈夫です。気をつけて、行ってください。わたしたちは先へ進みます」


 馬のあぶみに足を乗せようとした時、マントを引く弱い力にシュノは振り返る。


「……えっと、しゅの、ひめさま、はどこにいくの?」


 顔を伏せて、伺うように幼い男の子はシュノと地面の間で視線を往復させていた。シュノは眉を下げて淡い微笑を浮かべる。


「──最後の戦場へ。この戦いを終わらせに行くのです。あなたのような子どもが、人々が、幸せに暮らせる世界をつくるために」


「もどってくる?」


 シュノは子どもの頭を撫でた。


「分かりません。ですが、これだけは約束します。この戦いの後の世界は、平和にする、と」


 馬に飛び乗って、シュノは手綱を引く。ぶるりと鼻を震わせた白馬は雨の中を走り出す。


 ぬかるみの中を走り続け、やがて視界は開けて雨は上がる。そして、先に広がる黒いうねりのような軍勢を見た。それは、氷輪の魔王、魔族と呼ばれる種族を率いる王の軍だった。対するシュノが率いる兵力は精鋭ではあれど、わずか二十。しかし、ここが最後の地だ。シュノが負ければ、エレンフェルトという国は滅びる。シュノは自分たちに後がないことをよく理解していた。馬を降り、救国の姫君は荒れ果てた大地に足をつける。


「わたしが行きます。すべて、わたしが終わらせる」


 灰色の雲の隙間から光が差し込む。その一筋は、シュノの立つ場所を照らしていた。照らされた淡い金髪は透き通り、蒼の宝石の瞳は強い決意を秘める。シュノを慕ってここまでやって来た騎士たちは俯いて、動くことができなかった。シュノの言葉は彼らにとって絶対だ。


「姫様! 待ってください。俺もついて行きます!」


 一人で歩き出そうとしたシュノを引き留めるように、黒髪の騎士がその隣に飛び降りた。どんな夜よりも黒い髪と深い藤色の美しい瞳をした少年は、シュノの瞳を悲痛な目をして見つめる。シュノはそっと視線を外した。その綺麗な瞳を見ることを今はどうしてもできない。見てしまえば無理矢理固めた覚悟が揺らいでしまいそうで。


「……だめですよ、レキ。これはわたしの成すべきこと。あなたたちは生きなければいけません。わたしが必ず全部終わらせますから」


「嫌です。姫様が行くのでしたら、俺はたとえそれが地獄の果てであろうと最後までご一緒します。そう誓いました」


 強情にシュノの騎士は言い張った。それは幼い頃に交わした誓いで、貫き通す義理なんてない。だが、それほど自分を想ってくれていると思えば、本当に果てまで連れて行ってしまいそうだった。誰よりも優しくて、人を殺せない騎士が、愛しい。奈落の底まで道連れにどこまでも落ちていきたい、と欲が顔を出す。


 でも、それはだめだ。


 シュノは自分が民に思われているような聖女でないことを知っている。たくさん人を殺した。たくさんの身内を殺した。殺して、殺して、殺して、殺し続けて、この手はもう真っ赤に染まってしまった。拭うことのできないあかに汚れて、そんな自分に綺麗なままの黒い騎士を愛する資格はない。それに、彼の気持ちは自分へのものではないのだから。


 ──そう、決して。


 シュノはレキの手袋に触れる。頭ひとつ分と少し、背の高い騎士に告げた。


「ごめんなさい。あなたは連れて行けません。行くのはわたしだけで十分。ここで見ていてくれますか? わたしが世界を変える所を」


「ですが──!」


「レキ、これは命令です。わたしの代わりに生きてください。──それにまだ、私が死ぬとは決まっていません」


 苦しそうにレキは黙り込んだ。端正な顔を歪ませ、握りしめた拳は震えていた。本当はシュノは分かっていた。この戦いで自分が生きて帰れる可能性は限りなくゼロ──でさえなくて、その可能性は存在すらしていないことを。


 レキが動けなくなったことを確かめて、シュノは今まで自分の道を共に歩んでくれた騎士たちに向き直る。


「今までありがとうございます。あなた方のような素晴らしい騎士と魔法使いに出会い、共に戦ったことをわたしは忘れません。願わくば、再会を」


 誰もが唇を噛み締め、シュノを引き留めようとするのを必死に堪えていた。泣いて縋ることをシュノが決して許さないことを彼らはよく理解している。


「……姫様、祝福だけでもさせてください」


 白いローブを纏った少女が走り出る。空色の髪があふれて、高位の神聖魔法の使い手であることを示す金細工のブローチがしゃらんと音を立てた。潤んだ金色の瞳にまつ毛が陰を落としていた。少女はシュノの手に恭しく触れる。真っ白な光がシュノの身体を包み込んだ。光の向こう側で、空色の髪をした少女の頰を涙が伝う。シュノはぎゅっとその華奢な手を握った。


「ありがとうございます、セレーネ。これでわたしは絶対に負けません」


「ご武運をお祈り申し上げます」


 シュノは笑ってみせる。花が凛と咲き誇るような満面の笑顔を作った。ここで終わる英雄にぴったりな、とんでもない強がりの笑顔。


「では、また会いましょう」


 顎を引いて、前を向いて、それからシュノは笑顔を消した。マントを脱ぐと救国の姫君の戦衣装が風になびく。鞘から引き抜いた白銀の長剣の重みを確かめ、シュノは地面を蹴った。


 姫様──!


 遠くで掠れた声が聞こえた。後ろ髪を引かれるような感覚に思わず一瞬、声の主を見てしまう。黒髪の騎士は絶望した顔をして、深い藤色の瞳の中は虚ろな闇に沈んでいた。


 ああ、そんな顔をしないで。

 あなたにそんな顔は似合わない。


 シュノの目尻から雫がこぼれて、唸る風に解け散る。シュノの手に握られた長剣が閃光を放つ。地面を両足が削る。踏ん張って、一閃。シュノの魔力が爆発し、黒い軍勢が消し飛んだ。その真ん中で、さっきの派手な爆発もどこ吹く風の平然とした立ち姿をしている青年──彼こそが氷輪ひょうりんの魔王。戦場で出会うのはこれで何度目だろう。端正な顔とすらりとした身体付きであっても、魔王という呼び名の通りシュノと同格の強さを誇る。


 魔王の放つ破壊魔法で多くの仲間を失った。しかし、それと同じくらいの命をシュノもまた奪った。奪って、失くして、生きるために足掻いて──この戦いは魔族と人間、どちらかが滅びるまで終わらない。これはそういう生き残りを賭けた戦争なのだ。


 白髪の魔王がシュノの騎士たちを攻撃するよりも早くに、さらに距離を詰める。


「氷輪の魔王。その命、わたしがいただきますっ──!」


 高く跳んだ少女の影は白い髪をした青年の紅い瞳に映り込む。


「騎士姫。俺にも後が無いんでね、貴様に大人しく斬られるつもりはないぞ」


 バチッと黒い雷電が青年の手の中で弾けた。シュノは咄嗟に魔力を帯びた長剣をかざし、正面から空気を切り裂いて放たれた魔力を斬る。斬り損ねた黒い魔力が白い頰に朱色の線を引いた。パッと紅い華が咲く。深い踏み込みからの斬撃は魔王の美しい白髪をさらう。風に飛ばされた髪を微塵も気にせず、魔王は黒い剣を抜き放った。


 一合、二合、三合と剣を合わせ、シュノはわずかに剣を逸らす。黒い魔力を纏った剣を受けきれずにガクンと少女の体勢が崩れた。そして、その一瞬が致命的になる。


「──これでしまいだ」


 彼が恐ろしいほどの冷たさを放つ月に喩えられるのと同じように、冷徹な響きをもってシュノへの終わりを告げる。振り下ろされた黒い剣は淡い金髪の少女の身体をずぶりと貫いていた。


「──いいえ。これでわたしたちの勝ちです、魔王」


 口の端から血をこぼしながら、シュノは不敵に微笑む。


「あなたがわたしを殺してくれるのを待っていました」


「何? ……っ、まさか魂を魔法に変えたのかっ!?」


 紅い瞳を見開く魔王に向かってシュノは無理矢理首を動かして頷いた。ぼたぼたとあふれる血は止まらない。明らかな致命傷を負った身体は声を発する度に悲鳴を上げる。


「はい。……魔族のみを対象とした殲滅せんめつ魔法です。わたしの命の代価は、高く、つきますよ」


「分かっているのか!? ばらばらになった魂は元にはもう戻らない。貴様という存在は消えるんだぞ!」


 顔を歪めて叫ぶ白い髪の青年を真っ直ぐ見つめ、再びシュノは頷く。


「もちろん、知って、います。決めていたこと、です。わたしはこの戦いを終わらせる。そして、わたしという存在は消える、のです」


 ぴしり、ぱきん、ぽきん。シュノの中で何かが砕けて壊れていく。視界の端で光になって溶けていく身体を見た。


「……この世界は、ふたつの種族が生きるには狭すぎるのです」


「──ああ、俺も、そう思う」


 ぱきん、と魂が砕ける最後の音がした。シュノは身体からふっと力を抜いて、灰色の空を仰ぐ。狂ってしまいそうな痛みはもう感じなかった。シュノ・エレンフェルトという人格がぼろぼろと欠けてゆく感覚の中で、最期に黒い髪と深い藤色の瞳をした騎士の顔を思い出す。


 ──ごめんなさい。


 淡い金色の髪をした少女は世界に大きな嘘を吐いた。ここで死ぬのはシュノ・エレンフェルト。けれど、彼女は初めからシュノではなかった。嘘と偽りでできた少女は、遠くの黒髪の騎士に向かって微笑んだ。


 真っ白な光になって少女の身体が解け散り、ひとりの少女の魂をにえとした優しい優しい終わりの魔法が降り注ぐ。少女の重みが消えた黒い剣を握り締めながら、美しい顔の魔王は灰色の空を見上げた。身体が灰に変わって、風に乗って崩れていく。全ての魔族に等しく、苦しみのない死を。


 それから幾日も、灰が降った。雪のように優しく静かに、けれど決して冷たくはない風花かざばな



 そして、後にお伽話の英雄にはなり損ねて、悪い魔女になってしまった騎士姫は世界のあわいに消えてなくなった。ばらばらに砕けた魂は二度と元には戻らないはずだから。


 ──はず、なのに。



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