第十六更 強くないけれど



 磐長と別れ、すずめに戻ってきた成海が見たのは、雀卓の前に座る小森だった。

「起きてたんだね、小森ちゃん」

小さく頷き、小森は成海を見つめた。


「……よく眠れた? って言っても、二時間くらいしか経ってないけど……」

カウンター横の冷蔵庫を開けながら、成海が苦笑する。

「はい。もう大丈夫です」

寝起きのけだるさを隠さないその声に、少しだけ心を許したような色を感じて、成海は嬉しくなった。林檎ジュースのボトルを取り出し、グラスを二つ並べて注ぎ入れる。

「林檎、嫌いじゃない?」

「……はい」

片方のグラスを小森に手渡して、成海もその隣に座る。

「……ママが、林檎ジュース、好きだったんです」

小森は、両手でグラスを持って、その水面を見つめ呟いた。

「だから私も、好き」

「……」

成海は、何も言えなかった。少女がグラスに口をつけ、少しずつ飲んでいく様子を、黙って見ていた。


 並んで卓上の牌を見ながら、会話もなくジュースを飲む。牌は裏表さえ揃わず、無秩序に散らばっている。成海は飲み干したグラスに目を落とした。雫が光っている。

「君が……ここにいることが知られるのは、時間の問題だと思うんだ」

俯いた成海の横顔を、小森は暗い瞳で見遣る。

「君を追っているのはたぶん、君の……お父さんで。お母さんと君を、探していて、ここのこともきっと監視してる」

カーテンに目を向ける。ダークブルーのカーテン。窓の外がもうすっかり晴れ渡っていることを、成海は知っている。朝の日の光に、あまりにも不釣り合いな、分厚いカーテンを、けれど開けることはできない。

「ここは、あからさますぎだ。だから君を隠さなきゃ。ここじゃないどこかに」

カーテンの僅かな隙間を、睨むように見ていた成海が、びくりと肩を震わせた。自分の手を見る。

 小さな手が添えられていた。


「……ありがとうございます」

小森の声は穏やかだった。

「私の、……父親が、私を探してること。ママから聞いてました。見つかっちゃいけないんだって、言われてました。私はいないことになってるから、生きてることがばれたらいけないんだって。けどそれも全部、ばれちゃったんだって」

ごめんなさい、と呟く。

「本当は、最初に言うべきだった」

小森は反対の手で、黒いワンピースのポケットから写真を取り出した。

「私はもう何度も、ママから成海くんたちの話を聞いてました。信じないなんて、ありえないのに」

「……!」


 少し色褪せた写真。そこには、六人が写っていた。酒瓶をかかげる谷松に肩を組まれて笑っている高野。反対側で瓶を支えて破顔する成海。腹を抱えて笑う薬師寺と、食事の乗った皿を差し出す磐長、コーヒーを片手に微笑する安田。


 成海の目から、涙が零れた。

「あ。ご、ごめん」

重ねた手を離すことは躊躇われて、小森が触れていない左の手の甲で、目元を拭う。

 そっと小森が、白いハンカチを差し出した。

「……これ」

「……ありがとう」

成海はそれを受け取って、目頭を押さえた。滲んだ視界で見たそのハンカチは、さっき成海が小森に握らせたものだった。


「ごめん。ごめんね。もう大丈夫」

小森は少しだけ不安そうに、成海を見ていた。手から伝わる温かさが、成海の胸を締め付けた。

「……これが、神音さん」

ハンカチを握ったまま、指を立て、成海が示す。

「こっちがやくさん。こっちが先生。……お母さんに、教えてもらった?」

小森は頷いた。

「……この人は、今どこにいるんですか?」

成海は指差された薬師寺に、小さく首を振る。

「やくさんは、神音さんが亡くなってからちょうど一年後に、旅に出たんだ」

「旅……?」

「うん。行先は誰にもわからない。やくさんにも」

小森の目が揺らぐ。言葉の意味を推し量ろうとしているのだろう、と成海は感じた。

「自分探しの旅に出るんだって言って、この街を出て行っちゃったんだよ。だから今どこにいるか、わからないんだ」

「……」

少しだけ、落胆したように見えた。

「じゃあ、先生、は?」

その言葉に、成海が僅かに顔を曇らせた。

「……先生は」

逡巡して、一度閉じた唇を、再び開ける。

「病気なんだ。治らない病気。去年の夏に倒れてからずっと、入退院を繰り返してる」

小森が成海の目を見つめた。濡れた瞳は海のようだった。

「……末期の肺癌なんだ」

成海は小森の指先を握った。

「大丈夫……」

少女に、そして自分自身に言い聞かせるように、呟く。

「大丈夫。僕達が必ず、君を助けてあげる」


 僕は強くないけれど。

 僕は、マスターのように優しくないけれど。やくさんのように器用じゃないけれど。神音さんのように大人じゃないけれど。先生のように、強くないけれど。


「僕達が君を助ける」

小森は、頷いた。互いに真っ直ぐに見つめあう。

「……行こう。ここは危ないから」

繋いでいた手を離し、立ち上がる。成海は持っていたハンカチを、そっと畳み直した。

「……これ、君に返すよ」

Kと刺繍された白いハンカチを、成海は小森にそのまま差し出した。

「返す……?」

「うん。これは……君のお母さんから、借りていたものだから」

小森はそれをじっと見つめ、握り締めた。


   *


 磐長が柳組のアジト探しに苦戦していること、小森を匿う場所を探す必要があることを成海から伝えられた高野は、リクライニングを倒して天井を眺めている夏井に相談した。


「子供をどこかに隠したいんですけど……」

「ん? ああ……隠れ家ってことやね?」

「そう、隠れ家……って、どこがいいんすかね」

「うーん」

起き上がった夏井が、指先で眼鏡をずり上げる。

「君のよう行く場所は、避けたほうが良いやろね」

「そうなるともう、俺は思いつかないんだけど」

「なんだかんだ行動範囲狭いからな、君」

夏井がレバーを引いて椅子を戻し、エンジンをかける。

「ほな、一肌脱いだろ」

「え?」


 身体を震わせる駆動音と、急加速する車体。慣性の法則で、高野は体をシートに押し付けられる。

「自分なあ、北のほうに秘密基地持っとんねん。むかぁし、組入る前にチンピラやっとった頃の名残でな」

出た、と高野は顔に出さず内心呟く。夏井が組に入る前、かなり『ヤンチャ』していた話は、噂や人伝に何度も聞いてきた。本人の口から詳しく語られることはなかったが。

「一応たまに手入れしとるから、使えるはずやで。お世辞にも過ごしやすいとは言えへんけど」

「構いません。めちゃくちゃ有難いです。お願いします」

高野はすぐに成海に連絡を取る。ハンドルを切り、すずめへ向かいながら、夏井はくつくつと笑い声を漏らした。


「……なんすか?」

「いや、俺のこと簡単に信用しすぎちゃう?」

ああ、と言って高野はまた携帯電話の画面に目を戻す。

「自分、徹さんの運転手しとったやんか」

「らしいですね」

夏井はかつて、鈴鳴組の代打ち師をしていた時代の、吉鯖の専属運転手だった。その後吉鯖は西木組の代打ち師になり、今はそれもやめている。

「まだ繋がりあるかもしれへんで? 西木組の元代打ち師と自分が繋がっとって、スパイされてるかもしれへんとか思わんの?」

「思いませんね」

即答した高野に、夏井が爆笑した。

「甘いなあ、君」

「あんたらの性格、わかってるだけすよ。徹さんもあんたも、そういう人間じゃないだろ」

「それが甘い言うてんねやんか」

高野は携帯電話をポケットに仕舞い、代わりに煙草を取り出した。

「仕方ないでしょ。俺の周りには身内に甘い人しかいないんだから」

一本取り出し、夏井の口に押し込む。それでこの話は終わりだと言わんばかりだった。慣れた手つきで火を点けられ、夏井は微笑む。

「……そうやったなあ」

高野は自分も煙草を吸い、自嘲するように笑った。


「なんて、偉そうなこと言ったけど。普通に徹さんが今回のことに絡んでないの、知ってるから」

「そうなん?」

目を見張る夏井が、煙を吸い、眉根を寄せた。

「……エコーやん、これ」

その時、高野の携帯電話が震えた。


「……もしもし」

「高野さん、ですか」

押し殺したような声は、ジズの店長のものだった。

「店長さん?」

「はい。奴ら、来ました」

高野が夏井に目配せする。頷いた夏井が、スピードを落とさないまま、車を百八十度回転させる。道路とタイヤの擦れる音が響いた。

「すぐに向かいます。刺激はせず、けどできれば店にとどめておいてください。もちろん無理にとは言いません、怪我だけはしないように」

「わかりました。お願いします」

電話を切った高野が、加速する車体に揺られながら、成海の番号を押す。

「成海、隠れ家、教えるから。悪いけど、二人で先に行ってて。ジズに連中が来たから、俺達はそっち行ってから……うん。大丈夫。すぐ行く。……わかった。場所は今から送る。……うん。気を付けて」

高野は指に挟んでいた煙草を咥え、傍らに置いていた短刀をベルトにねじ込んだ。


「夏井さん。その、秘密基地ってやつ、どこですか?」

「うん? ああ、夕鶴港の奥のほうにある、コンテナを改造したやつやねんけど……あっ」

携帯に文字を打ち込んでいた高野が、夏井を見た。

「……コンテナの鍵、渡せへんな」

「……何が何でも追いつくしかないですね」

二人は咥え煙草の口の端から、同時に煙を吐いた。


「行くでぇ」

「はい」

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