僕は念のためにバスの時刻表を確認した。次のバスが来るのはずっと先だった。予想してはいたが少しがっかりだった。

 僕たちは今、バス停の待合室の中で雨宿りをしている。待合室は外も中もボロボロだった。待合室じゃなく小屋といった方がしっくりくる。人なんかよりも農具の方がずっと似合いそうだ。でも、雨をしのげて腰を下ろせるベンチまであるここは、今の僕たちには救いの場所だ。文句なんて言ったら罰が当たるかもしれない。


 雨は、井織いおりけをしてからまもなく降りだした。

 井織の予想は見事的中したわけだ。井織は喜ぶのだと、僕は思っていた。『ほらね、言った通りでしょ? 私の勝ちだね』なんて言って満面の笑みを浮かべるのだろうと。けど実際はそうじゃなかった。「お前の言う通りになったな」と僕が声をかけても、井織は、うん、そうだね、と素っ気なく返すだけだった。


 予報では今日は一日快晴のはずだった。本来は降るはずのない雨なんだ。だからこの雨はすぐにも止む、そう願って雨宿りを続けているけど、雨は強くなっていくばかりだった。

 僕たちは少しだけ雨に濡れてしまっていた。二人ともタオルを持っていて、それで髪と体を拭くことができたからまだよかった。けれど、このままではいずれ風邪を引くだろう。両親たちに電話をしてみたが迎えには来られないようだし、どこかで見切りをつけて、雨のなかを帰ることも考えないといけないだろう。バスは……論外だ。


 何かがきしんだ音がして、僕は顔を上げた。待合室の中には僕たち以外誰も居ない。壁ぞいに並ぶベンチはどれも取り澄ましている。僕たちの座るベンチが音を立てたのだろう。井織が身じろぎでもしたんだ。それでなくても古いベンチだ。勝手に軋んだっておかしくはない。壊れやしないだろうかと少し不安になる。

 僕は井織に目を向けた。

 井織の頭はペチャンコになっていた。いつもはふんわりしているボブカットが、雨のせいで潰れて頭に貼りついている。なんだか捨て犬みたいだ。普段ならそれをからかうだろうけど、とてもそういう雰囲気じゃなかった。

 井織の様子は、どこかおかしかった。

 緊張しているように落ち着きがない。かと思えばさとったような笑みを見せたり。


「ねぇ、前から聞きたかったんだけどさ」突然井織は言った。僕を見ずに目を伏せたままで。

「どうした?」

麻人あさとはどうして、私に対してだけ『俺』を使うの?」

「そんなことないだろ」

 と反射的に答えはした。だけど――井織の言う通りだった。僕は確かに他人や先生たち、井織以外の女子たち、仲のいい友だちの前では自分自身を指して『僕』と言っている。両親の前でなら『俺』を使うこともある。けどそれも滅多にない。『俺』を使うのはほとんど井織に対してだけだった。

「もしかして、嫌だったか?」

「ううん、嫌とかじゃないよ。ただ――」

「ただ?」

「どうしてなのかなって。その理由を知りたいだけ」

 井織の言葉にはどこか棘があった。

「なんで?」軽く言ったつもりだった。でも僕の声はやけに響いた。

 井織は少しして、「なんとなく」と答え、「で、どうなの?」と続けた。

「ん、それは、それだって『なんとなく』だよ」

 僕の答えに井織は目蓋を歪ませた。あからさまに不機嫌な表情。井織のこんな顔、初めて見る。


 頬に風を感じて僕は正面を向いた。待合室には扉もないから、出入り口付近は雨でびしょびしょになっている。僕はそのまま外に目を移す。

 地面に跳ね返る雨の飛沫しぶきが、膜のようにアスファルトをつつみこんでいた。遠くの景色は掻き消えて、道路の向こうも雨にぼやけている。外の風景は現実感が薄かった。まるで絵でも見ている気分だ。さびれた田舎の絵。誰も居ない風景画。雨降りの絵。

 突然すぐそばで息を吸う音がした。驚いて、僕は一瞬動けない。顔を向けると、すぐ近くに井織の顔。僕を見ている。

「雨がそんなに珍しい?」

 井織の顔は、中間の顔だった。無表情とも違う中間の顔。いくつかの感情が混ざり合って、その末どれでもないものに落ち着いてしまった、そういう表情。


 僕は止めていた息を吐いた。井織はうっすらと笑みを浮かべた。いや、作ったんだ。これは作り笑顔だよって僕に伝わるように。

「私がほかの人と違うから? それとも麻人の中で何か区別があるってこと?」

「同じことじゃないか?」

「同じじゃないよ、全然違う」

「どうしたんだ井織、ちょっと怖いぞ」

「そんなことない。麻人の方がずっと怖いよ」

 意地を張るように井織は言った。内心僕はほっとした。井織の普段の口調で、顔だったからだ。

「なにムキになってんだよ。子供じゃないんだから」

 からかうように言ったが僕の声は乾いていた。

「ごめん、そうだね。だからって、まだ大人でもないけどね私たち」

 それきり僕も井織も何も言わなくなった。

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