井織いおりうつむいたまま、自分の爪や掌をいじったりなぞったりを繰り返していた。僕の方はといえば、待合室の中や外をぼんやり眺めたり、井織の様子をうかがったり。

 待合室は不自然なほど古びて見えた。使われている材料は最近の物のようなのに――あえて誰かがそうしたように――全体が傷んで風化していた。


 井織がまた掌をなぞりだす。軽くスラスラと動いていた指に突然力が込められた。掌が深くヘコむ。指はそのまま線をえがいていく。ゆっくりと、強引に。その動きからなんとなく、井織は掌に文字を書いているんじゃないか、と思いつく。すると途端にそうとしか思えなくなる。ためしに指の動きを追ってみる。すると実際に文章が読みとれてしまった。



  麻人もやっと気がついたみたいだね


  ここが、ありえない場所だってことに



 これはきっと僕の思いこみだ。こんな回りくどいこと、する必要がないんだ。ここには僕と井織のほかには誰も居ないんだ。口を利かない理由はひとつもない。これは僕の妄想だ。そうに決まってる。おそらく僕は沈黙を嫌って、何でもいいから話したくて、言葉を探していて、それで井織の掌にありもしない文章を見てしまったんだ。

 井織と居て、喋ることがなくて困るなんて初めてのことだった。思いつく言葉すべてが場違いに思えた。だけど僕はもう、沈黙に耐えられなかった。


「すごい雨だな」

「そうだね」

 井織は自分の両手を見つめたまま、十本の指をぎこちなく動かしていた。まるで動作の確認でもするように。そのまま井織は言った。

「だけど、あの日に比べたら全然だよ」

「あの日?」

「あれっ、もしかして覚えてないの?」井織は指の動きを止め、顔を上げてこっちを見た。「ほら、小学生の頃」、ね? これで思い出せるでしょ、そんな表情。「川の近くの小屋」、嘘だよね? と問いかけるような顔。「捨て猫」、答え合わせをして満足げな表情。でもすぐに真顔に変わる。「嘘でしょ? ホントに覚えてないの?」井織はそう言うと、口を結んで僕の顔をじっと見つめた。


「ごめん。なんのこと? 猫?」

 本当に何のことかわからなかった。

 僕たちは少しのあいだ見つめ合っていた。

 そうするうちに井織は鼻息を薄く漏らし、さみしそうに笑った。

「まあそうだよね、昔のことだもん」

 そして井織は、何も知らない僕の手を引くように、ニッコリと笑ってみせた。

「まったくしょうがないなー、教えてあげるよ。あんな特別なイベントを忘れちゃうなんて、麻人らしいといえば麻人けどさ。だけど、あんまりぼんやり生きてると、人生損だよ? まあでも、ちょうどいい暇潰しかもしれないね。私が時間を進めてあげる」

「時間を進める?」

「そう。何にもしないでぼんやりしてると時間が止まっているように感じるけど、何かをしていると時間はあっというまに流れていくでしょ? それなら、今ここで何かを話すってことは、時間を進めることになるんじゃない?」

 井織の言いたいことはなんとなくわかる。だけど何かが引っかかる。

「時間が進むのは、良いことか?」

「だと、思うよ。『生きてるー』って感じがするし」

「生きてる?」

「自覚ってやつだよ。『私は今、ちゃんと生きている』みたいな。ちょうどいい速度で時間が進んでいるとき、私はそう感じる。ビュンビュンでもノロノロでもなく、スーーっとしてるとき。そのとき『ガチャン』って音がして、私はホントの私になれる気がする」

「わかるけど……なんか擬音ばっかだな」

「いやいや擬音を侮っちゃダメだよ。極端にいえば、この世のすべては擬音で表現できるんだから」

「そりゃそうだろうけど、極端にいえばなんだってありになるだろ?」

「極端にいえば、ね? それはともかくさ。もしも、誰かの物語が、ほかの誰かの止まった時間を進めるとしたら、意味のない物語なんてないのかもしれないよね」

 井織はそこで少し間を置いた。井織はたぶん、僕に何か言ってほしかったんだ。

「こんなに便利な世の中でも、みんな毎日忙しくしてるよね。きっとその気になれば、もっとのんびり過ごせるんだと思う。でもそうしないのは『あえて』なんだよ。みんな、忙しくて暇がないとか、世の中ちっとも良くならないとか、文句ばかり言ってるよね。だけど、心の中ではちゃんとわかってるんだよ。あんまりのんびり過ごし続けていると、いつか自分がおかしくなっちゃうってことをね」

 それきり井織は口を閉じて、思いつめた表情で外を見ていた。

「井織、大丈夫か?」

 僕は小さくささやいた。なのに井織は体をビクッと震わせた。

「えっ、何? いったいどうしたの麻人……? すごい顔になってるよ?」

 言われて僕は自分の表情を意識した。

「いや、そんなことないだろ」

「そんなことあるよ。今だってそうだよ。すごい顔だよ」

「すごい顔ってなんだよ」

「すごい顔はすごい顔だよ。まるで別人みたいだもん」

 子供みたいな口調でも、井織の表情は真剣そのものだった。

「思えば、あの日の麻人もこんなだった。すごく真剣で、ちょっと怖いくらいで。それだけあの子猫のことが心配だったんだね。たぶん、あの時が初めてだった」

「初めてって? 何が?」

「麻人のこと、カッコいいかもしれないって思ったのは」

「な、なに言ってんだよ、お前……」

「ホントだ。なに言ってるんだろうね私。自分でも今、そう思ったよ」

 井織は力を抜いて微笑んだ。

 そして、彼女のいう『あの日』のことを話し始めた。

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