後編

 いつからだろう。僕が世界から疎外されてしまったのは。

 刹那の自問自答から、思い出すのは三年くらい前のこと。きっかけは本当に単純で、何気ない言動だった。


『誰も僕のことなんて覚えてなければいいのに』


 中学時代、ただ自嘲と自己嫌悪から発しただけの独り言。それは確かな力を持って世界に拒絶のトリガーを引かせた。


『えっ? お前、俺の知り合いだっけ?』

『えっと、昨日何かしたっけ?』

『っていうか、名前誰だっけ?』


 流石に、初めの方は悪夢のような衝撃と絶望の渦に苛まれていた。隣の席でそこそこ話していた同級生、担任、小学校時代からの友達、親戚、更には家族でさえも、僕のことを覚えていない。僕は他人の記憶に一切残らなくなってしまった。


「おはよー」

「おはよー」

「おはようございます」

「おはよう…………ってうちのクラスにあんな生徒いたか?」


 時は戻って現在。教室に入り、申し訳なさ程度の挨拶を受けた担任は困惑した顔を僕に向けている。

 気にしても仕方ないので、無視して席に着く。が、幸か不幸かそのすぐそばには水河の姿があった。

「あっ、朝の人だ。席近かったんだね!」

「……」

 経験則から言えば、僕が水河に忘れられているという現状は何らおかしなことではない。世界からすればそれは普遍の現象。水河に限らず僕のことを覚えている人間は誰もいない。

 分かっていたことなのに、僕はなぜか悔しさを噛みしめていた。自分の無力さと愚かさを授業が行われる中、何度も呪ってしまう。当然、内容など耳に入るわけもなく一限、二限、三限、四限が過ぎていく。それから昼休みを迎えるのに大した時間は掛からなかった。


「…………何してるんだろ、僕は」


 ぼんやりと零れ落ちる問いに自問自答しようか。現在、僕は日課である屋上からの紙飛行機飛ばしを敢行している。ただ、今日はここ一か月くらいでいえば最高に気分が悪く、テンションが低いが。

「何度やったって同じなのにな…………」

 高校に入学してから今日まで、幾度となく飛ばしてきた紙飛行機。もちろん、気付いていくれる人は少なからずいて、拾ってくれる人がいて、僕の元まで来てくれる人がいる。だが、それは裏を返せば紙飛行機を拾った人は間違いなく、僕の存在を忘れてしまうということである。自己満足の紙飛行機はその鋭い切れ端で僕の心を抉る。

 分かっていた。こんなことをしていても意味がない。苦しいだけ、辛くなるだけであると。けれど、どうしてか僕の意思は拒絶を選んではくれなかった。

「馬鹿だよ、ホント」

 振りかぶることもなく無力な飛行機は微かな風に乗る。いっぱいいっぱい、学校中を回る。まるで、中途半端に自分をアピールする粋がった目立ちたがり屋のように。



「はぁ、はぁ、はぁ。やっと見つけた!」



 数機ほどの紙飛行機を空へと放ったタイミングでそんな声が屋上に響いた。それが誰のものか、残念ながら心当たりがある。

 ほぼ百パーセント的中する予想を立てて僕は振り返った。

「何か用?」

 結果、予想的中。屋上の入り口で息を切らしていたのは、水河紫苑その人だった。

「ねぇ、何でこんなところで紙飛行機飛ばしてるの?」

 息を整えるやいなや、水河は僕へと尋ねる。普通に質問を質問で返してほしくないのだが、恐らく言っても無駄だろう。

「さぁ、なんでかな?」

 少しだけ意地悪をしてしまった。否、意地悪というより、これはある種の期待だ。昨日と重なるような会話で、少しでも水河に思い出して欲しかった。

「全く、はぐらかしちゃって。もしかして、キミは私と話すのが恥ずかしいの?」

「あー、そうかも」

「もう、絶対今の適当でしょ! っていうか、キミの名前教えてよ」

 いや唐突な流れだな。心の中でツッコミつつも、そんな突拍子のない発言にどこか水河らしさを感じる。この流れも僕と彼女の間じゃお決まりになりつつあるということか。


「紙飛行機太郎」


「普通に本名教えて」

「じゃあ、飛行機くん」

「もう、是が非でも名乗らないつもりだな? あっ、ちなみに私は水河紫苑。同じクラスなんだし、名前くらいは覚えてね」

「もう知ってる」

 今までに何度したか分からない会話に退屈か、あるいは既視感からなる不快さか、僕は感想を声に出していた。全く、今日はやけに口許が元気である。

「へぇー、ちゃんと人並みの興味は持ってくれてるみたいで嬉しいよ」

「まぁ、初めてじゃないからな」

「えっ?」

 特に意識することはなく、すらりとそんな返答。だが、それは僕の話。それを耳に入れた水河の表情には先程と異なり、少しだけ影が差していた。

 何かが、引っ掛かっている。どうしようもなく突破口に欠ける何かが。今の水河はまさにそんな様子。勝手にそう解釈した、次の瞬間だった。

 

「やっぱり、私たちどこかで会ってるの?」


 晴れ晴れとした空で見えない雷にでも打たれたような衝撃。一瞬、彼女が何を言ったのか、僕には理解できなかった。

「やっぱり?」

「うん、既視感ってやつかな。男の子と一緒に最近屋上で会ってる気がして…………でも、それ以上はこう、記憶に靄がかかったみたいで思い出せないの」

 少なくとも今まで水河が二日連続で既視感を訴えることなどなかった。あり得ない。そんなはずない。いや、まさか、水河はずっと前から僕と会ったことを自覚していたのか。それで昨日、初めて仄めかしたのか。

 衝撃は思考を拡張させ、あることないこと推測の世界を広げていく。

「教えて欲しいの。私が何を忘れているのか。どうしてキミを見た時だけ激しい既視感に襲われるのか」

 原因や詳細な情報を省けば、水河はほとんどこの問題の根本に辿り着いていた。きっと、素直に状況を受け入れて水河に全てを話せば道が開ける可能性はより高くなる。 


「…………何でだよ」


 嬉々たる感情が生まれた一方で、口元から吐き出されたのは紛れもない負の感情。素直にこの状況を喜べるだけの器用さが僕にはなかった。

「えっ?」


「何で、教えてくれなかったんだよ」


 駄目だ、水河に怒りの矛先を向けてはいけない。自制心が行動にストップをかけるが、感情がそれを邪魔している。

「だって……………………変なことだし」

 その一言で自制のストッパーは完全に砕け散ってしまった。別に、水河が悪いわけではないのに。今は激情を外に出したくて仕方なかった。


「その変なことにこっちは三年近く苦しめられてるんだよ!」


「三年間?」

「中学の頃からずっと、誰も僕のことを覚えてくれる人はいない。水河には分かるか? 昨日まで楽しそうに話してた友達から、忘れられる気持ち」

 悪意もなく、純粋に僕のことが分からないことを意図した顔は一度見てしまえば忘れられない。今もこうして話していると、脳裏を微かに過ってくる。

「……………………分からないよ」

「そりゃ、分からないだろうさ。だって現に、水河だって僕のことを完全には思い出せない。結局、僕は世界に拒まれてるんだよ。なぁ、僕はどうすれば良いんだ? どうすれば、この孤独から抜け出せるんだ?」

「分からない、分からないよ」


「そうだよ、誰も分からない、分かりっこない。気持ちも、行動も、趣味嗜好も、願望も目的も、行動心理も、誰にも記憶されない!」


 事象の結果に対して、僕がしたことは他人の記憶に残らない。いざ言葉にして説明するのは、恐らく今日が初めてだろう。当然、シミュレーションもないまま激情に任せた説明はお世辞にも分かりやすいとは言えない。


「もう、諦めてくれ。どれだけ頑張ったって、水河は僕を覚えられないんだから。僕なんかに大切な青春の時間を無駄遣いしたって仕方ないだろ?」


 言いたいことを全て言い尽くし、冷静になった頭で僕は水河を突き放した。寂しいとか、未練があるとか、希望があるとか、そう言う気持ちの存在は否定しない。

 だが、言わばそれは糸よりも細い一筋の光。それを掴むために、水河の青春を奪うなんてこと、出来るわけがない。

 これでいいんだ。仲良くなって忘れられるより、最初から知らない方が幾分か気楽だから。

 何とか現状を腑に落とし、言葉を紡ぎ切ったことに安堵したその直後。


「……………………嫌だ」


 僕は真っ先に聞き間違いを疑った。いくら水河でもそんなことは言わない。そう思っていた。どこかで、錯覚していた。


「私は、飛行機くんのことを忘れたまんまなんて、嫌だ!」


 それは少しだけ怒気を孕んだ確固たる拒絶の意思だった。

「そんなこと言ったって、どうせ水河は僕を忘れるんだ。だったら、最初から知らない方が良いに決まってる!」

 冷静になった思考が再加熱され、僕は声を荒げて反論した。事実を吸い込んだ正論は槍よりも鋭く、自らを痛め付ける。


「だったら、忘れないで済む方法を考えなよ! 飛行機くんは今まで、何かしたの? もう手詰まりだって他人を納得させられるくらい手を尽くしたの?」


 しかし、当の水河はそんなことお構いなし。怯む様子もなく、声を張り上げる。

「それは…………」

 今まで紙飛行機を飛ばす、教室で叫ぶ、授業中のヤジ、告白と目立つようなことは法律に引っ掛からない程度で何だってやった。そのはずなのに、答えられなかった。肯定の意を示せなかった。


「もし、まだ手があるとしたら私も一緒に考えるから。だから、自分の気持ちを押し殺して諦めるのは、出来ることを全部やってからにしなよ!」 


「自分の気持ち?」


「そうだよ! 飛行機くんはどうしたいの? 少なくともさっきのは飛行機くんの本心じゃない。私には分かる」


 僕の気持ちを知ったようなことを言いやがって。別に、僕に好意があるわけじゃないってのに、出しゃばって来る水河の態度は非常に憎たらしい。それに、その一言に感化された僕がいるのもまた、憎たらしい。憎たらしくて、壊れたストッパーも治らない内に激情が更に喉元を越えた。


「僕だって……………………僕だって本当は覚えておいて欲しいさ。皆と仲良くなってたくさん思い出を残したいんだ! 独りってのは、水河が思ってる何十倍も寂しいんだよ。こんな思い、出来るならしたくないっての!」


 昨日みたく敬語と透かした態度はすっかり忘却の彼方を突き抜けている。

 気付けば、僕は本心の扉を蹴り破っていた。


「その一言を待ってた」


 開いた扉の先、一番最初に見えたのは快活な笑みを浮かべる水河とその後方、果てしなく広がる蒼空だった。


「別に水河のために言ったわけじゃないけどな」

「うん、知ってるよ」

「…………そ」



 思い返してみれば、この日が僕の青春の始まりだったような気がする。

 こうして初めて自分の本心に気付き、それを水河に打ち明けたこの日。そこから僕は記憶に残る方法を探すようになっていった。もちろん、水河も一緒に。





「あっ、おはよ――――くん!」

 方法を探し始めてから半年。僕と水河は今でも完全には記憶の保存方法を確立できてはいない。ただ、僕に関する記憶は完全に消えているわけではなく、毎日一緒に過ごしていると感覚が覚えているのかな。水河はある程度なら僕のことを覚えられるようになった。


「今日は、どうする?」

「うーん、たまにはどっか遊びに行ってみようか?」

「いいね! じゃあ映画館行こうよ。あっ、もちろん――――くんのおごりで」

「よし、今日は帰ろう」

「えっ、ちょっ冗談だって。映画館じゃなくてもいいからさ、一緒にどこか行こうよ!」


 もう僕は一人じゃない。水河と一緒にいるとそれを強く実感する。僕のことを覚えていてくれる人がこんなにも近くにいるのだから。こんなにも嬉しいことはない。

「ん? なーに、ニヤついてるの? もしかして、私に惚れちゃってる?」

「んなわけないだろ。ってかニヤついてないし」

「嘘だぁー。ほらほら、正直に言っていいんだよ?」

「ったく、あーそうだよ。嬉しいよ、こうやって水河が隣にいるからなっ」

「そんなこと言われたら恥ずかしいなぁー」

「水河が言わせたんだろ?」

 わざとらしく身体をクネクネさせながら顔を隠す水河。その様子に僕は呆れながら正論を返す。


「水河…………か」


 どこか僕の返答が悪かったのか、水河は不服そうな表情で自分の苗字を口にする。突然どうしたのだろう。


「そろそろ、私のこと名前で呼んで欲しいんだけどなぁ」


 あぁ、そういうことか。


「……………………紫苑」


 少しだけ空白を挟んで僕は彼女の名前を声に出した。

「…………っ!」

 喜ばれるか、揶揄われるか、何て見立てがあったが今回は空論。紫苑は恥ずかしかったのか、両手で紅潮した顔を隠して押し黙っている。その様子が少しだけ面白かった。

「ぷっ、何赤くなってるのか。まぁ、名前で呼ぶのも新鮮でいいか」

「もう――――くんは意地悪だなぁ?」

「知らなかった?」

「ううん。意地悪で、でも人一倍寂しがり屋さんで、私のこと凄く大切にしてくれるってこと、キミのことなら私が一番よく知ってるよ」

 そう言って紫苑は喜色を前面に出し、白く整った歯を見せる。それが僕に向けられたものだということは言うまでもなし。凄く嬉しかった。

「そっか…………」

「行こ? ――――くん!」

「うん、行こうか」

 差し伸べられた紫苑の手を、僕は迷いなく取り前へと進む。

 果てしなく広がる青空を紙飛行機は流れゆく。燦然と煌き、笑う太陽はもう憎しみの対象なんかではなかった。




♢♢


「じゃ、また明日」

「うん! また明日ね。送ってくれてありがとう」

 わざわざ家まで送ってくれた――――くんに感謝と別れを告げる。やがて、彼の姿が見えなくなると、私はゆっくりと家の扉を開けた。

「ただいま」

「あら、お帰り紫苑。あの…………さっきの子は彼氏さん?」

 私を出迎えるやいなや、お母さんは開口一番にそんな問い。どうやらさっきの光景を見ていたらしい。

「ううん、違うよ。ただの友達」

「あら? そうなの。てっきり彼氏さんだと思って、お母さん期待しちゃったじゃない」

 別に茶化されることが不愉快なわけではない。ただ、私の声音は恐ろしいくらいに取り繕われていた。

「もう、変な期待しないでよ」

 適当にお茶を濁し、服を着替えた私はそのまま自室へ直行する。

 ぬいぐるみが乱雑に置かれ、学校の教科書が端々に散らかった机。その真ん中、丁寧に置かれた一冊のノート。

「今日も一日、終わっちゃったな」


 私と――――くんとの関係が始まったあの日から、ずっと書き続けている私の日記。それが、このノートだった。


 最初に開くのは初日。これからの希望と、明日への期待が壮大に書かれた数行はさながら夢物語のよう。恐らく、初めの一週間くらいは激しい絶望に見舞われたことだろう。今でも考えてみれば胸が痛む。

「どうして、こうなったんだろうね」

 彼と共にした時間を惜しみなく日記に書き綴り、夜が明ければ記憶がなくなる毎日。きっと、この日記がなければ私は彼を突き放してしまうだろう。そうなることが怖い。それはいつになっても変わらない。

 「――――くん」

 ポツリと呟くのは、真に思い出せない彼の名前。

 いや、真に思い出せないのは名前だけじゃない。趣味も、好きな食べ物も、苦手な教科も、好きな人も、もう何もかも。

「ねぇ、何で私は君に近付いたのかな?」

 きっかけ、始まり、抱いた感情。キミに対する全てをもし思い出せたら、それはどれほど素敵なことだろう。きっと、ハッピーエンド間違いなしだ。


 いつになっても、そんな期待は私の中から消えなかった。


 「もし、ずっと――――くんのことを思い出せなかったら……………………」


 不安になる理由も思い出せないのに、どうしてか私は恐怖を感じた。忘れたくない、一人の私じゃなくてもいい、一日一日違う私でもいいから、それでも彼の傍にいたい。この依存感情の正体は知らない。だけど、その気持ちが心を少しずつ蝕んでいく。それはまるで、諦観という名の誘惑だった。


「違うよ、それは違う」


 ここで諦めたら、私はどんな思いで彼に接していけばいいのだろう。同情、それとも受動か。過去の自分に引きずられて、明日の私は彼のことを真に見ようとはしなくなる。少なくとも、私はそんな景色、求めていない。

 誘惑の否定と共にペンを置き、今日の彼に抱いた想いを満遍なく綴った日記を閉じる。冷静に考えれば、この先彼のことを忘れ続ける毎日なんて嫌に決まっている。 


「私は、忘れないよ」


 どれだけ希望が小さくても、いつかの私が彼を知るその日まで。例え、キミに嘘をつき続けることになるとしても、私はキミの傍にいる。


「絶対思い出すから」

 

 一方的な約束を突き付け、私はゆっくりと瞳を閉じる。明日の自分に呪縛よりも重い希望を押し付けて。


「待っててねくん」


 観賞用に置いた紫苑の花は美しく、窓辺の月明かりに照らされていた。

 

 


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飛行機くんは忘れない ヨキリリのソラ @yokiririno-sora

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