7
翌日、
昨日から降りだした雨は弱まってきてはいるものの、止む気配はない。
僕と井織は教室棟と特別棟をつなぐ渡り廊下でばったり会った。僕たち以外には誰も居ない。雨音のせいか話し声が静かに響く。
「そういえばさ」
と、井織は突然、盛り上がっていたはずの話をぶつりと切った。何かを面白がるように笑っている。
「今日のお昼は調理実習だったでしょ?」
井織は白い壁に背中をあずけて、下腹部の辺りで指を組んでいた。
「ああたしか、調理実習から居なかったよなお前。まさかサボり?」
「まさか。私はサボらないよ。ただちょっと、具合がわるくて」
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
井織は鼻をすんすんと鳴らして、それから言った。
「ただ熱っぽいだけ」
「大丈夫なのか、こうして話してて」
「うん。今は平気。少し寝たら、ううん、麻人の顔見たら治っちゃった」
「なんだよそれ」
井織はふふふと笑った。
「やっぱり、昨日の雨のせいか?」
「さあ、どうだろ」
井織は首を傾げて視線を下げた。そしてまた僕の顔を見て、少し真剣な顔になる。
「それで、何を作ったの?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「ほうれん草とベーコンのソテーと、えーっと、白身魚のムニエル」
「白身? 何のお魚?」
「――思い出せない」
「えー? メインディッシュを忘れるなんて。授業まったく聞いてないじゃん。
「わかった。わかったから……」
「白身魚かぁ。なんだろう。どんな味がした?」
「なんかやけに脂っこくて、ギトギトしてた」
「それは油を入れすぎたんじゃない?」
「かもな」
「麻人は料理したの?」
「少しな。ほとんど女子がやってくれたよ。特に、料理上手だって子が」
「それで料理上手だなんて言ってるんだ?」
吐き捨てるような井織の声。それで
「たしか麻人は昔から赤身魚が好きだったよね? 今もそう?」
「え? ま、まあな。でも、どっちも好きだよ」
「そっか」なぜか井織は顔を曇らせる。がすぐにそれが晴れ「あ、そうだ」井織はスカートのポケットから何かを取り出した。「お口直しに、これあげる」
井織は僕の掌の上にポンと何かを置いた。
まるくて小さな何かが水色の包みにつつまれていて、両端の余ったところが捻じってある。
「飴玉?」
「そ」
井織の浮かべた表情に、僕はなぜかゾクッとする。
「何味?」
「さあね。私もまだ食べてない。ついさっきね、先輩から二つ貰ったの。なんでもね、特別な成分が入っているから特別に美味しいんだって。上級生のあいだで流行ってるらしいよ」
「そうなんだ」
「うん、だから一緒に食べよ?」
井織の声は優しかった。けれど、そうしなきゃ許さないというニュアンスが込められていた。スカートのポケットからもうひとつ飴玉が出てくる。僕たちは揃って飴玉の包みを広げた。
飴玉は水色に透き通っていた。こんなに奇麗な飴玉、生まれて初めてだ。
ガラスのように透き通る飴玉の中では、細かな泡が生まれた瞬間に時を止めて輝き、中心の核も一段暗く僕たちの掌を透かしていた。
井織から先に口を開いた。
「奇麗だね。まるで宝石みたい。なんだか食べちゃうのがもったいないくらいだ。麻人も今、そう思ってるでしょ?」
「ああ、でも、食べなきゃダメなんだろ?」
「ダメなんてことはないよ。――でも、食べよ? 作ってくれた人に感謝しながらね? じゃなきゃ、罰が当たるかもしれない」
僕は、僕たちの飴玉に目を移した。よく見れば見るほど、本当に食べ物なのか怪しく思えてくる。鼻をくすぐる甘い匂いがなければ、僕はきっと、これを口にする勇気は持てないだろう。
息を吸ったのだろう、井織のお腹が急に大きく膨らんだ。
「毒見してあげる」
井織は自身の掌に口をつけ、犬食いのように飴玉を口にした。井織は背筋をぴんと伸ばし、そっと目を閉じた。下顎と頬が少し動いて、歯と飴玉のぶつかる音がした。カラ。カラコロ。カラ。両目、口の順で開かれた。
「うん、美味しい。確かに少し、大人の味かも、しれないね。子供には少し早いかもなー」
井織はそう言って挑発的な顔をしてみせた。いいよ井織。べつにそんな顔しなくても。飴玉くらいいくらでも舐めてやるから。
僕は飴玉を摘まみ上げて口の中に放りこんだ。
不思議な味だった。
バニラとハッカの味がして、あとから微かにお酒の香りがした。そしてその奥にまたべつの味があった。僕は目を閉じて味覚に集中した。けれど味の正体はわからなかった。ただなんとなく思うのは、僕をいちばん惹きつけるのはこの味だということ、そしてそれは、本当は口にしてはいけなかったんじゃないか、ということだけだった。
突然辺りに異音が響いた。
「がり、ぱきっ。がりがり、ごくん」
僕は目を開いた。
井織の姿がなかった。
すぐに周囲を見渡す。
井織は窓辺に立ち尽くして、外を眺めていた。肩を並べて僕も外を見た。
外の怖ろしさに、僕は思わず吹き出しそうになる。
空が決壊でもしたのかな? ぶくぶくに太った大粒の雨が次々降って、視界のすべてを埋め尽くしていた。
剥がして食べなきゃいけないんだよ 倉井さとり @sasugari
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