殿、大変でございます
遠部右喬
第1話
このお屋敷の
守とは言え、太平の世の事である。粉骨砕身、真心持ってお仕え申してる心算ではあるものの、何くれと臣下を気遣って下さるお優しい殿のご期待に沿うような勤めが果たせておるか、我ながら甚だ疑問である。庭の警護などをしてみるも、闖入者と言えば雀などがせいぜいだ。
見回りをする儂の影に、庭石に止まった蝶がふうわりと飛び立つ。済まぬな、驚かせてしまったか。昼のとろりとした日差しに庭園の池が煌めくさまを眺め、池橋から水面を覗き込めば、鯉たちが餌を求め口をはくはくとしているのが見える。
うむ、実に平和。
ようようと屋敷に戻る儂の背後で、「ぽちゃん」と音がするまでは。
――?
何事かと振り返ると、鯉たちが何やら騒いでいる。池を覗き込めば、何と、何処からか迷い込んだらしい
――え、ちょ、ま……と、殿! 殿おぉぉぉーっ! 一大事にございますう!
儂の大声と慌てて池に飛び込む水音に、何事かと殿がお庭に下りて来られると、すぐに事態を察されて、
「こりゃいかん!」
自らも池に飛び込まれた。ばしゃばしゃと大騒ぎする鯉をかき分け、殿と儂で童を池から引き揚げてやる。
童は幸いにも水を飲んではおらなかったようだが、この暖かな日差しの中ぶるぶると震え、腰が抜けたのか、全く立ち上がれない様子だ。無理もない。つい今しがた溺れかけたばかり、それも、このような立派なお屋敷で騒ぎを起こしてしまったのだ。
儂は童を怯えさせぬよう、なるべく穏やかに語り掛けた。
――案ずるな。我が殿はお優しくていらっしゃる、おぬしのような年端のゆかぬ子を叱ったりなどなさらぬからな。それより、母御か父御はどうした?
童は口を開きはするものの、その声は酷く掠れ、殆ど聞き取れない。殿も困った様に首を傾げておられる。兎も角、ずぶ濡れの童をこのまま放り出すことも出来ぬ。
殿は童をお屋敷に上げられ、湯を使わせてやった。無論、びしょ濡れの殿と儂も、童と一緒に湯につかる。
――ふう、昼中の風呂も良いものだな……どうした童、まだ震えておるのか。湯はぬるくなかろう……いや、もしや殿と儂の立派なイチモツに慄いておるのか? まあ、
風呂から上がると、ひと心地ついたらしい童がうとうとと舟を漕ぎ出した。やれやれ、どうやら殿の日課である領地の見回りは、本日は中止されるご様子だ。当然、護衛を仕る儂の仕事も、本日はお預けである。いよいよやる事が無いが、まあ仕方あるまい。
殿はこやつが目覚めたら、医者に診せにいくようだ。このまま親か養方が見つからなければ、この屋敷で育ててやるお心算なのだろう。相変わらずお優しい方だ。かつて主家を追われ、途方に暮れていた儂をお抱え下さった温情、決して忘れておりませぬぞ。
それにしても、この童、池に落ちるまで全く儂に気配を気付かせないとは……余程武の才に恵まれておるのだろう。武芸など仕込めば、いずれはひとかどの武者になるやもしれん。
それに引き換え、儂はといえば、全くお役目失格である。童の侵入に気付きもせず、挙句に大声で殿を呼ばわる等、まったくもって言語道断。一体、何の為の守ぞ……。
しょんぼりと童の寝顔を眺めている儂の肩に、大きな手が置かれた。
顔を上げれば殿が満面の笑顔で、
「よーしゃ、よしょしゃしゃしゃしゃ、子猫ちゃんを助けて偉かったぞ、マロン。はい、ごろーん。よーしゃしゃしゃ。ご褒美に、お前の大好きなお芋を蒸かしてやるからな。ボールもおニューのを出してやるから、沢山遊ぼうな」
――え、やったあ! もう、殿、超好き! わん!
殿、大変でございます 遠部右喬 @SnowChildA
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