第5話 落陽の国

「──シュカ、大丈夫か」


 男の声でシュカは我に帰った。黒いマントを纏い、目元を仮面で隠した少年は、呼ばれた名前を口の中で転がす。


「──ええ。少し、昔のことを考えていました」


「そうか。使徒様の前では粗相の無いようにしろよ」


 黒衣の男は先程までぼんやりとしていたシュカに釘を刺した。シュカは軽く頷く。人間でありながら神の力を授けられた人外に、平凡極まるシュカが勝てる道理はない。やっと手に入れた使徒の陰としての立場を失いたくないシュカとしては、そんな愚行をするつもりは皆無だった。


 きらびやかな宮廷の回廊を静かにやたらと黒い二人は歩く。とんでもなく場違いなのでは、と思わないこともないが、しかたがないのもまた事実。シュカはこっそりと溜息をついた。


 しばらく歩いていると、男の姿が忽然と消えた。足を早め、シュカは男を探して横を見る。ガラスの扉が開いていた。耳を澄ますと水音が聞こえる。どうやら庭園に使徒様はいるらしい。


 息を呑み込んで芝を踏む。その動作のぎこちなさに苦笑する。思いの外、緊張しているみたいだった。緑色に包まれた空間の上はガラス張りのドームになっていて、青い空が覗いていた。目線を前に戻すと、男が半分怒りかけの表情でシュカを見ていた。走り寄る前に、目元を隠す仮面に触れる。大丈夫、魔法は解けていない。


「──使徒様、こちらが本日より貴方様にお仕えすることになったシュカです」


 黒いマントで髪も体型も、その上仮面で人相も、ほとんど不詳のとんでもなく怪しい人間であることは自覚している。もちろん、本来ならば素顔をさらすのが礼儀というものだろう。……というのをシュカは完全に無視してのけた。


「よろしくお願いします」


 せめて、というわけでもないが、跪いてシュカは椅子に腰掛けた男に頭を垂れた。


「この通り愛想が良いとは言いがたいのですが、使ってやってください」


「ああ、別段愛想がなくても私は構わないよ。陰として、呼んだのだからね」


 で、と言いながら、落陽の国の使徒はシュカの前に立った。


「立っていいよ。──君は席を外してくれるかい?」


 シュカをここまで連れてきた陰の首領をあっさりと、使徒の男は爽やかな笑顔で追い返す。立ち上がったシュカはさっきまで男のいた場所を無表情で眺めた。はてさて、何を訊かれることやら。


「私はシオン・アルストメリア。この国の、富の神の使徒だ」


 整った顔立ちの男はシュカに席を勧めた。先程まで優雅に茶でも飲んでいたのだろう。椅子が二つある所を見るに、初めからこのつもりだったのかもしれない。


「いえ、僕は遠慮します。あくまで使徒様の陰としてここに来たのですから」


「そうか、残念」


 口ではそう言いながらも、シオンはあまり気にしない様子で静かに腰を下ろした。よく見ると帯剣していない。無用心ではないだろうか、とシュカは思う。使徒であっても不死身ではないと聞いたから。


「ああ、これは別に無用心というわけではないんだ」


 ハッとして顔を上げる。思考を読まれたようなタイミングにシュカは警戒心を強める。しかし、シオンは全く気にせずに右手を前にかざした。黄金の光がその手からこぼれる。瞬きをすると、シオンの手には金色のナイフが握られていた。


「……錬金術、ですか?」


 身を乗り出してシュカはナイフを見つめる。シオンが嬉しそうに笑う。


「そう。富の神はかつて鍛治の神の権能を奪ったんだそうだ。だから、私に与えられた力は神器を造ること。……とりあえず高価なものでできることになるけどね」


 そこは富の神の権能なのだろう。金ピカな武器が造れるというのは、なかなかにお得な力だ。財力的にも、武装としても。シュカの口が弧を描く。探していた人ではなかったが、シオンは親しみやすい人間のようだった。仮初の主としては、悪くない。


「笑った。……君は、どうして仮面を被っているんだい?」


 ピクリとシュカの肩が動く。


「僕は、僕の顔が嫌いなのです。だから、隠しています」


 硬い声で答えた。視線の先のシオンの顔を窺い、細められた目に射すくめられる。


「見せてくれないか?」


「それは、命令でしょうか?」


 じりじりとした緊張が走る。下手を打てば、手に入れた立場を失う。かといって、安易に顔を晒す気もない。どちらも沈黙したまま、重い時間が流れていた。


「ここは、結界を張っていて私と君しかいないんだ」


 おもむろにシオンは口を開いた。椅子から立ち上がると、長い人差し指を男は伸ばし、口に当てる。その仕草は、これからの内容は口外してはならない、という命令を示していた。


「率直に言うと、私は味方が欲しい。知っているかい、使徒は神ととにかく割に合わない契約を結ばされる。私に自由はない。そして、厄介なことに王と神に嫌われてしまってね」


 気がついた。このガラス張りの庭園はシオンの檻なのだ。届かない空が見下ろす狭い独りぼっちの鳥籠。


「契約の破棄はされないのですか?」


「できたら、されてから殺されていたね。とはいえ、一度結んだ契約は私が死ぬか、神が死ぬか、どちらかによってしか破棄されないんだ。後者は、この国の民が苦しむことになる」


「──なぜ僕にこの話を?」


 訝しげにシュカは問う。シオンの唇が歪んだ。


「君には、他に目的があるように思えるから。使徒の陰は危険度が高いが、その分見返りが大きい。この国は富の国だからね、つまり身も蓋もなく言えば、金で回ってる」


 ──だから、誰も信用できない。


 富の神に見初められて、神の代行者に選ばれたはずの男は、淡々とそう言ってのけた。明らかに己が神を冒涜するのに等しい言葉を。穏やかな表情の裏に隠した尖った感情の端が見えたような気がした。


「君の行動原理に金は入っていない。それはここで私に媚びへつらう態度を取らなかったことでも分かるよ」


 使徒は神の権能を振りかざす権利と立場を与えられている。カネが全てというのなら、使徒のおこぼれに与ろうと群がる輩は多いのだろう。そして、カネさえ積まれれば簡単に手の平を返す。確かに、信用には値しない。


 だが、それは得体の知れない余所者であるシュカとて同じことだ。カネに目が眩む有象無象と変わりないかもしれない。


「ですが、僕があなたを裏切らないという保証はどこにもありませんよ」


「そうだね」


 こくりと頷くシオンに、シュカは呆れたらいいのか、驚いたらいいのか、分からなくなった。


「まあ、カン、かな」


「……カンですか」


「うん。ああ、でも大丈夫。私のカンは当たるんだ」


 得意げに男は人の良い笑みを浮かべた。裏を感じさせない顔をして、シオンは整った顔をシュカに向けていた。


「君は、使徒の陰という立場が欲しかったのだろう?」


 仮面の下でシュカは大きく目を見開く。


「そして君は、何かを隠している」


 シオンが華奢な椅子から立ち上がった。柔らかい草を踏みしめ、シュカの前で立ち止まる。小柄なシュカとは頭二つ分ほど背丈が違った。少しは伸びたはずなのに、とふと昔のことを思い出す。


「シュカ君、私の味方になってくれないかな? 私もできる限り、君の役に立つと約束するから」


 そのための秘密の共有。つまりはそういうことだ。シュカはふっと息を吐き出した。悪い提案ではない。ここなら、きっと探しものの手掛かりだって掴めるかもしれない。


「分かりました。あなたに僕の刃を預けましょう。……言っておきますが、僕はあまり強くありませんよ」


 シュカは頭を下げたりはしない。これは対等な契約だから、このまま誓うのが正しいと判断した。


 構わないさ、とシオンは屈託のない笑顔で橙赤色の瞳を輝かせる。ああ、この人は使徒には向いていない、とシュカは彼が神に嫌われたという発言に合点がいった。神の刃を振るうには、人が良すぎたのだ。


「……仮面のままでは主に失礼ですね」


 シュカは仮面に手を当てる。黒いマントがばさりと頭から外れた。


 茶色の髪と翠色の瞳の、線の細い美しい少年の顔が現れた。シオンがずいとシュカに身体を近づけて、まじまじと食い入るようにシュカの顔を見つめる。


「……何か、ありましたか?」


 やけに近い男の顔に半分のけ反りながら、シュカは後ずさる。


「金色の髪と蒼色の瞳……。なるほど、それが君の隠し事か」


「っ!」


 全身が総毛立つ。頭の芯がすうっと冷えた。


「なぜ気がついたのですか? 僕の魔法は完璧だったはずですが」


 恐ろしいまでに冷徹な声で少年は自らの秘密を暴いた男を咎める。


「私には微かに真実を視ることができるんだ。魔法を見破るのは得意でね、確かに君の魔法は完璧だよ。魔法を使っていることさえも気づかない。私もこの力がなかったら見透かすことなんてできなかっただろう」


「──僕を処刑でもしますか?」


 薄く、笑う。冷め切った瞳にシュカはシオンを映す。死ぬことには慣れた。使徒に殺されるのもまた一興、というやつだろう。落ちた首が何事もなかったかのように元通りになるのを見れば、この人も自分を棄てるに違いない。


「いや? なんで?」


 シオンはシュカの予想の斜め上を行く反応をした。シュカは茶色の髪をぐしゃりとやる。


「なんでって、僕は魔女と同じ色ですよ? どの国でも極刑です。死刑です」


「──そうだけど。私はその訳の分からない風習?みたいなのは嫌いなんだ。だって、ただその色に生まれてしまっただけだろう? 君に何の非がある? 私はその色好きだけど」


 んんん、とシュカは息を詰まらせる。天然タラシというやつか、これが。咳払いで動揺を誤魔化し、わざとらしく溜息を吐く。


「……使徒様、変なことを言わないでください」


 色を認めてくれたのは嬉しいけど。ごにょごにょ呟く。


「シオン」


「え?」


 シオンが自分で自分を指さす。ゆっくりはっきり言葉を切って、もう一度。


「シ、オ、ン」


 そう呼べ、と言外に言っていた。シュカは呆れて目をぐるりと廻らせ、渋々口を開く。


「シオン様、で良いでしょうか?」


 少し不満そうな顔をしていたシオンだったが、名前を呼んでくれただけ満足らしくしばらくしてから頷いた。


「よろしく、シュカ」


 富の神の名の下に、囁かれる二つ名は黄昏の使徒。風変わりな男は人懐っこい笑みを浮かべた。

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