キーンと耳鳴りがして、僕は自分が目を閉じていることに気がついた。目を開く。濡れたズボンが目に入る。僕の穿いている、学生服のズボン。どうして濡れているんだ? 雨。そう、雨だ。僕は、いや、僕たちは雨宿りをしていて、僕は誰かの話を聞いていたはずで――

「もしかして僕、眠ってた?」

 僕は言った。隣に座っている、誰かに。

「うん」

 と井織いおりが答えた。


 僕たちはベンチに並んで座っていた。出入り口に目をやる。バスは影も形もなかった。視線を戻すと、井織は口に手をあてて「はわわ」とあくびの真似をしてみせた。

 どうやら僕は、井織の話を聞くうちに眠ってしまっていたらしい。

「ごめん。それで、どこらへんから眠ってた?」

「私にもわかんない。だって麻人あさと、ずっとこくこく頷いてたから。だから私、起きて話を聞いてくれていると思ってたんだよ。でも関係ないとこでも頷くからさ、おかしいと思って顔を見たら、麻人、船をいでて」

「ふねを……なんだって?」

「知らない? 『船を漕ぐ』。居眠りしてる人って意味だよ。うとうとしている姿が舟を漕ぐのに似てるから」

「ああ、なるほど」

「子猫を拾ってきた、ってところまでは確実に起きてた、とは思うけど……」

 井織は自信なさげ首を傾げた。

「それで、その子猫はどうなったんだ?」

「どうなったって?」

「結末だよ」

「結末?」井織は目をパチパチさせた。

「いや、だから、独りで生きていけるようになったとか、死んじゃったとか、居なくなったとか――」

「さあ」

「さあ? 居なくなったってことか?」

「ううん。ただ覚えてないだけ」

「いや、だって、世話をするくらい、可愛がってたんだろ?」

「なに熱くなってるの麻人ったら。猫は猫だよ? もしまだ生きているなら、そこらへんの猫みたいに暮らしてるよ。でしょ? ゴミをあさったり、エサ欲しさに人間を付け回したり待ち伏せしたり、暖かい家の中で、猫缶や、人間の食べ物を食べたりして暮らしてる。もし死んでいるなら――」

 車にかれたり? 動物嫌いの人間に毒エサを食べさせられて目を回しながら死んでしまったり? そうじゃなければ、車のエンジンの中に入りこんで眠ってしまったばっかりに、エンジンに巻きこまれてバラバラになってしまったり?

「――雨に濡れて、体を冷やして死んでしまってる」

「え?」

「猫は水に濡れるのが嫌いでしょ?」





 僕たちは孤島の浜辺に腰かけながら、波が砕けるのをぼんやりと眺めていた。生きるための食物しょくもつを探すことに僕たちは疲れ切っていた。それでも僕たちは慰め合っていた。互いの飢えをなんでもないことのように扱って、相手を――それにも増して自分自身を。

 浜辺に転がる僕たち手製のいかだは大昔からそこにあるように風化していた。

「これだけ探し回って誰も居ないなら、きっと人類は滅びちゃったんだね」

 唐突に井織は言った。彼女は海を眺め続けていた。その頬と首筋は日に焼けて赤く痛々しかった。さざ波が意識にのぼって、井織の唇が動きだす。

「世界がこんなことになっちゃうなんて、本当に最悪だね」

 語尾に含みがあった。僕のあいづちを待っているんだろう。

「なに? どうしたの?」

「だけど、不幸中の幸いだったよね」

「どこが? なにが?」

「だって、もし、生き残ったのが女と女、男と男だったら、人類は本当に絶滅しちゃうところだったんだから」思わず漏れた、そんな笑い声がした。僕も井織も笑わなかった気がするけれど。「でも、残念だったね、麻人。彼女と一緒に生き残れなくて」

 僕はうつむき、砂の上に目を落とした。自分の影。

「彼女なんて居ないよ」

 僕は何を言ってる? 居なかったの間違いだろ?

「ふーん。意外。てっきり居るもんだと思ってた」

「それはなぜ?」

「だって、私がどんなにそういう雰囲気だしても、麻人は全然だったから」

 鋭く息を吸う音がして、僕は顔を上げた。

 水飛沫が激しく立っていた。浜辺からそう遠くない距離で。目を凝らす。人が溺れている。長い髪の毛。女の人だ。

 僕よりも早く井織が立ち上がった。井織は砂をまき散らして駆けだすと、近くに転がる大きな石を抱え上げて女の人に向かって放り投げた。時が一瞬止まって、骨の砕けるような鈍い音がした。だけど水飛沫は止まない。二本の腕が必死にバシャバシャ藻掻もがいている。


 突然、井織が叫んだ。

「魚だ! 魚だよ! 麻人も早く手伝って! 早く!」

 そしてまた石を拾い上げて放り投げた。さっきよりも鈍い音がした。それでも水飛沫は止まない。どころかいっそう激しくなっていく。

「魚? 違う。あれは魚じゃない」

 と僕は言った。井織は手を止めて僕を睨みつけると信じられないような大声で怒鳴った。

「なにを言ってるの麻人!? まさかとは思うけど――この期におよんでバラバラになった魚じゃないと食べられないなんてことを言い始めるつもりじゃないよね!? あんなに汚らしい魚でも――今の私たちにとっては貴重なタンパク源なんだよ??」

「違う、魚じゃない、あれは人だよ。もし魚に見えるとしたら、それは光の加減でそう見えているだけだよ」

「だいじょうぶなの麻人!? お願いだからお腹が減りすぎておかしくなっちゃったなんて言わないでよ? 確かに私たちすごくお腹が減ってる、でも、だけど、おかしくなっちゃうほどではないはずだよ。ねぇ麻人、目を覚まして。あれは人なんかじゃない、魚だよ!! ほら、よく見て、ホラアア!!」

「いや、違う。あれは人で間違いない。あれは魚じゃなくて、人なんだよ」

「麻人、少し落ち着いて? もし麻人の目にそう映っているなら、それは光の加減でそう見えているだけなんだよ? なのに、なに言ってんの。人なわけないでしょ? あんなにみにくい動物が――人間なわけないでしょう??」

 らちが明かない。きっと根本からして持ってる感性が違うんだろうな。

 僕に見切りを付けたのだろう、井織は表情をなくして石を投げ始めた。聞きとれないほど割れた声で何かを叫びながらひたすらに。

「あくびは噛み殺さなきゃダメだ」

 僕は近くに転がるひときわ大きな石を抱え上げ、井織の背後に近づいた。そして石を頭上に高く持ち上げた。

 その時、井織の声が弱まって、小さな呟きに変わった。

「違うよ違う私は私のために生まれたわけじゃない、違うのに、絶対にそうじゃないのに」

 僕は渾身こんしんの力で石を振り下ろした。

 石は井織の後頭部にぶつかり、取り返しのつかないような音をさせた。井織は前のめりに倒れ、五度ほど痙攣けいれんして、それきり動かなくなってしまった。

「まあ当然か」

 僕は言った。

「こんなにも重たい石で、あれだけの強さで殴りつけたなら」

 続けて言った。そして地面に石を捨てた。

「やけに明るいと思ったら、今日は雲ひとつないんだな」

 僕は空を見上げて胸いっぱいに空気を吸いこんだ。海の匂いに肺も鼻腔びくうも広がって、全身がスースーして気持ちがいい。


 ねぇねぇ 誰か居る? と、人の声がした。僕は地面に視線を落とした。

 井織のすぐそばに、誰かがしゃがみこんでいた。その誰かは井織の背中を指でツンツンとつつきながら首を傾げていた。その誰かは女性だった。衣服を身に着けてなくて、皮膚もところどころ剥げて、体のあちこちから骨が覗いているけど、女性とわかるくらいには肉が残っていた。頭にだって、長い黒髪がそのまま残っている。

 僕は、こんな人、知らない。でも、感謝しなくちゃいけない。だってこの人は僕に教えてくれた。井織は――事切れた虫けらのように――指でつついても反応を返さないような人間なんだって。『ずっと生きているふりをしていたんだ』って。

 それなら井織は死人しびとのくせに、僕の隣で、その正体を隠すために、ずっと、息を吸う真似事をしていたわけだ。本当にそうか? 井織のことだ、僕に気を遣ってくれていただけなんじゃないのか? 死人なんかと幼馴染だといって、僕が周りに白い目で見られないように。


 女の人が僕を見上げて、にゃあぁ、と鳴いた。

 その口が大きく開いて中から舌が伸びてくる。舌の上には、小さなビニールが乗っていた。ちょうど真ん中で捻じってあって、蝶ネクタイのような形になっている。指で摘まんで手に取ると、微かに甘い匂いがした。おそらくお菓子の包みだったのだろう。

 頭の奥が急にうずいた。ビニールの淡い水色に、見覚えがある気がして。

 どこか遠くで海鳴りがして、また声が聞こえた。


「早く食べよ? 傷んじゃう前に」

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