第十九更 帰る場所


 病室を出た高野の携帯電話に、磐長から一通のメッセージが届いた。

「夏井さんと連絡とれた。これから二人でアジトに乗り込むよ」

高野の言葉に成海は一瞬足を止め、しかしすぐに歩き出す。

「二人って?」

「え……うん。夏井さんと、二人……で……」

前を歩く成海の背中に、高野は違和感を覚える。

「……成海?」


 振り向いた成海の目は、肩の向こうの夜空と同じ色をしていた。

 ぞくり、と背筋が震える。

「……!」

凍った瞳は鉱石に似ていた。ブルーサファイア。高野は思い出す。サファイアとルビーは、実は同じ石なのだと、薬師寺一真がいつか言っていたことを。多様な色を持つサファイアと、その中でも赤いものだけをルビーと呼ぶこと。脳裏に浮かんだのは、赤く冷えた輝きを持つ瞳、幼い少女のそれと——


「僕も行くよ」

成海の声で我に返る。いつも通りの彼が、そこにいる。

「え……でも……」

微笑んだ成海が、また前を歩きだした。

「じっとしてなんていられないでしょ」

ああ、こうなったらもう、自分には止められない、と高野は悟り目を閉じた。自分ももういっぱしのヤクザで、怖いものも減ったけれど、未だにこういう時の成海は恐ろしい。身内で良かったと、彼はそう思わざるを得なかった。


   *


 待ち合わせた夏井と合流し、高野はすぐに彼の愛車について土下座して謝った。

「いや、弁償してくれたら別にええから」

「すみません……大事なジャガーを……」

「せやからその大事なジャガー弁償してや? 弁償してくれたら別にええから」

「はい……」

一体いくらかかるんだろうか、と成海は遠い目をする。高野の額の傷は、数時間かけて一応ふさがったが、ジャガーの車体は時間で癒えるものではない。半分自業自得だと思うものの、それでもやはり少し憐みを感じてしまう。


「で、行くんやな? 柳組のとこ」

夏井がこきりと首を鳴らす。

「そうですね。三人ではちょっと心許ないですけど」

言いながら高野は懐の短刀を挿し直す。土下座の際に抜き取っていたためである。

「まぁ、さすがに向こうさんもお出迎えの準備はしとるやろからねぇ。せやけど成海くんも来てくれるんやったら大丈夫やろ」

邪悪な笑みを成海に向け、夏井は歩き出す。怖い人だ、と思いながら、成海も後ろに続いた。

「いえ、僕はあくまでも非戦闘員なので……」

「よく言うよ」

横に並んだ高野が、とん、と成海の左胸を軽く突く。

「しっかりコレ、携帯してるじゃん」

視線が合い、互いに口角を上げる。向き直ると目の前で夏井が立ち止まっていた。

「え……」

その先に見えた人影に、高野が息を飲んだ。

「……おい、高野くん、知り合いか?」

夏井の声が、やけに遠く感じる。


 目的地のビルの前、影のように揺らめいて立ちすくむ、一人の男。こちらをじっと見つめる瞳は、曇天のように濁っている。灰色の髪に交じって、右目の横で一筋の赤い髪が揺れていた。黒いマスクのかかった耳、その左側に長い羽根がついている。

 痩身の、背の高いその男が、一歩前に出た。

 高野と夏井は僅かに身構える。


「……哀原成海さん?」

男は、曇り空に似たその目で、真っ直ぐに成海を見ていた。


「……」

成海は答えない。

「おれ、柳組の代打ち師で……游です。石見游」

名乗った男はマスクを顎までずらす。唇の下に黒いピアスが光った。男が軽く頭を下げる。成海は黙ってそれを見ていたが、男が顔を上げると、すっと近づいた。

「……」

高野と夏井の横をすり抜け、游の前に立つ。

「鈴鳴組、四代目代打ち師の、哀原成海です」

一礼して、目を合わせる。游が、躊躇いがちに唇を開いた。

「柳春日の……伝言が、貴方に」

「……何でしょうか」

「あの女の子を渡してほしい。相応の金額を用意します。もし、この交渉に応じていただけないなら……麻雀で、けりをつけさせてくれませんか」


 高野は、懐の短刀に伸ばしかけていた手を、静かに戻した。

「交渉には応じません」

悩むことなく、成海は即答する。その声は、驚くほど優しく、穏やかだった。

「僕は、貴方と、麻雀を打ちます」

その表情は高野からは見えない。けれど背中から感じ取る何かは、確かに、昨日までのそれとは異なっていた。


 成ってしまったんだ、と高野は思う。

 哀原成海は、本物に。


「……じゃあ、明日の夜。ここで待ってます」

二言三言成海と会話したのち、游は感情の読めない声で呟き、マスクで口元を覆った。

 三人は游に背を向け、歩き出す。高野と夏井は、一言も発さなかった。いしみ、ゆう。その名を、成海はじっくりと噛み締める。彼は、一体、どんな麻雀を打つのだろうか。

 黙って、三人は歩き続ける。大通りに出たところで、最後尾を歩いていた高野が声を上げた。

「……あ、靴紐解けてる」

高野は片手を上げ、二人に合図を送る。

「ごめん、結んでから行く」

しゃがみ込む高野を見て頷いた二人が、先へ進む。その姿が角を曲がったところで、ぱっと立ち上がり、高野は路地裏に身を隠した。裏道を通って先程のビルの方へ戻り、ひっそりと覗き見る。


「……うん、大丈夫。それも……にして……から」

人影が闇の中で動き、男の声が僅かに聞こえる。游の声だ。高野が目を細める。

「……です。……よりも、一人……ですか?」

高野は声を拾いながら考える。はっきりとは聞こえないが、恐らく電話をしているのだろう。

「ううん、おれがやる。貴方の手を煩わせるほどじゃないです」

一歩、踏み出して、少し声が近くなる。高野はもう一歩、奥へ進んだ。

「……もちろん、だよ。おれに全部任せてください。必ず貴方の役に立ってみせるから……」


 そのとき。

 游が、相手の名を呼んだ。

 聞こえた言葉に、高野は思わず飛び退く。外壁に背中がぶつかる。物音は恐らく、游の耳にも届いただろう。逃げるように路地裏を出て、地面を睨みながら、急ぎ足で二人の後を追う。


「あ、高野。遅かったね」

その声に、高野はぎくりと顔を上げた。振り向いて不思議そうにこちらを見る成海に、ぎこちなく微笑みかける。

「……どうしたの?」

成海が訝しげに眉を顰める。高野は平静を装い、なんでもないよ、と返す。

「早く帰ろう」

成海の横に並んだ高野は、いつもと変わらない様子に戻っていた。僅かな違和感を覚えながら、成海は再び前を向いた。


 高野の頭の中で、先程聞いた言葉が何度も鳴り響いていた。


《必ず貴方の役に立ってみせるから。》


《センセイ。》


   *


 すずめに戻った成海を出迎えたのは、磐長一人だった。

「マスター……」

「やくが来てくれたでしょ」

にっこりと笑いかけられ、成海は安堵の溜息をついた。

「やっぱり、マスターが呼んでくれたんですね。やくさんのこと」

「ふふ、まあね。おれも賭けではあったけど……」

カウンターでサイフォンを組み立てながら、磐長は自ら発した言葉に、手を止めた。 

「……賭け、か」

「マスター?」

顔を上げた彼の表情は、どこか悲しげだった。

「……なんでもないよ。それより高野は?」

「それが、寄るところがあるとかで……あの、マスター。僕、明日、麻雀を打つことになってて」

かち、とアルコールランプに火を点ける。

「それは……小森ちゃんのため?」

炎をじっと見つめ、磐長は優しい声で問う。

「……そうです。柳組、柳春日の代打ち師……游という男と」

成海が被っていたフードを脱いだ。蛍光灯に照らされて、火は赤く揺れている。

「……わかった。調べればいいんだね?」

「……いいえ」

ぱっと磐長が顔を上げた。

「マスター、行ってください。僕達は、僕達にできることをします。マスターは、もう……先生のところに戻ってください」

静かなその言葉に、磐長は——驚くでもなく、僅かに目を細め、まるで全てを理解したかのような表情で、成海の肩の向こう、遥か彼方を見た。


「……戻るなんて」

ふ、と微笑み、彼はサイフォンに目を落とす。

「ここが、おれ達みんなの帰る場所だよ」

ガラスの中、湧き上がる泡が、弾けては消えている。


 

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