第二十更 悪くなかった


 蛍光灯がちらつく、無機質でひやりとした暗いアパートの廊下を、慣れた足取りで高野が歩いて行く。突き当たりで表札のない一室のインターホンを押し、身体を反転させ覗き穴の死角に入る。

 およそ一分後、小さなドアノブの音が聞こえた瞬間、素早く手を伸ばした。

「こんばんは」

僅かに開いた扉に、高野は右手を捻じ込み、無理矢理こじ開ける。

「…………帰れ」

不機嫌を具現化したような表情と、地獄から響くような低い声。無精髭を生やし眼鏡をかけた、灰色に曇った目の男。半端に伸びた黒髪が、鬱陶しそうに分けられている。

 吉鯖徹、元代打ち師。

 彼に向けて、高野はとびきりの笑みを見せた。




「久しぶりですね、徹さん」

「慣れ慣れしく名前で呼ぶなと何度言えばわかるんだ? 貴様は。というかできれば一生久しくして欲しいものだがな、こちらとしては」

「俺が来ないとロクに他人と話す機会もないでしょう? たまにはコミュニケーションとりましょうよ」

「だとしても相手にお前を選びたくはない」

「またまたぁ」

「御託は結構だ、本題に入れ」

「なんでですか。いつもみたいに楽しくお喋りしましょうよ」

「ほざけ。今日は何かあるんだろう。俺に言いたいことが」

「……なんでそう思うんです?」

「顔を見ればわかる」

「……まあ、俺たちも付き合い長いですしね」

「……」


「先生、会わないんですか?」

「まだくたばっていなかったのか」

「……まだ、ね」

「てっきり今日は、とうとう死んだとでも言われると思っていたのだがな」

「会わなくていいんですか?」

「いいに決まっている」

「……負けたままで、構わないと?」

「負けてなどいない。まだ勝負をしていないのだから」

「……」

「それで? 言いたいことは終わりか?」

「……やくさんも、戻ってきたんですよ」

「……ほう。意外だな。あの男が安田の死に目を見ようなどと思うとは」

「いや……どうでしょうね。呼び戻したのはマスターで、たぶん別件だろうから……」

「ああ、やはりそうか。あれはそういう性質の人間ではないだろう」

「……そう、ですね。そうかもしれません」

「……」


「……あの、徹さん」

「だから名前で呼ぶなと……」

「俺、ずっと考えてて。先生が死んだらって」

「……」

「先生が死んだら、俺たちどうなるのかなって、何回も考えてるんですけど。……俺や、成海や、マスターや、やくさんは、先生が死んだら、どうするんですかね」

「……知るか。俺に聞くな」

「想像してくださいよ。徹さん。徹さんは、俺たち、どうなると思いますか」

「なんで俺が……」

「お願いしますよ」

「……」

「……」

「……磐長は、何も言わないだろうな」

「……」

「あいつはいつも、安田のやる事なす事、本気で止めた事がない。安田の決めたことには、何も言わない。あいつが死ぬと決めたなら、磐長は止められない」

「……」

「哀原のことは、お前の方がよくわかっているだろう」

「……」

「薬師寺は、どうせまた行方を晦ますだけだ。渡り鳥の行方を推し測ることなど不可能だ」

「……」

「……お前のことは、お前が決めろ」

「……俺は……」

「……」

「……俺は、泣くだろうと。そう思います」

「……谷松の時は、一滴たりとも泣かなかったのにか?」

「はい。あの時は、沢山の人が泣いたから」

「……」

「成海も、マスターも、やくさんも、先生も、おやっさんも、みんな泣いていたから、俺は泣かなくてよかったんですよ。俺知ってるんですよ、みんなが泣いてたこと。でも、先生が死んでも、みんな泣けないでしょ」

「……」

「だからみんなの分、俺が泣こうと思います。……もちろん、徹さんの分も」

「……はっ。余計なお世話だ」

「……そうかもしれませんね」

「好きにしろ。あんな男にしては、長生きした方だ」

「そう、ですね。それは……同意します」

「ふん」


「……それで、話変わるんですけど。ひとつ、聞きたいことがあって」

「やはり用があるんじゃないか。ふざけるのも大概にしろ」

「すみません。いやまあ、ついでというか。本当に会わなくていいのか、っていうのが本命なんですけど」

「しつこいな、ヤクザというのは。これだから嫌なんだ」

「わかりましたよ。もう言いませんよ。じゃあ、聞きたいんですけど、柳春日って、今どうしてますか?」

「……」

「……あれ? ご存知ですよね? 柳春日のこと」

「……一応な。何故今更柳のことを?」

「ええと、どこから話そうかな……あ、小森ちゃんのことは知ってますか?」

「……こもり?」

「六原小森。数日前に、俺達を訪ねてきたんです、六原慧子の……」

「……」

「……娘が」

「……そうか。腹の子は、無事生まれたのか」

「……知らなかったんですね」

「……当然だ。それで、その娘がなぜお前を訪ねてきたというんだ」

「柳が小森ちゃんのことを探してるんです。見つけて殺そうとしているって。それで小森ちゃんが、助けてって、一人で俺らのところに来たんです」

「……殺そうとしている?」

「ええ……」

「柳春日が、六原慧子の娘を?」

「そう、ですけど」

「何故?」

「……え、なぜって。そりゃ……あれ? そういえばなんでだ……?」


「いや、待て。そもそもお前はどこまで知っている?」

「……え?」

「お前は柳春日とその周辺、過去について、何を知っている」

「……何って……」

「俺とお前が初めて打った日、あの麻雀で何が賭けられていたか知っているのか」

「……哀原成海の身柄」

「それは付属品に過ぎない。あの取引で重要だったのは、六原慧子の命だ」

「……なんで? だって、神音さんはそんな風には言ってなかった……」

「柳春日の過去については?」

「……いいえ。知りません」

「あの男は剣崎会直系団体、西木組組長、柳御堂の実の息子だ」

「それは……はい。知っています」

「では以前鈴鳴組に預けられていたことは?」

「……は?」

「その昔、柳春日は、破門になってもおかしくないような途轍も無い失態を犯した。だが組長の息子ということで、しばらく鈴鳴に預けて様子を見ることになった」

「な……なんで、鈴鳴組に?」

「西木組組長と鈴鳴組組長が、兄弟だからだ」

「……」

「当然、兄弟というのは、血を分けた実の兄弟という意味ではない。お前もよく知っている、極道社会における兄弟だ。……酒は血よりも濃い、と言ったか? 貴様が必死に縋っているそれだ」

「……おやっさんは、西木組を嫌っています」

「そうだな。だがお前はその理由を聞いたことがない。聞かされたことがない。知る必要がないということだ」

「……」


「柳春日が鈴鳴組にいた頃、俺もまた鈴鳴組の代打ち師だった。だから……僅かだが、面識がある」

「……そう、でしたか」

「結局、柳が鈴鳴にいたのは一年ほどだった。その後、あの男は自ら行方を晦ませた末に、ついには勝手に組を立ち上げたようだがな」

「……」

「昔から嫌に人を惹きつける何かがある奴だった。カリスマ性と言えば聞こえが良いが、あれはカルト宗教の教祖に近い。恐らく、奴を崇拝する周りの人間に持ち上げられて組長になったのだろう」

「……」

「その柳春日の人生最大の汚点こそが、六原慧子というわけだ」

「は……お、汚点……?」

「柳は親の女と知りながら、六原に手を出した。それ故に京都に島流しにされたんだ。表向きは仕事の失敗とされていたが、実際はあの女のことで処分されたに違いない。その上鈴鳴も出て所在不明になった。……おおかた、六原と隠れて会うためにだろう。それで、六原は身籠ったというわけだ」

「……」

「それを知った西木組は、六原慧子を消そうとした。孕んだ子供諸共な。これを好機と見た谷松が、ついでに哀原の身柄を巻き込んで交渉し、あの日の場を設けた……というところか」

「……まって、ください……」

「面倒な奴だな。迅速に理解して迅速に帰れ」

「情報量が多すぎます。え? じゃあ、小森ちゃんは……」

「……」

「あの子が、一人で俺達のところに来たのも、そういうことなのか? マスターがどんなに探しても、六原慧子の居所が掴めないのも……」

「とうとう殺されたんだろうな」

「……!」

「谷松が死んだ。安田ももう麻雀を打つことはないだろう。邪魔な人間が消えたので、早速六原慧子も消したということだ」

「……そんな……」

「……柳春日について俺が知っている事は、今話したものでほぼ全てだ。最近の動向は知らん。お前達が俺に勝ち、柳組を壊滅させてからは特にな。……京都に居るのか? 柳が」

「そのようです。……明日、成海と柳組の代打ち師が、戦うので」

「……代打ち師、だと?」

「石見游と名乗っていました。ご存知ですか?」

「石見……游……」

「……グレーの髪に、ここだけ赤いメッシュを入れてて……背は結構高かったかな。黒いマスクして、あと、唇の下にピアスしてました。それで……柳のことを……」

「ああ、思い出した。まだ柳のところにいるのか」

「……知ってるんですか?」

「柳が組を持ってすぐに、拾ってきた男だ」

「拾って……」

「本名は石見・ステファン・游だったはずだ。クオーターとか言っていたが」

「あ……言われてみれば、少しそんな感じもしたかな……」


「あれと……戦うのか。哀原が」

「そうです。……何か知っていますか? 彼のこと」

「……哀原は苦戦すると思うが」

「えっ。なんでですか」

「……かなり前に、それこそ……あいつが拾ってきて間も無い頃に、一度打ったことがある」

「徹さんと、その、石見……が?」

「ああ」

「何故……?」

「……別にいいだろうそれは。話すと長くなる」

「……勝ったんですよね?」

「……勝ち逃げという感じだな」

「らしくないこと言わないでくださいよ」

「あれの戦い方は特殊だ。哀原とは相性が悪いだろう」

「徹さんも相性が悪かったんですか」

「……石見の戦い方は」

「……」

「奴は……ゲームだ」

「ゲーム?」

「麻雀をゲームだと思っている。早くクリアすれば良いと……違うな。効率……勝つための最短ルート、あるいは攻略……」

「な、なんですか? どういうことですか」

「いや、言葉で表現するにはこれが限界だ。とにかく嫌な戦い方をする奴でな」

「……」

「厄介な相手だ。……それでもあいつが、いつも通りの打ち方ができれば、敵ではないだろう。実力の差は目に見えている」

「……」

「なんだその顔は」

「いや、成海のこと……ずいぶん評価してるんですね」

「……」

「そんな顔しないで下さいよ」

「聞きたいことは終わりか?」

「……どう、ですかね……」

「聞いているのはこっちだ」

「……じゃあ、徹さん」

「名前で呼ぶな」

「もう一個だけ、いいですか?」

「……なんだ」


「……安田全とは、一体何だと思いますか?」


「俺が知るか」

そう吐き捨てた吉鯖の表情は、酷く穏やかだった。



   *


 朝日が昇る頃、高野がすずめに向かって歩いていると、前から成海が向かってくるのが見えた。

「……え?」

その手を繋いだ少女に、高野は目を見張る。

「小森ちゃん……?」

小森は高野の前まで歩いてきて、立ち止まり、見上げる。

「どうして……」

その目は濡れていた。薄く涙の膜が張る瞳は、陽の光に赤く輝いて、高野の胸の深い部分を抉る。誰かの乾いた目を思い出す。


「……私も連れて行ってください」

成海は脳裏に、彼女の母の後ろ姿を描く。気高く美しい、羽の生えた地を這う鳥を。

「私のために、戦うところ。私が見てなきゃ」


──いつだったか、誰かに似たようなことを言われたな、と高野は思う。俺は、あのとき、誰になんて言われたんだっけ──……


「……わかった」

高野は手を伸ばした。小森が小さく頷き、その手を取る。

 三人は手を繋いで、並んで歩き始めた。高野の左手と、小森の右手。小森の左手と、成海の右手。

 成海の左手には、一対の革手袋が握られていた。


「帰ろう」

眩しい太陽を真っ直ぐに見据え、彼らは、歩き始める。






 安田全は、窓から入る優しい日の光に、そっと手を翳した。右の目で指先を見つめる。血色の悪い、骨ばった白い手が、薄紅色に染まっている。


「……悪くない」

掠れた穏やかな声は、誰に聞かれることもなく、ただ彼自身のもとに戻り降る。

「悪くなかった」


 そうして、その右手は、何も掴むことなく、ゆっくりと落ちた。

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