金魚屋敷

六畳庵

 

 不規則に揺れるバスの中で、まどろみに抗う。車内には運転手と私しかいないのだ、寝てしまうわけにはいかない。だからといってスマートフォンを取り出して見るのもなんだか億劫で、窓の外を眺めてみる。真っ暗で、自分の顔が反射で映っているだけだ。結局、為す術なくただ眠気を持て余す。

「お客さん、この前とおんなじところまで?」

 マイク越しに運転手に話しかけられ、咄嗟に頷いた。どうやら前に乗ったバスも彼が運転手だったらしい。

「まさか、金魚屋敷に行くんじゃないだろうね? 怖いもの見たさならやめときな」

 降りるときに声をかけられ、曖昧に微笑んで誤魔化す。そんな単純なものであればどれほどよかったか。自分の心はすっかりあれに囚われてしまって、救いようがないのだと言う気には到底なれなかった。

 外は霧雨と共に草木の匂いで満ちていた。清涼さとは程遠い、青臭い匂いだ。梅雨が長引いているらしく、最近は一度も青空を見ていない。ここに来るときも天気は決まって雨だった。

 目的地に着く頃には全身がじっとりと汗ばんでいた。目の前には堅牢な門に囲まれ仰々しく鎮座する古い豪邸。どう間違っても人が寄り付くような場所ではない。アクセスの悪さやおどろおどろしい外観に加え、家主の気味悪さがそうさせるのだろう。獅子を象った古めかしいドアノッカーを打ちつけると、しばらくして重々しく扉が開いた。

「また来たのね。来ると思っていたわ」

 取っ手を握るのは、白々しく滑らかな手だ。それは真紅の着物の袖から伸びており、さらに辿るとその襟に乗っているのは金魚だった。

 といっても、もちろんそれは人が張り子を被っているだけのことである。私は彼女が張り子の金魚を被る理由を知らないし、知ろうとも思わなかった。

「今日はね、とびきりいいのが手に入ったのよ。一人で食べるには勿体ないくらい」

 そういうと彼女は少し背伸びをして私の肩に手を置き、耳元に口を──金魚の口を寄せた。

「だからね、来てくれて嬉しいわ」

 鼓膜を撫でる彼女の声に、私は身動きが取れなくなる。彼女は私より一回り小柄で、きっと私よりも若い。だのに私は彼女にすっかり支配されてしまっているのだ。

「さ、上がって」

 絢爛な大広間は、水の音で満ちていた。そこかしこに水槽が、鉢が、瓶が置かれており、そのどれにも赤い影が見えた。

 金魚だ。様々な種類の金魚が透明の檻に囚われている。煌びやかな照明に照らされて悠然と蠢いている。頭上を仰げば天井は鏡張りになっており、彼らの世界がそこにも広がっているようだった。

 桃源郷のようなその空間にもう慣れつつある。私がここへ来たのは梅雨初め、まだ紫陽花が蕾だった頃だ。廃墟巡りの末ここに辿り着き、金魚頭に驚く私を彼女は招き入れた。

「ひとりで食事をしていてはつまらないの」

 そんなことを言われた気がする。それから私は、彼女の料理、否彼女その人にすっかり魅入られてしまったのだ。

「先に湯を浴びておいでなさい。まだ食事の時間には早くてよ」

 岩や草、滝まで再現された大きな水槽を背にして彼女は言う。動かない私を見て、不思議そうに小首を傾げる。

「どうしたの。まさか食事だけしにきたのではないでしょう」

 彼女の中には彼女の道徳があるようで、彼女はそれをおかしなものだと認識していない。地元から忌み嫌われるには充分な特性だった。そして彼女の世界は、私を半ば侵食している。

 湯殿へ向かう廊下の壁にもいくつか水槽が埋め込まれていた。赤、黒、白、金と色ごとに分けられた金魚たちは、ガラスに映る私の顔を透かして揺蕩っている。彼らの艶やかさに比べれば、私の顔は血の気がなくまるで面のようだ。また来てしまったと悔いる自分がいた。一人で入るには広すぎる湯舟に浸かったときも、その感覚は消えなかった。風呂桶を縦にしたような形の水槽で、出目金が泡を吐く。

彼らの方が生きている。私なぞより何倍も有用に生きている。視線を落とすと、湯気越しの自分の足が一瞬魚の尾鰭に見えた。

 用意されていた白い浴衣を着て戻ると、出汁の匂いがした。中心に置かれたソファに彼女がいる。低いテーブルに小さな釜と茶碗、漬物と吸い物が置かれている。そのテーブルにすら水槽が埋め込まれ、小さな赤色が水草の間に見え隠れしていた。

「今日はね、釜めしにしてみたの」

 向かいに私が腰をかけると、彼女はそう言った。促された私は、釜の蓋をとる。

 出汁の匂いがより一層濃くなった。醤油の染み込んだ米の上に、山菜と、横たわる魚。梅の花に切り抜かれた人参よりもその魚は朱かった。だらりと弛緩した薄い尾に、ぷっくりと膨らんだような身の部分。私はこれをよく知っている。

「立派な琉金でしょう。メインはこれじゃないのだけれど、これも美味しいはずよ」

 彼女はしゃもじを手に取ると、着物の袖がつかないように注意しながら釜をかき混ぜ始めた。金魚の身はいとも簡単にほぐれた。人参でできた梅の花はあっという間に形を崩した。茶色いおこげが顔を出し、鱗の欠片がそれを彩る。

「どうぞ」

 それらが盛られて差し出された茶碗を、私は両手で受け取った。口へ運ぶと出汁の香りが鼻を抜けた。淡泊な金魚は山菜とよく合う。程よい歯ごたえを持つまろやかな身を米と共に飲み下すと、私は嘆息した。

「なかなかのものでしょう」

 張り子の金魚の顔が、やや得意げに見えた。彼女は私の前で食事をしない。その被り物を取りたくないのだろう。だからか、ひたすらに食べる私を見つめている。初めて会ったときから彼女はずっとそうだった。

 しばらく食べていると、もうそろそろいいかしら、と彼女が席を立った。どこからか盆を持ってくる。その上には小さな金魚鉢があった。

「いいものが手に入ったというのは、これのことなの」

 目の下に風船のような膜が揺れる、真っ白な金魚だった。大人しく水底でじっとしていた。

「水泡眼というのよ。白は珍しいの。小さめの子だからこのまま食べられると思ってね、酒に漬けているのよ、その方が身が柔らかくなるから」

 さあどうぞ、と彼女は言った。金魚鉢の隣には醤油の入った小皿がある。金魚の踊り食いとは、また乙なものだ。箸で掴んで引き上げても、それはあまり抵抗しなかった。しかし醤油につけると、びちびちと頭を振った。あたりに醤油が跳ねた。目の下の水泡を割ってしまわぬように細心の注意を払う。滑らかな白い身体から茶色が滴る。私はそれを、頭から口へ放り込んだ。

 ふわりとしたものが口腔内いっぱいに触れる。それは少しの間激しく暴れたが、歯を立てると大人しくなった。舌で押すと水泡は萎んだ。魚とは思えぬほど甘美な味がした。ごりごりと骨をすり潰す。口の端から垂れた醤油を、彼女が懐紙でふき取った。

「いかが?」

 筆舌に尽くしがたい美味しさだ。そう伝えると彼女は喜んだ。

「まあ、腕を振るったかいがあったわ」

 そのあとは食後酒を嗜んだ。少し体が火照った。回らない頭でどうして金魚を食べるのか聞いてみると、彼女はただ「好きだからよ」と答えた。では、こんなことをするのはどうしてかと聞くのは憚られた。向かいにいた彼女がいつの間にか隣にいた。

「あなた、熱いわ」

 ぴっとりと身を添わせて彼女は心底愉快そうに言った。肩に置かれていた指先が胸まで滑り落ちた。奥の寝間へ誘ったのは、彼女だったか私だったか。

 この屋敷の中で、寝間だけには水槽が一つもない。それはいたって普通のことであるはずなのに、この屋敷では異常に見える。ここでは正も悪もあやふやになる。だから私は逃げられない。屋敷を出るたびもう終わりにしようと思うのに、気づいたらまた来ている。そうして爛れた行為を繰り返している。でもそれでいいのだ。

「何を考えているの?」

 私にしな垂れかかった張り子の金魚が思考を咎める。取り繕うように私は彼女の着物へ手を伸ばす。天井から垂れさがる提灯の僅かな灯かり。遠雷が響いた。彼女の肌の白さに、先ほど食べた金魚が重なった。

 

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金魚屋敷 六畳庵 @rokujourokujo

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