雨のプロメテウス

B3QP

 時は文化八年。湿り気を帯びた風を嗅ぎ、蛙たちが一斉に騒ぎ出した。その声を聞き、朝倉まきは畔道あぜみちに飛び出す。手には竹傘。向かうは心斎橋にある橋本曇斎どんさい先生の私塾、絲漢堂しかんどう


 しかしその前に、五郎丸の屋敷に寄らねばならない。明け六つの曇天が黛青たいせいに染まり始めると、まきの足取りは益々と軽くなった。


「おはようさん。雨、降りまんな」

「ああ、おまきさん。雲に琥珀の気が満ちるのを感じます」

「ええ匂いや。行きまっか」


 傘を天に掲げ、まきは先を切って歩き出す。竹の間に張られた和紙には、曇斎先生の手による文様が見える。少年は小走りで後をついてきた。


「弁当はなんや、五郎丸」

「握り飯と小魚でございます」


 この黒田五郎丸は武家の子である。かつて曇斎先生は、寺子屋、旭昇堂にて百人嚇ひゃくにんおびえの実験を行った。ライデン瓶に溜めた静電気を放ち、手を繋いで輪になった子供達に一斉に電気を流すヱレキテルの実証実験である。その時、まきの左手を繋いでいたのが、この少年だ。


 電流が走ると、二人はしばらく見つめあっていた。彼は少し怯えながら、長い睫毛の下のまなこに涙を浮かべていたように見えた。世話を焼きたくなったのだ。酒蔵の娘である自分より身分は上だが、気弱で礼儀正しい子だった。


 その後、寺子屋でつるんでいた二人はそれぞれの能力を買われ、曇斎先生の研究を手伝うようになった。まきは語学に優れ、漢語と阿蘭陀オランダ語を読む。一方の五郎丸は算術に秀でていた。この歳ですでに塵劫記じんこうきを解き、天元術だけでなく関孝和せきたかかずの傍書法をも理解している。お互い、他に友達はいなかった。


 絲漢堂には中天游なかてんゆう伏屋素狄ふせやそてきらが出入りし、蘭書の翻訳を行なっていた。しかし、五郎丸はある実験に夢中だった。そして、雨が降るのをずっと待っていたのだ。


「曇斎先生、今日は雷雨となりましょう。天の火を盗りに参りたく、中家邸宅に入れませんでしょか」

「今日はあかん」

「ほいだら、おまきさんの酒蔵の前でええですか。あの針金を貸してください」

「雷が魄力なことは明らかやで。何をこだわっとるんや」

「その力、溜まり方を解く術式を思いつきました」

「ほんまか。……やってみてもええ。気いつけるんやで」


 五郎丸は両手に針金と板を抱え、弱々しい体をふらつかせながら、窓際で蘭書と向き合っていたまきに駆け寄った。満面の笑み。


「おまきさん。家の前の田んぼに松があったでしょう」

「おい、うちにくるんか?」

「いけませんか?」

「……かまへん。付きおうたるわ。二人要るんやろ」


 二人は元来た道を引き返すことになった。「天の火を盗る」とは、曇斎先生が中喜久太なかきくたと行った実験のことだ。松の枝に括り付けた針金を垂らして握り、地には気を遮るための木箱を置いて立ち、空気中の雷を捕える。木箱に乗った実験者のかたわら、地面にもう一人が立ち、二人が指先を近付けることで、そこに琥珀の気が走るのを感じることができる。


「おまきさん、楽しみですね」

「なんや、悪いことしてる気もするんやけどな」


 曇斎先生は「取る」と書いたが、まきはこれを「盗る」と書く。五郎丸も実験の記録をまとめる際には、その表記に従った。


「何を悪いことがありましょう。刹那の閃光の力を解き明かし、それをこの手で自在に操れるかもしれぬのです」


 五郎丸は少し不満げにまきを見上げる。明瞭には説明できない。その折、雨が降り出した。お互いに傘を広げると、五郎丸の気色を見遣みやることはもうできなくなった。それでも、まきは思案していたことを口にしてみる。


「なんちゅーんやろな。雨よりも、雨が降る前の匂いが好きなんよ。火花が散ることよりも、それを待ち望む感じがええ。ほんで、それが散ってしまった後で、夢か幻か分からんくなるような感じがええんや」

「今朝、雨雲を見た時は期待で胸がいっぱいでした。しかしそれは、その先にある、全てを明らかにすることへの期待でございます」

「五郎丸は、そうやろな」

「お聞きください。気の流れが鈍くなる力があるのです。その量を、算術により導きます。そして、おまきさんには、指先でそれを証明してほしい」

「んーとな。なあ、これ、今朝書いたんや」


 まきは五郎丸に漢字で埋められた雁皮紙がんぴしを手渡した。傘の向こうから手を伸ばし、彼はそれを受け取る。


「達筆ですね。漢文は読めませぬ」

「侍の子やろ。算木で遊ばんと、四書五経を読めや」

「読み下してください」

「恥ずかしいわ」

「む。風、松、雨、心……。心とは何のことです?」

「解き明かしたらあかんものや」

「そんなものが、この天地の間に、あるのですか?」


 足元が濡れるほどの雨量となってきた。二人は酒蔵の前の大きな松の前に立つ。五郎丸は竹傘を地に放り、夢中で針金を枝に括り付ける。


「ずぶ濡れやないか。風邪ひくで」

「ヱレキテルの実験によれば、濡れた肌の方が、乾いた肌よりも、気の流れをはばむ力が弱いのです。計算に入れとります。おまきさんは、気にせんといてください」

「そないなこと言うたらなあ」


 まきも傘を放り投げ、針金を巻くのを手伝った。土砂降りの雨を吸い込んだ薄手の着物が、肌にべっとりと張り付く。まるで服を着たまま道頓堀川に飛び込んだかのようだ。見ると五郎丸の幼い身体には、筋肉と骨の線がくっきりと浮き出ている。きっと五郎丸からも、まきのそれが見えているのだろう。周囲で忙しなく鳴き続ける蛙たちが、二人をはやし立てているような気がした。


「おまきさん、止めたのに」

「もうどうでもええわ」


 雷鳴が轟く。五郎丸が設定した条件に従い、実験は複数回行われた。その都度、まきは人差し指に感じた火花の強さを伝える。一番強い時には、身体中に痺れが走り、指が火傷を負ったかのようであった。頭の後ろ側にまだ奇妙な感覚が残っている。濡れたまま震えながら、目の前の男の指先にすら触れていない。それが唐突に、もどかしくなる。


「なあ、さっきの痺れ方、あれの時みたいな感じせえへん?」

「あれの時とは?」

「やから」


 まきは五郎丸の手を掴み無理に引き寄せる。彼はその勢いで木製の台から、泥濘ぬかるみに堕ちた。


「これでは琥珀の気が地に流れてしまう。いま雷が落ちたら死にます」

「せやろな。ほいだら針金を遠ざけてや」

「本当に死にますよ」

「うちはかまへん」

「……おまきさんは、寺子屋を出たら、心斎橋の呉服屋に嫁ぐと聞きました」

「なんや、知っとったんか」

「なので、生娘きむすめのふりをしなければいけません」

「……針金、そのままでええんか」

「きっと落ちませんよ」

「蛙たちが見とるわ」

「そうですね」


 水無月の雨は次第に強くなり、二人は畔道から湧き上がる薄煙に包まれた。蛙たちは鳴き続け、雷は落ちなかった。




 文化十年、橋本曇斎先生は実験の成果を纏めた『阿蘭陀始制ヱレキテル究理原』の出版を願い出たが、幕府の意向により却下される。徳川家斉の治世の元、蘭学者は禁を破る危険分子と看做みなされていた。


 文政十二年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが伊能忠敬の手による地図を国外へと持ち出そうとしたことが密告されると、蘭学者数十名が連座して処分される。時を同じくして、曇斎先生は絲漢堂を閉鎖し失踪した。


「ばあちゃん、その話、ほんまやったらえらいことやで」


 時は明治二十二年、大阪電灯が開業し、朝倉まきの住んでいた酒蔵の前の畦道は、消えない電気の光で照らされていた。病床に横たわるまきに向かい、孫娘が大袈裟にまくし立てる。


「ゲオルク・オームが電流と電圧と抵抗の関係を発見したのが西暦で1826年。それよりも十年以上前のことやないか。その五郎丸はんの記録が出版されとったら、歴史が変わる大発見や。この大日本帝国の科学力が、獨逸ドイツを超えとったんや!」


 実際には、オームの法則は英国のヘンリー・キャヴェンディッシュにより1781年に証明されている。しかし、そのことは明治時代には知られていない。まきは皺だらけの人差し指を撫でながら、静かに天井を見上げていた。


「大したことやない。ガキの遊びや。書物になったかどうかとか、誰が一番先やったとか、どうでもええやないか。誰にも知られんで世界一のことをやっとるやからなんて、なんぼでもおるわ」

「なんでやー! その記録、ばあちゃんは持っとらんの?」

「全部、渡したままやったわ」

「ほいで、五郎丸はんはどないなったん?」

「元服前の侍の子やで。よう知らん名を継いで、鳥羽伏見で斬られたわ」

「朝敵やったんか。そら残念やな。でも、好きやったんやろ?」

「さあ、どうやろなあ……」


 まきには分からない。しかし今でも、雨の予感がするたびに、あの時のことを思い出す。


「……希臘ギリシアでは、天の火を盗んだプロメテウスは予見の神様で、パンドラの匣を開けたエピメテウスは後悔の神様なんやってなあ。二人は兄弟やけど、なんでその間はおらへんと思う?」

「ばあちゃん、急に何を言うとるんや」

「なあ、あの大阪電灯の街灯は、ずっと点きっぱなしなんやろか? 輪郭線が強すぎるわ」

「ばあちゃん? しっかりしてや」

「すまんな、少し寝かしとくれ」




 文化九年、まきが寺子屋を出て嫁に入る前、もう一度だけ、水無月がやってきた。寝覚めの漠然とした意識の中で、蛙たちの声を聞いた気がする。あの日の朝と同じように、まきは竹傘を片手に、酒蔵の前の畦道に飛び出した。


 やはりそうだ。雨の匂いがする。蛙たちも騒ぎ出している。絲漢堂に赴く前に、五郎丸の屋敷に寄ろう。まきの足取りは益々と軽くなる。門の前に五郎丸が立っているのが見える。


「おはようさん。雨、降りまんな」

「ああ、おまきさん。おはようございます」

「今日は、天の火を盗りまっか?」

「実験はとっくに終わりましたよ」

「ほか。まあええ。絲漢堂に行くやろ?」

「そうですね。行きましょう」


 並んで心斎橋に向かって歩く。まだ雨は降らない。そのうちに、五郎丸が俯いたまま口を開いた。


「おまきさん。呉服屋の、良うない噂を聞きました」

「はは。つらは悪うない。五郎丸みたいな優男やさおとこやないで」

「乱暴な人やとか」

「許嫁や。気にしとらん」

「そうですか」


 再び二人は黙り込む。今度はまきから声をかけた。


「そういや、曇斎先生の本はどうや? 中家邸宅の実験を上書きしてもろたんやろ?」

「分かりません。幕府の天文方てんもんがたが出版に前向きではないと聞いとります。それに……秘密にしとることも、ありますゆえ」

「せやな。何でもつまびらかにすればええもんでもないわ」


 街に出ると蛙の声は聞こえなくなる。賑やかな心斎橋の人だかりが見えてきた。雨の予感に傘を手にしている者も多い。


「ああ、おまきさん。漢詩、読めましたよ」

「……なんや。読めんと思うて崩したのに」

「良い五言絶句ですね。苗と下の韻は微妙やけど」

「おい、人前で見せんといてや。持っとったんか」

「いつも懐に仕舞っとるのです。元服しても、忘れませぬ」

「……ほか。なら、大事にしてや」


 黒田五郎丸は、鳥羽伏見で斬られ落命したと聞く。死のきわにも、懐にこの詩をたずさえていたのだろうか。


 嘯風潤青苗 嘯風しょうふう青苗せいびょうを潤し

 雷霆振松蔭 雷霆らいてい松蔭しょういん

 願随立雨下 願わくは雨下うかしたがいて立つを

 何日知吾心 んの日か知らんが心を


 曇天は黛青に染まり、湿り気を帯びた風が、大阪の街を吹き抜ける。やがて、雷雨になるだろう。

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