サスピシャスティーチャー
中間テストが終わった次の日の登校は特に何かが変わる訳でもないの気持ちが晴れたように気楽に登校ができる気がした。
テストの点数は気になるところだが、まあ出来栄えは悪くない、自分で言うのもなんだがそこそこ勉強は出来る方だと思う、そりゃあいつも学年トップクラスの美由に比べると大したことはないかもしれないが毎回俺も三十位以内には入っている、上位五十位以内を廊下に貼り出すという古臭い象徴が残ったこの学校では良くも悪くも自分の成績がさらけ出されるのだ。
今日テストが返ってくる教科もあるだろうからそれはそれで楽しみだ。
朝の駅前は、焼きたてのパンの匂いと、バスの排気と、遠くの踏切の音が薄く混ざっている。風は乾き気味で、制服の襟に触れると少しだけ冷たい。
学校へ向かう歩道橋を歩いていると後ろから俺を呼ぶ声がした。
「よう!神宮寺」
振り返ると、アッシュグレーの髪を靡かせる学校二位の美女だ。朝の光がポニーテールの筋を拾い、艶が立つ。
「なんかあんたが髪をおろしているのも制服を着ているのも珍しい光景だな」
「お前に会うのが部活の時が多いだけでいつも私はこの格好だぞ」
「やっぱ美女ランキングに入るだけあってこうしてるとあんたも可愛い女子高生なんだな」
と思わず思ったことを口にしてしまった。千咲はわずかに眉を上げ、口角を気持ちだけ緩める。
「なんだ?急に私を口説こうとしているのか?まあお前なら悪くはないな」
そう言いながら、千咲は俺の前に出た。歩幅がきれいで、足音が一定だ。白線の擦れた信号のない横断歩道の手前で自然に速度を落とす。車の流れが切れる一瞬を見計らった、そのとき——
コロコロ、と赤いボールが車道へ転がった。
追いかけて、小学生くらいの女の子が二歩、三歩。靴の面ファスナーがばちんと音を立て、ランドセルの反射材が光る。
角から、右折の車。タイヤがアスファルトを噛む低い音。
考える前に体が出る。
地面を蹴り、女の子の肩を抱いて後ろへ引き寄せ、そのまま前転気味に転がす。
鼻先をかすめる風、ブレーキの焼けた匂い。掌と左ひじがざりっと削れ、制服の肘が黒ずむ。
車は数メートル先で停まり、運転手が青ざめた顔で降りてきて、何度も頭を下げた。
「大丈夫か?」
そう聞くと女の子は泣きながら頷いた。頬に涙の筋、肩は小刻みに揺れている。
千咲が交通の流れを手で止め、その場に走ってきた保護者にボールを手渡し状況を説明した。指先は最小限の動きで、要点だけが素早く伝わる。
「娘を助けてくださり本当にありがとうございます!あの、この近くの高校の生徒さんですよね、是非お礼ががしたいのでお名前を教えていただいてもよろしいですか?」
「神宮寺 零です」
「美桜、お兄さんにちゃんとお礼をしなさい」
助けた少女は美桜という名前らしい、さっきまでは混乱して泣いていたが落ち着いてある程度状況が理解できたみたいだ。
「ありがとうございます、零お兄さん」
「次からは周りをちゃんとみて歩くんだぞ」
「うん!」
親子が去っていく背中に、ランドセルの鈴が小さく鳴る。止まっていた車の列がゆっくり動き出し、通学のざわめきが戻る。
⸻
「全く頼もしすぎる後輩だなお前は」
千咲が短く言う。目は真面目で、言葉よりも評価が濃い。
「痛むだろう。——保健室、行くぞ。すぐに消毒してもらわないとな」
俺はうなずいた。左ひじと右掌のひりつきが、少し遅れてやってきた。脈に合わせてじわりと熱い。
⸻
学校に着くと千咲と共にすぐさま保健室へと向かった。
白いカーテン、ベッドが三台。窓は半分だけ開いて、レースが呼吸みたいに膨らむ。アルコールのツンとする匂いと洗い立てのシーツの匂いが混ざる。
ワインレッドのミディアムヘア、頭にサングラス。ボタンが多めにに開いて胸元が見える白いシャツ、そして片足だけストッキングでブーツという保健室の教師とは思えないロックでセクシーな服装をしたこの人は氷室 茜先生、この先生に会うために保健室を訪れる生徒が多くいるくらい人気者の先生だ。いわずもがな、なかでも男子生徒が多いのは言うまでもない。
「あら、千咲ちゃんに零くんじゃない、珍しい組み合わせね、ってどうしたの!?あなた制服がボロボロじゃない!それに結構血が出てるわね、こっちへ来なさい」
そういうと俺は椅子に座らされた。金属製の脚が床をかすめ、きゅっと鳴る。
「これは転んだとかのレベルじゃないわね……消毒、しみるわよ。肘、楽にして」
消毒綿のひんやりが、皮膚の熱とぶつかってからりと弾ける。綿が滑り、包帯が新しい白で肘に沿う。
「——はい、おしまい。脈は落ち着いているし問題ないわ、しかし何があったの?」
「人助けですよ!先生!こいつはやっぱ大した男です」
そういいながら千咲は朝の出来事をを説明した。茜先生は相づちを打つたびに視線を手際よく動かし、怪我の具合と表情の両方を測っている。
「へぇ〜じゃあその子にとって零くんは命の恩人ってわけだ」
窓のレースがふわりと持ち上がり、心地よい風が吹く。カーテンの影が床を揺らし、白い帯が行って戻る。
氷室先生は一呼吸おいて、艶のある声で囁く。
「傷が痛んだり包帯が取れてしまったらまたすぐに来なさい」
紙コップの水を差し出し、片目で笑う。爪は短く整えられ、無駄に光らない。
「あと水分補給も忘れずにね」
「ありがとうございます」
「ええ」
保健室を出ると千咲は軽く手を振り、三年の教室側へ消えた。足音は軽く、振り返らない。
俺も自分の教室へと向かう。掲示板の前では誰かが順位表を話題にして、歓声とため息が交互に上がっていた。
教室に着いてすぐ、担任が黒板の端を空けた。教室の空気がひとつ息を整える。
「今日から新任の先生が来たのですが、このクラスの副担任をしてもらうことになりました、山下先生お入りください」
チャイムと同時にドアが開く。地味なグレーのスーツ、結びの甘いネクタイ、角の曲がった書類。
入って教壇の方へ歩くと黒板にぶつかりチョークを落とし、拾おうとして黒板消しも落とす。チョークが床でころりと転がり、白い粉が細く尾を引いた。
「す、すみません……。ええと、副担任の山下と申します。頼りないところもありますが、……精一杯、やります」
眼鏡の奥の目が少し泳いでいる。だけど声だけは、思ったよりよく通る。
新しい先生のドジっぷりに最初は笑いを堪えていた生徒たちも我慢の限界を迎え、大爆笑がおこる。机ががたがた揺れ、肩が上下する。
「ドジは産まれつきでしてすみません、どうか今日からよろしくお願いします」
そんな先生の挨拶にみんな声を揃えてよろしくお願いしますと言った。こんなに高校生が声を揃えて反応するなんて珍しい。ドジなことが逆に生徒に安心感を与えて良い印象をうんだのだろう。また人気者の先生がら一人増えそうだ。
夕方、俺は駅前のファミレスへ。今日は桜先輩と二人で閉店まで。
バックヤードは洗剤の匂いと揚げ油の匂いが薄く混ざり、業務用冷蔵庫の低い唸りが背景にある。
バックヤードでエプロンを結ぶと、桜先輩がグラスを拭きながら振り向く。ピンクアッシュの髪をゆるくまとめ、レジのキーが胸元で小さく光る。
「おつかれ、零。テストどうだった」
「まあ悪くはないって感じかな」
「勉強も運動もできて優等生ね」
「運動もできる成績一位の生徒会長に言われても皮肉にしか聞こえないよ」
客足はゆるく、レジ裏は静かだ。冷蔵庫のモーター音、氷の当たるガラスの音だけ。ステンレスの天板に拭き跡が斜めに残り、蛍光灯が細く伸びる。
桜先輩が背中に手を伸ばす。
「エプロン解けてるよ。結び直すね」
結び目が一度ほどけ、きゅっと締まる。指先の力が軽く、無駄がない。
「よし。——肘、どうしたの?」
「朝、ちょっと。保健室で貼ってもらいました」
「ああ〜千咲から聞いたよ女の子を助けた話、そのときに怪我したのね、氷室先生ってなんかいろいろ凄いよね」
「凄いって?」
「いや、ほらどうみても保健室の先生のビジュじゃないでしょ?」
「生徒会長までもがそう言うんだから間違いないな」
閉店作業を終えると、時計は二十三時前。裏口の空気は、昼より乾いている。生暖かい厨房から外へ出ると、夜の気配が体温をひとつ下げる。
「よし、帰ろっか」
「ああ」
駅から家へ向かう途中学校の前を通ると
体育館の横に、灯りがあるのがみえた。消灯時間は過ぎているはずだ。ナトリウム灯の黄色が長方形に滲み、虫が数匹、光の周りをゆっくり回っている。
「夜間講座……とかじゃないよね」
「まさかなわけないだろちょっと見てみるか」
足音を落として、体育館周りに貼られているフェンスの隙間から灯りの方を覗いた。金網に額が触れないよう、息をまとめる。
そこには今日クラスの副担任になった山下の姿がらあった。
「あいつはたしか」
「今日赴任した先生だよね」
山下の方を見ながら気づかれないように小声で話す。
上着を脱ぎ、シャツの袖は肘まで。手には書類の束、足元には三角コーンのような物が四つ、それぞれ等間隔。
それを結ぶように小さな印を作っては、一歩下がり、位置を微調整する。
口元が、かすかに動いた。
「これで万が一があっても問題ないな」
その時春の夜に似合わない温度差が、しゃっ、と肌を撫でた。空気が沈み、ぞわりと鳥肌が立つ。
零と桜にゾッと背筋が凍るような恐怖が忍び寄る。体育館の窓越しに埃が舞い上がり、光の帯に斜めの粒が浮いた。
桜は体を震わせながら
「今の風って…」
桜は恐怖に怯えすぎてとても大丈夫な状態ではなかった。握ったレジ袋が小さく音を立てる。
俺も同じく恐怖でどうにかなりそうだったが
それと同じくらい今は山下に気づかれてはいけないと思い、桜を抱きしめ山下に気づかれないよう息を潜めた。心臓の鼓動が耳の奥で硬く鳴る。
ましてや“話しかけられる雰囲気”じゃない。
あんなに頼りなげに見えていた教師が今は怖くて仕方がない。
とにかくこの場を離れなければいけないと思った。靴底が砂利を踏まないよう、足の置き場を選ぶ。
俺たちはフェンスの陰を離れ、足音を吸うアスファルトへ戻った。
角を曲がってから、桜先輩がささやく。
「一体何が起きてるの」
動揺した表情で桜が訴える。街路樹の影が彼女の頬に縞を作る。
不気味な教師にこのタイミングでの例の冷たい風
偶然だとしても恐怖を抱くには十分すぎる。
「兎に角今は考えても仕方がない、とりあえず今日は家まで送るよ」
「うん、ありがとう」
桜の家に着くまで俺たちは恐怖のあまり一言も会話を交わさなかった。電灯の下だけ色が戻り、次の闇でまた無言に沈む。玄関の明かりがともるのを見届け、俺はひとつ深呼吸してから家路を急いだ。
混沌ラススヴィエート 美影輝 @wani8
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