シアハニー・ラヴソング

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 〝天国ヘヴン〟アイベリー地区の片隅にある小さな家。かつて彼と一緒に住もうと誓い合った小さな住まいに、アネモネは一人で暮らしている。きっとここは、アネモネの終の棲家すみかになる。

 

 庭には、色とりどりの鮮やかな花が植えられている。

 アネモネは、庭の植物に水をあげて静かに微笑んだ。

 彼の好きな花は結局わからなかった。聞くことができなかった。だからアネモネは、自分の名前と同じ花を植えた。ずっと一緒にいられなかった分を埋めるように、彼のそばに植えた。

 

 アネモネは今も追想している。彼のことを。

 彼の人生が、大きく変わってしまったあの日のことを。

 

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 暴漢を撃ち殺し、拳銃を手にした幼いデュランは、硝煙の煙と返り血を浴びながら泣いている。もう彼の目には、真っ黒な絶望しか残っていなかった。アネモネは彼を抱きしめようとしたが、できなかった。暗く深い溝のような断絶が、ふたりの間には生まれてしまっていた。

 幼いデュランの絶望を、屈辱を、痛みを、悲しみを、浅はかな言葉や態度で和らげることなんてこと、アネモネにはできなかった。


「デュラン……」


 それでもアネモネは震える声で手を伸ばし、彼の名前を呼んだが、もう彼には何も届いていなかった。ぶつぶつと聞こえる悲鳴のようなかすれた声は、まるで子守唄ララバイを歌っているかのようだった。 

 やがてけたたましいサイレンとともに警察がやってきて、アネモネは『保護』された。デュランは呆然としたまま別の警察車両に乗せられ、何処かに連れて行かれた。

 警察車両に閉じ込められる前、アネモネは必死に身を乗り出してデュランの名前を何度も何度も呼んだが、彼は振り返ることもできず連行されていった。

 その小さな後ろ姿が、アネモネの脳裏に焼き付いて、今も離れない。

 

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬

  

 デュランがいるのは少年院というところらしい。護衛のカルラからそう聞いて、彼に手紙を送り面会をしようとした。しかしアネモネの両親は、デュランと連絡を取ろうとする行為を許さなかった。両親はアネモネを抱きしめて泣いていた。


「もうあんな危険なことはしないでくれ。お願いだ……」


 アネモネは、その言葉に目を見開いて、返事ができなかった。自分の浅慮で、どれだけの人を傷つけたのか、この期に及んで理解できないほど愚かではなかった。


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 そして、身勝手に名門校から脱走したアネモネは、復学した途端に針のむしろになった。友達だと思っていた人達から遠巻きにされ、距離を置かれるようになり、代わりに意地悪なゴシップ好きの人間が近づいてくる。

 アネモネは孤立していた。


 アネモネとデュランの関係性を嘲笑うように、踏みつけるように、好き勝手に囁かれた噂。その中でも、一番辛かったのはデュランを中傷する心無い言葉だった。

 デュランが金目当てで近づいたという噂、アネモネに暴力を振るっていた噂など、ほとんどが根も葉もないものばかり。しかし、暴漢を撃ち殺したというのは真実だった。アネモネを庇っていたせいで、デュランが犯した罪。血と脳漿にまみれて涙を流すデュランの姿が脳裏にフラッシュバックする。アネモネは、めまいをこらえながら叫んだ。

 

「わたしのことはどう言ってもいい。でも、デュランのことは悪く言わないで。デュランは、わたしを守ってくれただけなの! わたしのせいなの! 責めるならわたしだけにして……!」

 

 しかし、アネモネが反応を見せたことで悪しざまに囃し立てる声がもっと大きくなる。暴力を振るうものはいないが、低俗な嫌がらせは続いた。

 アネモネは唇を噛んで俯く。愛するデュランを悪評から守ることすらできない自分の無力が悔しかった。アネモネの瞳に涙が滲むが、デュランの心の痛みと辛さを思えば自分だけ泣くことはできなかった。ただ、デュランに会いたかった。デュランを抱きしめたかった。

 まだ、この頃のアネモネは、ふたりでなら、どんな痛みも苦悩も乗り越えていけると思っていた。


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬

  

 名門校に戻された後は、さらに厳しい監視の目と警備に晒されて、ささやかな動きでさえも制限された。

 アネモネの個室や窓には鍵と格子がつけられて、食事のときのスプーンすらも逐一ちくいち回収される。

 まるで牢獄のようなその暮らしは、アネモネにとって当然の罰のようにも思えた。デュランに会いたい、そばにいたいというだけの浅はかな願いのために、アネモネは責任や立場、両親からの愛、何もかもを放り捨てた。

 デュランはアネモネの持っているものの大切さを説いてくれていたのに、アネモネは無責任に彼に未来の全てを委ねようとした。 

 アネモネが足手まといにならなければ、彼に庇われていなければ、きっと、彼はどうとでも逃げられた。少なくとも暴漢を撃つことなく立ち回れたはずだった。

 

 

 〝監獄〟のような日々は、悪しざまに嗤われる日々は、そんなアネモネにとってのあまりにも釣り合わない軽い罰だった。

 固く施錠された格子付きの窓から覗く満月は、彼の金色の瞳と同じ色をしていた。

 彼の眼差しが、彼の優しい手が、抱きしめてくれた温もりの儚さの記憶が、アネモネの胸を焼いた。


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬

 

 アネモネは、愛しいデュランのことを忘れたことなど一日たりともなかった。しかし、何年経っても監視の目は緩まず、全く打つ手がなかった。アネモネはせめてデュランの近況だけでも知りたくて、何通も何通も手紙を書いたが、厳しい検閲のある名門校から少年院に手紙を出すことは許されず廃棄された。目を盗んでこっそり出した手紙さえも、デュランが少年院から出ていたため、宛先不明で返送されてアネモネの手元に戻ってきてしまった。


 ――デュラン。あなたは今、何処で何をしているの……?

 ――わたしのことを、覚えていてくれていますか……?

 

 名門校付属の大学を卒業し、親の事業の一部を継いで、小さな商会の商会長として慣れないながらも振る舞うようになった頃。デュランと離れ離れになってから長い長い時が経って、ようやく監視の目が緩み、私立探偵を雇うことができるようになった。


 成人したアネモネは、彼がいるかもしれないという理由だけで〝地獄ヘル〟ロザー・シェレフ地区に飛び込むようなことはしなかった。以前のように無鉄砲に動けば、結局、と、痛いほどにわかっているから。

 本当は今すぐにでも飛び出したい気持ちを抑えながら、今度は慎重にデュランの行方を捜す為の手を打った。 

 デュランが暴漢を撃ったあの日から、長い長い時間が経っていた。

 彼が今、生きているのか死んでいるのかすらわからない。それでももう一度、あの美しい満月のような瞳を持つ彼に会いたくて、アネモネは調査結果を待ちながら過ごした。


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 アネモネが訪ねたのは、私立探偵事務所の応接室だった。報酬さえ積めばどんな危険な依頼でも受けてくれると評判の事務所で、アネモネはすがる思いで私立探偵事務所を頼ったのだ。そして、今日は、調査結果を聞くことになっている。

 私財を投じて、デュランの行方を探してもらっていた。大規模なマフィアの内部抗争が起きていたせいで、〝地獄ヘル〟ロザー・シェレフ地区の治安は急激に悪化していた。とてつもなく危険な調査になるとわかっていたため、お金に糸目はつけなかった。

 アネモネが座る椅子の前のテーブルには、探偵が調べてきた資料が封筒に入ったまま並べられている。アネモネは、資料に目を通す時間さえ惜しいと思い、単刀直入に問いかけた。


「デュランは、生きているんですか?」

「ええ。ロザー・シェレフ地区に所在が確認できました。生きています。……生きてはいますが……」

 

 探偵は言いにくそうに言葉を濁す。アネモネは、彼の生存が嬉しくて微笑んだ。彼の背負っている重荷を、これからはアネモネもともに背負うのだ。デュランが生きてさえいてくれればいくらでも取り返しがつく。

 このときはまだ、そう思っていた。


「よかった! デュランは今どこにいるんですか!?」 

「……どうか、落ち着いて、お収めください。これが彼の経歴です」


 探偵は封筒から資料を取り出して、アネモネに手渡した。差し出された書類には、信じられないことばかり書いていた。アネモネとデュランの人生が引き裂かれて、彼が少年院を出たあとに、彼がしたことが書いてあった。

 アネモネは、添付された資料と写真を見て、息を呑む。 

 彼の血の繫がった父親に対して起こした、。命までは取らなかったようだが、デュランの父親は舌を切り取られ、歯や爪を全部剥がされただけではなく、両手足の腱を深く切られてにされている。

 デュランの父親は長期間に渡って拷問されたことで精神を病み、その介護に疲れ果てた伴侶エリザベスも心を病んだ。結果、デュランの父親がアイベリー地区で新しく作っていた家庭は崩壊状態になってしまったという。以前は美しかったであろう庭園が荒れ果ててボロボロになっている様子は、ここに暮らしている家族がどうなってしまっているかを象徴しているようだった。 

 アネモネは、添付されたデュランの父親の凄惨な写真を見て、絶句し、息を呑んだ。、と思った。息が止まりそうなほど、驚いた。嘔吐してしまいそうになった。アネモネは、口を手で押さえて、荒い呼吸を抑えるようにして問いかけた。


「これを、本当にデュランが……? 冤罪じゃないんですか……?」

「……申し上げにくいのですが、その可能性は全くありません。犯行現場からは彼の指紋が検出されていますし、そもそも、彼は自分で出頭して自白しています。『惨めに死んだ母親と同じ姿にしてやりたかった』という調書が残っています……」


 デュランの父は、身籠ったデュランの母を捨てた。捨てただけでなく、デュランの母が持っていた財産を根こそぎ奪ったという。デュランが幼くして働きに出なくてはいけなかった理由。彼とデュランの母親がとてつもなく困窮していた理由。それは全て、デュランの父が引き起こしたことだったと、アネモネはようやく知った。

 デュランは、言葉にはあまり出さなかったけれど、彼の母親をとても大切にしていた。分けてもらったパンをほとんど食べず、母親のために取っておく姿からは、家族への愛情深さが感じられて、アネモネは彼のそんなところが好きだった。

 

 そんな彼の母は、彼が少年院にいる間に精神病院で痩せ細って死んでしまった。彼は、死に際を看取ることもできなかったのだと書いてあった。たったひとりで母親の死を受け止めなければならなかった幼い彼の悲しみを思った。そして、本来なら頼れるはずの父親が、自分達を捨てて新たな家庭を作って幸せそうにしていることを知ったときの幼いデュランの気持ちを思った。


 デュランの絶望や悲しみが最悪の形で実を結んでしまったのだと悟った。彼は、彼の母親を傷つけて捨てた父親のことを、ずっと許せなかったのかもしれない。そうだとしても、あまりにも残虐で、非道で、してはいけないことだった。デュランの父親だけでなく、その伴侶と子どもの人生も滅茶苦茶に壊した加害者。

 もう、アネモネが愛したデュランの優しい笑顔は、どこにもなくなってしまったのかもしれないと思った。

 

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 悪い知らせはそれだけではなかった。

 現在のデュランの動向についての資料はさらに凄惨なものだった。

 探偵が撮影してきたという少しブレた写真には、青年になったデュランの姿が写っていた。ウェーブがかった黒髪に、金色の瞳。色合いはあの頃と変わっていなくて、アネモネは涙ぐんだ。しかし、アネモネの大好きだった美しい金色の瞳は、もうそこにはなかった。彼の眼差しは、隠しきれない狂気と威圧感に満ちていた。それだけではない。彼の首元には悪魔の鉤爪のような入れ墨が入っていて、彼の現在の〝職業〟を察するには十分だった。


「……デュランは……今……何を……?」


 本当は、尋ねるまでもなくわかっていた。確定させるのが怖かった。認めたくなかった。アネモネは震える声で問いかける。探偵は、アネモネの迷いを断つように、きっぱりと言い切った。


。彼は、〝解体屋〟と呼ばれているようです。何を解体しているかは……推して知るべしですな。主に、拷問や死体の清掃、ボスの護衛等幅広く担当しているようです。どうやら、ボスに気に入られているようで、後継者候補とも目されているようです。重要な会合にも参加しており、中核メンバーと考えても問題ないかと思います。調査員の身の危険を鑑みて、これ以上の情報は掴めませんでしたが……」

「…………」


 気が遠くなりそうだった。絶望しながらその言葉を聞いていた。目眩がして、視界が狭くなって、頭痛がして、心臓が痛いほどに鳴っている。息が苦しい。

 信じられなかった。信じたくなかった。嘘だと叫びたかった。

 あのデュランが、アネモネの手を優しく引いてくれた大好きな初恋の人が、今は、恐ろしいマフィアの構成員に成り果てているだなんて、認めたくなかった。

 しかし、現在いまのデュランの写真をひと目見て、わかった。かつては満月のように綺麗だった彼の瞳は濁って淀んでいる。彼は血に染まった人生を歩んでいる。彼の首元に刻まれた悪魔の鉤爪の刺青は、まるで彼の首を絞めているかのように深く刻まれていた。


 アネモネは、幼いデュランの笑顔を思い出す。

 優しく抱きしめてくれて、不器用な愛を伝えてくれた、あの日のデュランはもういない。アネモネの愛した人は、その愛情深かったはずの心は、きっともう、跡形もなく変わり果ててしまっていた。

 

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 もし、もしアネモネが幼いあの日、会いに行かなかったら、彼に庇われていなければ、彼の人生は大きく違っていたかもしれない。アネモネは、本当はわかっていた。彼の人生が、あの日あの時に大きく傷ついてしまったことを。

 取り返しなんてもう、つかなかったことを。

 写真を握りしめて呆然と座り込むアネモネに、探偵は語りかける。

 

「……昔の彼がどうであろうと、現在の彼がこうなってしまっている以上、接触は決しておすすめできません。接触しようとしても、マフィアの構成員に射殺される可能性が高いですが……。正直なところ、これから先のことは警察に任せたほうがいいと思います。民間人が介入できる領域を超えています」

「……」

「それに、彼と対面できたとしても、彼はもう……あなたのことを愛していないかもしれません。覚えてすらいないかもしれない」


 その可能性はずっと、アネモネの頭の中にあった。世間知らずのアネモネでも、人の心が永久的に変わらないはずがないことはわかっている。 

 アネモネがまだ学生だった頃、名門校の監視をくぐり抜けて彼に会いに行ったのも、会えない間に、彼に忘れられるのが怖かったから。アネモネは彼に愛してほしかった。ずっとずっとそばにいてほしかった。あの頃は、少しでも手を離してしまえば、デュランを他の人に取られてしまうと思っていた。アネモネのその独占欲わがままが、デュランの人生を壊すきっかけになった。アネモネは、血に染まったデュランの人生を思えば思うほど呼吸が苦しくなるのを感じた。優しかった彼を壊したのはアネモネだった。そんなアネモネのことを、デュランがどう思っているかなんて、考えてしまったら、息ができなくなる。


「……今のあなたは、商会の従業員の生活と人生を背負っている。努々ゆめゆめ、軽率な行動は取られませんように。……失礼。探偵の領分を超えた事を言いたがるのは、私の悪い癖でして」

「…………わたしは……」


 経験が浅く、頭が良いわけでもないアネモネが、商会長としてやっていけているのは商会の面々が温かくいい人たちだからだ。その人たちの人生を背負っているアネモネが傷ついたり、死んだりすれば、迷惑がかかるどころではない。いろんな人の人生が崩れてしまう。


「……あなたと彼が、幼い頃に愛し合っていたというのも、私にはにわかに信じがたい部分があります。彼はご両親からの手切れ金を受け取っていたそうですし、最初からあなたの家の資産が目当てだったのでは……」

「――」


 アネモネの脳裏に、幼いデュランの笑顔がよぎる。優しく手を引いてくれた姿。彼にとってとても貴重なパンを分けてくれた姿。アネモネを見つめて細められた金色の瞳。抱きしめてくれた腕の温かさ。触れるだけのキス。その仕草は、その振る舞いは、いつも、彼なりの愛情に満ちていた。

 アネモネは涙をこらえて首を振った。

  

「……今のデュランのことは、わかりません。でも、昔のデュランは、わたしを愛してくれていました。絶対に……」

「……それでも彼とは、縁を切るべきです。会うべきではありません」


 探偵の言葉は正しかった。だからこそアネモネは、反論をすることもできず、俯いてただ沈黙するほかなかった。

  

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 アネモネは、デュランの情報と大まかな居場所を掴みながらも、何も行動できずにいた。アネモネが愛したデュランはもう、この世のどこにもいないのかもしれなかったから。会ったところで、自分と自分の商会を危険にさらすだけかもしれない。

 怖かった。理解ができなかった。実の父親に凄惨な拷問を加えて、生き地獄をもたらした彼の怒りが、マフィアに入り、今も拷問を担当して様々な人を傷つけている彼の生き方が。出会ったあの日、アネモネの手を優しく引いてくれた男の子とどうしても繋がらない。


 血と屍に塗れて大人になった今のデュランが何を思い、何を考え、何のために生きているのか、アネモネにはわからなかった。変わり果ててしまった彼の全てが遠のいてしまった気がした。

 アネモネの愛した美しい夜の月は、もう、雲に隠れて見えない。


 こんなに苦しいのなら、いっそ、何もかも忘れてしまおうと思った。アネモネの罪に蓋をして、何もかも無かったことにしてしまおうとすら思った。それでも記憶の中の彼の笑顔が胸を締め付ける。夕焼けに照らされるロザー・シェレフ地区の路地で、いつもアネモネを待ってくれていた彼の姿が思い出される。

 

 幼いデュランは、アネモネがやってくると微笑みかけてくれた。彼の満月のような瞳が、愛おしそうに細められるのを見るのが好きで、幸福だった。仕事で疲れていた彼を膝枕したとき、彼の寝顔を一番そばで見られて幸せだった。彼は穏やかに眠っていた。寝顔は普段より幼く見えて、可愛かった。あの頃は、ずっとこうしていられたら、他には何もいらないのにと本気で思っていた。 


 ――『じゃあ……〝指切り〟するか?』


 彼の声を思い出す。〝指切り〟は、彼が教えてくれた約束の作法だった。絡めた小指の温かさ。優しく微笑むデュランの表情かおが、どこか切なそうに見えたのは、きっと気の所為せいではない。


 ――指切りげんまん。嘘ついたら、針千本飲ます……。

 

 将来を誓い合った、幼い日の鮮烈な想い出。大人になったら結婚して一緒に暮らすという誓いをいつか本当に叶えられると思っていた。

 もう、遠い、遠い、遠い日の約束。それでも何もかも忘れることなどできなくて、動くこともできずに、アネモネはずっと夜空を見つめて泣いていた。


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬ 

 

 そんなある日、アネモネの親戚であるジニアという少女が誘拐されたという報せが届いた。アネモネにとって、懐いてくれる年下のジニアは可愛い妹のような存在だった。

 犯行声明につけられた悪魔の鉤爪の印に、見覚えがあった。デュランが属するマフィアの仕業だということがわかった。アネモネは、胸をつんざくような心の痛みと焦燥感にかられながらも、ジニアの命を助けるために動き出した。


「わたしの個人資産と、商会の資産を足せば、要求額に届きます、だから……!」

 

 ジニアの両親では身代金を払いきれなかった。痺れを切らしたマフィアが見せしめに人質を殺すことも考えられたため、アネモネは、ジニアの身代金を肩代わりするべく奔走し、資金を集めていた。ジニアは、何の罪も犯していない、優しく素朴な女の子だ。そんな彼女を助けたいと思った。

 

 その矢先、ジニアがシアハニー大通りで保護されて、無事に見つかったという連絡が届いた。マフィアの仲間割れにより助かったらしい。警察署に駆けつけたアネモネは、安堵しながら彼女を抱きしめた。


「怖かったでしょう、もう大丈夫だからね……」


 ジニアは、半狂乱になってもおかしくないというのに、ゆっくりとアネモネを抱きしめ返してくれた。そして彼女は、震える声でこう尋ねた。

 

「アネモネおねえちゃん……マフィアに、知り合いがいるの?」

「え……?」

「あたしを逃がしてくれた人……その人ね……あたしのことを見て……『アネモネ』って呼んだの……」


 その話を聞いたアネモネは大きく目を見開く。アネモネのことを知っているマフィアの構成員は、きっと、ロザー・シェレフ地区に一人しかいない。


「『シアハニー大通りまで行けば、もう自分で家に帰れるだろ』って……その人……言ったの……あたしの縄を切ってくれて……」

「その人は……どんな見た目の人だったの……?」

「…………金色の目と、黒い髪の人だった……」

  

 アネモネの脳裏に、ロザー・シェレフ地区から助けてくれたときの幼いデュランの姿が浮かぶ。彼の不器用な、優しい手の温度も。アネモネは無意識に大粒の涙をこぼした。


「…………アネモネおねえちゃん……?」


 あの日のデュランの言葉が、表情が、迷子になったアネモネの手を引いてくれた彼の姿が鮮烈に蘇る。アネモネは嗚咽していた。

 アネモネを見つめて、優しく細められるきれいな金色の瞳。ウェーブがかった黒い髪。彼の微笑む顔。抱きしめてくれたときの心臓の鼓動。何年経っても忘れられるはずがなかった。

 彼の優しさ。彼の人間性ヒューマニティ

 アネモネを想ってくれる気持ち。

 それが、ほんの僅かだけでも残っているのなら。


「……その人は……わたしのことも……助けてくれたの……」

 

 デュランが、アネモネの名前を呼んでくれるのなら。 

 アネモネの命を捧げても構わないと思った。

 

 アネモネは遺書を書いた。自分が死んでも滞りなく商会が動くようにするために。誰に業務を引き継ぐか、誰に代わってもらうかなど、事細かに指示を残した。とても時間がかかってしまった。それでも、今のアネモネには背負うものがある。背負うものをすべておろしてから、彼のもとに行かなくてはいけない。

 全ての手続きを終えたアネモネは、仮にデュランに殺されるようなことがあっても後悔しない覚悟で彼のもとに走り出した。

 

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 アネモネがデュランをようやく見つけたときには、彼はもう既に腹部を撃たれていて重体だった。デュランは、撃たれてからしばらく歩いて、路地にたどり着いたようだった。点々と続く出血痕が道路に残っていた。

 アネモネと他愛のない会話をした待ち合わせ場所の路地の階段を、死に場所に選びに来たかのように。随分背が伸びて、体格が良くなって大人びていた。死に装束のような黒いスーツに身を包んで、路地の階段に座り込んでいる。十年以上の時間が経っていても、すぐにわかった。

 アネモネの脳裏に、初めて会った頃の幼いデュランの笑顔が浮かぶ。彼は迷子になったアネモネの手を引いてくれた。少ない食料から、それでもパンを分けてくれた少年時代の彼の姿が。アネモネの目を見て、初めて笑ってくれた日の事が鮮やかに蘇る。

 

 彼は囁くように子守唄ララバイのような歌を口ずさんでいた。声変わりしていて記憶の中の声より低音になっていたが、優しい響きがアネモネの耳に届く。そして、彼は小さくアネモネの名前を呼んで、ゆっくり目を閉じようとしていた。

 。あの日と同じ場所で、同じ姿勢で、アネモネのことを待っていてくれた。

 アネモネは叫んで駆け寄った。溢れそうになる涙をこらえてストールを千切って巻き付け、止血しようとしたが、出血が止まらない。手の施しようがなかった。それでも必死に、彼の血を押し留めようとする。


「……アネモネ……?」


 あの日と同じ満月のような瞳が大きく見開かれた後に、アネモネを見て細められる。年月を経ても変わらない、彼の癖。慈しむような優しい眼差し。アネモネは堪えきれずにぼろぼろと涙をこぼした。

 

「……どうして……ここに……?」

 

 デュランはずるいと思った。そんな瞳で見つめられたら、アネモネの心もあの頃に戻ってしまう。デュランを愛して、デュランから愛されていた幸せな時間ときに。


「無駄だ……もう……」

 

 彼は自分の命がもう長くないことをわかっていた。それでもアネモネは必死に彼の止血をする。ようやく会えた。言葉を交わせている。助けられるかもしれない可能性がわずかでもあるなら、それに縋らないはずがなかった。アネモネは叫んだ。

 

「無駄なんかじゃない! 勝手に諦めないで! わたしずっと、ずっと、ずっとデュランを探してたのよ!」


 彼のことを忘れられたときなんてなかった。アネモネの目からぼろぼろと抑えきれない涙がこぼれる。

 デュランは、左手を伸ばしてアネモネの涙を拭ってくれようとしたようだった。しかし彼の左手は肘の部分からごっそり失くなっていて、アネモネには届かない。空っぽになった左の袖を見て、アネモネは息を呑んだ。昔、アネモネの手を引いてくれた優しい左手が失われてしまっていた。

 彼の人生に何が起きて、どうして人を傷つけるような生き方しかできなくなってしまったのかをはっきり目にした気がした。

 そして、アネモネの涙を拭おうとしてくれたことが嬉しかった。彼の変わらない心を感じて涙が溢れた。


「――わたしは、わたしの手を引いてくれたあなたの優しさが好き。愛してるの……ずっと……」


 デュランの金色の瞳から、雫がこぼれ落ちるのを見た。デュランも静かに泣いていた。アネモネだけを見て、涙を流している。

 ふたりで見つめ合うこの時間が永遠になればいいと思った。それが叶わないことを、アネモネとデュランは知っていた。ふたりの時間は、いつも限られている。夕焼けの色が濃くなる。別れの時が近づいている。

 デュランが息を吸って、掠れた言葉を告げた。


「『おれは』……『』……」


 デュランの瞳からはずっと大粒の涙が溢れていた。

 それが嘘だとすぐにわかった。

 幼い頃から変わらない、彼の癖。

 デュランはすぐに嘘をつく。お腹が空いていない。辛くない。苦しくない。幼い頃からそんなことばかり言っていた。アネモネを心配させないために、誰かのための嘘ばかり。

 アネモネも、彼の言葉を聞きながら泣いていた。


「『お前のことが、ずっと、ずっと』……」


 彼は必死に言葉を紡ぐ。もう、息をするのも苦しいはずなのに、唇を動かしていた。デュランの言葉を一言もこぼさずに聞き取ろうと、彼に寄り添うことしかできなかった。


「――『ずっと』……『嫌いだった』……」

 

 ずっとずっと、アネモネのことが嫌いだったのなら、どうして、ロザー・シェレフ地区の、アネモネとの待ち合わせ場所を選んでくれたのか。

 撃たれてその場でしゃがみ込むこともできたのに、そうせず、痛い思いをしながらお腹から血をこぼしながらも歩いて、たどり着いた。この場所に。想い出の場所に。まるでアネモネを待ってくれていたかのように、彼はそこにいた。ずっとずっと、待ち望んでくれていたように。


 アネモネは、デュランの唇にキスをした。彼を愛しているという気持ちを込めて。他の意味は何もなかった。ただ愛を伝えるための口づけ。近づいてくる彼の死を前にして、アネモネは震えて、息が苦しくて声が出せなかった。だから、ただ、ただ、ただ、必死に彼を抱きしめる。彼と頰が触れ合った。冷たい頰。それだけでもう、彼の命が長くないことがわかってしまった。


 彼の吐息の音が掠れて小さくなる。大好きな心臓の音がどんどん弱まるのを感じる。助けは間に合わない。間に合わなかった。

 もっと早く勇気を出して駆けつけていたら、間に合ったかもしれない。少なくとも、デュランと、もっと、もっと、もっと長く話ができたかもしれなかった。後悔を抱くアネモネの腕の中で、彼の体からゆっくりと力が抜けていく。

 アネモネはこわばった声帯を震わせて必死に叫ぶ。彼を引き止めるように、彼の右手を強く握った。いつか手を引いてくれたデュランの手を、今度はアネモネが掴んでいた。


「待って、だめ、いや、いかないで、デュラン、デュラン、デュラン、デュラン! 嫌! 嫌! わたし……まだ……あなたと話したいことが……たくさんあるの! だから、だから、だから……!」


 デュランは、きっと最期の力を振り絞って微笑んだ。その笑顔は、彼が少年だった頃と何も変わらない。アネモネを慈しんでくれた愛おしい人の笑い方だった。彼が、幼い頃、別れ際に見せた切なげな表情かおと同じだった。

 さようなら。そう告げている気がした。彼の唇は動いていなかったけれど、彼の金色の瞳は、最期までアネモネを見つめていた。アネモネの眼の前で、ゆっくりと彼の瞼が力を失って、閉じていく。

 閉じたまぶたから、一雫、涙がこぼれて、頰を伝った。

 それが、彼が最後に流した涙だった。


「デュラン……?」

 

 アネモネの愛したひとの心臓の音はもう聞こえなくなっていた。アネモネは絶叫しながら、血の気の引いた冷たい体を必死に抱きしめて温めようとした。どうしようもないのがわかりきっていても、ようやくこの手に抱きしめた愛おしい彼を手放すことができなかった。護衛が呼んでくれた救急隊が駆けつけて、救命措置が行われたが、もう手遅れだった。

 アネモネは、彼の胸板にすがって大きな声で泣いた。大粒の涙を流して何度も何度も彼を呼んだが、彼はもう答えてくれなかった。

 安らかな顔で、永遠の眠りについていた。


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬ 

 

 デュランの亡骸なきがらを引き取る家族や親類は誰もいなかった。

 そもそも、デュランを撃ったのは、デュランの血の繋がった弟だったらしい。デュランの弟は国外逃亡して、警察に捕まってはいないと聞いた。アネモネは、デュランの弟を追う気にはなれなかった。

 デュラン本人が弟に対して復讐や厳罰を望むとは思わなかった。

 死ぬ間際の彼は、自分のしてきたことの重さを知り、自らの死を含めたすべてを静かに受け入れていたように見えたから。

 

「わたし、死んだら、きっとあなたと同じ地獄ばしょに行くわ。わたしが、あなたに引き金を引かせてしまったから……」

 

 デュランの遺体は、アネモネが引き取って火葬した。

 そして、彼の遺骨をお墓に納めた。アネモネの暮らす小さな家の庭に彼のお墓を建てた。そして、彼のお墓を包むように、アネモネと同じ名前の花を植えている。


「あなたとまた会えたら、今度はたくさん話がしたいの。だから……いろんなものを見て、聞いて、知ってから、あなたのところにいくわ」


 アネモネとデュランは、結婚して添い遂げることはできなかった。生きている間にわずかでも共に暮らせたら、どれだけ幸せだっただろうかと思った。でも、それは叶わなかった。彼が物言わぬ屍になって、焼かれて骨になってから、やっと、ふたりは一緒に時間を過ごすことができている。彼を愛して、彼に愛された日々は、アネモネの人生で一番幸せな時間ときだった。


「その頃には、わたし、しわくちゃのおばあさんになってるかもしれないけど……それでも、待っていてくれる……?」

   

 アネモネの居室は、デュランのお墓がよく見える窓辺の部屋。アネモネの花が、寄り添うように咲いている。

 彼が死の間際に微かに歌っていたフレーズから曲名を探し出し、そのレコードを買って、蓄音機に掛けた。ゆっくりと針が回りだし、女性ボーカルの声で歌が流れる。


 ――遠い夜の果ての小さな波止場はとば


 ――うねる海の中で光る夜の満月つき


 ――人魚は泡に成り果てても 夢見ることをやめられない


 ――砂に描いたあなたとの思い出が潮騒しおさいの音に消されてく


 ――しびれるように冷たい海の底 あなたの温もりが忘れられない


 ――わかっているの わたしは人間ひとになれない


 ――それでもいい 少しだけ あなたのそばにいさせて……


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シアハニー・ランデヴ ジャック(JTW)🐱🐾 @JackTheWriter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画