後味の悪い事件(別事件)

森本 晃次

第1話 モスキート音

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年7月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


 いつ頃のことかは分からないが、よく、

「モスキート音」

 と呼ばれるものがあるということを言われるようになった。

 それがどういうものなのかというと、

「ある一定の年齢になると、聞こえない音というのが、存在する」

 というものである。

 音というのは、

「空気の振動によるものであり、空気があるから、音もする」

 ということになるだろう。

 しかし、別の見方をすると、

「貝に耳を当てると、空気の流れるような音がする」

 という感じがする。

 しかし、実際には、空気がなるべく入ってこないようにしても、その音が聞こえるのだ、真空状態というものを味わったことがないので、音がするのかしないのか、よく分からないが、音というものが、

「空気の振動」

 というものによるものだと考えれば、

「音などするわけはないんだ」

 ということになるだろう。

 だから、昔から、SF映画などの特撮モノでは、本来聞こえるはずのない音を、何か軽やかな、例えば、鉄琴か、木琴を使ったかのような、癒しを含んだ音で表現していることがある。

 これこそ、

「聞こえる人と聞こえない人がいても、不思議はない」

 と言えるのではないだろうか?

 あくまでも、錯覚であり、聞こえる人は、何でも信じてしまうという、一種の、

「信じ込みやすい人だ」

 と言えるのではないだろうか?

 つまり、

「暗示にかかりやすい」

 といってもいいだろう。

 暗示というのは、

「他人から掛けられるもの」

 と、

「自分で掛けてしまう、自己暗示」

 というものがある。

 どちらの方が多いのかというのは、心理学の先生に任せておいて、

「どのように考えるか?」

 というよりも、

「錯覚をするというのは、暗示のようなものだ」

 と考えておけば、

「錯覚というのも、許容の範囲ではないか?」

 と言えるのっではないだろうか?

 何でも、疑ってかかることは簡単だが、そうなると、いずれ、すべてのことが許せなくなり、妥協というものができなくなると、気持ちに余裕がなくなってしまう。

 それが、いわゆる、

「精神疾患」

 というものを引き起こすことになり、それが、目の前のことを、見逃してしまうという現象を引き起こすのではないだろうか?

 そのことを、

「石ころ現象」

 と呼んでいる人がいた。

 石ころというと、

「目の前にあって、ちゃんと見えているにも関わらず、まったく意識をしない」

 というものの、代表のように感じられる。

 実際には、そういうものがたくさんあるのだが、それは、感じ方に、若干の個人差というものがあるだろう。

 だから、誰でも同じように感じるであろう、

「石ころ」

 というものが、表現としては、一番分かりやすく、馴染みのあるものなのではないだろうか?

 そんな石ころを、一番意識したのは、子供の頃だった。

 しばらく、

「石ころ恐怖症」

 になったことがあったのだが、

「あれは、小学生の頃、友達と、木登りのようなことをしていて、背中から落っこちた」

 という記憶からだった。

 しかし、子供の頃、

「木登りをした」

 などという記憶はなかった。

 しかも、その木というのは、何の木かは分からなかったが、木の実がなっているのを見たという記憶はあったのだ。

「あの色は、ミカンか柿か? 光沢があって、光り方が、ハンパなかったので、柿だったに違いない」

 と感じたのだった。

 柿の木に登って、柿を取るなど、今の時代では、田舎でもなかなか見ることができない光景だろう。なぜ記憶に引っかかっているのか、不思議でしょうがなかった。

 そんな木登りをした意識は、本当に昔の光景だった。

 実際にそんな光景など知らないはずなのに、どうして意識の中にあるのか?

 自分でもよく分からない。道を歩いていて、とても懐かしい気がするのが、

「舗装されていない道」

 があることだった。

 しかも、

「道が完全に乾いていて、砂ぼこりが上がっている時なのか」

 あるいは、

「道がべちゃべちゃになっていて、水が浮いて出ているように見える時なのか」

 というどっちかの光景であった。

 その横には、溝があり、そこは、正方形の木の板をどんどん向こうに重ねていくことで、溝に嵌らないようにしている仕掛けが、実に素朴で懐かしい。

 さらに、そこから、家がみえるのだが、木の塀が張り巡らされていて、家は平屋建ての、木造建築。まるで、戦前の佇まいではないだろうか?

 もちろん、知っているわけもなく、どうして懐かしいのかというと、小学生の頃、学校の図書館で、

「昭和の頃の我が町」

 という、郷土資料のような本があったのだが、小学生の低学年の頃には、自分が住んでいる字j地帯、いわゆる、

「市町村」

 の勉強をするだろう。

 その教材として、小学校の図書館に置いてあった本であるが、その教材で、見たような気がした。

 それは、当時一番仲が良かった祖母から、この時代の話をよく聞かされていたのだ。

 祖母もまだ、小さかった頃だったということなので、

「おばあちゃんが、お前くらいの頃はね」

 というのが口癖だったのだ。

 そのおばあちゃんから、よく、戦前や戦後の話を聞かされたものだった。

 特に、

「今のような、苛めだったり、卑劣なことはなかった」

 ということであった。

 しかし、中学生くらいになって見た本では、昔の、

「大日本帝国」

 というと、

「天皇は神様で、天皇のためには、喜んで死ぬ」

 という時代だったということを授業などで聞かされると、

「小さい頃、おばあちゃんから聞いた話とは、かなり違うな」

 と思ったのだった。

 確かに、その時代は、戦争のことを本で読んだりすると、

「若くて健康な人は、皆戦争に取られて、戦争に行かないというと、逮捕されたりする時代だった」

 というような話を聴いたり、

「非国民だ」

 と言われて、差別を受ける時代だった。

 というではないか。

 しかし考えてみれば、

「それくらいのことをしないと、戦争をしているのだから、士気が下がる」

 というのも当たり前のことで、それを最初から感覚がマヒしたように洗脳するということも、今から思えば、理不尽なことであるが、

「そうしないと、海外の情勢を考えれば、生きていくことができない」

 という時代だったではないか。

 それを思うと、

「あの時代とすれば、あれが一番正しいやり方だったのではないか?」

 ともいえるかも知れない。

 時代が進めば、今の時代でも、

「あんな、ひどい時代」

 と言われることになるかも知れない。

 そこに、教育であったり、

「倫理やモラル」

 というものが存在しているに違いないのだ。

 その頃もそうだったのだが、

「自分が見たことのない時代」

 というのを、なぜか記憶が憶えていることがあるのだ。

 というのも、

「今までに見たことがないはずのことを、初めて見たはずなのに、前にも見たような気がする」

 ということを感じるという現象があるという。

 その現象のことを、

「デジャブ」

 というそうであるが、その言葉を初めて聞いた時、

「確かに、こういう現象はあるらしいのだが、なぜ、そういう意識になるのかということは、正直分からない」

 というように聞いたのだった。

 中学生だったあの頃からは、十年くらい経っているので、時代は進み、解明されたかも知れないが、まだまだ解明されたとしても、歴史は浅い。それだけに、皆、その解明されたことを、真剣に信じている人は少ないかも知れない。

 それだけに、研究者の中には、

「その証明を覆そう」

 という意思を持って、自分なりに研究し、結論付けようとする人もいるかも知れない。

 しかし、

「研究員たるもの、人の発見をわざわざ否定し、自分の考えとして、勝手に理論づけるというのは、姑息に思える」

 というのである。

 そんなことをするくらいだったら、

「自分の理論で、新しいものを作り上げていく」

 という方が、研究者らしいではないか?

 そんなことをしていると、

「せっかくのプライドといものを、自らで壊しているようではないか?」

 ということであった。

 そんなことを考えていると、

「自分で何かを作り上げるという、クリエイティブな考えがなければ、研究者としては、失格ではないか?」

 とすら思っている。

 研究者と同じ発想を持った人が、

「芸術家」

 ではないかと思っている。

 芸術家というのは、絵にしても、文学にしても、書にしても、自分で新たに作り上げるものである。

 絵画では、

「写生」

 という形で、目の前のものを忠実に描くというのが、当たり前のように思われている人も多いだろうが、実際にはそうではない。

 確かに、充実に描いてみても、ただの物まねでは、芸術ではない。そこには個性があり、その個性を、感性で見る人間の心を打ち、

「どこかが違っている」

 と感じさせ、それの。

「どこが違っているのか?」

 ということを、考えさせるだけの力を持っている人こそが、

「真の芸術家ではないか?」

 と思えるのだ。

 だがら、芸術家の中には。

「絵を忠実に描いているようで、不要なものは大胆にカットしたり、さらには、必要と思われる架空のものを描き出すことだってある。そして、本当の芸術家は、一種に見比べても、その

「間違い探し」

 というものを。いかにできるかということに掛かっているという。

 そういう意味で、

「芸術を、クリエイティブなものだ」

 と思えない人は、すでに、芸術を愛でるという、

「資格というようなものがない」

 と言えるのではないだろうか?

 今年で25歳になる、

「清川三郎」

 彼は、25歳というと、

「まだまだ若い」

 という意識を持っていた。

 それは当たり前のことであり、この年で

「老けている」

 というのは、

「愚の骨頂だ」

 と思っている。

 というよりも、そんなことを感じることもないほどに、自分のことを健康だと、思っていた。

 それは間違いのないことで、健康っ診断でも、

「どこが悪い」

 などと言われたことはなかった。

 それは当たり前のことであり、

 せめて、

「たまにお腹を壊して、整腸剤を呑むくらい」

 であったり、

「風邪を引いた」

 といって、微熱が出て、小学生の頃などは、

「熱があるから、学校休む」

 と言おうものなら、

「ズル休みじゃないの?」

 と言われたものだった。

 おかげで、途中からは、

「ズル休み」

 と言われるのが嫌で、却って、熱があっても、何も言わず、頭が痛い中で学校に行って、先生から、

「おい、清川、大丈夫か?」

 と言われて保健室に行くと、

「頓服を呑まないといけないレベル」

 というほどに、悪化していたりした。

「無理して学校に来ることはないんだぞ」

 と諭されたものだったが、それはそうだろう。

 健康な人に移されでもして、学級閉鎖。最悪、学校閉鎖」

 などということになれば、それこそ、まずいということになるだろう。

 それを思うと、

「母親の言い方がひどいんだ」

 と思うようになったのだが、元をただせば、自分が学校に行きたくないという理由で、欺こうとしたのが、原因だったではないか。

 それを思うと、

「元々というものを、どんどん遡っていくと、どこからが始まりなのか、分からなくなってくる」

 と思うのだ。

 これはまるで、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という、

「永遠のスパイラル」

 という意識を思い起こさせる。

 それを思うと、

「物事のきっかけなど、ひょっとすると、他愛もないことなのかも知れないが、その他愛のないものであるがゆえに、見つけられない」

 という発想になる。

 それは、例えば、家計簿などを付けていて、計算が合わない時、数字が小さければ小さいほど、

「どこが間違っているのか?」

 ということが分からないというものだ。

 それこそ、双六で、ちょうどの目が出ないとゴールできない」

 という理不尽なルールになっている場合を思い出すようなものだった。

 中学時代に、絵を描いていて、大学生になると、今度は、

「音楽をやってみたい」

 と思うようになった。

 そして、ピアノに興味を持ち、ピアノを始めたのだが、まわりの皆は、ロックなどのキーボードに興味を持っていたのだが、清川は、クラシックピアノをやることにした。

 というのも、

「俺は芸術家なんだ」

 ということを考えるようになると、

「芸術の原点は、クラシック」

 と考えるようになった。

 ただ、前衛音楽のようなものは好きだった。

 そういう意味で、高校時代に、好きで聴いていた音楽で、相当昔に、一度は流行った音楽で、

「プログレッシブロック」

 というジャンルがあった。

 このジャンルというのは、

「ジャズやクラシックなどの、昔からの音楽と、ロックなどの今の音楽との融合」

 という意識があったのだ。

 クラシックは、中世ヨーロッパの音楽で、ジャズなどは、南米の情熱的な音楽ということで、ある意味、相対性のあるものなので、それら二つを融合というわけにはいかない。

 それぞれに、

「二代巨頭」

 とでもいうのか、まるで、

「東西冷戦」

 のようだが、そんなヨーロッパや南米という、まるで、

「地球の裏側」

 とでもいうようなところの音楽ということを考えると、実は、そうではないような気がする。

 というのは、あくまでも、

「地球の裏側」

 という発想は、あくまでも、

「日本を中心とした地図で見るからである。

 大西洋を中心とした地図で見ると、案外すぐそこだったりするのではないだろうか?

 それこそ、

「日本からハワイの方が、却って遠い」

 という感覚である。

 特に、地球のように丸いものを図で表そうとするならば、それは、

「錯覚の嵐」

 だといってもいいだろう。

 そんなジャズとクラシックであったが、実は他の音楽。それぞれとは、今まで融合などという発想がなかったものを思い浮べた時、想像を絶する音が、感じられたに違いない。

 しかし、今までにない音楽を、

「受け入れる」

 という姿勢で聴いていれば、そこに見えてくるものは、

「今までにない旋律」

 であり、

「大胆に省略したり、付け食わせたりする」

 というプロの絵描きが言っていたのを思い出すに至ったのだ。

「それらの音楽に、なかなか日本固有の音楽は結び付かないだろうな」

 と思っていたが、意外と、

「琴の音」

 であったり、三味線の音色などは、プログレッシブだといってもいいではないだろうか?

 特に、戦国時代であったり、武士が活躍した中世を音楽で表すと、かなりの勇ましい音楽になるというものだ。

 そもそも、戦においては、ほら貝の音などで戦をあらわしたり、

「源平合戦」

 と言われた、

「治承・寿永の乱」

 を弾き語りするという、

「琵琶法師」

 というものだっていたではないか。

 そういう意味では、日本古来(朝鮮から伝わったのかも知れない)の楽器には、いいものが結構あったりするだろう。

 プログレッシブロックは、アコースティックな部分と、電子音が重なって聞こえてくることで、

「環境音楽」

 になったり、歴史的なイメージとして、宗教音楽として聴かれる場合もあった。

 そもそも、クラシックというのが、どこか宗教的なイメージがある、それだけに、プログレも、

「宗教音楽の一種ではないか?」

 と言われることがあったのだ。

 そんな中で、清川は、大学時代に、いろいろな音楽を聴いていた。ロック、ヘビーメタル系、ソウルミュージック、さらには、ジャズ、そしてクラシックと聞いてきて、ある程度、

「音楽にも飽きてきたかな?」

 と思っていた。

 プログレというジャンルは、名前は聴いたことがあったが、

「かなり昔の音楽で、前衛音楽で、しかも、どこか宗教音楽っぽい」

 というような話をしている人がいたので、

「それだったら、いいや」

 という具合に、自分から関わろうとは思わなかった。

 ロックや、ジャズなどは、一種の、

「たしなみ」

 のような感覚で聴いていた。

 そういう意味で、

「どのジャンルの音楽が好きなんですか?」

 と言われて、何が好きなのか?

 ということを、言えるまでには言っていなかった。

 しかし、プログレというのが、

「あらゆる楽器を駆使して、前衛的な音楽を作り出す」

 というのを聞いた時、イメージとして、

「テクノポップ」

 を思い出した。

 こちらも、70年代終盤から、80年代前半にかけてくらい、一世を風靡したと言われているので、こちらは、一度聞いた時、嵌ってしまったものだった。

 シンセサイザーなどの最新楽器を駆使しての音楽ということで、それが、しかも、アジアを中心にした音楽が代表的だったこともあって、神秘的なイメージがあったのだ。

「テクノ」

 というだけ、完全に、リズムが、電子音で、それが、アジアの雰囲気にマッチしていることで、

「新旧のいいものを取り入れた音楽」

 ということで、よく聞いたものだった。

 ただ、こちらも、そんなに長くブームとなったわけではない。

 全世界を魅了するほどの、ブームは駆け巡ったのであるが、実際に、本当のピークというのは、1年くらいだっただろうか?

 プログレというのも、60年代後半から、70年代前半くらいの短い時期だったという。

「ビートルズに変わって人気が出てきたのだが、それから、時代は、ちょうど、ベトナム戦争などの。反戦ムードが高まってきた頃から、あまり暗い音楽は、流行らなくなったのではないか?」

 という話を言われていると聞かされたことがあったのだ。

 そういう意味で、当時は、プログレというのは、どちらかというと、

「裏で流行っていた」

 といっておいいかも知れない。

「音楽以外でも、表があれば、裏がある」

 ということもあって、音楽界では、裏の世界が、プログレだったのかも知れない。

 ただ、裏と表というのは、その世界の人間でないと分からないので、他の人たちには分からなかったことだろう。

「もし、分かっていれば、もう少し、ブームは長かったのかも知れない」

 と言われるような気がするのだった。

 そんな音楽をやっていて、ピアノもある程度上達してきた。

 しかし、それをまわりの人は誰も知らない。

 何となく恥ずかしがり屋で、あまり人と交遊もない清川は、ピアノも、最初は独学でやっていたくらいだ。

 途中から、音楽教室に通い始めたが、そこでも、あまり人との交流があるわけではなく、ほとんど、無視していた。

 当然、まわりからは、あまりいいように言われることはなく、そのせいで、孤立を余儀なくされた。

 しかし、本人は、

「慣れている」

 ということで、別に気にしていないようだった。


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