刑事と雪女

 村人の不満は、おさまりませんでした。雪乃が怪しい、雪乃はおかしい、悪意は吹雪のように駆け巡りました。


 村人たちが押しかけて数日たったある日、その日も雪が降っていましたが、村人たちは一人の男を連れてきました。西洋式の外套を着たその男は、東京から来た刑事でした。


「正直なところが聞きたいんですがね」


 刑事は煙草をふかしながら、ゆったりと雪乃に語りかけました。雪乃が睨みつけても動じません。


「伯爵家の人間に問い合わせましたが、あの家に病気の令嬢はいません。この土地のことも、古い武家屋敷のことも、すっかり忘れていたと来ている。……あなたは何者だ?」


 答えようとする雪乃を制して、刑事は話し続けます。


「調べるうちに、奇妙な事件を知りました。この村の娘を売りに行く途中、女衒のじいさんが死んだとか。近くの山、それも冬の雪山ではよく人が死ぬ。珍しいことではありませんが……ね?」


 刑事と雪乃は、両者ともお互いから視線を外しませんでした。


「何が言いたい?」


 やにわに刑事は立ち上がり、雪乃に煙草を投げつけました。


「熱っ!」


 雪乃は煙草の当たった手をさすりました。白魚のような手からは湯煙があがり、煙草の火は一瞬にして消えました。


「ば、化け物だ! 雪女が出た!」


 村人の誰かが叫びました。外はいつのまにか大吹雪に変わり、逃げようとした村人が障子を開けたので、お屋敷の中まで風が吹き荒れ、そこにいた全ての人を飲み込みました。


「雪乃さま!」


 民子は叫びました。こんなにもあっさり、女主人を失いたくありませんでした。


 雪乃を一目見た時から、あの夜がちらついて離れませんでした。あんなに美しい人を見るのは、最初で最後だと思っていたから。あの時の女は、いいえ、雪乃は民子を救ったのです。悲しい運命を、変えてくれたのです。


「雪女はどこだ!」


 刑事の怒鳴る声がしました。民子は必死に雪乃を探しました。誰よりも早く、雪乃を見つけなければなりませんでした。怒れる人々から、彼女を守らなければいけないのですから。


「民子」


 背後から、雪乃の声がしました。


「雪乃さま!」


 民子が振り返ると、そこにはあの夜と同じ、白装束の雪乃がいました。


「お前は、気がついていたね」


 民子は黙って頷きました。


「そうよ、女衒を殺したのも、役人を殺したのも、あたくし。……それは雪のこと。そしてお前が、その事を一言でも言ったら、あたくしはお前を殺すと言った。……お前は話さなかった。でももう、ここにはいられない」


 雪乃は民子の手を握りました。民子は強く、その手を握り返しました。


「雪乃さま、どうして、私を助けてくれたのですか。なぜ、ずっと私のことを気にかけてくれたのですか。私は、私は……」


 民子が尋ねると、ふっと雪乃は微笑んで、こう言いました。


「そうね、月が綺麗だったから、とでも言っておくわ」


 その手は雪のように冷たく、その笑顔は何よりも民子の心を温かくしました。ああ、お別れなのだ。民子は涙を流しました。それを優しく拭って、彼女を励ますように、雪乃は声を張り上げました。


「村人に伝えなさい。鉄道は勝手になさるがいい。けれど山を、民子を、大事に大事になさるがいい。もしあたくしの可愛い木々が、川が、そして民子のような悲しい子どもたちが、あなたがたに不平を言うことが少しでもあったなら、雪山や夜に住む化け物の恐ろしさを忘れたのなら、あたくしはそれ相当に、あなたがたを扱うつもりだから!」


 雪乃は叫んで叫んで、それなのに彼女の声は細くなって行きました。風の叫びのように、――それから彼女は輝く白い霞となって、空へ昇っていきました。吹雪は止み、……もう再び彼女を見ることはありませんでした。




※※※




 鉄道が通り、村は栄えました。人がゆき交い、山越えの簡単になった村では、もう民子のように身売りされる子どもはいなくなりました。


 けれど村人たちが、雪女を忘れたわけではありませんでした。雪山に入る時は山に祈り、冬に酔っ払って外を出歩くような真似は決してしませんでした。雪山で美しい女に出会ったら、その時は煙草を消すように、と尾鰭までついて、村人たちは語り継ぎました。


 冬が訪れるたびに、民子は雪乃の気配を感じるようになりました。静かに雪の降る夜、彼女は火鉢の前で、子どもたちに物語を聞かせました。


「まだ私があばたの目立つ少女だった頃のこと……」


 子どもたちは目を輝かせて民子の話に耳を傾けました。


「――きっと雪乃さまは、私たちを守ってくれたのよ。恐ろしい雪女だったけれど、大切なことを教えてくれたの。だから、私たちも雪乃さまが可愛がっていたものを、大切にしなければならないの」


 子どもたちがどこまで民子の話を覚えているかは分かりません。昔話なんて、ひょっとしたら明日にでも忘れてしまうものかもしれません。それでも民子は繰り返し、繰り返し、語りました。


 民子は静かに目を閉じ、心の中で雪乃に感謝の言葉を捧げました。


「ありがとう、雪乃さま」


 雪の静かに降り積もる夜、民子は心の中で雪乃の存在を感じながら、穏やかな眠りにつきました。雪乃が去った後、民子の植えた椿が、庭で鮮やかな花をつけていました。

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ゆきの 刻露清秀 @kokuro-seisyu

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