第二十一更 家族
「まさかメールアドレス変えてないと思わなかった」
くすりと笑う磐長は、朝日を背に、穏やかな空気を纏っている。薬師寺は、少し不気味にさえ感じた。
「……別に、意識して変えなかったわけじゃないけど。使う機会が減ってたから、逆に変えてなかっただけっていうか」
「でも連絡したらすぐに駆けつけてくれた」
向けられた目は、乾いた深緑だった。変わらない。あの頃と何も、変わっていない。薬師寺は知っていた。谷松神音が死んだ時、この男は、泣いていた。誰も知らないところで。
「……あんな風に書かれたら、行くしかないじゃん」
目を逸らし、低く呟く。
「ふふ……そうだね」
窓に凭れ、ゆっくりと腕を組む磐長は、この数年の間に何を見てきたのだろうかと、薬師寺は考えた。嘘が嫌いな薬師寺は、磐長がつく優しい嘘が嫌いだった。それでいて磐長朔弥という人間のことを、どうしても嫌いにはなれなかった。誰かの分まで世界を見ようと必死なこの男が、とうとう映像にまみれた城に閉じこもってしまったことも、他人事には思えなかった。
ふと、理解する。きっと彼は、もう何度も、安田が死ぬ瞬間を頭の中の想像で見てきたのだろうと。だから今こうして、平気な顔をして立っている。
薬師寺は眉根を寄せ、普段見せることのない嫌悪の表情を、隠すことなく磐長に向けていた。それが無意識によるものであることを、磐長は感じ取っていた。それほどに、薬師寺もまた、本心は揺れている。
彼らは永久に、欠いてしまった。
「高野と成海を、助けてくれてありがとう」
磐長がポケットから携帯電話を出して机に置き、カウンターの一席に腰掛ける。朝の光に包まれた、あの日から何一つ変わらない、雀荘すずめ。置かれた携帯電話を、薬師寺は見つめた。薬師寺が訪れるその直前、それを通じて、磐長は誰から、どんな風に、告げられたのだろうか。どんな顔をしてそれを聞いたのだろうか。そんな思考を掻き消すように、背を向けてソファに向かう。そこで眠る小森の横に座り、深く息をついて、目を閉じる。
「……ふ、」
こんな時でさえ、思い出すのは、笑ってしまうようなことばかりで。
オレ達幸せだよね、なんて言葉を、薬師寺は飲み込んだ。
*
運命は雨に似ていた。
降る時を知ることはできない。降るものを止める術もなく、突然に身体を濡らし、頬を濡らし、命を濡らす。煙る視界。頭痛。冷えていく指先も。立ち込める暗雲も。凍える心も。
それでも消えない篝火を。
*
すずめに戻った高野は、磐長の顔を一目見て、全てを理解し、泣き崩れた。
「高野」
成海がそっと彼の背を支え、立たせる。
「……すみません。部屋に……連れて行きます」
薬師寺が片手を上げ、反対の手で横に座る小森の頭を撫でた。小森は何も言わなかった。
奥の部屋に二人の姿が消えると、磐長が乾いた笑いを漏らす。
「……おれってそんなに顔に出るのかな」
薬師寺が立ち上がり、爽やかに微笑む。
「いいや。さくちゃんは上手だよ」
「……」
窓越しに、小森は外を見た。冬とは思えない、春のように暖かい日だった。
声を上げて号泣する高野の背を、成海は無言で撫で続けた。
どれほどの間、そうしていただろうか。
「星が」
絶える事のない嗚咽の中で、ふと高野がそう呟く。
「星……?」
聞き返すと、彼が肯く。
「星座ってさ、繋ぐ星で、変わっちゃうだろ」
しゃくりあげる彼の声を、かろうじて聞き取る。
「繋いだら、鳥や、羽になって。でも、星は変わらなくて、繋ぐものは見えなくて、光は、その火は、遠くて。そういうのって、わかんない、けど」
成海は乾ききった瞳を瞬きで潤した。瞬きさえ忘れるほど、高野を見つめていた。
高野の瞳からは、涙がいくつも溢れていた。
「あの人たちなんじゃないかって、」
その先はもう、言葉にならなかった。
成海もただ黙って、高野の肩に手を置いていた。
互いの熱だけが本当だった。
*
夜が来る。
*
僕は暗闇にいた。
暗闇から見た光はあまりにも眩しかった。その光に誘われて、僕はここまで来た。
けれど隣に並び立つと、それはとても弱々しくて、頼りなくて、儚くて。
守りたいと思った。
点と点を結んだ星座の、見えない繋がりを。
たとえその星がいつか消えてしまうとしても。
歪に結ばれた光が、まだそこにあるのならば。
僕はどこまでも、歩いていける。
*
卓についた成海を、部屋の隅から高野と小森が見つめている。
「……それじゃあ、よろしくお願いします」
頭を下げ、それから、向かいに座る男を見る。
「……よろしく、お願いします」
游が軽く会釈をする。
成海は椅子の位置を調整し、目を閉じて深く呼吸した。目を開けて、ポケットから手袋を取り出す。
「…………」
両手にゆっくりとそれを嵌める。冷たい革が手にゆっくりと馴染み、ぐ、と握ると身体が震えた。
頭の奥で、彼の声がする。
お前は、俺より強くなる。
先に上がったのは、游だった。
「……ツモ。リャンペー、チャンタ」
「……」
成海は手牌を崩しながら、考える。事前に高野を通じて吉鯖から聞いていた、游の情報。未だその全貌は見えてこない。
東二局。
「ツモ、です」
無表情の游が、牌を倒す。
「平和、タンヤオ、三色同順……面前、ドラ一。六飜」
成海がじっと、游の手牌と河を見る。
「……」
ふと、游と目があった。
「……すみません」
すぐに目を逸らし、成海が牌を流す。
「……」
游は僅かに眉をひそめたが、同じように牌を流し込んだ。
高野はこの二戦、成海の配牌を見て、内心酷く怯えていた。
悪すぎる。
かつてここまで、彼の配牌が悪いことがあっただろうか。
握った小森の手が熱いことに気づき、高野はその顔を盗み見る。じっと卓を見つめる表情から、感情を読み取ることは難しい。けれどその目は、どこか観察するようなその瞳は。
その冷めたような赤い目は、その奥に潜む紫の火は、どうしようもなく高野に《彼ら》を思い出させる。
「……」
東三局、游は親の満貫ツモで上がり、成海はいよいよ追い詰められる。
「……石見さん」
洗牌中、成海が口を開いた。
「……なに、かな」
濁った游の目が、成海を探るように見る。
「いえ、ただの世間話というか……興味があって」
あなたに、と微笑む。
「……興味……ですか? おれに……?」
口元を覆っていた黒いマスクを、游は顎までずらす。
「僕とあまり、歳も変わらないようですし。気になってしまって。どうして代打ちなんてやってるんですか?」
「……」
游が、露骨に訝しむ表情をする。
「ふふ、ポーカーフェイスだなと思ってたんですけど。意外とお話している時は、表情豊かですね」
「……じゃあ、哀原さん、は?」
目を逸らし、サイドテーブルのペットボトルに手を伸ばして、游が尋ねる。
「……僕は、推薦されて、ですかね……」
「推薦……」
へえ、と幾度か頷いて、游がボトルに口をつける。
「石見さん」
「……?」
再び目が合う。深く、探るような、海に似た瞳。游は、その成海の目が、苦手だと思った。
「麻雀は、好きですか?」
「……」
成海は手を組む。革の手袋が擦れて、小さく鳴く。
「どうしてあなたは、麻雀をするんですか?」
「……」
ボトルのキャップを閉め、テーブルに静かにそれを置き、俯く。
「おれはね、おもしろいから、麻雀してる」
耳から下げた羽を触りながら、彼はそう言った。
「昔のおれは、学校も行かずに、ゲームセンターに入り浸ってる、暗くて悪い子供だった。でも……あの人が現れて」
あの人、というその言葉を放つ時、游の目はぱっと輝いた。
「あの人とやるゲームは、なんでも、すごくおもしろくて。一人でやる時とは大違いで。他の誰と対戦するよりも、ずっとずっと楽しい……それで、麻雀ゲームを一緒にやった時に、あの人が言ってくれました。組に来ないかって。とても、嬉しかった」
溶けるような眼差しは、虚空に向けられている。成海はそれを、無表情で聞いていた。
「大好きなゲームをして、あの人の役に立てる。おれでも、あの人のために、働けるんだって……あの人に、」
「石見さん」
遮るように、成海が声をかける。はた、と彼が視線を成海に向けた。
「……はい」
「あの人って、誰ですか?」
一瞬、游は目を見開き。すぐにまた、恍惚とした表情に戻る。
「センセイです」
「……」
「おれの、たった一人の、センセイ」
「……せんせい」
成海が、ぽつりと呟く。
「柳春日という、唯一無二の、センセイです」
がた、と成海が椅子を引く。
「……?」
「わかりました」
にっこりと微笑み、成海は、卓の上で両手を握った。
「石見さん。僕が何故あなたと戦うか、教えます」
「……」
游の顔から表情が、消える。
「私怨です」
成海の声は、晴れやかだった。
「僕は、あなたたちを憎んだりしない。けれど許すこともない。僕はただ、自分のために、……仇を討つだけです」
きっぱりと言い切って、成海はまた、牌に手を伸ばした。
神音さん。
先生。
こんな僕を。
いつかみたいに、褒めてくれますか?
*
東四局。成海は、流し満貫で上がった。
高野は目を閉じて、繋いだ手に込めていた力を、僅かに緩めた。
やっぱり、来た。
哀原成海。その麻雀。
卓はもう、彼の瞳の海に引き摺り込まれている。
「……あなたの麻雀は、確かに、ゲームのそれです」
游の手が僅かに震えている。南場一局。親は成海だ。
「僕はあまり詳しくないんですけど、身内にゲームが好きな人が何人かいて」
たん、と小気味の良い音を響かせ、成海が牌を切る。
「これは神音さんの……その、ゲーム好きな人の受け売りなんですけど。格ゲーって、麻雀にちょっと似てるんですよね?」
「……」
游の表情に、焦りが滲む。
「コマンドは覚えるもの。……でも、コマンドは役じゃないんですよね……役は、コンボ……コマンドは……〈カタ〉……」
河をじっと見つめる青い瞳は、冷たい。
「……複合形、連続形と、その対処法。あなたはそれら全てを、完全に覚えている。……体でね」
唇だけで、小さく笑う。成海の背を見ながら、高野は、確かに彼を恐れていた。
「その、牌の切り方……河、上がり牌。ほとんど脊髄反射的に、効率的な打牌を行なっている。なるほど……ゲーム、か」
成海が手を伸ばし、游の前の牌を取る。
「格ゲーって、最終的には読み合いなんですよ」
なめやかな革に包まれた指先が、静かに、動く。
「どんな強い技にも、必ず対策があって、相手のパターンを読めたら、その隙をついて反撃できる。そうして相手の体勢を崩したら……」
取った牌を一目見て、成海は微笑んだ。
「あとはハメ技してタコ殴りにしろって、教えられました」
ぱらぱらと、手牌が倒される。
「ツモ。門前、清一色、二盃口、平和、ドラ三。今回は青天井なしですね? じゃあ、数え役満ということで」
ひゅ、と游の喉が鳴った。
「……成海の麻雀は、場を飲むんだ」
呟いた高野の言葉に、小森が彼を見上げる。
「静かに、潮が満ちていくみたいに……ゆっくり、あいつのものにしてしまう。成海の最初の配牌は、いつも良くなくて……でもあいつは、そういう時の方が良いって言うんだ。一局目の配牌が悪いほど、卓の流れを作れるんだって。澱みを、動かすみたいに」
小森は、高野の目をじっと見た。小さな子供が闇を恐れるような、そんな目だった。繋いだ手を、握り直す。
「……今日の配牌は……最悪だった。見たことないくらい……だから……」
は、と浅く息を吐く。高野は微笑む。視線の先で、しゃんと伸びた成海の背が、薄く光って見える。
「……あいつは、勝つよ」
*
「あの……」
部屋を出ようとする成海に、游が立ち上がり声をかけた。
「……また……あなたと、麻雀、打ちたい、です」
虚ろな目に光はなかった。成海は驚きをすぐに笑顔に変えた。
「僕もです。……また会いましょう、游さん」
「……はい。……成海、さん」
三人が部屋を出る。見送って、游は椅子に崩れるように座る。
「……ごめんなさい……役に、立てなくて。センセイ……」
その肩に、静かに、手が置かれた。
「心配要りませんよ、游」
はっとして、游が振り返る。
「あなたはよくやってくれました」
「……センセイ!」
抱きついた游を、そっと受け止める。慈愛の微笑みは、閉じられた扉に向けられていた。
*
ビルを出ると、夜明けだった。成海は息をついて、手袋をゆっくりと外した。
高野と手を繋いだ小森が、そのあとを追う。
「……成海くん」
その声に振り返る。少女の瞳に、薄い朝日が差していた。光を宿したその目は、もうあの濁った血の色ではなく、薄紅色の、彼女の母の目に似ていた。
「小森ちゃん……」
成海が彼女の前にそっとしゃがむ。高野も、その手を握ったまま隣に腰を下ろした。
「助けてくれて、ありがとう。成海くん、高野くん」
成海はその右手を取った。高野と繋いでいないほうの右手を。
「……ごめん。君に言わなきゃいけないことが、あるんだ」
小さなその手は、冷たかった。この町の朝は、まだ寒い。
「君の……お母さんは、」
成海は少女の目を見ることができなかった。うつむいて、重ねた手を見つめる。
「小森ちゃん」
高野の声に、成海が顔を上げる。
「君のお母さんを見つけることは、俺たちにはできなかった」
きっぱりと言い放つ高野に、成海の心臓がどくりと鳴った。
「ごめん。でも、これから探す。きっとお母さんは、君を迎えに来たくてたまらないだろうけど、そうできない理由があるんだ。だから、お母さんが君を迎えに来るまで、俺たちが君と一緒にいるから」
じっと、高野と小森は見つめあっていた。高野の目が星のように光って、成海はまたうつむく。
沈黙の後、小森がゆっくりと、視線をそらさないまま、口を開く。
「……わかってる。もう……ママは、」
その先を遮るように、高野が彼女の小さな肩を両手でつかんだ。
「諦めちゃダメだ」
高野は真っ直ぐに、力強く伝える。
「まだわからない、君はまだ──お母さんが死んだところを見たわけじゃない。本当に死んだかどうかは、その目で確かめるまで、わからないはずだ」
小森の瞳が揺らぐ。
「俺の尊敬する人は言ってた。全部を見ようとしろって。必要なのは、全てを見ようとする目なんだって。君の目にはまだ、何も映ってないはずだ」
その紅鶸色の瞳から、ひとつ、涙がこぼれた。幼い彼女に高野の言葉の真意はわからなかったが、それでも小森は、それを信じて頷く。
いつかきっと、彼の言葉が、自分の救いになるような予感がしていた。
成海は泣き出しそうに痛む目の奥をこらえるように、息を大きく吸った。冷たい、冬の匂いがした。それを吐き出しながら、二人に言う。
「……帰ろう」
小森は、成海を見て、無言のまま頷く。声も上げずに泣きながら。
三人は、手を繋ぎ、朝焼けに染まる芙蓉町を歩きはじめる。
「……私、一緒にいていいの……?」
小森の声は、まだ少し涙で濡れていた。冬の朝日が、三人を照らす。
「そうだよ、小森ちゃん。僕たち、きっと……なれるよ、家族に」
優しい成海の声に、小森が小さく微笑んだ。
そうして見えてきたものに、誰からともなく、笑いはじめる。その道の先にあるのは。
「……動くの? これ」
「動くよ、たぶん」
ボロボロのジャガーを前に、三人は、腹を抱えて笑った。
*
夜が来る。
六原小森は車内で一人、雨が上がったばかりの暗い空を見ていた。長い長い晩冬の夜が、訪れようとしている。
宵の明星に惹かれるように、少女は扉を開け、外に出た。数歩進み、その靴が水溜りに触れたところで、背後から高い警報音が響く。踏切の音だ。
赤く点滅する光。交互に鳴る鐘。遮断機がゆっくりと降りる。振り向いた少女は、線路の向こうに、人影を見た。
黒く長い髪を結った、一本の三つ編みが揺れる。烏の濡れ羽色をしたスーツ。ビニール傘の水滴の向こうに、表情は霞んでいる。
ひと目見た瞬間、少女は理解した。
ああ、本物だ、と。
呼吸するように嘘をつく口と、優しく拒絶する眼差し、縋るように信仰する素振りを見せながら、神をも殺さんとするその力。
金色に光る目。
夜が、来る。
終
『GambleЯ』第二部 宮谷 空馬 @kuuma_M
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