短編「梁を繞って」に対して、四つもレビューコメントを頂いてしまいました。僕のカクヨムのアカウントでは滅多にないことで、たいへん嬉しいです。ということで、追加でお礼の近況ノートを書きます。
【梁を繞って・本編】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/episodes/822139843952263707
といっても、前回、最初に頂いた青出様のレビューに対し、細かく執筆の経緯を書いてしまいました。作者自身の見解を書きすぎるのも良くないので、今回はなるべく短めに返信したいと思います。
【祐里様レビュー】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/reviews/822139844199426343
まず、本作の執筆の機会を与えていただいたことに感謝します。祐里さんとの会話の後で考えたことは、前回のノートに書いた通りです。
レビュー冒頭で、内容紹介を丁寧に書いて下さり助かります。僕が紹介欄に本編の内容を全く書いていなかったので、祐里さんのレビューに触れて初めて読んでくれた方もいたと思います。本当にありがとうございます。
レビュー後半に連ねられた疑問文は、このお話が、思索すべき問いを残すような形で届けられたように感じられ、これもまた嬉しいです。
一点、「脳」についてコメントがあったので、二人のキャラクターについて──これは少し無理矢理だし、書かない方がいいかもしれないことですが、少しだけ解釈の幅を広げさせてください。当作は、リエの一人称で語られていて、彼女は自身を妄想性障害「である」とは自称しておらず、「手帳を持つ」「診断された」と言っています。ヒサトもについても、「高次脳機能障害と聞いている」と伝聞形でしか書かれておらず、つまり、二人とも詐称している可能性も残っているつもりです(ヒサトは過去に何らかの「悪いこと」、加害行為を行なっており、彼らは単なる被害者ではなく、この話は「下層階級の純粋な心を持つ人々が権力に虐げられている」という構図にはならない)。この二人の過去について、他にも様々な「ありえる解釈」を書こうとしたのですが……長くなりすぎたのでやめておきます。
ただ、祐里さん由来の小ネタがあるので、これは書かせてください。リエが右手の人差し指を傷つけていたことから、カッターを左手で使っていた=左利きであることが暗示されていて、ヒサトも右半身の動きがぎこちない=左利きであることが暗示されています。なので、左利き同士の彼らが、他のメンバーとぶつからないように、検品チーム内でも近くで作業することになり、そうやって本作内の交流が開始したのかもしれません。この設定は、祐里さんと僕がともに左利きであるとXで会話したことが元ネタになっています。
【天川様レビュー】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/reviews/822139844695231668
会話文の文学としての演じ方についてのコメント。これは嬉しいです。ヒサトの似非関西弁はまだ会話っぽさを出そうとしているのですが、リエについては、一人称の思考をなぞったような台詞を言っており、梁塵秘抄の歌番号を覚えているのは流石に無理があるかもしれません。ただ、今回はだいぶ文芸っぽく飾ろうとした作品でしたので、そこをメリットと捉えて頂けたとしたら光栄です。
また、後半にいただいた、「解釈を何度もひっくり返すかもしれない」というお言葉が一番嬉しいです。
個人的な嗜好として、文学は、簡単に結論の出ない問題について書こうとするもので、結論を出すこととは異なるという思いがあります。ハイデガーにとって哲学の本質は「問いを立てること」でした。僕は学生時代にハイデガーを専攻していたので、彼の『存在と時間』に沿って、より厳密な用語で書くべきかもしれませんが……これも長くなりそうなのでやめておきます。
とにかく、僕は、「文学は問いを残すべきだ」と思っています。いや、「べきだ」というと、そうではないものの批判になるので、これまた望ましくない表現です──そしてまたこのようにして断定を避ける──そうして、「文学は問いを残すべきなのかどうか、僕には分からないが、少なくとも僕はここでその問いを立てたい」という態度をとる──そういう遠回しな言い回しの中に、まだ残っている芯がある時に、それを文学と呼ぶのではないかなあ、と思う今日この頃です。
衒学的作風の作家さんの中には、矛盾を書いてケムに巻けば文学的だと思っているような人もいるかもしれないのですが、僕は、それだけでは足りないと思っていて、前述の、まだ残っている芯──その思考の枠組みによって提示される一種の倫理観のようなもの、そういうものが宿る文章を書きたいと思っています。
ここで注意が必要なのは、天川様も書かれているように、話し言葉は本来、書き言葉とは異なるということです(レビュー冒頭の映像化の例え話は秀逸でした)。
書き言葉による概念操作は、文系学問(前述のハイデガー哲学など)によって行われ、大学で教えられ、知識階級の差別意識を生みます。ヒサトは梶井基次郎の『檸檬』を、そのような書き言葉、文系学問の本棚を爆破しようとしたものと解釈している。それに対し、話し言葉、『梁塵秘抄』のような市井の人々の声があり、リエはそれに惹かれている──そう読もうとすると、この話は、文系学問の権威に対する反発がテーマになるのですが、その権威に反発しているはずの彼らは、デリダ哲学用語を使い、まさしくその文系学問の権威を纏って、その反発を衒学的に語っているわけです。言ってみれば、この矛盾が、僕の立てた問いの構造なのだと思います。
本作の主人公たちは、そのような学問を学びながらも、「なーんにもならんかった」、氷河期世代の「文系の」ブルーワーカーです。彼らは、文系学問の権威を「遊び」として話している。彼らは「文化大革命」を起こそうなどと思っていない。ただ、少しだけイタズラをする。その子供の遊びが、彼らを笑顔にする──古代中国の盲目の歌手である虞公の声が梁の塵を動かしたように、あるいは、物乞いの女性である韓娥の歌声が三日も梁に残ったように、たった三日間だけ、彼らの会話の余韻は物流倉庫の天井の梁を繞る──リエはこの物語のあと、恐らくシャワーを浴びて眠り、三日目の朝に、また物流倉庫に行くでしょう。そこにヒサトがいるかは分からない。彼は本当に退職しており、もういないかもしれない。そして四日目以降には、リエは検品チームの別のメンバーと、別の話をしているかもしれない。または、出荷されたシャツが問題になっているかもしれない──しかし、この物語の最後には何か幸福があったのではないか。それは平安時代から、あるいは本作の一番古い参照先である春秋戦国時代から続く、人類が持っている幸福の一形態なのではないか。それは、もしかして、文系学問の権威が歴史を語り継いだことによってもたらされたのではないか。そのようなことを書こうとしたつもりです。
いや、僕自身も、こんなことを書きつつも、このような解釈を「何度もひっくり返すかもしれない」と思っています。とにかく、レビュー後半に頂いた言葉がとても嬉しかったです。
【花大猫様レビュー】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/reviews/822139844805514188
人生逆噴射文学賞審査員様、かつ、源氏物語輪読の活動を九十年代から行っていたという古典文学愛好家様からのレビューコメントです。たいへん光栄です。頂いた時点で、花大猫様はカクヨム上に二つしかレビュー文を書かれておられなかったので、その二つのうちの一つに選ばれたことも光栄でした。
筆者の学生時代の専攻は前述のとおりドイツ哲学であり、日本史や古典文学の知識は浅く、前回の近況ノートに書いた通り、『梁塵秘抄』に関しては執筆の一週間前に読んで着想元にしただけの「にわか」でして、たいへん恐縮しております。後白河院(諱はマサヒト)の鬱屈と作中のヒサトの似非関西弁を重ね合わせて読んで頂きまして、この点、詳しい方から見て矛盾や違和感なく読めたのなら、安心いたしました。
レビューの後段に記載いただいた点、リエの身体感覚の描写に肉感を感じて頂けたとしたら、祐里様の自主企画のお題に対する応答としても成功したことになるかもしれません。
この企画のお題は「キャンセル」なのですが、もともとは「風呂キャンセル」でした。それだけだと幅が狭まりすぎるということで、祐里様が「風呂」を外したのです。でも、やはり僕は当初のお題「風呂キャンセル」を含めたいと思いました。お風呂をキャンセルしたら、何か汚いものが残る。だけれども、その汚さを受け止めるような形の物語にしたい、と当初から考えていたのです。祐里様が「風呂キャンセル」を「キャンセル」に拡張したように、僕はその「風呂キャンセル」の残渣を概念的に拡張し、このような形のお話となりました。
以上、三つのレビューに対するお礼のコメントでした。
繰り返しますが、コメント頂き、とても嬉しいです。もちろん、無言で読んで頂いた方にも感謝していますし、「コメントし辛ぇよ!」という一言だけでも頂ければ僕は喜びます。
結局、長文になってしまいました。レビューコメントを頂いて嬉しかったので。ええと、今後ともよろしくお願いいたします。