双曲線

姫路 りしゅう

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 てん、てん、とボールが転がっていく。


 それを見た僕は、半ば反射で駆け出していた。


 ボールの出処は公園。

 車通りの多い車道に面している公園。


 前から危ないと思ってたんだよ!


 そして僕の予想通り、少年がボールを追いかけて車道に飛び出し――そこにタイミング悪くトラックが通りかかった。


 トラックに気がついた少年が呆然とする。

 ブレーキ音が響く。

 そしてそれよりも疾く、僕の体が宙を舞った。


 少年を突き飛ばして、その替わりにトラックに轢かれた僕の意識は、そこで一度途切れる。


 消えゆく意識の中で、少年の体を突き飛ばした手が、僕以外にもう一本あったな、などと考えていた。



**



 澄み渡るような青空が広がっていた。

「は?」

 そして目の前にはその青空よりも青く、てらてらと輝く海。

 いつの間にか僕は、帆もオールもないに乗っていて、大海原をゆっくりと進んでいた。

「なんだこれ」

「ほんまになァ」

 左手のほうから聞きなれない関西弁が聞こえてきた。

「……あんたは?」

 声の方向には、金髪の男がいて、自分と同じようにいかだの上に座っている。

 彼のいかだは手を伸ばせば届きそうなほど近い。

「変なこと聞くんやな。俺のことよりまずこの現象のことやろ」

 金髪は両手を広げて首を左右に振る。見渡す限り一面の大海原。

 彼以外に人や船は見えず、ただ進行方向に太陽が白く輝いている。

「俺の見立てやと、ここは海や」

「誰が見立ててもそうだろ」

 金髪は口元を歪ませてから、「もうちょっと勢いつけた断言系の方がおもろいで」と言った。

 僕はそれを無視して、ゆっくりと立ち上がろうとする。

 しかしそれは叶わなかった。

「あれ」

 上半身しか動かせない。

 現実を飲み込めず額に手を当てようとしたら、

「は?」

 慌てて両手を合わせて『頂きます』のポーズをとる。しかし両手はぶつかることなく、スッとすれ違った。

 色々と調べてみた結果、僕の体は何にも触れないことが判明した。

「どういうこと?」

「さぁ? 俺に聞くなや。俺もさっき起きたところやねんから」

 金髪は間抜けな顔で両手を広げた。

「あんたに聞いた僕が馬鹿だった。しかしこれじゃあまるで、にでもなったみたいだ」

 そう呟くと、金髪は「俺も同意や」と言った。

 適当な発言に同意が得られるとは思っておらず、思わず声をあげる。

「だから、俺らは幽霊なんちゃうかって意見に同意やって言ってんねん、あんたがたった今言ったように」

「……いや、そんな関西弁ではなかったけどな?」


 幽霊という単語を発したことで、僕の脳裏に鮮明な映像が浮かんできた。

 公園、トラック、少年、ボール。

 宙を舞う自分の体。

 痛み、暗転。


 そして、僕以外のもう一本の手。


「あんた、まさか――」

「あんたもしかして」

 ほぼ同時に僕らは声をあげた。


 僕たちは、あの時同じ場所にいて、二人せーので少年を庇ってトラックに轢かれた。

 そして死んだ。


 この海は、死後の世界。


 それが僕たちの出した結論だった。


「あんた、死んだ後も律儀にメガネかけてるんやな」

「そういうあんたこそ、バチバチにピアスついたままだよ」



**



「しかし俺ら、どこ向かってるんやろなぁ」

 しばらく無言の時間が続いたのち、金髪が口を開いた。

「あんた、もうちょっと緊張感とかないのか?」

「なにを緊張することがあんねん。もう死んでんのに」

「……それはそうなんだけど」

 どこに向かっているかという問いかけに対して、僕はひとつの解答を持っていた。

「僕は別に熱心なキリスト教徒でも仏教徒でもないからさ、天国とか極楽とかその辺はよくわからないんだけど、きっとそういう死後の世界に向かってるんでしょ。あの太陽の方が、死後の世界なんじゃないかな」

 いかだの進行方向まっすぐ向いた先にある白い太陽。

 それがきっと、この旅の終着点なんだろう。

「なるほどなぁ、あの太陽に辿り着いた時が、この意識が消えるときってことやな」

 金髪は少しだけ顎を上げて、鼻を鳴らした。

 僕はその所作にを覚えながら言葉を投げ返す。

「別に意識が消えるかどうかはわかんないよ」

「なんや、消えるんが怖いんか」

「怖いわけじゃない。ただ不確定なだけだって言ってる」

「そうか? 声震えとるで」

「……」

「むしろ俺は拍子抜けしたな。死んだ言うのにまだ意識が残ってて、こんなロスタイムみたいな時間過ごせるとは思ってなかったわ」

 その意見には僕も同意だった。

「まあ、その最期のロスタイムを過ごす相手があんたみたいな見ず知らずのいけ好かない野郎だとは思ってなかったけどね」

「さっきからちょいちょいトゲないか? どしたん。話聞くで」

「どうせあんたと話す以外やることないから嫌でも聞いてもらうよ」

「せやなあ。このペースで進んどったら、いったいいつあの太陽に辿り着けるんかわからへんし」

 僕たちはゆっくりと、しかし確実に太陽の方へと進んでいた。


「うしっ、それじゃあんたの話聞かせてや、メガネくん」

「僕の? うーん、何が聞きたい?」

「やー暇つぶしやからなんでもええで」

 あ、でも、と金髪はそこで言葉を切った。

「俺あんまりアニメとかわからんからそういう話しされても困る」

「いま人のこと見た目で判断したろ!」

 思わず左拳を彼の方に突き出したが、その拳は彼に届かなかった。

 もっとも、届いたところで通り抜けるだけだが。

「すまんすまん、アニメ見ひいん人か」

「いや、見るけどさ」

「見るんかい」

 もちろん見る。メガネ男子なんだから。

「別にアニメ見いひんメガネ男子もおるやろ……」

「そういうあんたも、サーフィンの話とかしないでくれよ。僕は波に乗ったことなんてないからな」

「女にも乗ったことなさそうやしな」

「うるさ。どうして『女に乗る』みたいな乱暴な物言いができるあんたのほうが女に困らないんだ」

「何言ってんねん、女に困ってばっかりやがな」

 その言葉に僕は顔を上げた。

 そうか、見た目に反してこの人も女性にモテてこなかった人生を歩んできたんた。

 僕は再び左手を握り込んで、拳を作った。次は殴るためではなく、グータッチをするために。

 金髪もその拳を見て意図を察したのか、ニヤリと笑ってから右拳を重ねた。


 音も感触もなかった。

 それでもたしかに、僕らの拳はぶつかった。


「女に困らされてばっかよ。ちょっと他の子に手を出しただけで浮気やー言われたりしてさ」

「てめェ!!!!」

 こいつ、裏切りやがった!


 金髪はけらけらと笑って僕の顔を見た。

「初めて笑ったな」

「は? 僕が? そりゃ僕は笑顔の多い人間だよ」

「嘘つけや、ずっと仏頂面やったやんけ」

 死後の世界で満面の笑みになれる人間がいたら是非僕の目の前につれてきてほしい。


「お互い全然違う人生歩んでそうやから、共通の話題なんてないよなぁ」

 オタクとヤンキー。たしかに僕たちの共通項は少ないだろう。しかし、とてもとても大きな共通項もひとつある。

「死に方」

「あん?」

「共通の話題だよ。僕たち、絶対交わらないような人生を歩んできたはずなのに、同じ少年を助けるために二人とも死んだだろ」

 金髪は納得の表情を作った。

「たしかにな。いつの間にか体が動いとったわ。自分でも驚き」

「わかるよ。僕もそうだった」

 そしてきっと、全く同じタイミングに全く同じ場所で死んだからこそ、こうして今同じ大海原を進んでいるのだろう。

 もうそれなりの時間が経つのに、この広大な海に僕たち二人以外いないのは、きっとそういう理由だ。

 人間、死ぬ時は一人だ。

 通常は一人で海を越え、あの白い太陽まで向かうのだろう。

 しかし僕たちはそこが混線したのか、こうして二人で話している。


「あの子、無事かな」

 金髪がふと零した。

「無事だよ。だってほら、少年はこの海に来てないだろ?」

 きっと少年はまだ生きている。

 成人男性二人死んだけれど、少年一人を救えたわけで。

 カードゲームなら基本的に2:1交換はディスアドバンテージと言われる。でも成人してそれなりに経ったオタクとヤンキー二人と輝かしい可能性のある少年一人なら十分アドだろう。

「ふふ、アドアド」

「キッショ」

「うるさ」

 カートゲーマーの鳴き声を聞かれた僕は恥ずかしくなって顔を背けた。

 少しだけ沈黙の時間があって、金髪が口を開く。


「そういや自分、あの公園で死んだってことは、あのへんに住んどったんか?」

「あ、そうだよ。コンビニの裏くらい」

「マジか! 俺もそのへんや」

「じゃあすれ違ってたのかもしれないね」

 ようやく共通の話題を見つけた僕たちは、ゆっくりとそれについて語り合った。

 近所の美味しいラーメン屋。特徴的な駅員さん。コンビニの新商品に歯医者の先生の腕前。

 僕たちはまるで十年来の友人かのように語り合って、笑い合った。

 それはきっと、死んだあとという特殊な状況だからこそ芽生えた絆だったろう。

 お互いに生きていたとしても、出会うことはなかっただろうし、もし出会っていてもこんな風に話す機会も、話す気もなかったはずだ。

 それがなんだかおかしくなって、ふとしたタイミングで僕は再び彼の方に拳を突き出した。

 グータッチ。

 触れられない僕らでも、お互いの存在を感じあえる不思議なコミュニケーション。

 金髪もそれに気付いて、照れたように口元を歪ませながら右拳を突き出した。



 その時、僕はようやく自分の抱えていた違和感の正体に気がついた。


「…………」


 僕らの拳は、重ならなかった。


「…………」


 数十分前はたしかにぶつかったはずなのに、今は目一杯手を伸ばしても、彼には届かなかった。

 下半身は動かない。

 伸ばせる手の距離は変わっていないはず。


 だったら変わっているのは、互いの距離だ。


 ――僕らのいかだは、少しずつ離れていっている。


「なぁ、金髪」

「なんや、メガネくん」

 僕は違和感を口に出した。白い太陽について最初に言及したときに感じたズレを、言葉にした。

「白い太陽ってさ、どこにある?」

 金髪が指さした先は、ほんの少しだったけれど、僕と別の角度だった。

「ってとなんや、俺らの終着点は別の場所なんか?」

「……そうなんだろうね。そもそも同じ海に降りたことがイレギュラーなんだ。ゴールが違っていてもなんの不思議もない」

 そう言うと、彼はそっぽを向いて黙ってしまった。



**



 人間、死ぬ時は一人だ。


 交わる予定のなかった僕たちの人生は、その終わりに一瞬だけすごく近付いて――でも交わることなく、再び離れていく。


 僕と金髪のいかだは、もうすでに10メートルほど離れていた。


 その間も、それからも、僕たちは色んな話をした。

 生まれてから死ぬまでどんな風に生きてきたか。

 楽しかったこと、悲しかったこと。

 好きなこと、苦手なこと。


 やりたかったこと。


 無限に続く修学旅行の夜のように、僕らは気の済むまで語り合った。

 それでも気は済まなかったし、この時間は無限に続かなかった。


 二人の距離が離れ、どれだけ声を張り上げても、聞き返すことが多くなった。

 

 まだ、白い太陽は遠い。


 あそこに辿り着いた時、僕はどうなるのだろう。


「でもさぁ、メガネくん!」

 遙か左側から、金髪の声がする。

「死んだあと、意識も残ってたし、こんな楽しいロスタイムもあったんだぜ。ビビるこたぁないよ!」

 僕の心を見透かしたような言葉を吐きやがって。

 負けじと声を張り上げる。

「じゃあさ、もし来世ってものがあったらさ!」

 いけ好かない野郎だと思っていた。

「その時は友だちになってくれよ!」

 金髪は大声で笑った。

「もう友だちやろ」


 表情は見えない。

 でも、きっと彼は楽しそうな顔をしている。

 そして僕も、同じ顔をしている。


**


「最後に、名前を教えてくれよ」

「嫌やな」

「なんでだよ」

「来世の俺は俺じゃないからや」

 恐らくこれが最後の会話になる。

 そんな確信があった。

「来世の俺は別の名前や。だからあんたは俺を名前で認識すんな。俺の魂を、存在を、俺を覚えといてくれや」

「…………」

 なんだよ、その理屈。


 でも僕は、不思議とその理屈に納得できた。

 僕たちが会話した時間は数日にも満たない。人生を振り返れば、もっと長い時を過ごした人もたくさんいる。

 それでも、最期に会えたのが彼でよかった。


 人間、死ぬ時は一人だ。


 白い太陽に辿り着いて、僕という存在が消える瞬間、僕たちは一人きりだ。


 でも、あいつもどこかで一人なんだと思うと、一人じゃないと思えた。


 たとえ声が届かなくても、姿が見えなくても、きっとそこにいる。

 その魂を、存在を、あいつを、僕は覚えている。



**



 白い太陽に飲み込まれる瞬間まで、僕は彼の進んだ方向に、大きく手を振り続けた。

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