第4話 川に贖う

 朱羽あけは朱弥山しゅみせんを下り、御釈蛇山みしゃくじやまを登り、水主知みづち神社を目指した。朱羽に思い当たる節は無い。しかし、【ウブメ】という言葉が朱羽の頭の中をぐるぐると巡っていた。


 ―――――ウブメ。産女。


 新たな龍が母に殺されたというのなら、龍を孕める天巫女あまみこは朱羽以外に一人しかいない。


 …明里あかりがそんなことを…


 姉の明里は思慮深く優しく…清らかだ。最も姉の近くにいて、共に過ごし、人となりを知る朱羽はそのことを誰よりもわかっている。きっと何かの間違いに違いない。


「お姉ちゃん…!」


 朱羽が息を切らせて姉の居る本殿に駆け込むと、明里は鈴を張ったようにぱっちりした目を丸くした。


「朱羽、どうしたの?」


「小依川でミシャクジ様の声を聞いたの」


 明里はハッとした顔で「御言葉は…何と…」と、震える声で続きを促した。朱羽はその様子に不安を覚えながらも話し続ける。


「龍は母に殺されぬ。産女うぶめって、どういうこと?」


 見惚れるほどに綺麗な姉の顔からみるみる血の気が引いていく。明里に心当たりがあることは明白だった。


「そんなはずないわ…あれが龍の仔だなんて…」


「お姉ちゃん。本当のことを…言って…」


「私には誰の子かわからなかったの。だって、あんな…あんなに…」


 明里は秋祭りの後、父親のわからない子を身ごもった。詳しくは語らなかったが、人の子だと思い込んでしまうような何かがが起きた。


「…赤子を殺したの?」


「いいえ。生まずに流したの…」


 朱羽には御役目に行くと偽って、村に出掛けた。村の取り上げ婆に教わった通りに、雪のちらつく中、冷たい小依川に何度も浸って、お腹の子を流したという。朱羽はその光景が目に浮かび、思わず身震いした。


 真冬の小依川。

 授かった龍の仔を父なる川で流す冒涜。

 間引かれた無数の赤子たちが底に眠るあの川で。


 だから川は枯れた。

 天からも地からも水の恵みは享受できない。

 ミシャクジ様は人による数多あまたの冒涜を許さない。


『オワアァ』


 朱羽の耳元で訴えるような赤子の泣き声が蘇ってくる。知らなかったとはいえ、恐れ多く、赦し難い。姉は何と罪深いことを…


「どうして話してくれなかったの…?」


「身を穢された女は天巫女でいられなくなるでしょう?」


「天巫女なんて大事じゃない。お姉ちゃんの方が大事」


 それを聞いた明里は綺麗な目を潤ませて、はらはらと大粒の涙を落とした。


「嫌われたくなかったの、朱羽に。だって、あなたは私のことを凄いって。天巫女として尊敬してるって言ってくれた。軽蔑されて、あなたを失うことが怖かったの…」


「私はお姉ちゃんが天巫女でなくなっても嫌ったりしない」


 明里は何とも言えない悲壮な顔でこちらを見つめて、静かに泣き続けている。


 ―――――『死をもっあがなえ。もっめいすべし』。


 此度こたびのミシャクジ様の怒りは尋常ではない。このままでは、明里一人の命で済まない。村を流れる川は永久に絶え、雨は一滴たりとも降らない。そうなれば、いったい幾人の死者が出るのか。いな、村人全員の死を以て大罪を償わせるということか。


 …ミシャクジ様は村ごと滅ぼすおつもりだ。その上、明里は…


 己の仕える神を裏切った天巫女は未来永劫、闇の中を彷徨さまようことになる。終わりの無い責め苦は死よりも辛い。それ程に、神への冒涜に対する罪は凄まじい。


 …どうすれば…私は…


『アァァン』


 耳についた赤子の声が離れない。あの時、一人残らず山に連れて行った。空にかえしたはずなのに。


 …あれ?


 ふと、気づいた事実に朱羽はアッと息を呑んだ。今聴こえている赤子の声は一つきり。この子だけが空にかえらずとどまっている。たった一人残り、ついて来た…私に。天巫女に。


 …ならば、この仔は。


「お姉ちゃん、償おう…私と一緒に」


 明里は顔を上げた。覚悟を決めた顔で静かに頷く。


「…朱羽と一緒なら。死んでもいい」


 朱羽は姉を見上げて、「ずっと一緒よ」と、微笑わらってみせる。


 …一緒に。一つに。


「来て」


 朱羽は明里の手を引き、小依川を目指して歩き出した。



 ✺✺✺



 川は先程とは打って変わって、死んだように凪いでいた。


「ミシャクジ様、お聞き下さい」


 朱羽は川に向かって呼びかける。返事はなくとも、どこもかしこも山全体が、朱羽たちの一挙手一投足を固唾を呑んで見守っていることを肌で感じていた。


「私が龍の母になります」


『オワアァァ』


 水子となった龍の仔が呼応するように声を上げた。龍の魂は流されても空に還らず、川に戻ろうとしていた。生まれようとする魂の、生への、この世への強い執着が朱羽を後押ししてくれる。龍は川の化身。龍が生まれれば川は戻る。


「御釈蛇山が在る限り、朱鳥わたしを守ります。この体が朽ちても。ずっと」


 しかし、朱羽の訴えにミシャクジ様は耳を貸す気は微塵も無かった。


『死を以て贖え。以て瞑すべし』


 神への冒涜はゆるされない。それは朱羽も明里も承知の上だった。二人、顔を見合わせ、小さくうなずく。


「私は死して糧となります。私の血肉は朱羽から仔へ、いずれ山や村を潤す川の一部に」


 明里は静かに告げて、川の前に平伏した。これが二人の出したあがない。


かしこかしこみももうす」


 おおとりになった朱羽は姉だったものに手をかける。


 ―――――喰らうために。



 ✺✺✺



 全てが終わった後。

 天から地へ。

 涙のように温かな雨が降り注いだ。


 小依川には龍がむ。

 川は豊かな水をたたえ、人々の暮らしを潤している。

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龍ヲ送ル 瑞崎はる @zuizui5963

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