ケース9 先輩の看病

 頭がくらくらする。

 喉が渇いた。

 汗が気持ち悪い。

 でも、何をする気も起きない。

 このままでいても絶対よくならないのに、倦怠感が何もさせてくれない。

 身体中に重りがついているみたいだ。

 腕を動かすのさえ、気だるい。


「まずい……。まずい、けど……」


 呻くと、からからに乾燥した口内に、粘り気のある唾液が蠢く。 

 その気持ち悪さに辟易していると、激しくむせ込んだ。

 苦しい。

 気持ち悪い。

 今すぐ水を喉の奥に流し込み、さっぱりしたパジャマに着替えて、軽くお腹に入れて、薬を飲んで眠りたい。

 だけど、それをする気力は空っぽだ。


 そもそも、飲み物も薬も底をついた。

 でも買い物なんて絶対に行けない。

 叶えられない欲求ほど、虚しいものはない。


「あぁ……」

 

 寝込んで、三日目。

 調子を崩したから大学を休んで眠っているものの、一向によくならない。

 それどころか、備蓄が底をついたせいで状況は悪化する一方だ。

 男子大学生の一人暮らしなので、備えがぜんぜんなかった。

 何とか動かなければ……、と思うものの、身体は言うことを聞かない。


 スマホでだれかに助けを呼ぼうにも、鞄の中に入れっぱなし。

 それすら取りに行く気力がない。

 充電がわずかだったから、きっと今は電源も切れている。

 スマホを回収して充電器に接続して、スマホを操作して……、と考えると、気が遠くなってくる。

 そのたびに、あぁもういいや、と思って目を瞑るのだ。


「死ぬかも……」


 割とシャレにならないことを呟いて、口を閉じる。

 あぁ……、このまま当てもなく眠っているしかないのか。


 だれか助けてくれ……。


 昼か夜もわからない時間を過ごしていると、いやに頭に響く音が聞こえた。

 ぴんぽーん、という癇に障る音。

 何かの勧誘でしか鳴らないドアチャイムが、部屋の中に響いている。


「うる、さいな……」


 苛立ちが募る。

 人が病気で寝込んでいるのに、のんきに勧誘だなんて本当に勘弁してほしい。

 何度も鳴るしつこいチャイムをやりすごしていると、何やらドアから物音が聞こえてきた。


「あれ……、じゃないか……、ここ……、あ、あった」


 だれかの声が聞こえる。

 なんだ……? と思っていると、突然、ドアが開いた。

 驚いて、重たい頭を上げる。


「あぁやっぱり。寝込んでる。寝込むのはしょうがないけど、せめて連絡は取れるようにしてくれないかね。緊急連絡先も、繋がらなければ意味がないと思わないかい」


 呆れたような声は、女性のものだ。

 ドアを開けて部屋に入ってきたのは、髪の長い綺麗な女性だった。

 ニットにロングスカートを合わせ、その上には丈の長いベージュのコート。 

 その手には不釣り合いな大きなスーパーの袋が抱えられている。

 俺は、彼女の姿を見て目を見開いた。


「先輩……、なんで……」


 かろうじて声を出すが、彼女に聞こえる声量だっただろうか。

 彼女は不満そうな顔で、腰に手を当てている。


「ずっと大学に来ないうえに、連絡しても音信不通。どうせ寝込んで動けなくなってるんだろう、と思って来てみれば案の定だ。予想どおりすぎて笑えてくる」


 全く面白くなさそうに言いながら、先輩は部屋を見回した。

 冷蔵庫を見つけると、スーパーの袋の中身をどんどん突っ込んでいく。


「あーあ。本当に何も入っていない。一人暮らしが下手すぎる。こういうときのために、普通はもうちょっと蓄えておくもんだよ。これじゃあ冷蔵庫の意味がないな」


 さも当然のように冷蔵庫を開ける彼女だが、俺は混乱が収まっていない。

 なぜ、先輩がここに。


「先輩……、なんで……」

「ん? あぁ、鍵かい? 郵便受けから拝借した。前に君から、そんなありふれた隠し方をしていると聞いていたからね。不用心にも程があるが、今回はそれに助けられたね」


 先輩は長い髪を揺らしながら、ベッドに近付いてくる。

 久しぶりに感じる人の気配は温かいが、俺が聞きたいのはそうじゃない。


「そうじゃ……、なくて……」

「うん? あぁ。親切な先輩が、かわいい後輩を助けにきただけだよ。同じゼミのよしみだ。死なれても目覚めが悪いからね」


 先輩はつまらなそうに言う。

 この数日間、このままじゃ死ぬかも、と何度か思った。

 あながち大げさではないから笑えない。

 先輩がわざわざ来てくれたことは驚きだが、ほっとしたのも確かだった。


「いろいろと勝手にいじるよ。触ってほしくないものがあるなら、今のうちに訊いておこう」


 先輩は顔を近付けてくる。

 さらさらの髪が揺れて、端正な顔がすぐ目の前にある。

 シャンプーの香りなのか、いい匂いが鼻をくすぐった。

 普段なら緊張して仕方がないところだけど、今日だけは人の体温に安堵する。


「なにも……ないです……」

「ん。そうか」

 先輩は頷いてから、立ち上がる。

 さて、と息を吐き、迅速に動き出した。


「まずは水分かな。飲み物がろくにないなんて、ひどい状況だよ。本当に死ぬよ、君」

 

 彼女が一本、スポーツ飲料のペットボトルを持ってきてくれる。

 俺があれだけ待ち望んだ、水分だ。スポーツ飲料だ。

 粘つく喉が唾を飲もうとして、失敗する。

 飲みたい。飲みたいけど、身体が動かない……。


「悪いね。失礼するよ」

 

 先輩は俺の背中に手を入れて、ぐっと身体を起こしてくれる。

 先輩のおかげで、ようやく身体を起こせた。

 代わりに、先輩の手に俺の汗がついたんじゃないかと、ぼうっとした頭で心配になるが、先輩は気にした様子はない。

 久々に座った気がする。

 ベッドの上でぼうっとしていると、先輩がペットボトルの蓋をかちりと開けた。

 きゅっきゅっと蓋を取り、俺に差し出してくれる。


「ほら。ゆっくり飲むんだよ」


 やさしい声にじんわりと胸が熱くなった。

 しかし、意識はすぐに飲み物にいってしまう。

 受け取るや否や、俺は一気に喉に流し込んだ。


 ごくっごくっ、と激しく喉が鳴る。

 勢いよく胃袋の中に流れていく。

 久しぶりの水分は一気に身体に浸透していき、かさかさだった肌が一気に潤いを取り戻した――と錯覚する。

 しかし、まるで指先一本一本に染み渡っていくようだった。

 水分を摂った、という実感がある。

 喉の奥の奥から、「あぁ……」という息が漏れた。


「あーあー。ゆっくりって言ったじゃないか。これ以上、身体に無茶させるんじゃあないよ」


 先輩の呆れた声が聞こえてくる。

 ようやく摂れた水分の余韻に浸って何も言えないでいると、彼女は再び立ちあがった。

 ぼんやりしている俺を指差す。


「次は、その部屋着だ。それは頂けない。そんなものを着ているうちは、治るものも治らないよ」


 先輩は着替えと濡れタオルを持ってきてくれた。

 確かに、汗を吸ったパジャマは気持ち悪く、これなら裸の方がマシだとさえ思う。

 けれど、今の身体の重さでは着替えようとは思えなかった。


 喉の渇きが潤ったからといって、すぐにだるさは消えない。

 動けるだろうか、と手に力を入れようとしたときだった。

 今度は先輩の手が俺の服に伸びた。

 止める間もなく……、というより、止める気力もない。

 先輩は俺の服を掴み、そのまま脱がせようとする。


「ほら。バンザイしたまえ。それくらいは頑張れ」


 言われて、のろのろと手を挙げる。

 すると、すぽっとパジャマが抜けていった。

 久方ぶりに気持ち悪いパジャマから解放されて、肌に空気が当たるのが気持ちいい。

 女性を前に裸という恥ずかしさはあるものの、それを気にする余裕もなかった。

 先輩が濡れタオルを差し出してくるので、それを受け取ろうとしたが、その手が空振ってしまう。

 そのまま、先輩の手が俺の肌に触れた。


「それほど熱くはないはずだが。熱かったら言ってくれたまえ」


 ぎし、とベッドが軋む。

 先輩がベッドに膝をつきつつ、俺の顔を指で掴んだ。

 そのまま顔に、タオルが当てられる。

 自分でやりますよ、と言いたいところだが、手を動かすことすらもしんどい。

 それに正直、先輩にされるがままになるのは心地よかった。


 濡れタオルが顔の形に沿って動いていく。

 先輩の言葉どおり、タオルはちょっと熱い、くらいだった。

 ほかほかしたタオルが肌にあたる。

 その温度と、ふかふかのタオルの感触が気持ちよかった。

 やさしい手つきで先輩の手がタオルを動かす。

 拭かれた場所からはっきりとした爽快感が広がっていく。

 

 あぁ、気持ちいい……。


 数年ぶりの風呂に入ったかのようだ。

 汗や脂がなくなるのが、こんなにもいい気持ちだなんて。

 ぐしぐし、と先輩は指を動かすけど、決して力は入っていない。

 顔を拭いてもらう、という行為はまるで子供に戻ったかのようだった。

 照れくささはあるけれど、無防備に相手に寄り掛かるのはほっとしてしまう。


「さ、次は身体だ。少し決まりが悪いかもしれないが、君は病人だ。割り切って大人しくしているといい」


 先輩の何も持たない手が俺の腕に触れた。

 体温が低いのか、その指は少し冷たい。

 しかし、不思議とその体温が俺を安心させてくれた。


 そのままタオルが首をぐしぐしと拭き取っていく。

 顔よりは力が強いが、その力の込め具合がちょうどよかった。


「気持ちよさそうだねえ。顔を見ればわかるよ」


 先輩がくすりと笑った。

 そのまま、胸や腹まで彼女の手が下りていく。

 せっせ、せっせと手を動かす先輩の髪が揺れた。

 気持ち悪かったぐちゃぐちゃの身体が、徐々に元の形を取り戻していく。

 汗と汚れがぬぐい取られ、あとに残るのは気持ちよさだけ。


「はい、綺麗にできた。さっぱりしたんじゃないかい」


 さっぱりしたなんてものじゃない。極楽だった。

 水分を摂ったこともあり、ほんの少しだけ元気が戻ってくる。


「ん。目に光が戻ってきたね。では、下は自分で履き替えてもらおうかな。いくらこの状態でも、わたしに下着を履き替えさせてもらうのは本意じゃないだろう?」


 そのとおりだ。

 いくらなんでも恥ずかしいし、申し訳なさすぎる……。

 彼女は軽く吐息を漏らすと、俺の顔をまじまじと見る。


「食欲はどうだい? おかゆならどうかな? 少しでも食べられるなら、薬を飲む前にお腹に入れたいと思うんだが……、どう? 食べられる?」


 やさしい声での問いかけに、俺は返事をしようとした。

 すると、先輩は軽く手を振る。


「口は開かなくていい。イエスかノー、首振りで答えたまえ」


 いくらさっきよりマシとはいえ、喉は痛みを発している。

 声を出さなくていいのならありがたい。

 俺が素直に首を縦に振ると、先輩は朗らかに笑った。


「それはよかった。ならば、わたしが台所に立っている間に着替えておきたまえ。あぁ、そのあとはちゃんと横になるんだよ」


 先輩は子供に言い聞かせるように笑うと、台所に向かった。

 俺はその間に、着替えを進める。

 先輩のおかげで、さっきよりは動けるようになった。

 さっさと下を脱いで、拭けるだけ拭いて、新しいパジャマに履き替える。

 先輩の言うとおり、着替え終えたらそのまま横になった。


「あぁ……」


 その心地よさに、息が漏れる。

 身体を拭いてさっぱりして、新しいパジャマに着替えるだけで、こんなにも違うのか。

 生まれ変わった気分だ。

 同じ布団の中だと言うのに、世界が違う。

 温かい布団に包まれている感覚と、人がいる安心感に意識が遠くなってくる。

 そのままうとうとするのが、ここ数日では考えられないほどにいい気持ちだった。


 遠くから音が聞こえてくる。

 しゃかしゃかしゃかしゃか……、という米を研ぐ音。

 とんとんとん、とまな板を叩く音。 

 シャクシャクシャク……、と何かを切るような音も聞こえてくるが……、これは、野菜を切っているのだろうか。 

 そして、人の足音。


 これらの生活音は、俺を安心させてくれていた。

 その音を聞くうちに、俺は眠ってしまったらしい。

 はっとすると、すぐ横に先輩が座っていた。


「ん。起きたかい。別に眠っていてもいいが、どうする? おかゆを作ったが、別にあとでもいいよ」


 眠っていたのは、一時間かそこらだろうか。

 先輩の隣には、お盆に載ったおかゆがあった。

 茶碗の中に、薄黄色のおかゆが湯気を立てている。どうやら、卵をかけてくれたらしい。湯気に乗って、いい匂いが鼻に届く。

 ネギがパラパラと振ってあって、その彩りも目を惹いた。


 寝込んでからというもの、まともにものを食べていない。

 食欲がなかったし、無理に食べる気力も湧かなかった。

 しかし、目の前にすると急に胃袋が主張を始めた。

 わずかとはいえ、食欲が湧く。

 俺の目がおかゆにいっていることに気付いたのか、先輩はおかしそうに笑った。


「食欲があるのはいいことだね。食べられるのなら食べてしまおう」


 先輩は茶碗を手に取る。

 そのままレンゲを掴んで、ゆっくりと混ぜ始めた。

 こつこつこつ。レンゲが茶碗の底にぶつかり、音を立てる。

 それで湯気が立ち、香りがより強くなった。


「ふー……、ふー……」


 熱そうだな、と思ったけれど、先輩がおかゆをレンゲに掬い、息を吹きかけてくれている。

 それで湯気はいくらか散っていった。


「はい、あーん」


 まるでそうするのが自然なように、先輩は俺の口元にレンゲを近付けた。

 そして、俺もそうするのが当然のように口を開けていた。

 レンゲがやさしく俺の口の中に入っていく。

 おかゆは仄かに熱く感じる程度で、抵抗なく舌の上を滑っていった。

 やさしい味付けで、その温かさにほっとする。

 口を動かすと、抵抗なく食べられた。


「おいしい?」


 彼女の問いかけに、はい、と答える。


「よかった」


 ほっとしたように笑う彼女は、再び、「あーん……」とレンゲを差し出してきた。

 俺はそれをパクっと口にする。

 先輩は結局最後までレンゲを手放さなかったが、そのおかげか、おかゆを残らず平らげることができた。


「ん。これだけ食べられたら上等だろう。偉いじゃないか」


 先輩は俺の頭に手をやると、そのまま撫でてくる。

 本当に子供のような扱いで、本来なら文句を言うべきところかもしれない。

 しかし、しっかり先輩に甘えているせいか、その行為さえも心地よく感じてしまった。


「さ、薬を飲みたまえ。それでゆっくりと眠れば、次に目を覚ました頃にはよくなってるだろうさ」


 常温の水と薬を渡されたので、俺はそのまま口の中に放り込む。

 先輩が「ん」と手を差し出してくるので、コップを手渡した。


「よし。ならあとは横になっていることだね。なに、寝付くまではわたしがそばにいてやろう。それなら、心細くもないだろう?」


 冗談めかして彼女は言うが、その心遣いはありがたかった。

 この数日、ただひたすらに心細かった。

 だれにも助けを求められず、ひとりで暗い部屋で唸っているのは不安しかなかった。

 しかし、今は先輩がいてくれている。

 彼女はベッドにもたれかかるように腰を下ろした。

 俺に背を向けているが、なぜだか楽しげに鼻歌を口ずさんでいる。

 妙に調子っぱずれな歌を聞きながら、俺は再び眠りに落ちていった。



――



 ぱちりと目を覚ます。

 ガバっと身体を起こして、部屋の中を見回した。

 だれもいない。

 いつもの静かな部屋があるだけだ。


「熱は……、あぁ。よかった。下がってる」


 額に手をつけてみると、すっかり平熱だ。身体のだるさも嫌な頭痛もない。

 俺はベッドからのっそりと抜け出す。

 ベッドのそばには、あのおかゆもペットボトルも置いていない。

 まるで最初から何もなかったかのように、綺麗になっていた。

 台所に行っても、おかゆを作った痕跡はなかった。


「……………………」


 不安になってくる。

 先輩が来てくれて、俺を看病してくれたのは現実だったのだろうか。

 熱にうなされる中、俺が作り出した幻か夢だ、と言われても納得できる。


 しかし、あのおかゆは本当においしかったし、先輩に身を預けた心地よさはしっかりと記憶に残っていた。

 それさえも、すべて幻だったというのだろうか。


「まぁ……、先輩が俺を看病してくれるのもおかしな話だけれど……」


 しかし、あれが夢だとしたら恥ずかしすぎる。

 先輩を夢に見て、甲斐甲斐しく世話をしてもらうだなんて、どれだけ先輩のことが好きなんだ。

 さすがに気持ち悪すぎるだろ……、と思っていたら、見慣れぬメモ用紙を見掛けた。

 それを拾い上げると、小さな笑い声を上げてしまう。


「あぁ……、よかった」


 その紙には、こう書かれていたのだ。


『お礼はデート一回で手を打とう。無論、君の驕りでね』


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真面目マッサージ小説置き場 西織 @tofu000

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