土砂降りの雨宿り
松川 i
スコールに僕の心は流される
雨は突如、土砂降りとなった。
ヤシの木が大きく揺れている。道路は茶色い川のようだ。通りの反対側にある屋台は一時休業、ビニールシートが被せられ、漂っていた焼き鳥のにおいも泥水に叩き込まれて流れていってしまった。
カフェには僕のほかに、数組の白人旅行者がいる。彼らが飲んでいるのを見て、僕も我慢できなくなりビールを注文した。氷入りのグラスに注がれたビールは薄まってしまうが、この暑さではすぐにぬるくなってしまう。ぬるいよりは薄いほうがまだいい。飲んでいるビールと同じロゴがプリントされたTシャツが、汗で肌に張り付いている。買った時は真っ白な生地だったけど、染みついた汚れはもう洗濯しても落ちない。
激しい雨風があらゆる物を打ち続け、排水溝からあふれ出した水がゴボゴボと音を立てる。
……静かだな。
大都市と比べれば、「のどかでのんびり過ごせる」などと紹介されている町だ。けれども昼間は三輪タクシーがけたましく走り回り、飲み屋が集まる安宿エリアでは毎晩大音量でロックやダンスミュージックが流れる。
息ひそめ夕立去るを町は待つ
グラスを片手にそんなことを考えていると、ピックアップトラックが泥水をかき分けて走っていくが、その音もかき消されて聞こえない。
旅を始めたばかりのころは、周りの人たちの動きでスコールを予測していた。今ではちょっとした風の変化から兆候がわかるようになっている。
日本を出る前は、そういった肌で感じるような事象になんの関心もなかった。
「せっかく仕事辞めたんだからさ、お前も旅に出たら?」
ビールジョッキを片手にそう言ったのは旧友だ。ラストオーダーを取りに来た店員が隣の個室に移ったあとだった。
彼は大学で行き詰まりを感じ、休学してお金を貯め、一年くらい海外を放浪した。その時の体験からやりたいことができて、今は別の大学に通う。
その時の僕は三年ほど勤めていた職場を辞めたばかりで、その後のことは何も決まっていなかった。
「なんかこのまま一生を終えたくないって思っちゃってね。仕事を続けながら転職先とか、ほかにやりたいこと探すより、なんかこう、集中して自分を見つめなおしたくて。それでまあ、思い立ったら居ても立ってもいられなくなって、ていうか」
僕は退職のいきさつをそう説明した。
嘘ではないけれど、ごまかしがある。それは兆候もなく沸き起こった衝動ではない。
職場の同期で、並外れて優秀な奴がいた。誰ひとりからもそんな態度を取られたことはないが、きっとみんなから優劣をつけられている。そいつだって、心の中では僕のことを見下しているに違いない。そんなふうに僕はいつも、勝手にみじめな思いをしていた。
おまけにそいつは、私生活も充実している。僕はいつからか、そいつが仕事で大失敗をすればいいのに、何か不幸な目にあえばいいのに、なんて考えるようになっていた。
ある日、そいつはSNSで喜びに満ちた投稿をする。たくさんの「いいね」が付き、お祝いのメッセージであふれた。
次の日から、僕は仕事に行けなくなった。
SNSはずっと利用していた。友人同士のたわいないやりとりや、お気に入りの有名人の動向チェックのためだ。
風が変わったのは、あの時だったのだろう。
僕の投稿が友人間を越えて、ちょっとした注目を集めたことがある。当然ながらそんなものは、あっという間に押し流され忘れ去られた。でも僕にはそのことが心のどこか……もしかしたら奥深くに染みついてしまったらしい。
その後SNSの投稿は友人・知人の範囲にとどまったままだが、僕は常にネット上の人目を気にしていた。
何かあればすぐにスマートフォンを向けられるように、気構える。人生を楽しんでいるところを見せたいから、少しでも「ハレ」を演出しようとする。
それでも、自分にはまったくない着眼点、生まれ持っての資質、財力なんかがあってそれを評価されているのを見せつけられると、悔しくてたまらない。それなのに「いいね」を付けて、好意的なコメントをする。
悩みがあっても誰にも相談はできない。SNS上の自分と乖離したところは見せたくないし、うっかり楽しんでいない面を公開されたらたまらない。
暗雲が垂れ込めていたのは、ネット上や職場だけではなかった。
同級生の中には結婚して子供もおり、お金のかかった車に乗っている奴もいる。付き合いはないが快く思っていなかった連中だ。
親はそういった奴らと自分を比較することはないし、今の時代だから結婚については何も言わない。このまま真っ当に生きて、いずれは結婚もするだろう。そんなふうに思っていたはずだ。そんな「ふつう」を望まれているであろうことすら、重圧だった。まさかいきなり仕事を辞めるなんて、予期していなかっただろう。
それは僕も同じだった。あとになって考えれば、雨雲は目に見えて成長していたのだ。その重さが
「学校とか職場とかさ、そういう所はもちろんなんだけど。ネットなんかも実はものすごく狭い、場合によっちゃあ浅い世界だったんだなって、俺は気付かされた。だからさ、いっそのこと日本を飛び出しちゃうのも、ありだと思うよ」
友人のその言葉に一瞬、僕は見透かされているのではないかと思った。
「海外ねえ。いつかは旅行で行ってみたいとは思うけど、いきなりそんな思い切ったことするのは……さすがにちょっと。英語もできないし」
「いやいや、いきなり思い切って仕事辞めたくせに。そっちのほうが勇気いるって。あと、旅するだけなら言葉なんてどうにでもなるもんだよ。中学レベルの英単語を並べて、身振り手振りでなんとか通じるから」
……勇気を出して仕事を辞めたんじゃない。僕は逃げたんだ。
「俺も前の大学で行き詰っていたから。お前も旅に出たところでさ、今以上にどうにもならないってこともないんじゃないか?」
「そうかもしれないけど……」
「いや、まあお前の人生だからな。あくまで、一つの選択としてっていう提案だよ。そうだ、会社を辞めて旅に出たって人の紀行小説があるんだけどさ、貸すから読んでみなよ」
後日、僕はその本を読んでみた。沢木耕太郎の「深夜特急」だ。
バックパッカー(旅人)のバイブルとも呼ばれる作品で、友人の話では「ネットもない時代の旅だからどうしたって同じ旅にはならないけど」とのことだったが、僕は稲妻に射抜かれてしまった。
まず、旅の内容自体が面白い。国も時代も違う、異世界の話のようだが、全て現実の体験だ。それが現代のネットのようなテンションではなく、淡々と語られれているのも新鮮だった。
驚いたのは、筆者が会社を辞めることとなったくだりだ。
入社した日に辞めてしまい、しかもその理由は、その日たまたま雨が降っていたからであった。雨の感触が好きだという筆者は、「傘をさし黙々と歩むサラリーマンの流れに身を任せて渡っているうちに、やはり会社に入るのはやめようと思ったのだ」。
そんな理由で? たった一日で?
そして一枚ページをめくった所に、それは書かれていた。
「男は二十六歳になるまでに一度は日本から出た方がいい」
筆者自身の言葉ではないが、筆者も「まさに二十六歳になろうとしていた」。
僕は今度こそ本当に、居ても立ってもいられなくなった。僕もまた、その年齢を目の前にしていたからだ。
運命的なものを感じた。
「そんなこと書いてあったっけ? 面白い偶然だな」
と友人は笑ったが、本当に年齢に関してのくだりを忘れていたのかどうかはわからない。
ともかく僕は急いでパスポートを取得した。
旅は最初から、僕の五感全てに新鮮な刺激を与えてくれた。けれどもまだ僕はしばらくの間、絡みつく
空港、街並み、宿の部屋、寺院、食べ物、乗り物、植物、野良動物。なんにでもスマートフォンを向ける。安宿で言葉を交わしたほかの旅行者、特に日本人以外の人と積極的に、写真を撮る。
片言の挨拶を
あれ? 僕は何をやっているんだ?
そんな思いが降って湧いた。
カフェでカップルの旅行者が、互いにスマートフォンをいじっている。観光名所では、検索すればいくらでも出てくる光景を背に自撮りして、写り具合だけ確認すると次のスポットに向かう人たち。
僕は宿で話した人と食事やその町の名所に行くことはあっても、基本的には気楽なひとり旅を楽しんでいるつもりだった。常にシャッターチャンスを逃さない気構えで。
結局、日本にいたときと同じことをしていないか?
僕はまた、むなしく……なりかけた。でもならなかった。
やめちゃえばいい。スマートフォンを黙々と操作する流れに身を任せるのは。そんなことに勇気は必要ないし、何かから逃げるわけでもない。
やっと自由になれた、心が晴れ渡った気がした。そのことも、その時突然そうなったのではない。ちゃんと晴れ空のもとに向かって、歩いていたんだ。
僕はこれから、画面を通さず、旅の体験をより鮮明に浴びて、それをエネルギーに変えられる。
さあ、本当の旅はこれからだ。
そんな晴れやかな旅路のつもりでいたが、僕はもう一度立ち止まって考えることとなる。
足元が固まっていないのに上ばかり見て歩いているのは危ない。そう忠告されたのだった。
とある町の安宿。エアコンのない部屋は蒸し暑くて、日中はとてもじゃないが過ごせない。共用スペースには天井で回るファンの下に、薄汚れた座布団の置かれたベンチがある。僕はそこで本を読みながらスコールが止むのを待つ。そのころには日も暮れ始めるはずだ。壁のない二階から見える山の景色も、今は雨に煙る。
ほかの客は外出中だ。自転車やバイクを借りて自然スポット巡りに行って、雨が止んだら戻って来るのだろう。僕はこの町と周辺はひととおり回り終え、二、三日のんびりしてから次の町へ移動する予定だった。
「よかったらどう?」
安い蒸留酒の瓶を手に声をかけてきたのは、三十代とも四十代とも見える、日本人旅行者だ。安宿の客のわりにこざっぱりした格好で、それでいて観光に出かける様子もない。この場所で、互いに読んでいる本から日本人と認識していて、顔を合わせれば軽く挨拶程度の言葉を交わしていた。
「あ、ええと……いいんですか?」
「うん。この時間からじゃ、もう遠出はできないでしょ。僕もたまには人と飲みたいし」
ひとり旅をする人の中には、あまり他人と関わり合いたくなさそうな雰囲気の人もいる。彼もそういった旅人なのかと思っていた。
「それじゃあ遠慮なくいただきますね。ありがとうございます」
「ちょっと待ってて」
彼は受付でソーダとコーラを買って戻って来た。プラスティックカップで乾杯する。
旅人同士の会話は必然的に旅の話題から始まる。そのやり取りから、彼は相当ベテランのバックパッカーであることがわかる。まれに、やたらと旅の知識自慢や武勇伝めいたことを喋りたがる人もいるが、彼は違った。
僕が訪れた場所の多くは、彼も何年か、あるいは十年以上前に行ったことがある。その現状を興味津々に聞いてくれるから、気が付けばむしろ僕のほうがよく喋っていた。
「雨、止んだね。
「屋台で買ってきませんか?」
僕たちはいくつかの屋台を回って、夕飯とおつまみを買い込んだ。彼は商店でビールを
「いや、さすがに悪いですよ」
「いいからいいから。一応、それなりに余裕あるし」
彼が日本で何をしている人なのかはわからない。十歳以上は年上だろう。安宿に滞在しながら余裕があると言い、このあとはインドに行くらしい。
旅人同士、本人から切り出さない限り、相手自身に関する踏み込んだことは聞かない。けれども僕は、ある程度酔いが回り、彼が聞き上手なこともあってか、宿に戻るとこれまでの事情を打ち明けた。
僕もインドに行くつもりだった。多くの旅人がインドで強烈な体験をし、ボロボロになって逃げ帰るか、「人生観が根底から覆った」と言う。僕もそんな体験をしてみたい。心が晴れた今なら、どんな現実も受け入れられる気がする。
彼は少し考えてから、言った。
「偉そうに聞こえるかもしれないけど……すごく危うい。そう見える」
それまで聞き役に回っていた彼が語りだす。
自分に芯がない状態で、カルチャーショックを受けるためにインドに行く。そんな旅人で、帰国後にむしろ余計に生きづらくなる人は少なくない。安易に気持ちよくなれるもの、自分を変えてくれるように思えるもの。それで得た感覚は、その高揚感が過ぎ去ると、心に渇きを作り出す。
……僕は、SNSで一喜一憂していたころのことを連想する。
「スコールと同じ、かな。激しく心を揺さぶるけど、長くは続かない」
生まれ変わった気になっても、変わらない日本に身を置くこととなる。毎日が「ハレ」である旅の体験、それを経た自分のことは否定しがたい。だから、「ケ」の日常でしかない社会のほうを否定する。少しずつでも軸を戻していかなければ、さらに極端になった思考の流れに身を任せることになりかねない。
「旅先で知り合った人の中にはね、帰国後ドラッグで逮捕されたり自殺したりした人もいる」
個人の体験から歴史上の出来事まで、大きく動くときは反作用や副作用も大きい。土台がしっかりしていないと、全てが崩れ押し流されてしまう。
「だからね、もし自分に主体性がなく『インドが呼んでる』なんて感じているうちは、行くべきでは……うんまあ、よほど気を付けないと、ね」
僕は黙り込んでしまう。SNSから旅へ、ドラッグの種類を変えたに過ぎないのだろうか。
翌日、宿をチェックアウトする彼に聞いた。なぜ、インドに行くのか、と。彼は笑って答えた。
「インドが呼んでるから」
泥道や町動き出す風涼し
軒先を滴る雨水。二人乗り・三人乗りのバイクが水しぶきを上げる。音しか聞こえないが、三輪タクシーも走り出したようだ。おばさんが屋台の営業を再開し、焼き鳥のにおいが泥のにおいをかき分けてやって来る。
薄まったビールを飲みながら、雨上がりの通りを見るともなく見ている。カフェにはまだほかの客が残っていて、会話の声は聞こえるが言葉は聞き取れない。
さみしさと気楽さ。この組み合わせは、悪くない。
僕は旅に出てよかったと思う。外国で自分ひとりでもどうにかやってきたことで、多少なりとも自己評価が上がった。他人の評価に依存しなくても楽しめるようになった。僕は流れを変えたんだ。
絶えず移り変わる世の中で、立ち止まってしまえば取り残される。だけど、せめて土砂降りのときくらいは、静かに雨宿りしたっていいじゃないか。
宿はここから少し遠い。水はけの悪い道は、歩きやすくなるのを待っていたら夜になってしまう。僕はビールを飲み干す。
帰ろう。
土砂降りの雨宿り 松川 i @iMatsukawa
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