剥がして食べなきゃいけないんだよ

倉井さとり

 雨の日の彼女の嬉しそうな様子が、ずっと不思議だった。

 授業中に雨が降りだせばニヤケ顔になり、下校中に雲行きが怪しくなればそわそわし始め、最初のポツリを受けた途端に「あ、降ってきたね」なんて言って満面の笑みを浮かべる。そのくせどうしてそんなに嬉しそうなのか聞いてみると「べつにそんなこともないけど」と急に機嫌が悪くなる。まあ数分もすれば元のニコニコ顔に戻るんだけど。


 僕と井織いおりは幼馴染だ。家が近所というわけじゃないが、僕たちの両親が昔からの知り合いで仲が良かったから、僕たちも一緒に過ごすことが多かった。

 僕のいちばん古い記憶のなかにも井織は居る。と思う。

 海かプールなんだと思う。水に腰まで浸かった裸の女の子が、水面をバシャバシャ叩いて激しい水飛沫を立てている。ひたすら飽きもせずに。

 ぼんやりした記憶だからその子が井織だという確証はない。もしかするとほかの誰かと勘違いしているのかもしれない。けれど、まずその第一の候補に井織を挙げなきゃいけないくらいに僕たちの付き合いは古かった。そしてその女の子が誰なのか両親に聞いてみないくらいには、興味がないというか、僕にとって井織は隣に居るのが当たり前の存在だった。





 僕と井織は高校からの帰り道を歩いていた。

 ついさっき降りた電車が珍しく満員だったせいか、吸いこむ空気が美味しかった。駅から僕の家までは少し歩かないといけない。駅からバスが出ているが、本数が少なくてほとんど使い物にならない。駅に自転車を置いて通学する手もあるけど、この辺は運転の荒い車が多くて、自転車だと危ない目に遭うことがあった。それで僕も井織も、徒歩で家と駅を行き来していた。

 僕の家も駅から遠いが、井織の家はさらに遠い。僕だったらどんなに危なくても自転車で通学すると思う。こういっては井織に悪いが、毎日あの距離を徒歩で通うと思うと正直バカバカしい。でも、そのくらい井織の家は遠かった。親に送ってもらえればいちばんなんだけど、僕たちの両親はどちらも共働きで、そういうことは滅多になかった。


 前を歩いていた井織が急に立ち止まった。僕も足を止める。

「降りそうだね。どこかで雨宿りしなきゃ」

 顔を見なくてもこの声だけで、いや、後ろ姿からだけでも機嫌の良さが伝わってくる。

 僕は空を見上げた。雨雲どころか薄い雲さえ見当たらない。


「後ろから雲が来てる」

 振り返ってみると、井織の言う通り、雲はあった。

「すぐには降らないんじゃないか? まだかなり距離があるし」

 雲はこれ以上ないほどドス黒かった。でもまだ地平線から顔を覗かせている程度だ。

 こつこつと足音がした。早足であとを追い、僕は井織の隣に並ぶ。そして道の先を見た。

「お前はずぶ濡れかもしれないけどな」

 もしかすると井織が家に着くまでには降りだすかもしれない。

「家、寄ってけよ。傘かしてやるから」

「ううん、その前に降るよ。だってあの雲――すごいスピードだもん――」

 思いのほか声が近くに聞こえて、僕は少し驚く。耳のすぐそばでささやかれた気がした。だが井織は自分の足元を見ながら歩いていた。

「ホントかぁ?」

けてもいいよ」

 井織はこっそりと目配せをするように僕のことを見た。なんだよその顔。ここには僕たちしか居ないのに。

「賭けるって何を?」

「なんでもいいよ」

 僕は少し考える。

「じゃあ、肩でも叩いてもらおうかな」

「なにそれ」

 井織はおかしそうに笑った。

「お前は何が欲しいの?」

「私も、いいんだ?」

「ん、ほら、フェアな方がいいだろ?」

 井織は視線を斜め上に向けた。本人はまっすぐ歩いているつもりなんだろうが微妙にふらふらしている。そのまま徐々にこちらに近づいてきて、突然、バランスを崩して僕の方に倒れかかってきた。僕の体はとっさに井織を受け止めようとした。でも頭では、もしそうせずに避けてしまったら、井織はどうなるんだろう、なんてことを考えていた。


 僕は安堵した。井織が自分の足でその場に踏み留まってくれたから。

 照れ隠しなのだろう、井織は無邪気な笑みを僕に向けた。が、すぐに悪戯いたずらな笑みに変わった。胸が詰まり、心臓の動きが意識にのぼる。

「なんでのいいの?」

 井織は言った。

 僕はわずかに井織と距離を取る。

「ダメだ」

「えー、なんでぇ?」

「言いだしたのはお前だし」

「まあそうだけど」

「で?」

 井織は少し考え、表情をパッと明るくした。

「一度だけ嘘をついていい権利なんてどう?」

「いや、権利なんてなくても、嘘はついていいだろ」

「いやダメでしょ、嘘ついちゃ」

「じゃなくて……嘘なんて、いつもついてるだろ?」

「人を嘘つきみたいに言わないでよ。私、いままで麻人あさとに、嘘ついたことあった?」

「そりゃあ――」あるに決まってる、そう続けようとした。でも実際に口から出たのは「ないかも」だった。

 子供の頃まで記憶をさかのぼってみるが、確かに嘘をつかれた覚えはなかった。

「でしょ?」と井織は勝ち誇る。


 なんだか納得がいかない。きっと僕が覚えていないだけだ。さすがに一度の嘘もないなんてありえない。だって僕たちは子供の頃から一緒に居るんだ。けれど、僕に嘘をつく井織というのは想像がつかなかった。ほかの人間に嘘をつく姿は簡単に想像ができるのに。


「なんで権利なんか欲しいの?」

「私、けっこうあの日が好きなんだよね」

「あの日?」

「エイプリルフール」

「ああ。でも、噓なんていつだってつけるだろ?」

「わかってないなぁ麻人は。人はね、権利があるとマジになれるんだよ」

「そもそもあれって権利なのか……?」

「だと思うよ。遊びのなかではあるけどね」

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