第3話 心理的、精神的な問題

「人間の醜さを神が懲らしめる」

 というのであれば、神の醜さを、誰が裁くというのか?

 もし、それがゼウスだというのであれば、

「不倫はするし、自分のわがままで、他の神を使って、自分の勝手な不満から、人間社会の一つの国をぶっ潰す」

 というようなことをするゼウスを裁く人がいないというのもおかしいだろう。

 それこそ、

「タマゴが先か。ニワトリが先か?」

 という、

「永遠のスパイラル」

 といってもいいだろう、

 宇宙だって、今までの研究で、どんどん広くなっている。

 今までは、

「宇宙は一つ」

 と言われてきたものが、実は、今分かっているだけの宇宙という存在が、かなりのかずあるという、

「マルチバース理論」

 もあるという、

 それらの理論は、

「量子力学」

 というもので、証明されるというような話を聞いたことがあった、

 清川は、最近、自分がいろいろな発想を持っているというようなことを考えるようになった。

「宇宙の神秘」

 というものに興味を持ってみたり、

「心理学的なこと」

 にも興味をもったりしている。

 心理学的なこととして、最近、気になっているのが、

「カプグラ症候群」

 と呼ばれるものであった。

 これは、今から半世紀くらい前から言われるようになったものらしく、この発想として、

「自分のまわりの近しい存在の人が、自分の知らないところで、どこかの秘密結社のような連中の手下に、取って変わられる」

 という、いわゆる、

「都市伝説」

 のようなものを信じるということである。

 これらの発想は、SF小説であったり、特撮や、マンガの世界で、テーマになりそうなものではないか、

 これらのことを、

「カプグラ症候群」

 と呼ばれるのだが、これは、心理学的なもので、

「一種の病気」

 あるいは、

「精神疾患」

 なのではないかということである。

「都市伝説」

 というのは、

「昔から言われているようなことではなく、かなり最近、言われ始めたことをいうので、この、カプグラ症候群というのは、そういう意味では、都市伝説なのかも知れない」

 と言えるだろう。

 そもそも、

「秘密結社」

 というのが、どういうものなのか?

 ということを考えると、正直、ピンとこないではないか。

 今の時代のSF小説やマンガなどで、やっと考えられるものである。

 特に特撮などになれば、基本的に、秘密結社というと、

「自分たちが知らない科学力を持っていて、密かに暗躍している」

 つまりは、

「世界転覆を狙う集団」

 であったり、

「異次元の生物」

 であったり、あるいは、

「人類よりもはるかな科学力を持った宇宙人」

 というのが、その代表例である。

 それらが、そんなに昔から、特におとぎ話の時代からあったというのも考えにくい。

 そう考えると、

「カプグラ症候群」

 というのが、最近の考え方で、そこに生まれてくる発想というものを、

「都市伝説だ」

 とするのも当たり前だということであろう。

 ただ、

「果たして、おとぎ話の時代というものが、まったく都市伝説とかけ離れている、何もわかっていなかった時代だ」

 ということをいうのは、時期尚早なのではないだろうか?

 特に、

「浦島太郎」

 の話のように、明らかな、

「相対性理論」

 で考えれば、説明がつくような話もあれば、

 さらに、

「かなで書かれた、日本最古の物語」

 だといわれる、

「竹取物語」

 というのも、月というものをテーマにした話で、あの時代の人間が考えたこととしては、かなり、

「SFチックな話になっている」

 と言えるのではないだろうか?

 それを考えると、

「都市伝説というものは、あながち、近代だけのことではないのかも知れない」

 と言えるのではないだだろうか。

 それを考えると、

「カプグラ症候群」

 というのは、昔からあったのではないだろうか?

 今のいわゆる、

「カプグラ症候群」

 というのは、

「秘密結社」

 という敵の存在が明らかで、その存在がどういうものか分からないということで、恐怖におののくということである。

 日本のように、

「平和ボケ」

 をしている国はさておき、そうではない国とすれば、

「相手が分かっていて、攻撃方法も分かっているから、それに備えたり、訓練もできるので、何とか精神状態も保てているが、相手がどこの何者なのか分からず、分かっていたとしても、どんな攻撃で来るのか分からない」

 ということであれば、手の打ちようもなく、ただでさえ、恐ろしいいものとなるのではないだろうか?

 それが、一種の、

「カプグラ症候群」

 というような、

「恐怖を巻き起こす」

 ということになるのであろう。

 それを考えると、

「過去の時代」

 というものに、

「カプグラ症候群」

 が存在していたと考えるか?

 あるいは、

「過去という時代を、人間と時代背景が違って、大まかなところでは、周期的に繰り返している」

 という考え方もできるのではないだろうか?

 ともいえるのだ。

 日本のように、

「平和ボケ」

 をしている国は、そもそも、

「恐怖とはどういうものなのか?」

 ということすら分からない。

 だから、SFなどのドラマを見て、

「どこからくる恐怖なのか分からないが、漠然と恐ろしさを感じる」

 ということになるのだろう。

 これも、当然、恐ろしいことには変わりはないのだった。

 そんな、

「カプグラ症候群」

 というものを考えてみると、SFやホラー小説などで言われているもので、意外と、、ほとんど誰もが知っているというものに

「ドッペルゲンガー」

 というものがあるという。

 実際に、大学生になるまで、そんな、

「ドッペルゲンガー」

 というものの存在を知らなかったことで、正直、

「お前、そんなことも知らないのか?」

 と言われて、愕然としたことがあったことで、自分なりに調べたりもした。

 そもそも、ドッペルゲンガーと呼ばれるものは、

「もう一人の自分」

 という発想である。

 もう一人の自分というのは、自分に似た人ではないので、

「この世に自分に似た人は、3人いる」

 と言われているが、その3人ではないのだ。

 つまり、

「いるはずのない、同一次元の同一時間に、存在する、もう一人の自分」

 という考え方である。

 ドッペルゲンガーというものには、

「その本人と別のところには、現れない」

 ということであったり、

「喋ったりはしない」

 ということであったりと、言われていることがいくつかあるが、それに該当すれば、その人は、

「ドッペルゲンガーだ」

 ということになるだろう。

 さらに、ドッペルゲンガーが、いろいろな人に信憑性を持って、信じられているのは、

「昔から、著名人などが、ドッペルゲンガーを見た」

 という話が残っているからだ。

 そもそも、ドッペルゲンガーの何が恐ろしいのかというと、

「ドッペルゲンガーを目撃すると、近い将来、命を落とす」

 と言われていることだった。

 実際に、いろいろな著名人が、

「ドッペルゲンガーを見た」

 と言ったその後に、自殺を試みたり、暗殺されたり、事故で亡くなったりと、伝説が本当のことになるから、そのため、

「都市伝説などというレベルで図れないものだ」

 と言えるのではないだろうか?

 そういう意味では、ドッペルゲンガーには、かなりの信憑性がある。

 例えば、芥川龍之介など、

「死ぬ前の日に、自分が編集者の前で破り捨てた原稿が、死んだとき、綺麗なまま、机の上に残っていた」

 という話や、リンカーン大統領は、暗殺されるその日の朝、秘書に向かって。

「誰か、私の暗殺を企てているという話を聞いてないか?」

 ということを言っていたという。

 リンカーンの場合は、

「虫の知らせ」

 ということで片付けられるかも知れないが、芥川龍之介には、それは当て嵌まらないだろう。

 そういう意味で、

「虫の知らせ」

 というものも、バカにはできないのではないだろうか?

 人によっては、

「虫の知らせ」

 のいくつかは、ごく少ない確率かも知れないが、それこそ、

「ドッペルゲンガー」

 なのかも知れない。

 さて、このドッペルゲンガーであるが、これは、果たして、

「超自然現象として考えればいいのか?」

 それとも、

「心理学の範疇」

 として、現象は、あくまでも偶然として考えるべきなのか?

 ということである。

 偶然が必然となるのが、

「このドッペルゲンガーというものの正体なのかも知れない」

 ともいえるのではないだろうか?

 実際にドッペルゲンガーというものを、どういうものなのかを真剣に考えてみたことはないが、とにかく、

「不気味で、恐ろしいもの」

 という印象が強い。

 これだけ有名なのに、誰もその正体がどういうものなのかということが分かっていないということであろうか?

 それを思うと、

「妖怪や、幽霊というものが、怖い」

 ということも分かる気がする。

「見えないのに、存在はしている」

 ということがどれほど恐ろしいことなのか?

 という実態を、誰が把握しているということなのであろう?

 それが、ドッペルゲンガーの正体なのかも知れない。

 そんなドッペルゲンガーが、

「一種の心理的な現象」

 という人もいるだろう。

 だが、日本では、ドッペルゲンガーを彷彿させるという、

「恐ろしい妖怪」

 というのがいるのだ。

 名前を、

「トモカヅキ」

 という妖怪で、三重県の、伊勢志摩地区に伝わる伝説だというのだ。

「伊勢志摩」

 ということを聞いて、ピンときた人もいるかも知れないが、あのあたりは、真珠が取れたり、海産物が豊富な場所である。

 そう、

「トモカヅキ」

 という妖怪は、

「海の妖怪だ」

 ということなのだ。

 この妖怪は、ドッペルゲンガーのように、

「その人と同じに化けることが特徴だ」

 というのだ。

名前の由来は、

「同一の潜水者」

 という意味であり、まさに、ドッペルゲンガ―ではないか?

 そして、その妖怪から、

「アワビをやろう」

 と言われるのだという。

 この誘いに乗ってしまうと、

「海に引っ張り込まれる」

 というのだ。

 もし、アワビが欲しい時は、

「後ろ手にして、アワビを貰えばいい」

 というが、その通りにして、今度は、蚊帳のようなものをかぶせられ、苦しまされることになったという話も伝わっている。

 こんな恐ろしい妖怪は、

「基本的に、海女ばかりを襲う」

 という。

 海女が一番恐れている妖怪が、このトモカヅキだというのだ。

 この話は、他の、

「妖怪の話」

 と同様、他にも伝わっているという。

 そして、トモカヅキよけとして、まじないに、

「五芒星」

 というものを、魔よけにしているというのだ。

 そもそも、

「妖怪と幽霊」

 の違いというのは、基本的には、

「幽霊は、人間が怨霊として出たものだ」

 ということであり、妖怪は、

「人間以外の生き物が、化けて出たものだ」

 ということで、ある程度統一した話になっている。

 ただ、このトモカヅキという妖怪が、

「海に潜る人」

 というのが、

「まったく同じ容姿であったり、格好をしているのか?」

 ということは、実に大きな謎であり、それを証明するすべはないだろう。

「海女の亡霊」

 という話もあるし、

「過酷な長時間の、海中作業による妄想のようなものではないか?」

 ともいわれているという。

 とにかく、こんな、妖怪がまるでドッペルゲンガーを知っているかのように、昔から伝わっているというのも、おかしなものである」

 といえるだろう。

 そんな、トモカヅキのような妖怪もいたりする話を聞くこともあれば、中には、、

「いい妖怪」

 というものいるという。

 例えば、遠野で有名な、

「座敷わらし」

 などがそうであろう。

 大きな家の床の間のようなところに住んでいるという。

「なぜ、床の間にいられるか?」

 というと、

「座敷わらしという妖怪が、住み着いた家は、繁栄する」

 ということだからである。

 だから、座敷わらしがいるという家では、座敷わらし用に、何かをお供えするようにしているところが多いのではないだろうか?

 つまり、事業で成功したり、配下の者が手柄を立てて、主君から、褒美を貰ったりなどして、昔であれば、大名になったりした家は、同時、座敷わらしの伝説がすでにあったのだとすれば、お供えをして、敬っていることだろう。

 そうしないと、座敷わらしに、へそを曲げられて、出て行かれでもすると、

「座敷わらしが、いる間は、家が繁栄するというが、いなくなったとたんに、没落していく」

 という話であった。

 逆にいうと、

「座敷わらしが入る時はいいが、絶えず、いなくならないように、気を付けなければいけない」

 ということになるであろう。

 もっといえば、それだけ、

「いなくなったら困る」

 という不安と戦い続けているといってもいい。

 いない時は、来てもらえるように、

「努力をすればいい」

 いないものが、来てくれるということになると、喜びしかない。

「来なくても、少なくとも、今よりもひどいことになることはない」

 というものだ。

 しかし、今が幸せの絶頂で、

「これ以上の幸せはない」

 というところまで来ていると、次の瞬間に、足元がなくなり、

「奈落の底」

 に落っこちてしまうのではないか?

 ということになるだろう。

 そう思うと、だから、

「幸せの絶頂にいる時というのは、後は、断崖絶壁に落ちていくしかないんだ」

 ということを、思い知ることになる。

 これから、頂上を目指そうという時に、そんなことが分かるはずがない。だから、今も昔もそうなのだが、絶頂しか見ていない時というのは、

「上を見るとキリはないが、もっと言えば、下を見てもキリがない」

 ということになる。

 そんなところから、落っこちてしまえば、ひとたまりもない。上を目指して梯子などを昇っている時は、

「決して、下を見てはいけない」

 と言われるのは、そういうことを言っているのではないだろうか?

 だから、

「座敷わらし」

 のような、いいとされる妖怪であっても、もし、その頂点に達することができると、後は落ちていくしかないだろう。

 政治家が、独裁政権を握ってしまうと、

「いつ、クーデターを起こされて暗殺されるか分からない」

 といって。日々怯えている状態と同じである。

「歴史は繰り返す」

 というが、まさにその通りなのだ。

 そんな座敷わらしは、

「いい妖怪」

 ではあるが、いなくなるということを覚悟しながら、その恐怖にも怯えなければいけないという。ある意味、

「恐怖の裏返し」

 ということで、

「表裏の反転」

 というものが、まるで、

「諸刃の剣」

 のようなものではないか?

 と感じさせるのだ。

 他にも、

「いい妖怪;

 と言われているものもいる。


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