夜明けのモーニン

瀬名那奈世

夜明けのモーニン

 火、木以外の午前四時、隣の部屋から聞こえる『モーニン』が、いつも僕を呼び起こす。

 初め、意識の扉をノックするのは、くすぐるようなピアノの音だ。その後、少しの掛け合いを挟んで、トランペットとサックスが主旋を歌う。そのうめきにつられるようにして、僕はゆっくり起き上がる。

 冷たいフローリングを歩いて一杯だけ水を飲み、トイレに寄って、布団に戻る。未だ鳴り続けているモーニンを聞きながら再び眠りに落ちる。そんな生活が、もう一年近く続いている。

 あれは大学二年生の夏だった。御園みその先輩は、「このは、『朝』じゃないんだぜ」と皆の前で得意げに笑って、次の日から突然、アトリエに来なくなった。

 残された描きかけのキャンバスは、朝焼けのようなピンク色だった。「隣だから届けます」と預かって、僕は一◯一号室の呼び鈴を幾度となく押した。

 でも御園先輩は、何度言ってもキャンバスを引き取ってはくれなかった。だから僕の部屋の隅にはもう長らく、不完全で不恰好なモーニンが、寝ぼけ眼で居座っていた。


 僕はキャンバスから顔を離して、じっと目を細めた。今し方ペインティングナイフで作ったばかりの、絵の具の盛り上がりや色の重なりをよくよく吟味する。

 ピンクが足りないと思った。こういう時、素直にピンクを足してもあまり意味がない。ピンクが足りないと感じるのはなぜか。明るさが足りないのか。柔らかさが足りないのか。

 上から二対一の比率でキャンバスを分断する水平線の空側に、僕は淡いクリームを足してみた。でも直感的に『違う』と感じて、すぐにそれらを削り取る。

 こち、こち、と壁にかかったアナログ時計が時を刻む。右のこめかみに吹き出した汗が頬をつたい、顎下を撫でた。背中ににじんだ汗まで、とたんに気になってくる。

 今日はもう、駄目かな――そう思いかけた瞬間、「パッポッ」という頓狂な鳴き声と共に、時計から木製の鳩が勢いよく飛び出してきた。僕の肩が、反射で勢いよく跳ねる。

 鳩は全部で四回鳴いて、これまた驚くほど大きな音をたてながら、扉を閉めて帰っていく。この時計、壊れてたんじゃなかったのか。っていうかもう少し、穏やかに鳴けないのか。

 ……やっぱり、今日はもう駄目だ。

 僕は潔く諦めて、椅子に座ったままぐっと伸びをした。ぐるぐると肩を回すと、肩甲骨の中心から、あまり好ましくない音が聞こえてくる。

 夕食の算段をつけながら、立ち上がったところだった。蒸し暑いプレハブ小屋に響く蝉の声が、ひと際大きくなった。

「あれ、のぞむじゃん」

 のんきな声に、思わず入り口を振り返る。立て付けの悪い扉を大きく開け放って、御園先輩は目を丸くしながら立っていた。

「……お久しぶりです」

「なんで? 昨日の夜すれ違ったでしょ」

「そうですけど」

 そうだ。そうだった。

「でもここで会うのは一年ぶりくらいですよね」

「そうだっけ」

 一年前の夏、ここで彼女ができたと自慢していたことも、ジャズの名曲『モーニン』について馬鹿みたいに蘊蓄うんちくを垂れていたことも、彼はすっかりさっぱり忘れているらしかった。

 御園先輩はポケットに手を突っ込んだまま、ぐるぐると辺りを見回した。ホコリを被ったイーゼルや椅子を眺めて、「こんなに人いなかったっけ」と眉をひそめる。

「御園先輩が来なくなったからですよ」

「そんなことある?」

「ありました」

「マジか」

 俺って人気者、と、御園先輩は八重歯を覗かせた。確かに彼は人気者だった。この美術サークルに所属する十八人のうち、男は四人で、女は十四人で、女のうち十二人くらいは彼のことが好きだったと思う。

 本気で絵が描きたい人間なんて、ここにはいない。何か生産性のあるように見えることをしながら、たったひと時寂しさを紛らわせることができれば、それで皆十分だった。

「きれいじゃん」

 御園先輩はキャンバスを見て言った。「きれいなだけですけどね」と答えると、「ちょっとさ、座ってみ?」と椅子を指さす。僕は素直に椅子に座る。

 僕の手からペインティングナイフを奪った御園先輩は、代わりに細い筆を差し出した。「緑使ってみたら」と言って、床に広げた絵の具の箱から緑色のチューブを拾い上げる。

「白と混ぜてトーン合わせて、水平線の海側に細く一本入れて」

 僕はパレットに絞り出した緑を筆先に取って、白と混ぜた。海側の水平線に細いラインを一本引く。下にぼかせと言われたので、波の質感を作り込みながらぼかしていく。

 藍と混ざった暗い色合いが、空のピンクをよく引き立てた。こうすればよかったのかと納得する。僕が二時間悩んだ問題を、御園先輩はものの数分で解決してみせた。

「臨にはきっと、きれいなものしか見えてないんだな」

 おかしそうに言って、御園先輩はポケットからタバコを取り出した。素早く火をつけて吸いこみ、気だるげな調子でふーっと吐く。

「どうした?」

 僕の視線に気づいた御園先輩が、おもむろに顔を上げる。「タバコ吸ってましたっけ」と声をかけると、「あれ、知らなかった?」と肩をすくめる。

「彼女がさ、吸うから。つい俺も。部屋でもたまに窓開けて吸ってるんだけど、音聞こえない?」

 ああそうか、あれはタバコを吸っていたのか。

 この一年、隣の御園先輩の部屋からはよく、結構な勢いで無遠慮に窓を開ける音が聞こえてきていた。そんなに頻繁に洗濯物を干すのかと、ずっと不審に思っていた。

「昨日鉢合わせた時もさ、俺タバコ買いに行くところだったんだよ。近くにコンビニできたじゃん? 超便利でさあ」

 この大学は坂道を登った先にある。裏には大きな山がそびえ立っていて、だから僕たち学生が住むアパートも、必然的に店など何もないような僻地になってしまう。

 坂を下った先の国道を歩けば一応、大型のスーパーがある。しかし今年の四月、坂の中腹あたりにコンビニができた。多少割高だが、坂を下りきらなくていいのは魅力的だ。

「というわけで、今日は宅飲みね」

 携帯灰皿の蓋を閉め、御園先輩はパチンと指を鳴らした。「どういうわけですか」とツッコミを入れる間もなく、僕の肩に重い腕がのしかかってきた。


 大学から徒歩五分のアパートに一度戻り、御園先輩の車に乗ってスーパーに行った。ビール二缶にレモンサワー一缶、紙パックの焼酎が一つと、ウィスキーを一瓶。

 御園先輩が酒類ばかり先に買うので、重たいカゴを持ったまま店内をうろつくハメになった。割り材を兼ねて緑茶とウーロン茶の二リットルペットボトルを一本ずつ買った。

 袋麺のコーナーを通りかかった時、御園先輩は唐突に、「結局この世で一番うまいのはラーメンだ」と語り始めた。ずいぶんと熱心な口ぶりだった。

 異論はなかったので聞き流していると、カゴの中にはいつの間にか、インスタントの醤油ラーメンと塩ラーメンと味噌ラーメンと豚骨ラーメンが詰め込まれていた。

 なんでこんなに、と尋ねれば、「ラーメンの中のラーメンを決める」と意気込む御園先輩である。要するに、一気に四種食べ比べてみたいだけなのだ。つまりは馬鹿ということだ。

「卵、家にありますか?」

「あるわけがないんだよな」

 僕は袋麺がカゴから飛びださないように気をつけながら移動し、十個入りの卵を手に取った。袋麺を二袋、御園先輩に持たせて、開いたスペースにそっとパックを置く。

「四個のやつでよくね? ってか俺チャーシューだけで全然いいんだけど」

「四個のやつは単価が高いので死んでも買いたくありません。卵のないインスタントラーメンなんて、この世に存在するべきではありません」

 僕がきっぱり言うと、御園先輩は戸惑いがちに頬をかいた。加工肉のコーナーからパウチのチャーシューをかっさらって、さっさとレジへ向かう。

 会計は御園先輩がした。千円でいいと言うから、僕はその場で千円札を一枚財布から抜き取って、彼に渡した。袋麺が二つ、袋に入りきらなくて、僕が手で抱えて店を出た。


 ラーメンを四種類食べ比べしてわかったことがある。絶対に、スープを全て先に作って、それから麺を茹でるべきだ。なぜ初めに気づかなかったのだろう。

 一口しかないコンロで律儀に愚直に一種類ずつどんぶりを完成させていったら、全部そろって食べる頃には、最初に作った塩ラーメンがカブトムシの幼虫のように膨らんでいた。

 そして御園先輩いわく、第一回ラーメンカップの優勝者は味噌ラーメンらしい。二位醤油、三位豚骨ときて、塩ラーメンは失格である。

 まあ塩ラーメンが失格になってしまったのは、審査員である僕たち側の不手際でしかないので、ちょっと申し訳ないかなと思った。第二回を開催してあげてもいいかもしれない。

「彼女がさいきん、ぜんぜん会ってくれないんだよねえ」

 ラーメンカップの後、呂律の怪しい口ぶりで、御園先輩は耳まで赤くしてうなだれた。あんだけ買い込んだくせに、ビール一缶と緑ハイ一杯、三口のレモンサワーでこの有様だ。

「いや、毎朝会ってるよ。会ってるんだけどさあ。俺が車出して、三十分かけてむこうの職場まで送ったらさ、それでおしまい。今まではあった迎えのお願いも夜のお誘いもなし。そのまま三ヶ月。これどう思う? どう思うよ、臨くん」

 今の御園先輩に現実を突きつけるほど、僕は鬼畜にはなれなかった――毎朝、先輩は足にされてるんですよ。だいたい、先輩が行かない『帰り』の方は、どうしてると思ってるんですか? 別の『足』があるに決まってるじゃないですか。

 そんなことを言ったら、この人は本当に、泣いてしまうと思った。

「今はお相手がちょっと忙しいだけで、またちゃんと元に戻れますって」

「ほんとかあ? そう言ってくれるの臨だけだわ。みんな別れろ別れろでさあ……ありがとなあ」

 へろへろとテーブルに額をつけて、御園先輩は眠った。馬鹿なんじゃないのかな、と思う。死人のようにぐったりと伸びた首筋を見て、きれいだ、とも思う。

 きれいっぽいものを集めてしまうだけの僕とは違って、この人には本当に、きれいなものしか見えてないんだろうなと、僕は彼と最初に話した時から、本気でそう思っていた。

 御園先輩はそれほどまでに、いつでも、どこでも、誰に対しても、馬鹿で無邪気できれいだった。陰の彩りを、濁りが照らす光を、ごく当たり前に見抜ける目を持つ人だった。

 きれいなものしか見えない人は、きれいだ。

「先輩、御園先輩」

 僕が肩を揺さぶっても、御園先輩は全く起きる気配を見せなかった。この部屋の鍵がどこにあるかわからないのでは、自室が隣でも帰れない。

 僕は諦めて、御園先輩が中途半端に口をつけたレモンサワーを一気に飲み干した。ぴりぴりと弾ける刺激を唾液でやりすごして、そのまま横になる。

 一晩くらい歯を磨かなくても虫歯にはならないと信じよう。強引に付き合わされた分、居座れるだけ居座ってやろうと開き直って、目をつむる。


 翌朝僕を起こしたのは、金管楽器ではなく御園先輩本人のうめき声だった。朝四時、ごぽぽ、と嫌な感じで喉を鳴らした彼は、何度かえずいてから一直線にトイレを目指した。

 過去一悪い目覚めに、こっちまで胃の中のものが迫り上がってくる心地がした。吐く時の、喉の弁がでろでろに開くあの感じが大嫌いな僕は、とっさに耳をふさいでいた。


 九月の最初の水曜日、朝四時の『モーニン』は、いつもより短かった。僕が布団に戻ったあたりでぷつりと途切れ、薄闇に初めての沈黙が訪れる。

 何事か、と思うと、気になって眠れなかった。じっと意識を集中させて様子を探れば、ぼそぼそと喋る御園先輩の低い声が、薄い壁の向こうから聞こえてくる。

 やがて、慌ただしく靴を履く気配があった。一◯一号室の扉が開いて、足音が遠ざかる――かと思いきや、すぐに甲高い音で僕の部屋の呼び鈴が鳴った。

「臨、起きろ、臨! おーい、臨」

 荒っぽいノックの音が何度も響く。僕は慌てて布団から飛び出した。僕が起きていることを早く伝えなければ、一◯三号室と二階の面々から苦情が入る。

「臨! 臨!」

「起きてますから!」

 一度だけ叫び返して、僕は玄関扉を開けた。自分で呼びつけたくせに、御園先輩はぱちくりと目を見開いて、ずいぶんと呆けた表情をしていた。

「何の用ですか」

「臨、今日予定は?」

「特にないですけど」

「じゃあ一日付き合え」

 三分で支度しろよ、と言い残して、御園先輩は扉を閉めた。まだ眠いんだが? という後ろ向きな気持ちと、『何があったか知りたい』という好奇心を、頭の中でバトルさせてみる。

 一分ほど思考を巡らせて、勝利を収めたのは好奇心だった。まあどうせ暇だしな、とつぶやきながら、僕はTシャツとチノパンに着替えて、財布をポケットに突っ込んだ。

 スマートフォン片手に玄関を出ると、御園先輩はアパートの脇でタバコを吸っていた。どこか甘い香りを振り撒いて、煙が細く長く昇っていく。辺りはまだ、ぼんやりと暗い。

「二分遅刻」

「……まだ眠いんですよね、僕」

「ごめん。許して臨くん」

 しぱしぱと目をまたたかせながら、御園先輩は顔の前で手を合わせた。「たまにになるの、なんなんですか」と尋ねると、インコのように小首を傾げて「癖?」と答える。

 黒い普通車を発進させながら、御園先輩はもう一本タバコを吸った。まなじりが少し赤い。何か言った方がいいのかなと一瞬迷った。でも『放置でいいか』とすぐに結論が出た。

「どこ行くんですか?」

 代わりに僕は、僕にとって今一番大事なことを御園先輩に尋ねた。御園先輩は、拍子抜けしたような、同時に少しほっとしたような顔で、「コンビニ」と答えた。

 御園先輩の目指すコンビニは、にしては、ずいぶんと遠かった。坂道を下った先の国道を二十分は走った。その間、御園先輩は一言も口をきかなかった。

 オーディオからは全く興味のないジャズが延々と聞こえてきて、それが妙に僕をイラつかせた。いよいよ寝てやろうかと思った時、左手に海が見えた。

 久しぶりに見る朝焼けは、思っていたよりもずっとずっとオレンジ色だった。アトリエに放置しているキャンバスを思い出した。描き直さなければ。

 正直、面倒くさいなと思う自分がいる。別に僕は、本気で絵が描きたかったわけじゃない。何か生産性のあるように見えることをして、たったひと時寂しさを紛らわせることができれば、それで十分だったのだから。

「はは、きれいだろ」

 御園先輩はため息混じりに笑った。窓の開く音がして、鼻の奥を刺す、甘い香りが漂ってくる。「フラれたんだ、」と御園先輩は言った。『こっちを向くな』と言われた気がした。

「職場近くの男の家に泊まったから、今朝はもう、家まで来なくていいって言われた。これからも来なくていいって。『浮気ってこと?』って聞いたら、『もうとっくにわかってたでしょ』って開き直られて」

 電話切れちゃったわ、と付け足して、御園先輩はまた静かになった。

 車内を満たすジャズが耳につく。こんなのをいつまでも聞いてるから、タバコなんていつまでも吸ってるから、そうやって無様に泣くハメになるんだ――とは、僕は言わない。

「そもそも御園先輩の彼女ってなんの仕事してるんですか」

「パン屋」

「自分の家の近くになかったんですか」

「海の見えるパン屋なんだ。どうしてもそこがいいって面接受けて、受かって、金ないけど引っ越ししようかなって言うから、『俺が学生のうちは送り迎えくらいするよ』って申し出ちゃった」

「どうしても行けない時は?」

「そん時は自分で行くの。あの人ちゃんと、自分の車あるし。帰りは一応、バスもあるし」

 でも俺が運転してあげたら、三十分多く眠れるでしょ。

「……僕、前々から思ってたんですけど、御園先輩って馬鹿ですよね」

 御園先輩は何も言わなかった。車はそのまま海沿いを進み、途中で現れたコンビニエンスストアに、思い出したように吸い込まれていく。

 入り口近くの駐車スペースに車を突っ込んだところで、御園先輩は「はあ」とひとつ、大きなため息をついた。僕が声をかける間もなく、額をハンドルに預けてうなだれる。

「ごめんのんちゃん、タバコ買ってきて」

 ひゅっと息を吸い込んで、僕は固まった。御園先輩もうつむいたまま固まっていた。僕の目の前で、ちらりと見える耳が、ぱーっとわかりやすく赤く染まっていった。

「間違えた。臨くん、タバコ買ってきてくれない?」

「僕の、この腕に立った大量のトリハダの責任は、誰がとってくれるんですか」

「先生に『ママ』って言ったことがない人だけが今の俺に石を投げるべきだと思う」

 僕は浮かせかけていた腰をシートに戻した。「買ってきてくれないの」と聞かれて、「嫌です」と答える。「どうしても?」と食い下がられたので、しばし思考を巡らせる。

「絵、描いてくれたらいいですよ」

 御園先輩はハンドルから顔を上げて、意外そうな表情で僕を見た。

「絵?」

「絵。僕、御園先輩の描く絵、また見たいです」

 いちまいだけなら、と、小さな声で御園先輩は言った。「ありがとうございます」と返して、僕は車を出る。自動ドアをくぐってようやく、銘柄を聞き忘れたことに気がついた。

 何も持たずにレジに並んで、若い男性の店員に、辛うじて知っているタバコの名前を告げた。露骨に嫌そうな顔をされたけれど、だってそんなの、仕方がないじゃないか。

 車に戻ってタバコを手渡すと、御園先輩は一瞬、本当に一瞬、顔をしかめた。それでも口では「ありがとう」と礼を言って、その場で一本抜き出し、火をつける。

 さっきとは違う、煙くて苦いにおいが漂ってきて、僕は思わず眉根を寄せた。吸っている本人も、窓から外へ煙を吐きながら、ずいぶんと苦しそうな顔をしている。

「もしかして苦手でしたか?」

 僕がそう尋ねると、「ごめん。正直嫌い」と答えて、御園先輩は笑った。

「ちょうどいいや。これでやめにするよ。このひと箱で、タバコはおしまい」

 それはとてもいいことだと思った。でも僕は、そんなことは言わない。「別に無理にやめなくてもいいんじゃないですか」とつぶやいて、助手席の窓を開ける。

 咥えタバコでバックして、御園先輩はコンビニを出た。

「海で泳ぎたかったんだけど、まだどっかで水着買えるかな」

「盆過ぎの海にはクラゲが出るって、僕の母がいつも言ってました」

「……じゃあ足だけにするわ」

 御園先輩はタバコを灰皿に押し付けた。元の国道を更に先へと進み、吹き込む風に目を細めながら、「なんで言ってくれなかったんだろう」とぼやく。

「俺のこと、飽きたんならそうやって言ってくれればよかったのに。俺別に怒んないし、今までのガソリン代払えなんて言わないし」

 はは、と思わず笑いがもれた。確かに御園先輩は、そんなこと絶対に言わないだろう。『のんちゃん』だって、それがわかってるから言えなかったんだ。

 この人を悲しませたら、自分が絶対に悪者になる。

「げ、」

 前方に向かって目を細めながら、御園先輩は突然、情けない声を出した。僕が目線で問うと、「彼女だ、彼女。のんちゃん」と苦笑いを浮かべる。

 道の左側に、クリーム色の建物が見えた。小ぢんまりとしていて、屋根はまろやかなピンク色で、おとぎ話から飛び出してきたような感じだった。

 その茶色いドアの前に、女性が一人、立っているのが見える。「へえ」とつぶやいた僕は、車がその横を通り過ぎる一瞬の間に、彼女をまじまじと観察した。

 高い位置で栗色の髪を結っている。黒い半そでTシャツに黒いスラックスを合わせていて、右手に持ったジョウロから出る水をぼんやりと眺めていた。

 彼女がのんちゃん。ジャズとタバコをたしなむ、御園先輩を泣かせた元彼女。火木以外の週五日、僕の七時間睡眠を妨げ続けた女。

 人は見かけによらないんだな、と思いながら、僕は窓を全開にしていた。ぐいと首を突き出して、その華奢な肩に向かって目いっぱい叫ぶ。

「ばーーーーーーーーーかっ」

 彼女が振り向くよりも先に、僕は頭を引っ込めて窓を閉めた。口をあんぐりと開けてこちらを見つめる御園先輩に、「事故ったら化けて出ます」と忠告して、思いきり鼻を鳴らす。惰性で流れていたジャズを止める。

「ありがとう、でいいのかこれは」

「違います。私怨です」

「あれ? 臨とのぞみって、会ったことあるんだっけ」

 僕は小さくため息をついた。やっぱり御園先輩は馬鹿だ。そう思うと同時に、すごくすごく嫌な可能性が頭をよぎる。

「聞きたくないけど、聞きますよ。望って誰ですか?」

「のんちゃんだよ。ノゾミだから、『のんちゃん』」

 一字違いじゃないか、と心の中でつぶやいて、僕は思いきり顔をしかめた。こんな、きょうだいみたいな名前で、最悪だと思った。


 海で遊んで、回転寿司を食べて、アパートには十二時前に戻った。眠い、とあくびをもらす御園先輩を無理矢理ひっぱって、僕はキャンパス内のアトリエに向かう。

 僕たち美術サークルが使っている、アトリエとは名ばかりのプレハブ小屋は、前回訪れた時よりも更に蒸していた。空気の圧が強すぎて、息をするだけでやっとだった。

「え? 俺今から描くの? こんな暑いところで?」

「そうです。そっちの窓も開けてください」

 ええーと渋る御園先輩に、わざとしおらしい声で「ごめんのんちゃん、タバコ買ってきて」と言ってやる。顔を赤くして謝りながら、御園先輩は自分の横にある窓を全開にした。

「待て、臨。キャンバスがない」

「あるじゃないですか」

「どこに」

「そこに」

「だからどこ?」

「目の前です」

 僕は部屋の中央を指さす。イーゼルに立てかけたままの、ピンク色の朝焼け。

「これはだって、お前の……」

「違います。御園先輩のです。御園先輩が描きかけで置いていったやつです」

 あんまり受け取ってくれないんで、可哀想だから続きを描いてました。

 僕がそう言うと、御園先輩は八重歯を見せて、とても楽しそうに笑った。壁際の棚から画材を取り出し、準備を済ませ、「いいんだな、本当にいいんだな」と何度も僕に問いかける。

 いいですよ、と答えると、御園先輩は勢いよく椅子に座った。にゅにゅにゅと絞り出したオレンジ色の絵の具を筆でとって、ど真ん中に一本、太くて長い縦線を引く。

 胸がすく思いがした。御園先輩は瞳を輝かせながら、今度は青い絵の具を絞り出す。同じ筆でとって、オレンジの横に再び一本。次は緑で、その次は赤で、そのまた次は黄色で。

 着々と増えていく、馬鹿で無邪気できれいな一本たち――全部混ぜると黒くなると教わったのは、確か中学の美術の授業だった。

 ペインティングナイフに持ち替えて、御園先輩はキャンバス上の絵の具をぐるぐる混ぜ合わせた。淡いピンクを、その上のぱっきりとした線たちを、緑がかった黒が覆っていく。

「俺は、黒が一番好きなんだ」

 額の汗を拭いながら、御園先輩は言った。

「絵なんてもう描かないと思ってた。珍しいなと思って、暇つぶしで入ったサークルだったし。ここで皆と駄弁るのは楽しかったけど、彼女と遊ぶ方が何百倍も楽しかったし」

 その横顔を、僕はきれいだと思う。

「だけどさ、ふと寂しくなっちまって、覗いてみたんだ。そしたらお前がここにいた。どうせなら女子がよかったよ。でもやっぱり、お前でよかった」

 濁りきった絵の具を、御園先輩はキャンバスの端の端まで塗り込んだ。ちょっと休憩、とペインティングナイフを置き、「自販行こーぜ」と立ち上がる。

 学食前の自動販売機まで、僕たちは肩を並べて歩いた。御園先輩は飲み物をおごってはくれなかった。それぞれ買ったコーラを立ったまま飲んで、アトリエに戻る。

 再び絵の前を陣取った御園先輩は、キャンバスの端をそっと持って、横向きにした。その真ん中に向かって、指先で一本、見えない横線を引く真似をする。

「これが乾いたら、真ん中に一本、線を引くんだ。溝引き定規使って、まっすぐなやつ。色は白。だから今日はここまで」

 「ちゃんと最後まで描くから」と念を押す顔が面白かった。くつくつと腹を抱える僕の頭を小突いて、「タイトル、悩むなあ、」とぼやく。


 二日後、金曜日の朝四時、僕は鳴らないはずの『モーニン』で目を覚ました。いくら耳を澄ませても、一〇一号室からは物音ひとつ聞こえない。

 なのにどうしてだろう。僕の頭の中には、くすぐるようなピアノが、トランペットとサックスの気だるげなうめきが、完璧なテンポ感で響いている。

 水を飲みながら「嘘だろ」とつぶやいていた。昨日は大丈夫だった。今日は起きてしまった。明日ももしかして、起きてしまうのだろうか。

 なんとか抗いたくて、僕はいそいそと着替え、スニーカーを履いた。まだ暗い道を駆け抜けて、年中二十四時間入り放題のキャンパスを目指す。

 辿りついたアトリエは真っ暗だった。入り口のスイッチを押し、電気がつくことに安堵する――浮かび上がる、苔むした黒。暗く濁った、美しい色。

 ふと、いたずら心が湧き上がる。これくらいゆるしてほしいと思った。僕はこれから一生、火木以外の週五日間、モーニンに七時間睡眠を妨げられるのかもしれないのだから。

 棚から画材を取り出し、キャンバスを床に下ろす。白い絵の具を筆の先にたっぷりと取って、溝引き定規とガラス棒を使って、絵のど真ん中にどこまでもまっすぐな線を引く。

 縦じゃない。横だったんだ。そう思ったら、笑っていた。鼻歌がもれる。僕を目覚めさせる、午前四時のモーニン。

 御園先輩はやっぱり馬鹿だ。この絵のタイトルが何かなんて、もう最初から決まっていたのに。


 <『夜明けのモーニン』 了>

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夜明けのモーニン 瀬名那奈世 @obobtf

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