第十七更 約束したから
高野から送られてきたメッセージを見て、成海はすぐに携帯を仕舞った。
「……行く当てができた。出ようか、小森ちゃん」
代わりにポケットから出てきたものに、小森が目をつける。
「……それは?」
「ん? これ?」
成海が掲げた鍵束には、ロザリオが一つぶら下がっていた。
「お守り、だよ」
『雀荘すずめ』に鍵をかけた後、成海はキーリングを指先でくるりと回し、別の鍵を手に取った。
「……それは、なんの鍵ですか?」
「んー……なんだと思う?」
楽しげに微笑みながら、路地裏を通って建物の裏手に回る成海を、小森は追う。ビルとビルの僅かな隙間、一坪もないその空き地に、あまりにも強烈な違和感を発する、大型の黒いバイク──ホンダCBR400──が置かれていた。
「……これ、成海くんの?」
「そうだよ」
鍵を挿し、シートを開ける。黒いヘルメットを出して、小森に渡した。
「少し大きいけど、ごめんね」
小森はメットを眺めまわした後、紐を引っ張ったり中を触ったりしてから、それを被った。小さく笑った成海が、ハンドルにぶら下げてあったもう一つのメットを取る。
「僕の前に座ってもらってもいいかな」
成海はメットのベルトを締めながら、シートを跨いだ。手招かれて小森が近寄ると、そのままひょいと抱えあげられる。成海の前に座らされた小森は、物珍しそうにスピードメーターを見ている。
「寒くないといいけど……」
すずめを出る前に、小森には成海のジャンパーを着せていた。それでも極寒の京都をバイクで走り抜けるには、少し心許ない。
「あ、そうだ」
手袋をつけた成海が、自分の着ているウインドブレーカーの前を開けた。
「これ、ちょっと窮屈かもしれないけど、小森ちゃんの前で閉めるね」
成海の懐に潜り込んで、小森は頷いた。
「しっかり僕の服、掴んでて。……行くよ」
エンジンの駆動音が、小森の体を震わせる。急加速する黒の大型二輪が、京都の入り組んだ路地に滑り込んでいった。
高速道路を駆け抜け、北上するにつれ、雪が積もり始める。成海は小森の身を案じて、ちらりと視線を下げた。気付いた小森が成海を見上げ、一瞬目が合う。無表情ではあったが、その目には諭すような光が宿っている。大丈夫、と伝えている気がして、成海は少し嬉しく感じた。
夕鶴港が近づいてくる。風は一層冷たさを増し、昼過ぎの日差しが雪に反射して眩しい。瞬間、ミラーに映りこんだ黒いワンボックスカーに、成海の身体が反応した。
「……ッ!」
頭で理解するより早く、ハンドルを切る。猛スピードで突っ込んできた車体を躱し、側道の積雪に前輪が飲まれる。
「まずいっ」
思い切り左に切り、片足を地に付けたまま全力でエンジンをかける。後輪が滑りながら車体の向きを変えさせ、成海は来た道を戻り始めた。
「逆走はさすがにやばいか……!」
トンネルに突っ込む直前で、再びドリフトさせる。加速し始めたバイクに、後ろから見慣れた紺の車が迫ってくる。
「……! 夏井さん⁈」
振り返ってヘルメットのシールドを上げる。運転席の窓が開き、顔を出したのは、高野だった。
「成海!」
「高野!」
焦った表情の高野の顔には、いくつか傷がついている。伸ばされた腕にも、僅かに血が付いていた。
「これ、コンテナの鍵! 夕鶴港、西の奥のほうにある、濃いグリーンの……」
「高野! だめだ、一緒に!」
鍵を取った成海に、高野はにやりと笑う。
「かっこいいとこ、見せたいから」
追い越した先ほどのワンボックスカーが、再びこちらに向かってくる。さらに後ろからもう一台、近づいてくるハイエースを見て、高野が大声で行けと叫んだ。
成海の手が反射的に、加速をかける。
高野が運転するジャガーが遠くなる。次の瞬間、道を塞ぐように、その車体が回転しながら停車した。
「……ッ!」
成海は前を向き、小森を守るように身を低くした。轟音が、聞こえた。ミラー越しに、二台の車を側面で受け止める紺色の高級車が見える。衝撃に車体が揺れている。動揺を隠しきれずに、成海は鍵を握りしめた。
「……ッはあ、は、はぁっ……」
最悪のシナリオが頭をよぎる。ミラーに映る三台はどんどん小さくなっていく。凍えそうなほど寒いのに、背中を一筋汗が伝う。
「戻って」
微かな、けれど確かな声に、成海が下を見た。
「戻って!」
二度目を聞き終わるより早く、成海の手は動いていた。
雪解けの水を飛沫に変えながら、成海のバイクは向きを反転させた。真っ直ぐに捉えた紺色の車に向かって、猛スピードで高速道路を逆走する。
「高野——!」
煙を上げる車体の横に急停車し、小森を抱きかかえてバイクを飛び降りる。運転席の窓に駆け寄ると、ぐったりとした高野がエアバッグに埋もれていた。
「高野! 高野!」
ドアを開け、引きずり出すと、うっすらと目を開ける。
「……何してんの、成海」
「こっちのセリフだ! なんでこんな無茶するの!」
成海が肩に腕を回し、高野を支える。反対側から小森がそれを助けた。身体の外傷はそう酷くはないが、額が割れて血が流れている。
「せっかく俺が頑張ったのに、戻ってきちゃダメだろ……」
「馬鹿言うな! もし死んじゃったら、」
ぐ、と成海が言葉を飲んだ。這いずるようにバイクの後ろに跨った高野が、目を閉じたまま笑った。
「俺は約束したから」
低い声で、高野は呟く。
「神音さんと、約束したんだ。俺は誰よりも最後まで生きるって」
だから死なないよ、と。
「……」
成海がバイクに乗り、小森を抱えあげ、前に座らせる。唸りを上げ走り出すそれを、追うものはなかった。
高野は成海の背中に凭れかかり、その服に額を押し付け、血を吸わせた。小森はウインドブレーカーの前をしっかりと握り締めている。
成海は僅かに滲んだ視界を、日の光を反射する雪の眩しさのせいにした。
*
「夏井さんのところに戻らないと」
コンテナの中は簡素だが整えられていた。ソファに腰掛けた高野が、足首に湿布を貼りながら言う。
「その怪我で何言ってるの」
「でもさ……」
高野の頭には包帯が巻かれている。真新しいそれに微かに滲む血を、ヒーターの前にしゃがんだ小森が見つめていた。
「ジズに夏井さん一人で置いてきちゃった」
「……何人いたの? 相手」
「ふたり」
成海が救急箱を片付けながら肩をすくめた。
「二人くらい、夏井さんなら全然大丈夫じゃないの」
「そりゃそうだけど……」
ソファにかけられていたブランケットを手に取り、広げる。よたよたと立ち上がった高野は、広げたそれを小森の背にかけた。
「でも、居場所吐かせるのって、夏井さんあんまり得意じゃないから、心配なんだよ」
「居場所って」
小さく礼を言う小森の頭を、成海が撫でた。
「……アジトってこと?」
「そう」
立ち上がり、向かい合う二人を、小森が見上げる。黒いスーツを観察した後、きょろきょろと部屋を見回す。
「夏井さん、強いけど、拷問下手だから。やっぱ俺戻るよ」
「高野だって下手じゃん」
小森は部屋の隅に籐かごを見つけ、ブランケットを身体に巻き付けたままそれに近寄った。
「……でもいないよりいたほうがましじゃん」
「こんな怪我人、いないほうがましかもしれないじゃん」
不機嫌そうな高野の前に、バスタオルを持った小森が立った。
「服、血塗れ。拭いたほうがいいですよ」
二人は間に割り込んできた小森を見下ろし、一瞬呆気にとられた。
それから同時に笑い出す。
「黒だから目立たないと思うんだけどな」
「僕に付いてるの、高野のせいでしょ。代わりに拭いて」
「悪かったって……でもこれ夏井さんのだよね? 小森ちゃん、どこから取ってきたの?」
小森が籐かごを指す。受け取った白いバスタオルを持ったまま、高野が唸った。
「血、洗っても落ちないだろうからな……」
小森がブランケットを肩にかけ直す。成海が口を開きかけた時、高野の電話が鳴った。
「……夏井さん! 無事ですか⁈」
深刻な表情で、高野は夏井と話している。しゃがんだ成海が、小森の顔を覗き込み、微笑む。
「ありがとう、タオル。探してくれて」
「……ううん」
寒さで真っ白になっていた小森の肌は、少しずつ血色を取り戻し始めていた。成海が小森の顔色を確認していると、高野が電話を終えて戻ってくる。
「夏井さん、なんて?」
「一応場所はわかったって」
高野は携帯で何か打ち込みながら、小さく唸る。
「……けどなあ」
「何?」
視線を空に泳がせ、数秒黙ったのち、高野は首を振った。
「なんでもない! マスターにちょっと調べてもらってから、乗り込むよ」
「……乗り込むって」
呆れたように、成海が溜息をつく。
「一人で行く気? 無理に決まってるでしょ……」
「いや、まあ、夏井さんに来てもらおうかな……」
「二人だってやられて終わりだよ」
高野は頬を膨らませ不機嫌そうな表情で、どかっと床に胡坐をかいた。
「じゃあどうするんだよ」
「それは……」
成海が言葉に詰まった瞬間、すぐそばを車が走る音が聞こえた。
「……!」
「まさか、もう勘づかれたのか」
駆け出した高野が入り口を開け、隙間から外を覗き見る。
「……まずい! 成海!」
「どうするの⁈」
「まだバレてない、急いでバイクに!」
成海は小森をブランケットにくるんだまま抱きかかえ、走り出る。
「高野は⁈」
「俺は——」
銃声が響き、反射的に二人は身を屈める。
「……やばい」
「どうする……?」
腕の中の小森を見る。ブランケットの隙間から覗いた彼女の目に、成海は唇を噛んだ。
その時、別のエンジン音が近づいてきた。数名の怒号と、耳を抉るようなブレーキの音に、三人は顔を上げる。
黒い高級車の間を縫って猛スピードで近づいてくるのは、その音に似合わない、可愛らしいクリーム色の軽自動車だった。コンテナ前に急停車した車体から、男が一人、現れる。
短く切りそろえられた金髪が、揺れた。
「……やく、さん?」
信じられないまま、二人は同時に、男の名を呟いた。
「おまたせ、高野ちゃん、成海ちゃん!」
片手をあげて満面の笑顔を見せる男は——薬師寺一真は、二人が最後に見た時と、何一つ変わらなかった。
再び銃声が聞こえ始め、四人は車体の影に隠れる。薬師寺は車から大きな黒い鞄を引っ張り出し、地面に投げた。がしゃん、という重い金属音に、高野はその中身を悟る。
「なんで、やくさん、どうやって……」
「積もる話は後でゆっくりね! とりあえず小森ちゃん、渡して」
言いながら運転席に戻る薬師寺に、成海が小森を見た。戸惑いながら、彼女を下ろし、立たせる。
「あの、小森ちゃん……」
「わかってます」
説明しようとした成海を遮って、小森は駆け出した。後部座席に乗り込む直前、高野と成海をじっと見る。
「……また、あとで」
小さく彼女がつぶやいた言葉に、二人はしっかりと頷く。ドアが閉まると同時に車は急発進して走り去った。数台の黒い車がそれを追いかけようとするのを見て、高野は投げ捨てられた鞄を開ける。
「成海!」
投げて寄越された拳銃を受け取り、コンテナの後ろに身を隠す。鞄に詰まった大量の銃と弾薬を使いながら、二人は手分けして追っ手を足止めする。
「……やくさん……やくさんだ。助けに来てくれたんだ……!」
嬉しそうな高野の言葉を、成海だけが聞いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます