小間使いと伯爵令嬢
女衒が死んでしまったので、民子は生まれ故郷に帰ることになりました。遊女屋が不吉な女郎を嫌がったのです。民子を買った金を返せと言われ、万事休すかと思われました。
しかし、そこに思わぬ救いの手が差し伸べられました。東京に住んでいる伯爵のご令嬢が、病気の療養のために、この地に移り住んでくることになったのです。身の回りの世話をしてくれる女を探している、というのです。
民子が初めてお屋敷に足を踏み入れたのは、夜の帳が降りた頃でした。朝に東京から来たばかりのご令嬢は、しばらく休ませてほしいとおっしゃったので、夕方になってから迎えが来たのです。
大きな門をくぐると、そこには重々しい、不気味な空気が漂っていました。そこはご令嬢がやって来るまで誰も住んでいなかった、古い武家屋敷でした。井戸からは幽霊がでるという噂もあります。夜の屋敷には、ハイカラなランプがありましたが、明るい光は、よりいっそう濃く、不気味な影を、壁に映し出していました。
「こちらへどうぞ」
家令に案内された廊下は長く、冷気が漂っています。民子は背筋に冷たいものを感じながら、震える手をさすりました。歩くたびに、古い床がギイギイときしむ音が、耳に刺さります。
一つの扉が音もなく開かれました。そこには布団が敷かれていて、佇む白い影が見えました。民子は、心臓が一瞬止まったかのように感じました。
「お前が民子ね」
その声は、どこか懐かしく、同時に鈴を転がすような美しい声でした。ゆっくりと顔を上げた令嬢は、長い黒髪と白い肌、そして瞳に宿る冷たい輝き、病気というのは本当のようで、顔色は優れないものの、耳にかけた椿の花に劣らない美しさでした。白い寝巻きを着て、長い髪は
「あなた様は……」
民子の声は震え、喉の奥で言葉が詰まりました。令嬢は微笑み、しかしその微笑みにはどこか不気味な影が潜んでいました。
「雪乃、というの。雪乃さんとお呼び」
「はい、雪乃さま」
「……まあ、いいわ」
民子は自分の体が震えているのを感じました。冷たい風がどこからともなく吹き込み、ランプの火が一瞬揺れました。
「ここに来て、あたくしの側で仕えることになったのね」
雪乃の瞳が民子を見つめ、その目には言い知れぬ力が宿っていました。民子はその視線から逃れることができず、ただ黙って頷くしかありませんでした。
「大丈夫、移る病気じゃないのよ。でも何かと不便でね。お前がここに仕えてくれることになって嬉しいわ」
「光栄です。雪乃さま」
「ここにいる家令はすぐ東京に帰るわ。女二人暮らしになるのよ。もっと気楽にしてちょうだいな」
雪乃の言葉に、民子はただ頷くしかありませんでした。しかし、その言葉の裏に隠された何かに、彼女の心は不安でいっぱいでした。この瞬間から、民子の伯爵邸での生活がはじまりました。
※※※
はじまりこそ不安で胸がいっぱいだったものの、雪乃との日々は、穏やかで幸せなものでした。
雪乃さまは、高貴な生まれだから、私とは違う人なんだ、と民子は考えました。雪乃は生まれつき体が弱く、友達がいなかったので、民子のことをたいそう可愛がってくれます。
「民子は本当に可愛いねぇ」
不思議なもので、雪乃がそう言うと、気にしていたあばただらけの顔も、あかぎれだらけの手も、気にならなくなりました。雪乃はいつまでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えました。
困ったことといえば、雪乃が寝坊助の暑がりであることくらいです。雪乃は朝が苦手で、起こそうとしても夕方まで眠っていることがほとんどでした。また真冬でも火鉢に当たらず、民子の部屋に火鉢を置くことは許されたものの、自分の部屋には決して火鉢を置きませんでした。
おかしなお嬢さまだ、と民子は思いましたが、民子の手料理に飛び上がって喜び、一緒にカルタ遊びをして楽しみ、ニコニコと微笑んでいる雪乃を見ると、そんな些細なことは気にならなくなりました。
雪乃は決まって、夕食を民子と一緒に食べました。高貴な人は召使と同じものは食べないと思っていた民子は、丁重に断ろうとしたのですが、雪乃は一人は嫌だと言ってききません。
「ねえ、いいでしょう? あたくしが主人なのよ」
そう言って頬を膨らませる雪乃は、いつもより幼く見えて、ついつい甘やかしたくなってしまいます。
「美味しい、美味しい。お前は村一番の料理上手ね」
大袈裟に褒め称えながら食べる雪乃の姿を見ると、民子は作ったかいがあった、と胸が温かくなるのでした。もがさに苦しみ、治ってからはあばたに悩まされ、貧しさから遊女屋に売られそうになったのも、この笑顔を見るためだったのかもしれない。民子はそう思うことにしました。
女衒が死んだ、あの恐ろしい夜のことを、忘れたことはありませんでしたが、民子はそれは生涯胸にしまっておこうと決意していました。
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