第5話 昔ながらの喫茶店
そんな清川だったが、パンデミックが少しずつ収まってきた頃、政府が、本来ならまだまだパンデミックが続いているのに、それを無視してなのか、
「このパンデミックに対しては、もうそんなに心配をしていない」
というような宣言をして、
「これからは、なくなることのないこの伝染病と、うまく付き合っていく方法を模索していく」
などということで、波が来ても、今までのような、
「人流制限」
が掛かるような政策は行わない。
つまりは、
「経済を止めるようなことはせず、後は国民の自主性に任せる」
というような言い方をしていた。
まだ、交通機関であったり、室内においての、マスク着用は、要請していた。言っていることは、格好のいいことを言っているが、しょせんは、
「国家はもう、知らないから、自分の命は自分で守れ」
という、政府は匙を投げたというのと同じである。
どうせ、いくつもの経済団体からの圧力で、
「これ以上締め付けるなら、政権を応援しない」
などと言われたのだろう。
しかも、これ以上かまっていては、自分たちの金がなくなるというわけである。それも国家の金ではなく、自分たちが着服する金のことであろう。
国民からすれば、嬉しいだろう。
国家からの締め付けがなくなるわけなので、経済活動も思い切りできるからである。
それだけ、パンデミックの最中、
「○○宣言」
などといって、国民を締め付けていたというのか。
しかも、政府お、
「休業要請」
であったり、
「時短要請」
に答えてくれたら、
「補助金を出す」
という、その補助金を当てにして、時短や、休業に答えていたのに、実際にやってみると、
「手続きが面倒臭い」
であったり、
「申請しても、なかなか補助金が下りない」
などのクレームがたくさんあったではないか。
何しろ、同じ政府が進めている今の。
「マイナンバーへの移行」
というところで、どれだけの不具合があったことか。
しかも、それが、
「個人情報の流出」
という、とんでもないことになっているのだ。
本当は、
「1件でもそんなことがあったら、言語道断であるにも関わらず、あちこちで、どんどん出てきて、大きな社会問題になっている」
といってもいいだろう。
それなのに、政府は、さらに推し進めようとしている。
しかも、保険証などと一体化させて、保険証の廃止をしようとしているではないか?
こんな状態で、それを実行すればどうなるか?
それこそ、パンデミックを、
「自分たちとは関係ないから、自分の命は自分で守れ」
と言った政府と、やっていることは同じである。
実際に、政府の支持率が下がっているのは、
「子育て支援問題」
だけではなく、この
「マイナンバーカード問題」
も大きな問題なのだ。
この問題をいかに解決できるかということが確かに重要である。
ここに関しては、政府がやろうとしていることは、子育て問題のような、直接的に間違っていないのかも知れないが、
「目の前で起こっているリアルな不具合。しかも、個人情報に絡むという大問題があるのだから、本来なら、一から考え直すなどがあってもしかるべきなのに、何の根拠もないのに、政府が調査し、改善していくから、計画通りにやる」
というのだ。
誰が信じるというのか。
基本的に、
「最初から、こんなことがないように、すべてを網羅した、移行計画を作成し、それに向かって、間違いがないことをっチェックしながらやっていくのが、計画というものではないか」
と言えるのではないか。
それが、蓋を開けてみれば、
「とんでもないことになっていて、政府は、誠に遺憾だ」
としか言わない。
自分たちが自分たちの責任でやっていることを、
「まるで他人事」
ではないか。
つまりは、
「最初から他人事でやっているので、自分たちに責任はない」
と言っているのだ。
だから、根拠のない、無責任な言い方にしかならない」
そんな政府を誰が信じるというのだろうか?
支持率が下がるのも当たり前だ。
かたや、平行して、
「子育て支援」
の方では、自分たちが、主導でやっていることは、完全に、あからさまな政策で、
「何とか、金は出すが、少なく済ませたい」
という気持ちが表に出ているではないか。
「そんなもの、外国の戦争している国に無償で金をやり、さらには、武器まで供与しようというのである」
これこそ、おかしなことではないか?
本来なら、
「戦争を辞めるように、説得するのが、国際社会の役割」
ではないか?
それを、他の国もそうだが、戦闘機や戦車を供出し、
「殺りく兵器を与える」
というのだから、
「もっと戦争しろ」
と煽っているようなものではないか。
そんな金があるのなら、なぜ、国民を救わない。今でも、パンデミックの影響で、どんどん倒産したり、破産した会社だってあるだろう。
それを放っておくのだから、当然、支持率は下がるというもので、いまだに政権が存在していることが信じられないといえるだろう。
先日の街角インタビューで、女性にインタビューしていたが、その内容は、
「内閣について」
であったが、その時の言い方は、テレビということもあって、普通なら、余計なことは言わないはずで、それでも、その人は、
「今のソーリも、もっと海外ばかりではなく、日本に眼を向けてほしい」
と言っていた。
そう、この人は、
「かなり、言葉を選んでいっているはずなのに、言っていることはしっかりしている」
ということである。
的を得ているという言い方で、他の人がどのように考えているのかということであるが、きっと皆同じことを考えていることだろう。
「こんな政府、支持するつもりはない」
というのを、皮肉で言っているだけだろう。
これを聞いて、政府は、どうせ、
「自分の支持者が、政府のために言ってくれている」
とでも思っているのだろう。
もし、そうだとすれば、これは、完全に、
「お花畑」
でしかない。
ということだ。
政府というものが、いかに、国民を舐めているかということが、もし、これを、
「支援する政府への励まし」
というように思っていたとすれば、即刻、
「総辞職」
のレベルではないだろうか?
もっとも、政府連中が、夕方、こんな民間の情報番組を見ているようでは、
「たかが知れている」
といえよう。
なぜなら、
「そんなテレビを見る暇がないほどに、大きな問題をいくつも抱えているからだ」
と言えるだろう。
そういえば、パンデミックが起こった時のソーリが、
「お家時間」
というものを提唱しようと、自分が自分の官邸で、犬を抱きながら、いかにも優雅そうに、
「皆さん、お家時間を楽しんでください」
と言っていた。
それに対して国民は、納得しただろうか?
それどころか。
「お前が遊んでいてどうするんだ。仕事しろ」
ということであったり
さらには、
「他にもっとやることあるだろう」
と言って、完全に、
「滑ってしまっていた」
ではないか。
さらに、今度は、同じような動画として、ある人気ミュージシャンが、ユーチューブか何かで、
「お家時間を利用して、何かを発信していたのを見て、それを加工するかたちで、お家時間を進める動画を作ったりした」
これに対しても、かなりの反感があったのだ。
「お前なんか見たくない、せっかくのアーチストが作った動画を汚しやがって」
と、ファンだけではなく、ファンでもない人も、
「嫌悪でしかない」
と言っていたのだ。
しかも、その動画作成に関して、肝心の有名ミュージシャンは、
「コラボなど、何も聞いていません」
というではないか?
つまり、勝手に流用したわけである。
政府が自分から勝手に、動画を自分たちのものにしたわけであり。明らかな、
「著作権違反」
である、
しかも、
「こんな有事においては、国民の自由を制限し、この時代としての政府が、全権を持っている」
というような、大日本帝国時代であれば、存在していたと言われる、一種の
「戒厳令」
のようなものは、もう存在しないのである。
戒厳令というのは、
「紛争、暴動、クーデター、さらには、災害時において、治安を守れなくなった場合、戒厳令を敷いて、臨時政府のようなものを作り、そこに全権を与えるというものである」
ということだ。
その場合には、国民の権利を一時期制限することができるというもので、大日本帝国時代には存在していた。
というのも、主権が天皇で、今の民主主義と違って、
「立憲君主国」
だったからである。
今の時代は、民主主義ということで、憲法に保障されているのが、
「基本的人権の尊重」
なのである。
つまり、この基本的人権というものを阻害するということは、憲法違反であり、政府といえどもやってはいけないことになるのだ。
逆に、
「国家権力」
というものを代行している政府だからこそやってはいけない。
だから、
「世界的なパンデミック」
が起こった時、他の国は、
「ロックダウン」
と言われる、都市封鎖ができるのだ。
これは、日本においての、戒厳令と同じで、国家が定めたことに対して違反すれば、、罰金などという刑罰が下される。
しかし、日本の場合はそんなことはない。
基本的人権に支えられているということで、
「宣言」
というものを出しても、それは、あくまでも、
「要請」
でしかないのだ。
だから、強制力はない。
従わなければ、
「世間の目」
というものが、当てられるというだけで、それが、今回、問題となった、
「自粛警察」
なるものの出現となるのだ。
政府が腰抜けな分、民間の目が、警察の役目を果たすという意味での、
「自粛警察」
という言葉、
これが、いい悪いは別にして、日本では、
「必要なことではないだろうか?」
ということである。
ただ、そのため、気に入らない業種にその矛先が向くという弊害もあった。
「パチンコ業界」
などがその例で、別に悪いことをしているわけではないので、誹謗中諸王の嵐を受けて、せっかくの自粛警察の存在が、一部のおかしな連中によって、悪い意味で捉えられたのは、実に残念なことではなかったか。
それを思うと、
「自粛警察は、今の政府よりもよほど正しいし、正義としても、本来なら存在すべきではないか」
と言えるのではないだろうか?
そんな時代であったが、最近、やっと、お店関係でも、
「休業要請」
であったり、
「時短要請」
というような、
「自粛要請」
がなくなってきたことで、店を普通に開けることになり、お店も昔のような、活気を取り戻したところも多いのではないだろうか?
それも、そのお店の業種というところで、賑やかになるとこともあれば、お店というよりも、そもそもがスタッフの性格であったり、持って生まれた雰囲気から、まわりを明るくさせるというような人がいることで、店自体に活気が溢れてくるということもあってしかるべきであろう。
本人は、そこまでの自覚があるわけではないのに、まわりが、ちゃんとわかっているというのは、それだけのいいイメージが出てきたということになるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「何も、スナックや居酒屋などのお店だけではなく、喫茶店のようなところでも、同じことが言えるのではないだろうか?」
特に、
「世界的なパンデミック」
と呼ばれた時代などでは、本当に、
「生き残れるというところは決まっている」
と言っている人もいるだろう。
「昔からの個人がやっているような店では、それこそ、バックグラウンドがないことで、簡単に、潰れてしまうところが多く、どこかのフランチャイズにでも入っていないと、生き残れない」
と言われているところが多いのかも知れない。
それを考えると、
「スナックのような店もそうだが、喫茶店なども、特にそれが言えるのではないだろうか?」
パンデミックうんぬんだけではなく、昔からの、いわゆる、
「レトロな喫茶店」
と言われるようなところは、なかなか今では残ってはいない。
「時代の流れなんだろうか?」
ということであるが、
全国的に有名なチェーン店というと、
「全国というだけではなく、全世界にもあるようなお店が多いのかも知れないだろう」
喫茶店というよりも、カフェである。
カウンターで注文し、基本はセルフサービスだけど、料理など時間がかかるものは、堰までスタッフが持ってきてくれるという形の店もある。
コーヒーの味が濃かったりするので、好き嫌いが別れることもあるだろうが、結構いつも、なぜか人はいっぱいである。
「やはり、スイーツと呼ばれるものを、楽しみにしている顧客がいるというのも、強みなのかも知れないな」
と思っている。
中には、勉強をしている学生もいれば、そこで、営業であったり、人材派遣か何かの、面接のようなことをしている人もいる。
しかし、そういう人は、もっと落ち着いた雰囲気の、
「ホテルのラウンジ」
という形のお店が多かったりもする。
やはり、カフェのチェーン店というと、多種多様な人がいる分、
「結構うるさくて、商談や面接には向かない」
と思われていることも多いだろう。
それを思うと、
「今までの昭和時代にあったような、落ち着いたたたずまいの喫茶店が、残っていてもよかったのではないか?」
と言えるだろう。
店の入り口に観葉植物が飾っていたり、入った瞬間、サイホンで作る。コーヒーの香りが漂ってくるようなお店の佇まいに、感動を覚えるのを思い出してしまいそうになるのだった。
「木造の建て方が懐かしい」
というものである。
そんな喫茶店が、明らかに最近減ってきたのだが、実際にまだあるのを見つけると、実に嬉しいものだ、
それまでは、喫茶店というと、カフェばかりになってしまったことが悲しいばかりでで、一番悲しいと感じたのは、
「昔のオーニングサービス」
というものを食べられなくなったことだ。
ということであった。
今のモーニングサービスは、その形に似せてはいるが、何か物足りない。
それが何かと考えていると、それは、
「タマゴ料理」
であった。
今のタマゴ料理というと、ほとんどが、スクランブルエッグか、ゆで卵が主流で、目玉焼きのようなものがない。
よく考えてみれば、それも当たり前のことで、スクランブルエッグにしても、ゆで卵にしても、
「どこか、工場で作ってきて、それを配送し、冷凍しているものを出しているだけではないか?」
と考えたからだ。
もちろん、勝手な想像なので、分からないが、少なくとも、タマゴの焼けたりする、甘い匂いがしてこないではないか。
そう、
「モーニングサービスの愉しみ」
というのは、このタマゴが焼ける匂いが、空腹を揺さぶるというのが、楽しみなのではないか?
さらに、店内に漂っている、コーヒーの香ばしい香りがしてこない。それが、まったく楽しみにつながらないのだ。
だから、
「昔懐かしの昭和の喫茶店がよかった」
ということになるのだ。
そういえば、昔のことであったが、人に聞いた話として、九州ラーメン。つまり、とんこつ味というのが、全国に広まる前のことであったが、その人は、元々吸収の人で、博多ラーメンを懐かしいと思って食べてみたのだという。
すると、どうにも、味がいまいちだったという。
「確かにおいしいんだけどな」
と思いながら、
「何かが物足りない」
という気持ちでいると、店主がそれを察したのか、
「どうしても、本場の味が出せないんですよね?」
というではないか、
「どうしてんですか?」
と聞くと、
「匂いが出せないんですよ。本場であれば、あの臭いが、ラーメンの味ということで、大っぴらに出せるんですが、他の土地では、まだまだ認知されていないので、近くにブティックなどの店があると、臭いを出されると困るというようなクレームが来たくらいなんですよ。だから、味の命と言ってもいいくらいの臭いが出せない。これは、九州ラーメンにとっては命取りですからね」
と言ったというのだ。
しかし、
「でもですね。まだ認知されていないというのが幸いしてか、皆さん物珍しいということで、食べに来てくださる方は、一定数いるんですよ。でも私としては、これを本場の味だと思われるのは、実に寂しい限りで、自分の中で、本場の味を出せないことに、ジレンマを感じているのも確かなんですよ」
というのだった。
その時の聴いた話を思い出していた。
昔懐かしの、昭和の喫茶店と、今のカフェとの一番の違いは、
「あの香ばしい匂いを出すことができない」
ということであった。
「カフェもそれなりのコーヒーの香りがしてくることもあったが、そもそも、コーヒーの質が違うのか、食欲を誘うあの匂いがしてくるわけではないんだよな」
と感じるものだった。
「ただ、今カフェというと、昔とは利用方法も違うだろう」
と感じる、
昔の喫茶店にはなかったが、今のカフェにあるというもの、そして、そっちの方が今は需要が高いというもの、それが、
「テイクアウト」
というものだった、
昔の喫茶店というと、基本的には、その場で出して、お店で食べていくのが、当たり前のことだった。
そもそも、テイクアウトができる喫茶店など、聴いたこともなかった。
なぜなら、お店は店長を中心に従業員が、その場で調理し、出しているものだったからである。
その場で作るから、匂いがしてくるものであり、
「味を追求していた」
と言ってもいいだろう。
しかし、今のカフェというと、テイクアウトを前提にして考えられている。
だから、店で飲んでいくコーヒーも、最初から、テイクアウトと同じような、紙コップだったりするではないか。
さらに、お持ち帰りということで、おいしいスイーツが、ショーケースに並んでいる。
それが、若い常連客にとっては有難いものであり、昔の喫茶店にはないものだったのだろう。
それに、今の朝の客は、
「店内でゆっくりというよりも、会社に持って行って、会社で食べるという人も多くなっている。特に、OLは、そういう人が多い」
ということであった。
今は、ほとんどこちらになったので、昔の喫茶店を知らない人がほとんどで、知っている人からすれば、
「可愛そう」
という感情になるのではないだろうか?
実際に、ほとんどがカフェになってしまっていて、昔の喫茶店というと、まず見かけることすらなくなってきた。
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