最終話 北斎の痩せ我慢、国貞の粋な返礼

 豪雨と泥濘を厭わず、北斎は国貞の書画会に駆けつけた。

 しかし、相変わらず、びしょ濡れの蓑を脱がない。


 その北斎の前に、緋毛氈が敷かれた。

 毛氈の上に、硯、絵具、絵筆が置かれ、いつでも揮毫できる準備が整えられた。


 いつしか、国貞の書画会は満員御礼の活況を呈した。

 北斎、国貞とも客人の需めに応じて、席画を揮毫することに追われた。


 数刻後――座が落ち着いた頃を見計らって、

 北斎が立ち上がり、満座を見渡して恭しく辞儀をした。


「本日は国貞師匠のため、荒天の中、ご参集賜り……」

 ここまでは、よい。


 だが、辞儀が終わった途端、一転、北斎が滑稽な蓑笠踊りを始めるではないか。

 一同、巨匠にも似合わぬ奇矯な振舞いに唖然呆然、口をあんぐりと開けた。


 痴れ者のごとく出鱈目に躍り狂って、国貞に向かって曰く、

「此度豊国の号、襲名誠にめでたく、この余興をもって祝儀といたす」


「そうか、それで蓑を脱がず、揮毫を続けたのか」

 と、誰しもが得心した瞬間、満座から割れんばかりの喝采が沸いた。


 そのやんやの喝采の中、北斎が三宝を国貞に前に置いた。

 三宝の上には、北斎が今日の席画揮毫で稼いだ小判が山と積まれていた。


 北斎が芝居がかった声で見得を切る。

「これも、襲名披露の祝儀としてお納めいただきたく……」


 北斎は貨殖の道に極めて疎く、長屋で貧乏暮らしを続けている。

 金など無用とばかりの、その画狂人の瘦せ我慢に国貞がニヤリと笑った。


 やがて北斎は書画会の席を後にした。

 すでに雨がやみ、その手には、虎屋の羊羹が入った風呂敷包み。


 本所榛馬場の長屋に戻った北斎が油障子をガラリと開けた。

「お栄、いま、けえったぜ」


「おや、お帰り。その風呂敷包みは、もしかして山吹色のものかえ?」

「バッカヤロー、揮毫料など国貞に祝儀としてくれてやったわい」


 お栄も左程、金に執着はなく恬淡たるものである。

 ただ、高額な絵具代の支払いが、十両ほどたまっているのが気にはなっていた。


「ま、金など天下の回りものさね。わたいの枕絵で何とかするさ」

 と言いつつ、風呂敷包みを開けると、桐箱の中に羊羹が敷き詰めてある。


 それにしても持ち重りのする桐箱であった。

 仔細に見ると、羊羹の底に薄い美濃紙が敷かれ、何やらピカッと光った。


「おや、お父っつぁん、山吹色がお出ましだよ」

「ん? そんなわけあるめえ」


 お栄が小判を手に取って見せた。

「ほら、こんなものがビッシリ、お宝ザクザクさ。ちょいと数えてみるかねえ」


 それは、北斎の厚志に対する国貞の返礼であった。

 天下一品、痩せ我慢の祝儀に対して、のしをつけて返したのである。

 

 お栄がほれぼれとした声を洩らした。

「やっぱ、五渡亭さんは顔もいいけど、男ぶりも粋だねえ」


 ――了

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北斎は豪雨の中を駆けた。何処へ! 海石榴 @umi-zakuro7132

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