翌日、井織いおりと初めて言葉を交わしたのは放課後になってからだった。

 昨日から降りだした雨は弱まってきてはいるものの、止む気配はない。

 僕と井織は教室棟と特別棟をつなぐ渡り廊下でばったり会った。僕たち以外には誰も居ない。雨音のせいか話し声が静かに響く。


「そういえばさ」

 と、井織は突然、盛り上がっていたはずの話をぶつりと切った。何かを面白がるように笑っている。

「今日のお昼は調理実習だったでしょ?」

 井織は白い壁に背中をあずけて、下腹部の辺りで指を組んでいた。

「ああたしか、調理実習から居なかったよなお前。まさかサボり?」

「まさか。私はサボらないよ。ただちょっと、具合がわるくて」

「どうしたんだ? 大丈夫か?」

 井織は鼻をすんすんと鳴らして、それから言った。

「ただ熱っぽいだけ」

「大丈夫なのか、こうして話してて」

「うん。今は平気。少し寝たら、ううん、麻人の顔見たら治っちゃった」

「なんだよそれ」

 井織はふふふと笑った。

「やっぱり、昨日の雨のせいか?」

「さあ、どうだろ」

 井織は首を傾げて視線を下げた。そしてまた僕の顔を見て、少し真剣な顔になる。

「それで、何を作ったの?」

「いろいろ」

「いろいろって?」

「ほうれん草とベーコンのソテーと、えーっと、白身魚のムニエル」

「白身? 何のお魚?」

「――思い出せない」

「えー? メインディッシュを忘れるなんて。授業まったく聞いてないじゃん。麻人あさとの方がよっぽどサボりじゃん。ダメだよ食べるばっかりじゃ。自分が今、何を食べてるのかちゃんと理解して、感謝の気持ちを持たなくちゃ」井織はそこで声色を変え、国語教諭きょうゆの真似をしてみせた。「――いいかい麻人くん? 『命』という字はね?――」

「わかった。わかったから……」

「白身魚かぁ。なんだろう。どんな味がした?」

「なんかやけに脂っこくて、ギトギトしてた」

「それは油を入れすぎたんじゃない?」

「かもな」

「麻人は料理したの?」

「少しな。ほとんど女子がやってくれたよ。特に、料理上手だって子が」

「それで料理上手だなんて言ってるんだ?」

 吐き捨てるような井織の声。それで歯茎はぐきに思い出す、柔らかすぎる生臭さ。

「たしか麻人は昔から赤身魚が好きだったよね? 今もそう?」

「え? ま、まあな。でも、どっちも好きだよ」

「そっか」なぜか井織は顔を曇らせる。がすぐにそれが晴れ「あ、そうだ」井織はスカートのポケットから何かを取り出した。「お口直しに、これあげる」

 井織は僕の掌の上にポンと何かを置いた。

 まるくて小さな何かが水色の包みにつつまれていて、両端の余ったところが捻じってある。

「飴玉?」

「そ」

 井織の浮かべた表情に、僕はなぜかゾクッとする。

「何味?」

「さあね。私もまだ食べてない。ついさっきね、先輩から二つ貰ったの。なんでもね、特別な成分が入っているから特別に美味しいんだって。上級生のあいだで流行ってるらしいよ」

「そうなんだ」

「うん、だから一緒に食べよ?」

 井織の声は優しかった。けれど、そうしなきゃ許さないというニュアンスが込められていた。スカートのポケットからもうひとつ飴玉が出てくる。僕たちは揃って飴玉の包みを広げた。


 飴玉は水色に透き通っていた。こんなに奇麗な飴玉、生まれて初めてだ。

 ガラスのように透き通る飴玉の中では、細かな泡が生まれた瞬間に時を止めて輝き、中心の核も一段暗く僕たちの掌を透かしていた。

 井織から先に口を開いた。

「奇麗だね。まるで宝石みたい。なんだか食べちゃうのがもったいないくらいだ。麻人も今、そう思ってるでしょ?」

「ああ、でも、食べなきゃダメなんだろ?」

「ダメなんてことはないよ。――でも、食べよ? 作ってくれた人に感謝しながらね? じゃなきゃ、罰が当たるかもしれない」


 僕は、僕たちの飴玉に目を移した。よく見れば見るほど、本当に食べ物なのか怪しく思えてくる。鼻をくすぐる甘い匂いがなければ、僕はきっと、これを口にする勇気は持てないだろう。

 息を吸ったのだろう、井織のお腹が急に大きく膨らんだ。

「毒見してあげる」

 井織は自身の掌に口をつけ、犬食いのように飴玉を口にした。井織は背筋をぴんと伸ばし、そっと目を閉じた。下顎と頬が少し動いて、歯と飴玉のぶつかる音がした。カラ。カラコロ。カラ。両目、口の順で開かれた。

「うん、美味しい。確かに少し、大人の味かも、しれないね。子供には少し早いかもなー」

 井織はそう言って挑発的な顔をしてみせた。いいよ井織。べつにそんな顔しなくても。飴玉くらいいくらでも舐めてやるから。

 僕は飴玉を摘まみ上げて口の中に放りこんだ。

 不思議な味だった。

 バニラとハッカの味がして、あとから微かにお酒の香りがした。そしてその奥にまたべつの味があった。僕は目を閉じて味覚に集中した。けれど味の正体はわからなかった。ただなんとなく思うのは、僕をいちばん惹きつけるのはこの味だということ、そしてそれは、本当は口にしてはいけなかったんじゃないか、ということだけだった。

 突然辺りに異音が響いた。

「がり、ぱきっ。がりがり、ごくん」

 僕は目を開いた。

 井織の姿がなかった。

 すぐに周囲を見渡す。

 井織は窓辺に立ち尽くして、外を眺めていた。肩を並べて僕も外を見た。

 外の怖ろしさに、僕は思わず吹き出しそうになる。

 空が決壊でもしたのかな? ぶくぶくに太った大粒の雨が次々降って、視界のすべてを埋め尽くしていた。

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剥がして食べなきゃいけないんだよ 倉井さとり @sasugari

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