第6話 人間の医師シズカ
その肺には
膨らむのと縮むのを交互に繰り返し、患者の身体が上下する。
その肺は健康な人々のものと違うかもしれないが、彼は健康な人々と同じように大人しく医者の言葉を待つ。
彼は掘削班として長いこと働いてきた。長生きの少ない労働だ。しかし、彼の髪や髭は真っ白で、その背には数多の傷とシミと皺が刻み込まれていた。
––もう充分に生きてる––
自分の中の何かが呟く。それは誰にも聞かれることの無い声––彼女の弟子にさえ決して伝わることの無い、闇の中の声だ。
それと同じ所から別の強い声が響く。
––誰がそんなことを決められる?––
定命の者がより長く生きようとするのを誰に止められる?
誰にでも生きよう、生き残ろうとする権利がある。でも、それと同時に定命とは定められた命である、というのも事実である。
「人の生き死にをどうにか出来ると思うのは医者の思い上がりだよ」
それは父の言葉だったか、彼女が今1番会いたいと思っている男の言葉だったか––。
「いつも咳はひどいですか?」
「いんやあ、ひどいって事はないな。たまーに出るけどね。でも、苦しくってね。息が上がるんだよ。階段とかね」
「煙草は吸われますか?」
「やるよお。パイプがなきゃね。男は生きてけないよお」
ドワーフ男性の9割がこう答えるとシズカは思っていた。
「長生きしたければ煙草は
9割の男性達は皆同じ反応をする。彼も悲しげな顔でシズカを見つめた。
「––と言いたい所ですが……私にはシーモアさんの生き方を決める権利はありません。長生きするよりも、楽しく生きたいという方もいらっしゃいますから」
「そうかあ……煙草吸ってちゃ長生きは出来ねえって事だな」
シーモアはその鈍臭そうな見た目よりは遥かに賢い男だった。
「年齢が進むごとにシーモアさんの肺は弱っていきます。肺炎になれば、かなり苦しい思いをされる事になると思います。それを考えると、やはり煙草は止められた方が良いと思います」
「そうかあ……煙草がよくなかったかあ」
「煙草だけが原因ではありません。シーモアさんの場合、長年のお仕事の影響もあると思います」
シズカがそう言うと、シーモアは再び悲しげな顔を見せた。
しまったと心の中で吐き出しながら、シズカは言葉を続けた。
「この世界に安全な仕事はありませんし、必要じゃない仕事もありません。私も仕事柄、多くの人々を見送ることになりましたが、誰1人として健康体で旅立った方はいませんでした。それはまさに彼らの生きた証であり、勲章だったと思っています」
生き死にをどうにか出来なくても、ちょっとした嘘なら許されるだろう。それがタレ目の可愛らしいドワーフのお爺さんなら尚更だ。
「そうかあ……ありがとうよ。シズカ先生」
お爺さんのタレ目がより垂れるのを見て、シズカはホッとした。
「この包みは咳止めの煎じ薬です。このメモ書きを渡せば、薬師の人が同じ薬をくれますからね」
シーモアはシズカの倍以上を生きている男だったが、何度も彼女へ頭を下げて出ていった。
シズカは静寂の中で一息つくと、先程、シーモアの背中に当てていた器具を見つめた。
双角の形の耳栓とお猪口のような金属を柔らかな繊維の筒でつなげた道具。
聴診器
この体の中の音を診る道具をドワーフの彼はそう名付けていた。
歴史的に観て、医療というものを発展させていたのは人間達だった。
エルフに対抗する為の法化手術は人間の体に対する理解、人間の体を出来るだけ安全に保全するという技術に進歩をもたらした。その進歩は連鎖的に、怪我や病気、魔法に関しての知見も押し広げ、薬学や錬金術とも合流し、人の体に関する科学ともなった。
シズカの中にも人間としての自負心が無いとは言えなかった。
それでも彼は––シズカの目に物静かな顔が浮かんだ。
迷うことの無い指の動き、落ち着いた判断と優しげな喋り。自分と年齢はほとんど変わらない筈の彼を––父親と同じくらい。いや、もしかすると父親以上に尊敬していた。
聴診器が伝えている。
ドワーフ《彼》が持つ医術への理解を––。
しかし、それは何より、いつも冷静な彼がどもりながらシズカに渡してくれたプレゼントであった。
彼女は診察室を抜け、診療所の外へ向かった。
農業区画の端に位置する診療所の前には薬草園が設けられていて、この草花達の香りがシズカは好きだった。
清々しいミントの香り、鼻をねじ曲げるようなドクダミの匂い。美しい花をつけるチョウセンアサガオ––。
「遅いねえ。ドミトリ先生」
ドワーフの老女が汗にまみれた顔を上げ、シズカに声をかけた。
「今日、来るともわかってなかったですし、先程ガルヴァさんの使いの方が知らせてくれたばかりですよ」
シズカは笑いながら答えた。
「でもねえ……愛しのシズカ先生が待ってるんだもの、道草なんか食っちゃいられませんよ」
老女の冷やかしにシズカは言葉を詰まらせる。
「あらあ、ダメよお。ドミトリ先生がシズカ先生にホの字なのは、ここにいる、みーんなが知ってるんですからね。シズカちゃんの気持ちもみーんな知ってるんですからね」
シズカを呼ぶ名が昔のものに戻る。
父親が失踪し、彼女が診療所を継ぐことになった時、誰もが口には出さずとも不安を持っていた。そんな状況で彼女はシズカに対して医師への敬意をハッキリと見える形で周りに示してくれたのだ。
母親とまではいかないかもしれない––でも、親戚のような……他人とは違う何か強い愛情をシズカは感じていた。
「ドミトリ先生もずっとここにいてくれれば良いのにねえ」
冷やかすような、呆れたような、諦めたような––。
彼女の思いはここに住む全員が思っていることだ––とシズカは心の中で呟いた。
「ドミトリ先生にも都合がありますから……それにきっと、ここ以外にもドミトリ先生を待っている場所が有るんですよ」
それを思うとシズカの心臓は締め付けられる。
しかし、かのドワーフを留める理由も権利もシズカは持っていなかった。
「……2人とも、もう少し自分の幸せを考えて欲しいのにねえ……」
老女はそう呟いたきり、再び土いじりへと戻った。
鉄柱に吊り下がる陽光ランタンから
シズカは農業区画に等間隔に立ち並ぶランタンを眺めた。
太陽を見ることの無い、地下の希望。
ドワーフには他種族には無い特別な力がある。魔法を宿した道具––法具を作る力だ。陽光ランタンはその産物だった。
とはいえ、どんな名工の力をもってしても、太陽のあの力強い光を再現することは出来ない。ランタンが作り出す光はいくらかの植物を及第点に育てる程度である。
それでも、このやり方を貫くしかない。
ドワーフの父祖達が築き上げたこの地下居住施設は〈闇〉が潜在する地上よりも安全で、文明と呼べるものが維持されている。
そう、ここに並ぶランタンの柱のように––。
遠くの柱を見ながら、シズカは、ふと、老女の皺が増えていたことに気付いた。
そして、手を振りながら近付いてくる2つの影にも。
終わってしまう世界を僕らは歩く ながぐつ @nagagutsu
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