2月2日、青出インディゴ様より「梁を繞って」に対するレビューコメントを頂きました。ロジカルに整理された四段落の文章で、核心を捉えつつ褒めていただき、たいへんありがたいです。
【青出様レビュー】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/reviews/822139844382635993
直接の返信ではないですが、レビューを受けた応答を書きたくなり、ディスプレイに向き合っております。
その後2月7日、祐里様、天川様からもレビューを頂きました。ですが、以下の文章は、最初のレビューを受けて書き始め、推敲中だったものです(別の企画の動画編集作業に集中していて投稿が遅くなってしまいました)。お二人のレビューについては、別途記載させてください。
※以下の文章は、作品に対するネタバレを含み、ある意味で解釈を固定してしまうので、未読の方は、できれば、本編の方を先に見ていただきたいです。
【梁を繞って・本編】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/episodes/822139843952263707
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まず、レビュー文に記載いただいた「自己実現できなかった氷河期世代のブルーワーカー」という側面は、たしかに意識したのですが、前面に押し出すか迷ったポイントでした。推敲中、「氷河期世代」との記述を、「俺らの世代」と遠回しに書くことも検討しました。その後に続く「なーんにもならんかった」という恨み節が、ある種の世代間対立・階級対立を呼ぶ懸念があったからです。ただ、僕自身も倉庫内作業で日銭を稼いでいた経験はありますし、「氷河期世代」を代弁しているような言葉を書いても怒られないだろうと思い、その単語は残しました。
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その上で、記載いただいた「豊かで充実した内面」という表現がとても嬉しいです。
架空の問答としてですが、本作に対し、「このような境遇の人々がデリダを読めるはずがない。LLMの補助を受けたという設定を以てしても非現実的だ」といった反応も考えられます。それに対する応答としては、まず、僕が本作の主人公たちと似たような境遇の方々と作中同様のハイコンテクストな会話をしてきた経験があること、また、前述の通り僕自身も物流倉庫で単純作業をしていた経験があることを明言しておきたいです。僕の過去作にも、専攻外の知識領域に異様に詳しいキャラクターは頻繁に登場します。そういったキャラクター描写は、言ってしまえば、ある種の差別への対抗心のようなものなのです。
もちろん、哲学書や古典について文献学的に「正確な読み方」ができるかどうかは別の問題です(作中でも、主人公は「タイプライターのリボン」を斜め読みしたに過ぎない)。しかし、そもそも哲学とは、そのような「正確な読み方」のことではありません。そして、「豊かで充実した内面」は、大学知識人の所有物ではありません──作中、主人公がこの国にキャンセル・カルチャーが根付いていないことを分析している場面があるのですが、僕は最初、そこで丸山眞男を引用しようとしていました。しかし、僕はそれを山本七平に差し替えました。その方がうまく文章も繋がったのですが、その差し替えの背後にあった動機は、ここに記してきたような感情だったとも考えられます。
ただ、反省的に付け加えるなら──作中の「検品チーム」のメンバーの中には、もちろん、抽象的思考能力が高くない人も含まれることが想定されます。その中で、「抽象的概念操作と会話によるコミュニケーションが得意な二人の雑談」だけがストーリーを進め、その背後には、その雑談をただ聞いている人たちがいる。主人公は彼らを「他のメンバー」と呼び、彼らは固有名すら名指されない。彼らは何らかの痕跡を残そうともせず、離れた場所でスキャナーの電子音を響かせている。このことを作中で強調してしまえば、主人公たちと集団内の他のメンバーとの差がクロース・アップされてしまう。だから、彼らについては明示的に書いていない。これは、この作品のテーマが必然的に内包してしまう一つの課題かもしれません。
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レビューでは、「生き抜いていく姿」との言葉もいただきました。これが、いちばん嬉しかったです。
中年を過ぎても人生は続きます。決定的な事件があったとしても、そんなものが何もなかったとしても、物語は続きます。僕はそのような、何かあったことの外側、何もなかったことの外側を書きたかったです。今回の主人公の二人は、何かあったことの、何もなかったことの、その後にも続いている人生の中にいます。
彼らが最後に実行することは、あくまで血痕の上書きです。そもそも、フェンスに括り付けられた檸檬もまた、模倣であり上書きであったもので、彼らはそれを──ただ笑いながら、繰り返した。それは不快な迷惑行為ではあるものの、子供の遊びでもある。そのことが、主人公の脳裏に千年前の韻律を呼び覚ます。そうやって、作中の各シンボルを集約し回収するようにして書かれた最後の2段落について、追加の解説をしようとは思いません。どう捉えるかは、読んだ方に委ねたいです。
ただ、少しだけ自己主張を書かせてもらえるならば──僕は、苦痛を吐露することや、知識を披露することや、差別に反発すること、それらそのものには、そこまで興味がありません。できることなら、僕は、この世界がまだ続いていくことに対する希望を書きたいです。もし、主人公たちがこの世界を「生き抜いていく姿」をこの話の中に見出してくれた人がいたのなら、今回は少しだけそれに成功したのかもしれません。
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最後に、レビュー文のなかで、「その発想はなかった」とのお言葉を頂いたので、今回のシンボルの接続が、僕と会話してくれた人たちから得られた偶然の産物であることを、補足しておきたいと思います。
もともと、僕がこの企画に参加しようと思ったのは、企画主の祐里様と「当事者として語ること」「当事者ではないものがそれを語ること」について会話した経緯があり、どうせなら、その当事者性と非当事者性について思索したものを出そうと考えたからでした。ただ、その時点ではアイデアは何もありませんでした。
そのまま1月の中旬になりました。そのころ、あるクローズドなチャットグループで、僕は権力と公共的な記録について議論していました。「名前が残るような権威が世界の全てではない」というような文脈で、ある人が僕の発言を批判し、それに対して、僕は、「名もなき人の存在を残すためにも権力と闘争は必要だ」という反論しました。それに対して相手の方は、「梁塵秘抄」を例に挙げ、「たしかに権力がなければ収集されなかった声もある」と納得してくれました。僕は「梁塵秘抄」を読んでいなかったので、これはよくないと思い、その発言を受け初めてちくま学芸文庫版を購入しました。(それ以外の参照文献や、暗黙の前提となっているハーバーマスやフーコーの議論は、若い頃に読んでいたものです。)
そして、ほぼ同じ時期に、僕は別の人から、物流倉庫の作業についての話を聞いていました。僕の方から、「今週末、投稿サイトのお題でキャンセルの話を書くので、返品された商品について詳しく教えてほしい」と頼み、その取材のなかで、「血のついたものが返品されてくることもある」との経験談を聞いたのです。ちょうどその数日前に、僕は「梁塵秘抄」を読んでいた。その二つの会話と、小学校裏のフェンスでふざけた三十年ほど前の体験が脳内で繋がったことで、当作が構想されました。
その取材のあとの週末、1月24日から25日にかけて、実際の文章は書かれました。そして、平日の仕事の合間での推敲を経て1月30日に公開され、企画締切日である31日に微修正されました。以上が投稿までの経緯です。ですので、「その発想はなかった」と言っていただいたシンボル操作は、ほんとうに偶然によるものなのです。
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以上、長くなりましたが、青出様の最初のレビューに対する応答文でした。
その後いただいた祐里様・天川様のレビューに対して──特に、お二人が抱かれたであろう印象の一つ、作中人物の会話が持つ架空のテンポについては、この文章内でも少し触れましたが──いや、上手くまとまった形の応答にできるかは分かりませんが──もう少し内省的に考えてみたいと思っています。
【祐里様レビュー】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/reviews/822139844199426343
【天川様レビュー】
https://kakuyomu.jp/works/822139843952121146/reviews/822139844695231668
他にもご意見・ご感想などいただけましたら幸甚です。今日は東京にも雪が積もっており寒いですが、皆様もお体ご自愛下さいませ。
二〇二六年二月八日、自宅にて。