生霊

染谷市太郎

生霊

 本能、すなわち無意識から突き動かす衝動をいさめるものが、理性と呼ばれる。

 人間は理性があるからこそ、今日まで種を存続し、発展させたに違いない。


「私は、その理性とは肉体に宿るものだと考えている。

例えば、私たちは目の前の相手に怒りを抱いたとして、怒鳴りつけたり手を出したりという行動には通常は出ない。

なぜなら、そんなことを頭によぎっても、それをタイムラグなしに実行できるわけがないから。

心で怒ったとして、その怒りが神経を伝達し行動となるまでにタイムラグがある。

そのタイムラグこそが私たちに考え直す猶予を与え、私たちに冷静な判断をさせる。

すなわち身体の物理的限界が理性的に私たちの本能をいさめる。

ゆえに私は、理性とは身体に宿る、いや、身体そのものだと考えている。


何もおかしな話ではないだろう?

理性的な行動ができなくなる者は、総じて身体の健康が欠如している。

例えば病人。重病であればあるほど自暴自棄になるゆえに、カウンセラーという補助が必要になる。

スポーツの選手もその例に入る。実のところスポーツ選手は肉体をギリギリまで使っているのだから、常人よりも身体的な損傷は激しいわけだ。野球選手は怪我の手術をよくするだろう? そうして彼または彼女らは身体を追い詰めているから心理的補助を外注するわけだ。

薬物中毒者はわかりやすい。薬物という毒で身体を傷つけたため、理性というたがが外れてしまっている。

宗教はもっともな例だろう。精神を重要視するゆえに、積極的に身体を捨てようとしている。そしてご存じの通りテロやらといった理性的ではない行動がみられている。

怪談に出てくる幽霊とやらも、身体がないゆえに恐ろしい、すなわち理性的でない存在として書かれている。

理性が身体に宿るからこそ、身体から解き放たれた精神、あるいは魂と言い換えてもいいそれは、ブレーキのない衝動だ。

幽霊に類するのであれば、生霊というものもその例に入るだろう。

健常でありながら身体を欠如するという稀な現象だ。肉体を抜け出し、魂のみの状態であるのだから、そこに身体的な拘束はない。怒りは怒りのまま、憎しみは憎しみのまま、衝動は咎められずに発露する。

それがこんなにも自由だったとは思いもよらなかった。


ああ、つまり私は今、生霊というわけなんだが。

これがどういうことか、分かるだろう?」

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生霊 染谷市太郎 @someyaititarou

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