「泊まったあ?」

 僕の声は裏返る寸前だった。僕はそんなことさえ忘れているのか? 正直、井織いおりの言葉が信じられなかった。それが顔に出たのだろう、井織ははっきりと、

「そう、二人でお泊りしたんだよ」

 と言い切り、ニコッと笑った。満面の笑み。なのに見ていると切なくなる。理由はすぐにわかった。子供の頃の顔みたいだからだ。昔の井織と、目の前の笑い顔がダブってごっちゃになる。感覚がに落ちて、途端に僕は自分自身が気持ち悪くなる。なぜだろう。理由はわからない。でも心底気持ちが悪い。みるみる大きくなっていく猫、だったか? 井織が気持ち悪いと言ったのは。そうだ。井織はみるみる大きくなっていく猫が気持ち悪かったんだ。だからなんだ? 僕はどうしてこんなことを連想したんだ?


「信じられないって顔してるね? でもこれは本当のことだよ。私が保証してあげる。けてもいいよ。なんでもいい。内臓とかでもいい」

「は? 内臓?」

「うん。たとえば麻人が交通事故にあって、それで内臓のひとつがダメになって、誰かの内臓を移植しなくちゃいけなくなったとして。そのときは、まっさきに私の内臓をあげる」

「つまり、命を賭ける、ってことだろ?」

「それはわからないよ? 腎臓とかは片方あれば生きられるっていうし」

「だけど移植って、拒絶反応とかがあるんだろ? そもそも俺とお前とじゃ血液型も違うし、血だって分けてもらえないよ」

「大丈夫だよ。子供の頃からずっと一緒に居るんだもん。拒絶反応なんて起こらないよ。まあ、麻人にない内臓はあげられないけど」

「なに言ってんだよお前――」

 井織の言っていることがわかって、あるいはわからなくて、それで僕は自分自身が気持ち悪くなる。みるみる大きくなっていく猫? そうだ。昔の井織にはそれが気持ち悪かったんだ。なら、今の井織は? 今の井織も同じように、それを気持ち悪く感じるのか? それ? 「それ」ってなんだ? みるみる大きくなっていく猫、だったっけ?

 今、僕の口の中は渇いている。それでも、死人しびとよりはずっと湿っているはずだ。だから僕は井織に先をうながす。

「それで、どうなったんだ?」

「当然何も起こらなかったよ」井織は悪戯いたずらっぽく笑った。「川の氾濫はんらんなんてそうそう起こらないよ。子供の想像力はすごいね。私なんて、このまま町が水没しちゃうかもしれない、とまで思ってた。だけど、杞憂だった。杞憂でしかなかった。ただ親にこっぴどく叱られただけだよ。『どうして動物なんかのためにこんなことをしたんだ』ってね」


 急に車のエンジンの音がして僕は驚く。昔、僕は聞いたことがある。冬の寒い時期には車のエンジンの中に猫が入りこんでしまうことがあり、何も知らない車の持ち主がそのままエンジンをかけてしまって、それで猫がエンジンに巻きこまれてしまうことがあると。それを聞いて僕はひどく驚いたんだ。エンジンの中なんて狭い所に入りこめるくらいに、猫の体は柔らかいんだ、って。やっぱり、猫の体って、柔らかいんだ。僕はなぜこんなことを思い出したんだろう。僕は顔を上げた。


 バス停の前に、バスが停まっていた。胸騒ぎがした。違和感があった。なぜ? ああ、そうだ。バスは来ないんだ。僕たちが待っていられるうちには、バスは絶対に来ないはずなんだ。ならこれは何かの間違いなんだろう。運転手も人間だ。間違えることもある。停まるべきバス停を間違えたんだ。

 アズキ色で、小ぶりで、どこにでもあるようなバスだった。でもどうしてだろう。バスを見ていると脚がむずむずした。


『本当は、一緒に歩いて帰りたかったんだ』

 ふと、頭の中に声が響く。

 たぶん井織の声。きっとそうだ。昔聞いた井織の声だ。そうに違いない。だんだん思い出してくる。たしか雨の日だ。それで、僕か井織の親が車で迎えに来てくれたんだ。僕たちはその日、車に乗って家に帰ったんだ。で、別れ際だ。別れ際に井織が言ったんだ。僕だけに聞こえる声で、『ほんとうは歩いて一緒に帰りたかったんだ』って。

 これはいつのことだっけ? 小学? 中学? 高校に上がってから? ここ最近のこと? 思い出せない。それとも、こんなことはそもそもなかった? こんなにはっきりと井織の声を思い出せるのに? 『ホントはね。二人で歩いて帰りたかったんだよ』

 僕はいつも思う。井織の声はバニラアイスみたいだなって。なら僕はいつも井織の声を舌で聞いてるわけだ。『ねぇ。それって聞いてないのと同じじゃないの?』


 バスの乗客は一人だけ居た。女子高生だ。他校の制服を着ている。徒歩圏から外れた、誰も歩いて通おうとは思わない高校の。長い黒髪の。日に無防備な青白い肌色の。口紅じゃあこうはならないだろう、自然な赤い唇の。――の。の。の。ほかにもまだ付け加えるべきことがある気がして頭がうずく。黒髪はこんな雨の日なのにうねりもしないで艶めいている。彼女は窓際の席に腰かけながら、僕のことを見てうっすら笑っている。それとも元からこういう顔なのかな。もしそうなら、僕は、彼女の顔に見覚えがある。気がする。


 もし見覚えがあるなら、彼女に声をかけても不自然じゃないはずだ。本当にそう? 変に思われたりしない? かけるとして、どう声をかけたらいい? 「ねえキミ、どこかで会ったこと、なかったっけ?? あるよね?? 僕たちのこと覚えてる?? それとも忘れちゃった?? まさか、昔のことにはあまり興味がないとか言って、この場をやり過ごすつもりじゃないよね??」だろうか。それともシンプルに「ひさしぶり」とかの方がいい? こんな気持ち、生まれて初めてだ。嫌われてもいい、それでも僕のことを知ってもらいたい。僕を思い出してほしい。


 僕はベンチから立ち上がり、一歩前に踏みだした。その瞬間、何かに右の手首をつかまれた。だけじゃなく、後ろに手を引かれた。

 見ると、井織がベンチから腰を浮かせて、両手で僕の手首をつかんでいた。手首がじっとりと熱い。熱い掌。魚類でも両生類でもない、哺乳類の手。

「なにしてんだよ」

 僕の声は小さかった。だけど低く響いた。まるで殺意をはらんだように。実際の感情は違ったはずだ。殺意なんて起こるわけがない。

 井織は両手に力を込め、僕に視線を合わせて小刻みに首を横に振った。

 細い首だ。簡単に絞め殺してやれると思う。だけど井織、そもそも僕は、お前に殺意なんて抱けないんだよ。傷付けたい、苦しめたい、そういう気持ちさえ起こらないんだ。


 僕は自分自身の手首から、井織の両手を優しく引き剥がした。

 安堵して泣きだしそうな顔。どうして井織はこんな顔をするんだろう。

 目を背けて僕は歩きだす。が、また手首に熱、そして後ろに手を引かれる。構わず行こうとするがさらに強く手を引かれる。うんざりして振り返る。井織は泣いていた。

 どうして井織は僕の邪魔をするんだ? 僕はあの子に声をかけなきゃいけないのに。そうしなきゃ、この話は進まないのに。この雨は止まないのに。なにもかも水没してしまうのに。


 殺意を抱けなくても、僕はそうするべきだろうか?

 誰も居ない世界でいい? 僕が井織をそうした世界にする?

 僕はどうしたらいいんだろう。

 井織とあの子を見比べたらなにかヒントになるかもしれない? 僕は視線を外に移した。


 彼女はまるでハープを弾くように、指先で、ゆっくりと髪をなびかせていた。彼女と目が合う。あいかわらず、にこやかな顔。

 彼女は突然、十本の指をぴんと立てて両方の掌をこちらに向けた。そして右手でさっとくうをつかんだ。なんだろう。――彼女はいつのまにか――右手の親指と人差し指で『何か』を摘まんで持っていた。すごい、まるで手品みたいだ。

 彼女は、ね、すごいでしょ、ほら、よく見て、というようにそれを胸の前に掲げた。

 僕は目を凝らす。その何かは球体だった。けっこう大きい。身近なものでいえば人の眼球くらいはあるだろうか。球体は水色に透き通っていた。あれはなんだろう? 宝石? それとも飴玉?

 彼女は唇と舌を小気味よく動かし、

「 よく見ててね? 」

 とささやいた。いや違う。僕がそう思っただけだ。距離があって、雨音がうるさくて、しかもガラスごしなんだ。声なんて届くわけがない。でも僕は感じたはずだ。彼女の少し低くて、甘くかすれた声を。

 僕は唾を呑みこんだ。喉が強くごくんと鳴った。もしこれが彼女の耳に届いてしまっていたら。そう思うとなんだか少し恥ずかしい。僕は指で、自分自身の喉仏の輪郭りんかくを確かめた。

 彼女は球体を口許に持っていった。おかしげに軽くキス。真っ赤な舌がゆっくりと球体を舐め上げた。彼女は左目をわずかに見開き、そこに球体をあてがった。おそらく今、瞳と球体がじかに触れ合っている。なのに彼女は、眉ひとつ動かさないでいる。彼女は左手を球体にそっとかさね、ひとつ身震い、そして両手に力を込めた。また身震い。手の甲に青い血管が浮かぶ。また身震い。これじゃダメだね、と、両腕に力が入る。身震い。手首に筋が浮き上がる。身震い。両手が突然、パッと顔から放される。

 彼女は左の目蓋を閉じていた。涙も血も流れてはいなかった。でも僕にはなんとなくわかる――彼女の満足げな顔から――


 彼女は眼窩がんかの中に球体をきれいに収めてしまった。


 それなら、元の左目はどこに行ってしまったんだろう。もちろん頭の中だ。それは頭の中にある。頭の奥で窮屈きゅうくつな思いをしているだろうけど、目は目としてちゃんと物を映してくれている。二つに一つだ。球体が入ってきた拍子にあらぬ方向を向いてしまって、頭の内側を見ている。もしくは異物の侵入にもお行儀よく取り澄まして、正面を向いたままでいる。その、どちらかだ。

 彼女は左目を閉じたままうっすらと笑っている。笑っている? 元からこういう顔なんだっけ?


 彼女は僕の心の準備を待たずにいきなり左目を開いた。


 こんなにも異物の似合う子がこの世に居ていいのかな? 鮮やかに透き通る水色の瞳は仄暗くもあって、見ていると、湖の底を覗いているような気持ちになる。心臓が激しく動いてうまく息ができない。僕には、今の彼女がいちばん奇麗だ。


 僕と彼女の視線が強くぶつかり、これ以上ないほど深く結ばれた。


 その瞬間――お腹の奥がぞわっと沸騰ふっとうした。僕はすぐにさとる。内臓が溶け始めたんだ。全身が下から上に、なのに同時にぶるっと震える。毒の蜜を吸うような、後戻りできない気持ち良さ。ぞくぞくする。このままじゃあ、内臓が溶けてダメになってしまう。だけどあの子のせいでそうなるのなら、僕には嬉しい、かもしれない。

 その時、世界全体に声が響いた。

「ねぇ起きて麻人。濡れたまま寝てると風邪ひくよ? ――おい、こらっ、起きろー!」

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