ゆきの

刻露清秀

あばたの少女と雪女

 明治の中頃のことです。ある寒村で、一人の若い女が旅に出ようとしていました。冷たい風が吹きすさび、夜空には重たい雲が垂れ込めています。もうすぐ雪が降ることでしょう。旅の途中に吹雪にならなければいいのですが。


「器量の悪いお前も、ようやっと買い手がついた。せいせいしたよ」


 女の母親が、憎まれ口を叩きます。貧しいこの村では、娘たちはほとんどが女郎になります。幼い頃にに罹り、顔一面にあばたのある女は、なかなか買い手がつかなかったのでした。


「おっ母さま、今までありがとうございました」


 民子たみこという名前のその女は、深く頭を下げました。民子は母親の憎まれ口が、寂しさを隠すための嘘であることがわかっていました。父親が亡くなってから、女手一つで育ててくれた母親の目には、涙が浮かんでいました。


 民子は女郎になりたいと思ったことはございませんし、母親も女郎になってほしいとは思っていませんでしたが、弟妹を育てるにはお金がいります。炭鉱も製糸場もないこの村には、働き口がありませんし、それを世話してくれる人もいませんでした。


「……達者でな」


 母親と弟妹に見送られ、民子は生まれ故郷を後にしました。大柄で年老いた女衒だけが旅の仲間です。ずんずんと先を行く女衒ぜげんを追いかけているうちに、日が暮れてきました。寒さに凍えそうになりながら、民子は一人、頬を伝う涙を拭いました。


 遊女屋のある町に行くには、山を越えなければなりません。山の気候は変わりやすく、じきに大吹雪になりました。そこで女衒と民子は、山小屋に避難することになりました。熊を打つ猟師か、それとも木こりか、誰が建てたのかはわかりませんが、避難する場所があったことを、民子は僥倖ぎょうこうに思いました。


「今日はこごで寝るごどになるな」


 愛想のない女衒はボソリといったきり、みのをかぶって寝てしまいました。しかし民子はみのをかぶって横になっても、目がさめてしまって、がたがたと震えていました。外は大吹雪。雪が粗末な山小屋の戸にあたり、誰かが戸を叩いているようでした。風の音は人が叫んでいるように聴こえます。


 小屋には火鉢がありません。火をたく囲炉裏もありませんでした。戸口しかない小屋に、すでに寝てしまった、よく知らない老人と二人きり。民子は心細くて仕方がありませんでした。それでも体は疲れているので、民子はいつの間にか浅い眠りに落ちました。


 彼女がしばらくして目を覚ましたのは、顔に雪がかかったからです。民子はもがさに罹った時のことを夢に見ていたので、おっ母さまが頭に氷をのせてくれたのかと思いました。目を覚ますと故郷ははるか遠く、親元を離れていたことを思い出し、寂しく思いました。


 民子の顔に雪がかかったのは、小屋の戸が開いていたからでした。吹雪が狭い小屋の中に吹き込んでいるのです。寝起きのまわらない頭で、戸を閉めなくちゃ、と思ったその時、老人の枕辺に座っている、一人の女に気がつきました。


 雪あかりに照らされたその顔は、大層色が白く、見惚れるほどに美しい女でした。白装束で、長い黒髪を背中に垂らしています。女は老人の上に屈んで、深い皺の刻まれた女衒の顔に、その息を吹きかけていました。ふーっと吹かれた、細く長く、白くて煙のような息が、女衒の鼻に吸い込まれていきます。吸い込んだ息をゆっくりと吐くと、老人はそれきり音を立てなくなりました。


 女は老人を優しく撫でると、民子の方へいざりよってきます。民子は自分の体が全く動かないことに気がつきました。白衣の女は民子の上に屈み込んで、唇が触れそうなほど近くに顔を近づけました。


 民子はこの女を恐ろしく思いました。恐ろしかったのに、顔を背けることができませんでした。瞳は夜空に瞬く星のように煌めいて、薄紅色の唇は艶やかで、長く見つめ合っていると、金縛りにあっていることなど忘れてしまいそうでした。


 女は長い間、民子のことを見つめていました。それから彼女は微笑んで、そしてささやきました。


「あたくしはあの老人のように、お前のことをしようかと思った。だけどお前は、ずいぶんと気の毒な身の上だね。それにお前は若くて、可愛らしい」


 民子が首を振ろうとしたのを、女は認めたようでした。


「あばたが気になるかい? そんなもの気に病むほどのものじゃないさ。……決めたわ。あたくしはもう、お前を害しはしません。だけどね、このことを、今夜見たことを誰かに言ったら、あたくしはお前を殺しますよ、民子。……よく覚えておきなさい。あたくしの言ったことを」


 そう言って、女は優雅に向き直り、戸口から出ていきました。民子はしばらくぼんやりとしていましたが、ふと我に返ると、金縛りが解けていました。民子は起き上がって戸を閉め、また戸が開かないように木の棒を立てかけておきました。吹雪が戸を吹き飛ばしたのではないか、うなされて夢を見ていたのだ、と民子は思いました。


 悪夢には違いありませんが、夢のようなひと時でした。どうせ夢ならば、あの美しい女の人に、息を吹きかけてもらえばよかった。民子はこれからのことを思い、そんなことまで考えました。


 いつまでも夢に浸っているわけにはいかないので、民子は女衒に声をかけました。彼は返事をしません。老人の眠りが浅いことはわかっていたので、民子は驚きました。民子は女衒を起こそうと肩に触り、それが氷である事がわかりました。女衒は固くなって死んでいたのです。

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