第十八更 私は、一人で
「鬼ごっこなら、オレ、得意なんだよね」
軽自動車でするにはあまりに派手なカーチェイスを行いながら、薬師寺は京都を南下していた。ルームミラー越しに後部座席の小森を見ると、座席に縋り付くようにして、必死に吹き飛ばされないようにしている。
「ごめんね~小森ちゃん、もうすぐ振り切れるからね~」
のんきな声の直後、右に急旋回され、小森は体をしたたかドアにぶつけた。
「大丈夫?」
「……大丈夫だけど」
不機嫌そうな表情で、小森は言う。
「この曲は何ですか」
「え? ごめん、聞こえない」
眉間を寄せた小森が、運転席に後ろからしがみつき、声を張った。
「この曲。なんなんですか?」
「何って、いいでしょ? いかにもカーチェイスっぽくて」
小森はむっつりと押し黙る。低いギターの音が煽るように掻き鳴らされている。薬師寺はスピードを上げながら、機嫌よくハンドルを切った。
「知らないのかーこの曲。映画の曲なんだよ。タランティーノ」
知らない、と呟く小森に、薬師寺は朗らかに笑った。
「ま、オレこの映画嫌いなんだけどね」
細い路地に入り、車を止める。二人が振り返ると、黒塗りの車体が一台、通り過ぎて行った。
「ふ~。危なかったね、怪我無い?」
「……はい」
「よーし、一安心」
伸びをする薬師寺を、小森はじっと見つめる。
「……? ……あ。自己紹介がまだか」
人懐っこい笑みを浮かべたまま、薬師寺は体を反転させ、小森に向き直る。
「オレの名前は薬師寺一真。気軽にやくにーちゃんって呼んで」
「……知ってる」
「へ?」
小森が小さく溜息をつき、後部座席に身を横たえた。
「疲れた……」
目を閉じる少女を見て、薬師寺がうーんとうなった後、呟く。
「……あんまり似てないな」
*
同じ頃、追っ手を撒いた成海と高野は、バイクで高速道路を走っていた。
「……」
シートの後ろに乗る高野が、橙色に変わり始めた日の光を見つめる。思い出されるのは、つい先ほど磐長からかかってきた電話の内容だった。
「全が……」
磐長のその声だけで、高野は全てを察した。
「意識は」
「……さっき、目を覚ました。今なら話ができる、けど、……」
「向かいます。成海と」
電話を切った直後の成海の表情は、高野が見たことのないものだった。こんな風に温度のない目を向けられるのは初めてで、伝える声は僅かに震えた。
風を切ってバイクを走らせる成海の背中から、彼が何を思っているか、感じ取ることはできない。もう随分長いこと一緒にいて、言わなくても伝わることも増えたけれど、それでもやっぱり成海のことを、本当に理解する日は来ないのだろう。高野は改めてそう思う。
見慣れた街並みが現れる。芙蓉町は暮れ始めた空を背に、夜の支度をしている。
中道の奥、さらに細い路地裏を抜けた先に、そのビルはあった。薄暗く狭い階段を上がって、二人は重い鉄の扉を開ける。
白い蛍光灯に照らされた室内。白衣を着た中国人の男性が、こちらに気付いて軽く会釈をする。
「朔弥さん、一度帰った。荷物、取ってくる」
少しぎこちない日本語に、二人は頷く。いくつか並ぶ扉の、一番奥のそれを、高野はそっと開けた。
安田はベッドに座って窓の外を見ていた。白い髪が夕日に透けて、鈍く光っている。
「……先生、」
二人は、どちらからともなく呼び掛ける。振り向いた安田の口には呼吸器が付けられていて、けれどその顔色の良さに、二人は驚く。
まるで数年前の彼を前にしているような、そんな錯覚に陥る。
「……」
安田は呼吸器を外した。制止する声も出せず、二人はただ茫然とそれを見るだけだった。
「……高野。成海」
久しぶりに聞く彼の声は、いつもと、変わらなかった。ふらりと前に進んだ高野の背から、かすかに怯えを感じ取り、成海は目を細めた。
「……具合、どうですか? 先生」
嬉しげな高野の声色に、安田が小さく微笑んだ。
「良い方だ。よく寝たからな」
成海もそっと彼に近づく。ベッドの横に並んで立って、見下ろす。数日前に来た時、ここで眠っていた彼は、死人のように痩せて青白い顔をしていた。それが今は、別人のように生き生きとしている。意思の疎通が取れる。こんなことは、もうないのだろうと思っていたのに。
「さくから聞いた。あの女の子供を預かってるんだってな」
菫色の右目に宿った光に、成海の背が震える。何も変わらない。獲物に飢えた獣の目だ。
「……はい。今から俺が交渉に行って、成海に打ってもらうつもりなんです」
高野は微笑んだ。感情の読めない笑みだった。
「そうか……」
安田は視線を落とし、無表情になる。西日に照らされる横顔に、成海は何かを思い出す。
「……死ぬなよ、高野」
顔を上げ、そう言って微笑む安田に、高野は言葉を詰まらせた。
「……死にませんよ」
絞り出すように答える。脳裏に浮かぶのは、谷松と約束を交わしたあの日の光景だった。
「まだ俺、あんたに借金したままですから」
くしゃりと笑った高野を、安田は穏やかな目で見つめる。
「……あれは帳消しだと、何度も言ってるだろう」
「そういうわけにはいかないですよ」
十年前、高野が成海を救うために百万円で安田を買った事を、しかし安田は『必要ない』と言って取り消した。最後に勝ったのは高野自身だったこと。それから、『百万に値するおもしろいものを見せてもらった』こと——そんな理由で帳消しと言われ、それでも高野は金を貯め続けていた。
それもとっくに貯まっていたのに、安田は決して受け取ろうとしなかった。
「成海」
はっとして目を合わせる。
「これ、お前にやる」
伸ばされた手には、黒い何かが握られていた。戸惑いながらそれを受け取る。
「……先生」
成海が手の中のものを見つめて押し黙る。高野の顔が歪む。
渡されたのは革手袋だった。一目見ただけで、二人は理解する。安田がいつも代打ちの際につけていたものであることを。
「自分で新しいのを買うまでは、使うといい」
成海はもう、安田の目を真っ直ぐに見ることさえ、できなかった。
「……ずっと、大事にします」
やっとのことで、そう答える。掠れた声が手の中の手袋に吸い込まれる。
「もうずいぶん古いものだ。新品を買ったら捨てろ」
「いえ、これは……捨てません」
ぐ、と握ると冷たくて、柔らかい。
「そうか……」
安田が少しだけ、微笑んだように見えた。これが最後の会話になることを、二人は頭のどこかで理解していた。
*
運転席のリクライニングを目一杯倒して、薬師寺は体を横たえた。窓の外に、夕日に染まる空が広がっている。水平線の向こうが紫がかっていたので、薬師寺は、或る男のことを思い出した。その色の目を持つ、白虎と呼ばれた男。かつてこの町を出た日、薬師寺は最後に、彼から煙草を一本もらった。朝焼けを見ながら並んで吸ったそれは、酷く不味かった。何を話したかは、覚えていない。他愛もない話だったと思う。不気味なほど穏やかな時間を過ごしながら、どこまでも食えない男だ、と思ったことだけ、覚えている。
「……」
グラデーションの空にたなびく白い雲が、あの日見た煙のようで、だからこんなことを思い出したんだと、薬師寺は自分を納得させる。
深く息を吐いて、目を閉じた。喧騒が遠くに聞こえる。薬師寺は、実に五年ぶりに、芙蓉町へ帰ってきたのだ。
ふ、と胸に重みを感じて、目を開けた。
音もなく、小森が跨っていた。
「……えーと」
驚きのあまり、薬師寺は半笑いになった。戸惑う彼を見下ろす小森の目は冷たい。
「どう……したの? 寝てたんじゃないの?」
それには答えず、小森はゆっくりと手を伸ばし。
「……!」
その首に、手をかけた。
「……どういうことかな?」
見開かれた目が、すっと細まる。夕日を反射する桃色の瞳が、小森を値踏みするように見つめる。
「……あなたに」
薬師寺の首に両手をかけ、小森はわずかに顔を歪める。
「聞かなきゃいけないことがあるんです」
「……そりゃ……まずいな。答えなかったら……オレ、殺されちゃうのかな?」
冗談めかして薬師寺は言う。しかし、いくら九歳の少女といえど、馬乗りで体重をかけて首を絞められれば、窒息するだろう。もちろん、抵抗しなければ、の話だが。
そして、にっこりと笑う薬師寺に、抵抗の意思は見られない。
「……私を人殺しにする気ですか?」
小森の声は幼く、それでいて落ち着いているが、隠しきれない殺意に似た感情が滲んでいる。
「いや? そんなつもりはないよ。つまり君の作戦は大成功ってことだね」
飄々と薬師寺が答える。夕焼けに照らされた目元は、僅かに皺寄せられている。
「……なら、正直に答えてください」
首にかけた手から力を抜くことなく、薬師寺を見下ろし、小森は言う。
「あなたが、私の本当の父親なんじゃないですか?」
「……」
薬師寺の顔から、笑みが消えた。
「……なんでそう思うの?」
声色は優しいが、探るような目線は、容赦なく小森を射抜く。それに慄くことなく、小森は問い詰める。
「私は父親を見たことがありません。柳という人が父親だって母は言ってたけど、本当かどうか、確かめたこともない。それで、あなたを写真で見たとき、……上手く言葉にできないけど」
鋭い光を宿した瞳が、水面のように揺らめく。
「母の話に出てくるあなたが……私の父親じゃないかって、思ったんです」
薬師寺はその目に、底冷えするような孤独を見た。父を知らず、母を見失い、命を狙われている少女に、彼がつける嘘は何もない。
「……悪いけど、違うよ。オレは君のお父さんじゃない。絶対に」
低められた色の違う声に、小森の視線が揺れた。
「初めてあの子に会った時にはもう、君がお腹の中にいたんだ。それにオレはあの子に対して、そういう感情は……」
はた、と薬師寺が我に返る。うっかり忘れていたポーカーフェイスを再び被って、小森に微笑んだ。
「とにかく、疑いようもないくらい、君とオレは赤の他人だよ」
そう言って、薬師寺は視線を外した。窓ガラスに映る小森の横顔を見つめながら、彼女の——慧子の言葉を思い返す。
許されるなら、私は。
その先を確かな意思で、薬師寺は遮った。聞いてはならないと思った。聞けばきっと、自分は──彼女は、正しい決断をできなくなる。そんな気がしたから。
「……でも、正しかったと思うんだ」
薬師寺は、そう声を漏らす。
「オレたちが君と、君のお母さんを、本当の意味で救うためには……そばに居ちゃいけなかったと思うんだ。だって君たちは……」
うまく言葉にできずに、薬師寺は黙った。幼いころ、死んだ金魚を手の上に乗せた記憶がなぜかよみがえって、それだけが彼の頭を埋めていた。
するり、と手が解けた。薬師寺が小森のほうを見ると、彼女は脱力したように座り込んでいた。
「……そっか。そう……そうですよね……」
目からは光が消え、その声に覇気はない。薬師寺は少しだけ、少女を哀れに思った。顔も知らない極道の父親の血を受け、その父親から死を望まれている少女。恐らくはこれまでも、これからも、真っ当には生きられないだろう少女。しかし彼は、その事実から彼女を救うことはできない。
「……小森ちゃん」
未だ薬師寺の胸に跨ったままの小森に、優しく声をかける。手を伸ばすのは躊躇われて、じっと彼女の目を覗き込む。
その瞳が、薬師寺を映した。
「母が何度も貴方たちの話をするから」
抑揚の無いその声は、彼女の母のものに、似ているようで、かけ離れているようで。
「私は貴方たちをずっと昔から知ってるみたいに感じていました。会ったこともないのに、ずっとそばにいる人たち。母はいつも私に、一人で生きられるようになりなさいって言う癖に、貴方たちのことを、助け合って一緒に生きる貴方たちのことを、とても羨ましそうに話していました」
ああでも、やっぱり似てないな、と薬師寺は思った。
「私は、一人で生きていかなきゃ……」
それは、たった九つの少女が呟くには、あまりに重すぎる言葉だった。
「……」
薬師寺は何も言わなかった。かけるべき言葉など、彼にはありはしなかった。落ちていく夕日が、二人を夜に隠していった。
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