ケース8 変わった店員さんのマッサージ

「あー、残業って本当クソだわ」


 俺はすっかり暗くなった街中を歩いていた。

 人の気配がまるでない通りのせいで、うっかり独り言がついて出る。

 さっきまで客先の会社で、ずっとパソコン作業を強要されていた。

 普段はサボってばかりのサラリーマンには、真面目な作業はあまりに堪える。

 しかも、それで残業だなんて。


「あぁ、おぞましいおぞましい。やっぱ働くもんじゃねーわ。俺は結局、外回りでサボってるくらいがちょうどいいんだよな」


 歌うように愚痴ってみるが、その軽口さえも今日は重い。

 真面目に仕事だけして帰るのがバカらしく、居酒屋にでも入ろうとこの通りにやってきたのだが。


「……。よさそうな店がないな」


 なんだろう。あまり心が惹かれないというか。

 目に見えるビルには、居酒屋やスナックらしき店名の看板ばかり。

 適当に入って酒を飲んで帰ればいいのに、どこか二の足を踏んでしまう。


「あぁ……、あんまり客が入ってないように見えるからか?」

 

 なんというか、この通りには活気がないのだ。

 人の気配がまるでない。声も聞こえてこない。

 店はやっているんだろうが、客が入っているかは外からじゃ見えないし、どんな店かもわかりづらい。ここにしよう! と思える要素がなかった。


「でも、このまま帰るのも……、ん?」


 視線をうろうろさせていると、見覚えのある看板を見つけた。


『マッサージあり〼』


「あ。あのマッサージ店、この通りだっけ」


 そういえば、見覚えのある通りだと思っていたんだ。

 以前、仕事をサボろうとうろうろ店を探していたとき、偶然迷い込んだのがこの通りだった。

 太陽に肌がジリジリ焦がされる、夏の日のことだった。

 今は夜だと随分と涼しくなった。

 なんとなく入ったマッサージ店の、あのとき飲んだサイダーの味が口の中に広がる。


「……まだやってんのかな」


 意識すると、肩が重さを主張してきた。

 慣れないパソコン作業をやらされて、肩がすっかり疲れている。

 ……気がする。


 あのときやってもらったのは足ツボだったが、きっと肩も揉んでもらえるだろう。

 今度来るときは予約しよう、と心に決めていたが……、どうだろうか。


 相変わらずエレベーターは壊れていて、五階建てのビルを階段で上っていく。

 あっという間に息が切れて、ぜえぜえ言いながら店の扉の前に立った。


「これでやってなかったら悲惨だな……」


 店の扉には、店名も営業時間も書いていない。

 ただ、店内の光は外まで漏れ出ている。人はいそうだ。


 俺はおそるおそるドアを開けると、ベルがからんからん、と音を立てた。

 前に見たときと変わらない、店の中。

 変わったのは、カウンターの上に小さな花が活けてあることだろうか。


 しかし、カウンターの中にあのおかしな店員はいない。

 やはり、もう営業時間は過ぎているのだろうか。

 自分が想像した以上に落胆していると、奥から何やらごそごそとした音が聞こえてきた。


「はいはーい、お待たせでーす」


 あの女性店員だった。

 少女のようにしか見えない幼い顔立ち、趣味で着ているという学生制服。

 以前は白のサマーセーターだったが、今日はグレーの長袖だった。

 あまり長くないポニーテールを揺らしながら、パタパタと店の奥から出てくる。


「あ……、まだやってる?」

「やってますよー。お客さん、ちょっとぶりだね。今日は飲み会の帰りかな?」


 彼女は朗らかに笑う。

 どうやら、俺のことを覚えているらしい。

 俺がそのことに若干の驚きと感動を覚えていると、彼女はからかうような顔つきになった。


「そりゃ覚えてるよ。あんな真っ昼間から堂々と仕事をサボるスーツ姿の人なんて、滅多にいませんもん」

「失礼だな、君は……。でも今日は仕事の帰りだよ。飲み会じゃない。真面目に仕事してたんだよ」

「あらら。それは失礼しました。じゃあ今日は、頑張った身体にご褒美ってことですね」


 そう言いつつ、彼女はカウンターの中に入っていく。

 メニュー表を出して、カウンターに身を乗り出した。


「で、お客さん。今日はどのコースでいく?」


 メニュー表にはずらりとコースが書いてある。

 しかし、前に来たときもどれを頼んでいいかわからず、足ツボマッサージにしてもらった。

 今日はどうすればいいだろう、と彼女に目を向ける。


「ちょっとデスクワークが多くてさ。肩が凝ってると思うんだが。そういうときはどうすればいい?」

「ふんふん。じゃあこの全身コースかな。で、上半身を中心にって感じ? お客さん、姿勢悪そうだから、首も腰も凝ってそうだしね~」


 にやにやと笑う。

 何を失礼な、と言いたいところだが、実際にそうだから否定できない。

 しかし、疑問はある。


「首? 首って凝るのか?」


 己の首に手をやるが、そんな感じはしない。

 肩はわかるが、首なんてやわらかい箇所が凝ったりするんだろうか。

 すると、彼女は腕を組んで何度も頷いた。


「凝る凝る。ものっすごく凝るよ。特にパソコンやスマホをよく見る人は要注意です。肩こり、首こりが原因で頭痛が起きたりしますからね」


 彼女は指で肩と首をとんとんと叩く。

 そんなことが原因で頭が痛くなるなんて、考えたこともなかった。

 そういえば、忙しくなってから何度か頭痛があった。

 風邪でも引いたのか、と思っていたが、これが原因だったのだろうか。


「じゃあお客さん、全身コースでいいですか? 時間はどうします?」

「あ……、じゃあ、この、90分で」


 俺は前より長い時間を指差す。

 前回の足ツボも気持ちよかったが、正直なことを言えば物足りなかった。延長したかったくらいだ。

 かといって二時間はさすがに長い気もするし、90分くらいがちょうどいいんじゃないだろうか。


「はーい、了解です。じゃあ行きましょうか」


 彼女は微笑むと、プリーツのスカートを翻して店の奥に進んでいく。

 俺もそれに続いた。

 前回と同じく、更衣室でスウェットのような服に着替える。

 今日は全身ということで、上下ともにスーツを脱いだ。


「はいはい。どうぞ、こちらへ。一旦、ここに座っててくーださい」


 彼女に案内されたのは、前回とは違う部屋だった。

 部屋の中心には簡易なベッドが置いてある。

 顔の部分に丸い穴が開いている、「マッサージのベッドと言えばこれ!」というやつだ。


 前回は足ツボだったので座っていたが、今回は全身だから寝転ぶわけだ。

 しかし、「座ってくれ」と言われたのでとりあえず腰掛ける。

 すると、前回と同じく小さなメニュー表を差し出された。


「何か飲みます? あったかいのも冷たいのもあるよ」

「あぁ……、もらおうかな……」


 そこまで喉は乾いていないが、前のサイダーは妙に心に残っていた。

 せっかくだからもらおうか、とメニュー表を見やる。

 しかし、前回は真夏の真っ昼間だったからサイダーがやたらとおいしく感じたのは間違いない。

 既に夜は涼しいわけで、温かい飲み物にしようか。

 じゃあ、ホットコーヒー……、と言いかけたが、彼女がメニュー表を覗き込んでくる。


「お客さん、疲れてるみたいだから甘い飲み物はどう? やっぱり疲れた身体には糖分よ」


 疲れているときは甘いもの。

 よく聞く言葉ではあるが、共感を覚えたことはない。

 そもそも甘いものが苦手というのもあるし、糖分が身体に効くというのもよくわからないからだ。

 しかし。


「ん-……、じゃあ、このホットカフェオレを」


 俺は言われるままに、カフェオレを指差していた。

 普段コーヒーなんてブラックしか飲まないのに。

 彼女はにぱっと笑いかけると、「了解です」と部屋から出て行こうとした。

 しかし、そこで「あ、そうだそうだ」とブレーキをかける。

 何やら、部屋の隅でごそごそし始めた。


「お客さん、嫌いな香りとかありません?」

「嫌いな香り……? あぁどうだろ……、ない、と思うけど……」


 変わった質問に面喰らう。

 嫌いな食べ物なら即答できるが、香りは思いつかない。自然と言葉尻が弱くなる。


「よかった。アロマ焚くので、嫌な匂いだったら言ってくださいね」


 部屋の隅にあったアロマデュフューザーをいじってから、彼女は部屋から出て行った。

 デュフューザーは白い蒸気を吹き出していたが、部屋の中が違う匂いに包まれていくのがわかる。

 なんだろう、これは。ハーブか?


 これは何々の香りだ! と言えたらいいのだが、生憎俺はアロマに全く興味はない。

 しかし、爽やかでやわらかな香りが部屋に広まっていくと、どこか落ち着く。


 どうやら、俺は二回目だと言うのにこの店に緊張していたらしい。

 肩の力が抜けて、ほうっとため息を吐いた。

 そうしている間に、彼女が戻ってくる。


「あー、いい香りだー。あ、お客さん、どうぞどうぞ」


 彼女は部屋で深呼吸をしたあと、こちらにカップを手渡してくる。

 湯気とともに、カフェオレの香りが鼻に届いた。

 普段は嗅がない匂いだけに、「なぜ俺はカフェオレなんて頼んだのだろう」という不思議な気持ちになってくる。


「砂糖たっぷり入れておきましたんで」


 そう言って笑う彼女の手にも、カップがあった。

 お前も飲むんかい、と言いたいところだが、この店員なら別に不思議でもない。

 それよりも、砂糖たっぷり入れられて飲めるだろうか……。


 おそるおそる口にしてみる。

 普段は熱々の苦みが飛び込んでくるところだが、今日は程よい温かさが口の中にするりと入る。口どけの良い甘みが広がっていった。

 ……案外、旨いな。

 かなり甘いけれど、嫌な甘みではない。

 マイルドな苦みとそれ以上の甘みがちょうどよかった。


 しかし、制服姿の少女(にしか見えない女性)といっしょにカフェオレを飲んでいるこの状況、冷静に考えると意味がわからなすぎる。

「制服を着るのは趣味」と言っていたが、どういう趣味なんだ……。


「さて。そろそろ施術に移っていきましょうか。そこにうつ伏せに寝転んでくーださい」


 カフェオレを飲み終えたあと、彼女にそう指示される。

 言われたとおり、穴に顔を嵌めるように寝転んだ。

 俺の目からは床しか見えなくなり、自然と目を瞑る。

 店内に流れる、控えめな音量のヒーリングミュージック、落ち着くアロマの香り、彼女の小さな鼻歌。

 落ち着く空間だな、と思ってしまう。


「それじゃ、失礼しまーす……」


 バサッという音とともに、何かが背中に敷かれる。

 おそらくタオルだ。

 背中に集中していると、彼女の手がぺたりと肩に密着した。

 ぺたぺたと触られる。

 肩、背中、腰と彼女の手は移動していき、時折、指先でつつかれた。


「ふんふん……。あー、お客さん。やっぱり肩や腰がひどいねー……。だいぶ凝ってる。肩、かなりキてると思うんだけど、自覚ないですか?」

「え……、あぁ、そんなに凝ってる……?」


 うつ伏せのまま返事するのは違和感があり、どこかおそるおそるとした声になってしまう。

 そんなにひどいのだろうか。

 自分ではそんなにわからない。


「すっごい凝ってるんだけどなー……、頭痛もあったでしょ、これじゃ。よっし、オッケーです。頑張った身体を今日は労わっていきましょう」


 気合の入った声を上げると、彼女は手を肩の位置に戻した。

 そのまま、揉む――ではなく、手を肩に滑らせた。

 すっすっ、と彼女の両手が何度も肩の上を通る。


 俺の知っているマッサージと違う。

 てっきり、揉んだり叩いたりするものかと。

 何をやっているんだろう、と様子を窺っていると、手の摩擦によって熱が発生し、肩が徐々に温まるのがわかった。

 不思議なことに、それが気持ちいいのだ。


「これは軽擦法と言いまして。お客さんの身体、弱ってるからいきなり揉んだりしたらビックリしちゃうでしょ。だから、まずはマッサージするからね~? いい~? って身体に訊いてるんです。マッサージの準備体操みたいな」


 彼女の声が上から降ってくる。

 その声は先ほどまでの快活なものではなく、しっとりとした囁き声だった。

 それが落ち着いた空気とマッサージによく合っている。

 この子、ちゃんと場に合った喋り方もできるんだな……。


 それに、マッサージの準備体操、というのも合点がいった。

 さっき、彼女が触診のように身体をつついたとき、痛みが走る箇所がいくつかあった。

 あそこを力強く揉まれれば、きっと悲鳴が上がってしまう。


 彼女の手は、ゆっくりとゆっくりと俺の肩を擦っていた。

 肩がじんわり温まり、力が抜けていく。

 身体がマッサージを受け入れる準備をしているのだろうか。


「それでは、押していきます。痛かったら、言ってくださいね」


 彼女の指が肩にゆっくりと食い込む。

 チリっとした刺激が肩を走り、すぐに熱がふわりと広がる。その熱は快感を呼び、あぁ、と声が漏れるほどあった。

 しかし、すぐにそれが重い痛みに変わっていく。

 ぐぅ、と痛んだ。


「ごめん……、ちょっと……、痛い……」


 俺が呻くように言うと、すぐに指が離れた。


「あぁ、ごめんごめん。んー、重症だねこれは。ちょっと調節します。また痛かったら言ってね?」


 再び指が肩に差し入れられるが、今度はさらに力が弱い。

 気持ちよさが広がるところでしっかりと止まり、一定の力のまま指が動いている。

 絶妙な力加減に、ため息が漏れた。

 気持ちいい……。


「痛くないですか? 大丈夫?」

「あぁ……、気持ちいい……、それくらいで頼む……」

「よかった。了解了解、力が弱かったら、遠慮なく言ってくださいねー……」


 穏やかな声に戻り、彼女は手を動かしていく。

 時折、ビリっとした痛みがくることもあったが、訴えるほどでもない。というより、それすらもちょっと気持ちいいというか。

 じんわりとした快感の波に、時折くるちょっとだけ強い刺激。

 彼女の温かな指がそれを作っていく。


 ぎゅう、ぎゅう、と肩が揉まれて、そのたびに、あぁ、と声が漏れそうになった。

 しばらくの間、肩を丁寧に揉んでくれていたが、それが徐々に下がっていく。


「ここも重要なんですよ。首の付け根。ここが凝り固まっていると、結局楽にならないんで。あ、やっぱりお客さん、物凄く張ってる」


 首の真後ろ、肩と肩の間、とでも言えばいいだろうか。

 そこに彼女の手が這う。

 肩と変わらないように思えるが、そこが首の付け根らしい。

 黙って彼女の指の動きを探っていると、付け根にぐぅっと指が押し込まれた。

 重く、鈍いような痛みが一瞬発せられる。

 その刺激が奥深くまで入っていって、じんわりと膨らんだ。


 痛い。

 痛いけど、気持ちいい……。


 押された瞬間、おう、と声が出そうになりつつも、同時にその痛みが心地よかった。

 触れられてようやくわかったが、確かにその辺りは特に硬くなっている感じがする。

 

「ここ、重点的にほぐしておきましょうか。特に凝ってるので。パソコンをやるにしても、もうちょい目の高さに気を遣った方がいいですよー。あとストレッチね。同じ姿勢を続けないようにしてください。それだけでもだいぶ違いますから」


 とうとうと囁きながら、彼女の指は止まらない。

 彼女に声を掛けられると、不思議とより快感が強くなる気がした。

 本人もそれをわかっているのか、時折、耳に声を送ってくる。


「それじゃ、次は首にいきまーす……」


 別のタオルを首にかけて、今度はそこに指を合わせる。

 片手で首を包み込み、それで揉んでいくようだ。

 親指と別の四本の指が、ぐい、ぐい、と首を押していく。

 すると、ゴリゴリ……、という感触が自分の首から現れて、俺は戸惑う。


「お客さん、ここ物凄くゴリゴリ言ってるのわかります? 老廃物がここにたっくさん溜まってるんです。これだと血行も悪くなって、疲れなんて取れませんよー」


 彼女の指がその凝りをほぐしていく。

 ぐり、ぐり、という指の感触とともに、ゴリゴリと音が鳴った。

 それは鈍い痛みを連れてくるが、我慢はできる。


 痛いな……、あぁ本当に凝ってるんだな。


 痛い、痛い……、と思いながらも、大人しく彼女の施術に身を任せる。

 しかし、首が熱を持ってくると、その感覚が変化していった。

 痛みは徐々に薄れていき、代わりに快感が生まれてくる。

 じわりじわり。

 本当にゆっくりではあるものの、気持ちよくなってくる。


 老廃物が彼女の指によって、徐々に分解される様を想像させた。 

 詰まっていた血流が流れ出し、ぐずぐずに崩れた老廃物が勢いよく流れていく。

 それによって、温かい快感が首を覆う。


「疲れが取れなくて、より疲れる。すると、さらに老廃物が溜まる。それでまた疲れる。悪循環なんですよ。お客さん、今日来てくれてよかったよ。ちゃんと血行をよくして、今日はぐっすり眠ってください」


 そう言われると、最近寝つきも悪かったような。

 俺が仕事嫌すぎて疲れているだけかと思っていたが、この身体のだるさにはきちんと理由があったようだ。

 マッサージがここまで気持ちいいのも、きっと身体が疲れているから。

 そう考えると、疲れるのも悪いことばかりではない……、なんて現金なことを思ってしまう。

 もちろん、仕事なんて極力やりたくはないけれど。

 

 しばらく丁寧に首をほぐしてもらったあと、今度は手が下へと下りていく。


「ここもちゃんとほぐしておきましょうねー……」


 肩甲骨のあたりを、ぐりぐりと手で刺激された。

 おそらく手のひらで、円を描くように肩甲骨を押されている。

 押す、というよりは回す。

 それは肩ほど強い快感ではないものの、むず痒いような、甘い感覚が一定の間隔で与えられる。

 ぐりぐりぐり……、と手が動くたび、ふわふわとした快感が広がった。


 気持ちいいな、これも……。

 肩が軽くなっていく……。


「そこ……、気持ち、いい……」

「あ、本当? よかった。わたしもここ揉まれるの好きなんですよねー」


 俺がぼそりと言うと、明るい声が返ってくる。

 気持ちいいと言ったおかげが、そこを重点的にぐりぐりと押してくれた。


 あぁ本当に気持ちいいな、これは……。


 疲れが彼女の手に吸われて、そのまま宙に漂っていく感じがする。

 今までと違って痛みも少なく、なんだかただただ甘やかされている気分だ。

 快感の流れに身を任せる。


 あー……、気持ちいいー……………………。


 ここで俺はひとつ、失態を犯す。

 リラックスできる空間で気持ちいいマッサージに身を任せ、その時間を楽しむために来ていたのに。

 最初の数十分で、俺は眠りに落ちてしまったのだ。


――


「はーい、お客さん。一度、座ってくれます?」


 はっとする。

 背中をぽんぽんと叩かれ、今までと違ってはっきりした声をかけられる。

 一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。

 何せ、目を開けたときに見えたのは床だったからだ。

 

 顔を上げて時計を見ると、確かに90分以上経っている。

 眠ってしまったことに気付き、反射的に「もったいない……」と感じた。


 いやもちろん、寝ている間にも彼女は施術を続けてくれたんだろうけど、その気持ちよさを俺は体感したかったわけで……。


 軽くへこみながら身体を起こすと、確かに肩は軽くなっていた。

 そのまま、言われたとおりにベッドに腰掛ける。

 すると、後ろに回った彼女が、再び肩に手をやった。

 仕上げか何かなのか、手早く肩をぐにぐにと揉んでくれる。


 あ、気持ちいい。


 しかも、今までと違って全く痛みがない。

 肩がやわらかくなった実感がある。


「だいぶほぐれましたねー、よかったよかった」


 彼女は笑いながら、マッサージを続ける。

 その快感に身を任せていると、今度は違うマッサージに発展した。


 両手を合わせて、それを軽く肩に打ち出してくる。

 力は入っておらず、ぼすっぼすっ、という気の抜けた音が響き始めた。

 軽く叩かれているだけ、みたいなマッサージだ。

 床屋が髪を切ったあとにやってくれるやつ。


 あれはてっきり床屋だけかと思っていたが、こうしてマッサージ店でもやるんだから、歴としたマッサージなんだろうか。


 それに、不思議と気持ちいい。


 極楽極楽、と身を任せていると、今度はチョップみたいなのを高速で打たれる。

 力の入っていない手刀で、ひたすら叩かれるやつ。


 ポコポコポコポコ……、とまた違う気の抜けた音が響き渡る。

 あぁぁぁぁぁぁ……、と声を出したくなる。

 いや、これはこれで気持ちがいいのだ。

 なんだかよくわからないのに、わからないなりの快感がある……。


 しかし、楽しい時間はすぐ終わってしまった。

 これはまぁ、おまけみたいなものだったんだろう。


「はい。これでおしまいです。お疲れ様でした! いやぁ、しっかりほぐれてよかったねぇ」


 ふふ、と小さく笑って、彼女は俺の背中を撫でる。

 手が離れることを寂しく思いながら、今度来るときは絶対に寝ないぞ、と俺は心に誓った。




「はい、こちらレシートです。ありがとうございました。また来てくださいねー」

「ん、ありがと」

「お客さん。仕事に疲れたら、またうちに寄ってよ。身体は楽にできるからさ」

「ここにはまた来たいけど、仕事で疲れるのはごめん被りたいね」


 カウンターにもたれ、フランクに手を振る女子高生に背を向け、俺は店から出ていく。

 外はさらに夜が更け、ただでさえ静かな街並みから音が失われていた。

 そこに、かんかんかん、と階段の音を鳴らしていく。


「あー……、確かに楽だわ……」


 腕をぐるぐる回すと、肩の重さが全く違う。

 というか、これだけ肩が軽くなって、ようやく身体が重かったことを自覚できた。

 身体はちゃんと疲れていたらしい。

 またデスクワークが多くなったら、この店に立ち寄ろう。


「しかし、結構遅くまでやってるんだな……。高校生なのに、いいのか? あぁいや。別に高校生ではなかったか」


 あの妙な店員のことを思い出しながら、俺は小さく息を吐いた。

 

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