彼女の部屋

さかたいった

鍵のかかった部屋

 しとしとと降る雨の音。

 気がついたら、わたしは部屋の中に立っていた。

 ぼんやりとした意識のまま、目の前の光景を観察する。

 家の中の一室。ベッドがあり、机があり、タンスと小さな本棚もある。

 ベッドの上には抱くのにちょうどよさそうな大きくて丸っこいクジラのぬいぐるみがあった。ハンガーラックにチェック柄の制服のスカートがかけられている。

 どうやらここは女子の部屋のようだった。

 この光景に覚えがあるような、ないような。少なくとも、どうやってここに来たのかという経緯は覚えていない。

 ここはどこだろうか?

 部屋の中に自分の他に人はいない。意識を広げると、屋根を打つ雨音が耳に響く。外は雨のようだ。

 入口のドアの前に立ってみた。ドアノブの傍に小さなモニターと、3×4のキーボードがついていた。モニターにはこう表示されている。


『あなたの名前を入力してください』


 そう指示されてみて気づいたことがある。

 わたしは自分の名前を知らなかった。

 自分がどこの誰で、どうしてここにいるのかもわからない。

 静寂の中に雨音だけが響いている。

 ドアノブを回してみた。予想通り、ロックがかかっている。自分の名前がわからないとこの部屋から出られないらしい。

 入口の反対側にある窓のほうへ移動した。その窓にも鍵がかかっている。ただ錠らしいものが見当たらない。窓は曇りガラスのようになっていて外の様子を見ることができないが、おそらく外は暗く、そして雨が降っている。

 窓ガラスを割って外に出るという野蛮な行為に走る前に、部屋の中を調べてみることにした。もしここがわたしの部屋なのだとしたら、きっとヒントになるものがあるはずだ。

 ざっと部屋の中を見回してみる。印象的に目につくのは、やはりハンガーラックにかけられた制服だ。この制服がわたしのものなのなら、おそらくわたしは学生ということになる。

 そういえばと思い、今の自分の格好を確認してみた。薄い水色のパジャマのようなものを着ている。後ろ髪は肩の位置よりちょっと長い。部屋の中に鏡が見当たらないことに、なぜかちょっとだけ安堵した。自分の顔を見るのが怖いのかもしれない。

 ブー、ブー、とバイブレーションの音が鳴った。机の上にスマートフォンが置かれている。それの音だ。

 スマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開いた。


はる『菜奈、今日は先に帰って』


   なな『どうしたの? 追試?』


はる『違うよ』


   なな『用があるなら終わるまで待ってるよ』


はる『いいっていいって』


   なな『波留は今日傘持ってないでしょ。相合傘しよ』


はる『恋人同士か!?』


 そこでメッセージは終わっていた。他にメッセージは入っていない。スマートフォンにはこのメッセージアプリしか入っていなかった。

 アプリでは『はる』と『なな』という人物がやりとりをしている。どちらも女子の名前のように思えた。『追試』というワードが出てきたことからも、おそらく二人は学生なのだろう。そして傘に関する話をしていたので、それは雨の日の出来事だ。

 この情報だけでは、まだ不十分だ。当てずっぽうで『波留』か『菜奈』と入力すれば入口は開くかもしれないが、わたしは自分に関する情報が欲しかった。自分が誰なのかを思い出したい。

 その時遠くから耳障りな音が響いてきた。雨音をかき消す騒がしい音。救急車のサイレンだ。サイレンはある程度まで近づき、それから遠ざかっていった。

 サイレンの音を聴いて、胸がざわついた。

 気を取り直して、他に自分に関する情報がないか部屋の中を調べてみる。

 本棚に並んでいる本は、ほとんどが漫画。少年向けと少女向けが半々ぐらいだ。だいたいの作品は読んだ記憶があったが、読んでないものもある気がした。小説も数冊並んでいる。タイトルだけでは何のジャンルかわからない。一番下の段の隅っこには分厚い辞典の類が置かれていた。

 机の上にはスマートフォンと、ノートパソコンがある。ノートパソコンを開き電源ボタンを押してみたが、起動する気配がなかった。

 少し気が引けたが、タンスの引き出しも開けてみた。中にあったのはレディースの服だ。見覚えのあるものも多い。

 ここはわたしの部屋なのだろうか? 確信が持てない。

 ブー、ブー。

 またスマートフォンが鳴った。手に取り、アプリを開く。

 なぜか一挙に複数のやりとりが追加されていた。


なな『クラスの正樹くんってかっこいいよね』


   はる『あら、惚れちゃった?』


なな『違うよ。客観的に見て、だよ』


   はる『告白してみたら? 付き合えるかもよ』


なな『そんなんじゃないんだって! もう!』


 また『はる』と『なな』の対話だ。正樹という男子について話している。

 先ほどは気に留めなかったが、メッセージが送信された日付けに注目してみた。二人が正樹について話しているものが、6月11日。その前のはるに用事があるという話が、6月18日。時系列的には順序が逆だ。このことに意味があるかはわからない。

 スマートフォンのホーム画面で現在の日付けを確認してみた。6月18日の18時23分だ。また戻ってメッセージの時刻を確認する。6月18日にはるとななが一緒に帰るかどうかを話していた時刻が、16時15分。今はそのやりとりから2時間後ぐらいということになる。はるとななは結局一緒に帰ったのだろうか?

 なんだか落ち着かない。自分の記憶が無くなっていることもそうだが、このはるとななの間に何かが起こったような気がするのだ。

 入口に移動し、もう一度ドアノブを回してみた。当然ロックがかかっていて開かない。

 この場所から出なければいけないと思った。なぜか焦燥に駆られる。

 再び部屋の中を見て回った。雨は相変わらず降り続けている。

 机の横にショルダーバッグがあった。開けて中を見る。数学と英語のノートがあった。さらにバッグの内ポケットを探る。そこに生徒手帳が入っていた。これで自分の名前がわかる。

 ウィーン、と唐突に機械音が鳴った。机の上からだ。

 ノートパソコンを開くと、なぜか起動しデスクトップ画面が映し出されていた。

 一旦脇に生徒手帳を置いて、パソコンを確認する。一つフォルダがあって、その中に動画ファイルがあった。クリックして開いてみる。

 蛍光灯に照らされた学校の廊下が映し出された。少し揺れながら、前へ進んでいく。窓の外は雨だ。動画はカメラで撮影されているというより、ある人物の視点そのもののように感じた。

 廊下は静かだ。生徒たちが下校した放課後なのかもしれない。

 教室の前に来たところで動きが止まった。視点が入口のドアの窓のほうへ移っていく。

 ドア窓から、教室の中の様子が見えた。二人の男女が向き合って立ち、男子が女子のほうへ体を近づけていく。体を密着させ、口と口が触れた。

 教室を覗いていた人物が、急に勢いよくドアを開いた。ガンと衝撃音が鳴る。教室にいた二人が驚いてこちらを振り返った。

 それから視点の人物は踵を返し、脱兎のごとく廊下を駆け出した。

「待って、菜奈!」

 教室から女子の声が響いた。追いかけてくる足音が聴こえる。


  好きだったのに


     好きだったのに


 本当に


    好きだったのに


  波留のこと


 思い出した。あの教室にいたのは波留と正樹だ。二人の光景を目撃したのが菜奈。

 菜奈は波留に抜け駆けされたことで傷ついたわけではない。

 菜奈が好きだったのは正樹ではない。

 波留だ。

 波留はきっと放課後正樹に呼び出されたのだ。だから菜奈には一緒に帰れないと言った。

 気になった菜奈は様子を探り、その場面を目撃した。そして大きなショックを受けた。

 わたしは傍らに置いていた生徒手帳を開いた。

『神崎菜奈』

 部屋の入口に行き、ロックされている箇所に名前を入力した。一昔前のケータイの文字入力方法だ。

『神崎菜奈』

 それがわたしの名前。

 ビー、と警告音が鳴った。それは答えが間違っていたことを示していた。

 キーボードの上のモニターに新たに文字が表示される。

『あなたの目で真実を確かめてください』

 鍵が外れる音が鳴った。

 ドアノブが回る。ドアを開けて外に出た。

 部屋の外はとても暗かった。雨音が直に聴こえてくる。

 様子のわからない暗闇の中、わたしは進んだ。

 遠くに微かに光が見えた。そちらのほうへ進んでいく。

 光がビームのように伸びていた。その光が一人の女子生徒を照らしている。

 そこにいたのは菜奈だった。間違いない。記憶にある彼女だ。菜奈は泣き腫らした可哀想な表情のまま停止している。

 菜奈を照らしている光の源を確認した。それは停止しているトラックだった。トラックの前方にある二つのライトが菜奈を照らしている。

 そうか。思い出した。

 教室の場面を目撃してショックを受けた菜奈は、学校の外まで雨の中走り去った。そして今トラックが目前に迫っている。

 わたしは菜奈のあとを追いかけた。

 菜奈は勘違いしたのだ。

 わたしは自分の気持ちを菜奈に伝えたかった。

 わたしは停止している菜奈の背中をそっと押した。菜奈が押されたほうへ動いていく。

 そしてトラックが動き出した。

 わたしの体が宙に舞った。








 ――る。



 ――はる。



「波留!」



 私は目を開けた。


 泣いている菜奈の顔が見えた。


 そこは病室のようだった。私はベッドの上で寝かされている。

「波留!」

 菜奈が私に抱きついてきた。

 私は自分の状態を確認するよりも先にやるべきことがあった。

「菜奈、ごめんね」

「波留」

「勘違いさせちゃったよね」

「喋らないで」

「私は大丈夫だよ。ねえ菜奈」

「なに?」

「私、菜奈のことが好きなんだよ」

「波留」

「好きすぎて、菜奈の部屋の夢を見てた」

「波留」

「勝手にタンスの中覗いちゃった」

「やめてよ」

「雨、そろそろ止むかな」

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彼女の部屋 さかたいった @chocoblack

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