第2話 苛めと石ころ
自分も気にしていないし、まわりでも彼を意識している人もいないのだから、別にそれでいいのだろう。
会社の仕事に支障をきたすようなことがあれば、問題なのだが、そんなこともない。孤立しても、仕事がなくなったり、周りから、
「苛め」
のようなものを受けるわけでもない。
どちらかというと、苛めを受けないかわりに、
「石ころ」
のような存在になるというわけだ。
「そういえば、子供の頃、木登りをしていて、背中から落っこちて、ちょうどそこに石ころがあり、ひどい目にあったっけ」
ということを思い出した。
「石ころなんて、そんな時でもなければ思い出すことはないんだ」
という意識であったが、逆に、
「石ころというのは、普段意識しないだけに、意識する時というのは、これほど恐ろしいものはない」
といってもいいのではないだろうか?
そんな清川は、
「俺にとって、何が怖いのかというと、そういえば、そんなことを意識したことはなかったな」
と考えた。
どちらかというと、もぐさで、整理整頓もしたくないという考えから、次第に、何かを考えるということを、自分から拒否し始めた。
だから、
「まわりが何を考えているのか?」
あるいは、
「自分をどんな目で見ているのか?」
などということを、あまり意識もしていない。
そんなことを気にしていたのは、小学生の頃までであっただろうか?
小学生の頃は苛めに遭っていた。
「苛めに遭わないには、どうすればいいのか?」
ということを考えた時、
「無視するしかない」
と思うようになっていた。
しかし、3年生の時だったか、苛めに遭っているのを、母親は分かったようだ。
これが、中学生や高校生になってからでは、苛めが昔と違って陰湿だということもあって、きっと、大人にもどうすることもできないだろう。
しかし、そんな時代だからこそ、母親は、学校に怒鳴り込んでいきそうな勢いを感じた。
だから、母親から、
「あんた、苛めを受けているんだって?」
と言われた時、とっさに、
「そんなことない」
と答えてしまった。
最初は、怒鳴り込んでいきそうな勢いだったのが、急に何も言わなくなったのだから、清川も拍子抜けしたが、
「母親だって、本当は、波風を立てたくない」
ということを考えているのだと悟った。
だから、子供の言葉を、まともに信じて、ホッとしたような顔になったのだ。
「何だ、本当はただの、ポーズではないか?」
ということが分かった。
ということは、逆に怒鳴り込んでいけば、その態度はかなりオーバーだったに違いない。
怒鳴り込むことにまわりを意識していないとでもいうのか、それとも、
「子供がいじめられている」
という大義名分があることで、日ごろのストレスを解消できるとでも思ったのか、逆にその思いを悟られたくないということで、余計に、言い方がひどいものとなるのだろうと思うのだった。
だが、この思いが、逆に、子供が抱く感情も同じことで、
「自分を虐めている連中も、最初は軽い気持ちだったのだろうが、一度苛めてしまうと、自分が苛めっ子だということをまわりに宣伝してしまったようになるので、ここで辞めるわけにもいかない」
ということになるだろう。
だから、苛めはエスカレートしてしまって。こちらも、大げさにして、本当の気持ちをごまかそうとしているのではないかということだ。
つまり、
「大げさにしてしまう時は、大人も子供も同じ理由で、大義名分があったりすると、それをまわりに印象付けようとして、そんな態度をとってしまうのだろう」
ということであった。
それを考えると、
「自分にとって、どうすればいいか?」
ということは、自ずと決まってくるのだ。
「そんな大人や同級生連中の、勝手な渦の中に巻き込まれたら、たまったものではない」
と考えると、そこから先、考えることというと、
「石ころになってしまうことだ」
ということであった。
石ころになってしまうと、
「俺は、苛められることも、苛めを通して、母親のストレス解消の的にされないことができるのではないか?」
と考えるのであった。
母親に対して、
「苛められていない」
と言った時、あの時の感覚はある程度無意識であった。
苛めのために、学校に怒鳴り込んでいくなどというのは、下手をすれば、余計に苛めがエスカレートしてしまうということを、無意識のうちに考えていたのだろう。
子供時代というのは、そんな意思がつよかった気がする。
だから、今まで、
「石ころ」
というものが、自分と同化してしまっているという感覚になったのだが、
「石ころをまわりが、どのように感じているのか?」
と、自分で考えたことはあったのだろうか?
「あったと言われればあった」
というような気がするし、
「なかったと言われれば、なかった」
というような気がしたのだ。
「俺は考え方まで石ころになってしまった」
と言えるのだろう。
そんな子供時代から、中学、高校という思春期になってくると、
「どうしても、避けて通ることのできない時期だ」
ということを身に染みて感じたのだ。
特に中学に入って、2年生になるかならないかというくらいの頃になって、とたんに異性を意識し始めた。
それは、
「男子からの影響も、女子からの影響もあった」
ということであった。
どちらが強いかといえば、微妙であったが、
「女子からの意識」
というのは、他の男子とは、若干違ったのかも知れないと思ったが、それは聴いたわけではないので、ハッキリとはしないが、自分だけだったということではないかと感じたのだった。
というのは、
「どうしても、意識したのが、そのコスチューム」
だったのだ。
というのが、学生服というものだった。
セーラーにしても、ブレザーにしても、皆、同じ学校なら、同じ服なのだ。
ということは、
「服は一緒でも、着ている人間が違うのだから、似合う似合わないというのは、当然違って見える」
ということだろう。
「可愛い子は、とてもよく似合って見え、そうではない子は、それなりに」
という、
「昔懐かしのコマーシャル」」
という番組で見た、確か、
「使い捨てカメラ」
か何かのコマーシャルだったのを思い出していた。
だが、制服というのは、魔力のようなものだった。
しかも、それを着ている期間というのは、女の子にとっても、
「思春期」
であり、
身体の発育が顕著に見え、胸のふくらみ、お尻のふくらみと、さらなる、発育の進化のようなものが見えることで、制服の魔力は、倍増するのだった。
そんな女の子への意識に、男としても発育途上なので、身体が反応してしまい、精神も必死で肉体についていこうとするのだった。
それを思うと、
「制服の魔力」
には、
「どうしても勝てない」
と言えるのではないだろうか?
それが、女子に対しての思いであり、男性に対しては、今度は違う意味での意識となるのだった。
男性同士というと、どうしても、嫉妬心というものが湧いてくる。
これは、女性に対しての嫉妬とは違い、ストレートなものではなく、
「自分が同じ立場であるにも関わらず、相手が、自分よりも先に進んだり、相手に優越感を持たれることで、自分が劣等感を持つという」
いわゆる、
「自分を劣等として見る」
ということが、
「嫉妬というものなのだ」
と初めて知った気がした。
つまり、
「小学生の頃は、とにかく、まわりを意識せず、自分を石ころと思えば、それで、時間だけが過ぎていき、とにかく、平和にやり過ごせる」
ということを考えていた。
だから、何とか小学生の頃は乗り切ったmpだが、苛めも、いつの間にかなくなっていた。
「まったく反応のない奴を苛めても、何が楽しいかということなのだろう」
と感じたのだ。
さらに苛めというものが、どいうものなのかということを考えてみると、
「相手が力を反発させるものを叩いた場合には、こっちもいい感触を得ることができるだろう」
と言えるが、逆に。
「力を吸収するようなものであれば、こっちが疲れるだけだ」
ということになるだろう。
それは、
「モグラたたきゲーム」
というものに似ていて、
「逃げるモグラを叩いても、ストレス解消にはならないや」
というものであった。
小学生であったが、いくら石ころになって、ストレス解消を免れようとしていても、なかなかうまくもいかない。
そんな時に、ゲームセンターでの、
「モグラたたきゲーム」
というのは、重宝したのだった。
中学生になって、男子への嫉妬ということであるが、
これは、
「自分よりも先に彼女を見つけて、実に楽しそうなカップルになっている」
というのを見ることだった。
それが、自分と立場的に似ている人間であればあるほど、そう感じる。
自分よりも年上であれば、
「まだ、その年齢に達していないのだから、まだまだこれからだ」
ということで、意識対象ではなくなる。
また、これが年下ということであれば、
「俺とは、人間の作りが違うんだから、意識するだけ無駄だ」
ということで、これも意識対象ではない。
しかし、同級生であれば、相手が、優れているやつだと思っても、考えることとしということで、
「俺とあいつのどこが違うんだ?」
ということを考えさせられる。
それを思うと、
「俺にはいない彼女が、なぜあいつに?」
といって、歯ぎしりをしてしまう。
そして何よりも、
「俺があいつの立場で、この俺を見ているということを感じてしまうことだということなんだよな」
と感じることであった。
もう一人の自分がその友達の中にいて、
「お前は、しょせん、俺にはなれないんだ」
という優越感を思い切り醸し出しているかのようで、しかも、それを、
「もう一人の自分」
にされてしまうということは、たまったものではないということだった。
おちろん、これは、相手が、
「自分と同じ立場の人間だ」
ということを感じているからに違いない。
そんな意識がどういうものなのか?
ということを考えていると、
「男性に対しての嫉妬心」
というものが、女性に対しての嫉妬とまったく違うことに気付くのだった。
「女性の眩しさ」
というものに対して、男性のそれは、
「醜いもので、吐き気を感じさせるようなものだ」
と言えるかも知れない。
確かに、吐き気を催してくるというのは、思春期ならではであった。
「自分も同じなんだ」
ということを、何度となく感じていたが、
「想像したくない」
という思いから、
「鏡をなるべく見ないようにしよう」
と考えるのであった。
親が、
「たまには、鏡でも見なさい」
と、自分に無頓着だということを息子が感じているということが分かったのか、
「大きなお世話」
として、鏡を部屋に置いたのだ。
最初は、
「無視していればいいんだ」
と思っていたが、そういうわけにはいかなかった。
というのは、
夜になると、鏡は、部屋を真っ暗にしていても、
「ぼやけた光」
というものが見えてくるのだった。
その光を見ていると、実に嫌なものに感じられた。
「まるで霊魂が宿っているかのようではないか?」
ということであった。
霊魂というのが、
「鏡に宿る」
ということは、ホラーの世界では、一般的に言われていることであった。
怖がりのくせに、なぜかそういう話は、耳に入ってくるもので、
「テレビか何かで見たんだろうな」
と、再現フィルムのようなものが目を瞑るとよみがえってくるような気がしてくるのだった。
それを思うと、
「俺って天邪鬼なんじゃないだろうか?」
ということを感じるようになってきた。
そんな思春期において、苛めというものには、遭わなかった。
これは、やはり、
「石ころ」
というのが、優先順位として、
「嫉妬」
であったり、
「思春期の感情」
というものにも増して、強いものだということであった。
思春期において、ただ、
「嫉妬」
という感情だけが、思春期が終わっても、残ったのだ。
この嫉妬は、男女間におけるものだけではなく、
「人が表彰されたりする」
ということに対しての嫉妬だった。
スポーツなどで、全国大会に出場したり、優秀な成績を収めたっりすると、学校でわざわざ時間を作って、講堂に全生徒をあつめて、その生徒だけを称える。
などということをすることがある、
実に、バカげたことだと思う。
しかし、皆、校長が、
「○○君は、わが校の誇り」
などといって、自分が偉いわけでもないのに、そう言って、称えていて、まわりの生徒も拍手をしているが、果たして、皆、人が称えられることを、本当に誇りのように思うのだろうか?
それこそ、
「嫉妬心」
というものが湧いてこないのだろうか?
それを考えると、
「俺だけなんだろうか?」
と思うのだ。
「あれ?」
とその時感じたのは、
「俺は石ころだったはずなのに」
と感じる。
つまり、
「嫉妬心というのは石ころよりも強い」
ということであろうか?
それを思うと、実に情けなくなる。
なぜなら、苛めから自分を守るための石ころなのに、嫉妬心という、新たなあまり自分ではありがたくない感情に、
「優先順位を奪われる」
ということである。
「これほど情けないものはないのではないか?」
そんな風に思うと、
「これが俺なのか?」
とさえ思えてくるのだ。
そんな嫉妬心というものが、いかに心の中にあるか?
ということが、難しいところであった。
昔の流行歌に、
「錆びたナイフで何度も何度お刺される」
というようなものがあったような気がしたが、今思えば、
「死ぬこともできずに苦しめられている」
という感覚を思い出す。
それは封建制度時代における、
「農民というものへの考え方」
というのと同じだ。
「百姓は生かさず殺さず」
と言われていた。
「殺してしまうと、肝心の念語が収められない」
かといって、
「生かしておくと、一揆のようなものを起こしかねない」
ということになるのだろう。
言葉だけを聞けば、
「百姓は、奴隷」
ということになるのだろう。
だから、時々起こった冷害などというものが、農作物に、大きな影響を与えて、凶作となってしまっても、取り立てる方には、まったく意識がないのだ。
「今年は、コメがこれだけしか取れませんでした」
といって、微々たる量でも、本当にそれだけのものすべてを差し出しているのに、役人は容赦しない。
たぶん、取り立てないと、今度は幕府から、容赦のないことを言われかねないからなのだろうが、それこそ、
「中間管理職」
というのも、つらいところだといえるだろう。
さて、
「死ぬことも生きることもできない」
という言葉を聞いた時、思い出したのが、
「ギリシャ神話」
における、
「パンドラの匣」
の話であった。
この話は、余計なところは割愛するが、
「人間に火をあたえてはいけない」
というゼウスの命令を無視して、
「プロメテウスが、人間に、日をあたえてしまった」
ということが問題になった。
そこで、ゼウスは、人間に対して、
「パンドーラ」
と言われる、
「人類史上初めての女性」
を地上に派遣し、そこで災いを振りまくように画策したが、それと同時に、一番、直接的なバツを与えるべき、プロメテウスへのバツは悲惨なものだった。
というのも、
「これから、気が遠くなるくらいの長い間、お前を、断崖絶壁に括り付け、そこで、ハゲタカの餌食になってもらう」
というものであった。
一日目には、実際に括り付けられたところで、ハゲタカに、肉をついばまれ、死の一歩手前というほどにまで、苦しめられた。
普通であれば、
「数日で、絶命してしまうだろう」
ということであったので、
「果てしない期間」
というのは、そうもいかないだろう。
と言われていた。
しかし、このバツの恐ろしいところは、そうではなかったのだ。
もちろん、
「ゼウス」
あるいは、時間を自由自在に操れる神に命じてのことなのか分からないが、
「一日が終わって、また次の日になれば、プロメテウスは、自分の身体の蝕まれた部分が、元に戻っていて、この瞬間だけ、一日が終わった時点で、果てしなく、その一日がループする」
というような感じにである。
つまりは、
「死ぬこともできずに、苦しみだけが永遠に繰り返される」
ということである。
しかも、前の日の記憶、またその前の日の記憶だけは能吏にあるのだから、どういう苦しみが繰り返されるのか? ということが分かるというものだ。
これこそ、
「タイムスリップ」
ではなく、
「タイムリープ:
というべきであろうか?
先ほどの、百姓の話もそうだが、この、
「パンドラの匣」
という話も恐ろしい。
それを考えると、
「人間を作った神様」
というのが、ある意味、
「一番人間臭い」
といってもいいだろう、
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