第2話 両国柳橋の会席料理茶屋「河内屋」

 北斎は走っていた。

 泥濘を跳ね飛ばし、駆けていた。


 めざすは両国柳橋の会席料理茶屋「河内屋」。

 その料亭で今日、歌川国貞の書画会が催されるのだ。


 だが、この烈しい風雨である。

 書画会に参じる客人はまばらであろう。


 となれば、国貞は可哀想なことになる。

 書画会を催すには数十両の金がかかるのだが、これでは真っ赤かの赤字だ。


 河内屋の場所代、予定来訪者数に応じて用意した酒食代金などである。

 しかし、この際、そんな金のことなどはどうでもよい。


 今日の書画会は、亡き初代豊国の跡目襲名披露を兼ねていた。

 もし来場者が少なければ、国貞は満天下に恥をさらすことになりかねない。


 北斎は走った。

「待ってろ、国貞。泣くんじゃねえ」


 一刻後、北斎は河内屋に着いた。

 蓑を着込んでも、哀れなほどびしょ濡れの姿であった。


 その濡れ鼠の姿を見て、北斎を迎えた河内屋の亭主は仰天した。

「ほ、北斎さま。いかがなされましたか」


 北斎がにやりと片頬笑んだ。

「五渡亭の助っ人よ。上がらせてもらうぜ」


 亭主があわてて言う。

「そ、そのままのお姿では……まずはお着換えを」


 北斎が大きな口を開けて愉快げに笑った。

「いいってことよ。このままのほうが面白い」


「はぁ?」

 茫然とする亭主を尻目に、北斎は二階座敷へと進んだ。


 座敷の唐紙を開けると、大広間の上座にぽつんと国貞の姿。

 そして、果たせるかな、やはり数名の客人しかいない。


 その中にいた曲亭馬琴が蓑笠姿の田舎臭い老人を見咎めて言った。

「はて、そこのお方、座敷を間違えておられるのではないか」


 この頃、馬琴はあまり目がよくなかった。

 今でいうところの「老人性白内障」であろう。


 直後、しょぼんとしていた国貞が、目をみはって驚いた。

「おおっ、何としたことか。北斎先生ではございませんか」


 北斎が濡れ鼠の姿で大笑する。

「ほれほれ、葛飾の百姓がこの通り、参りましたよ」


 その言葉で国貞は北斎の義侠心を理解した。

「おれのことを心配して、わざと野暮天の姿で駆けつけてくれたのだ」


 国貞は廊下に控えていた弟子たちにハッパをかけた。

「北斎先生のお出ましだ。ご厚志を無駄にするんじゃねえ。触れて回るんだ」


 次の瞬間、弟子たちは豪雨の中を傘もささずに飛び出した。

 国貞と誼みのある文人墨客らの門を叩いて告げる、「北斎翁、ご来臨」。


 美人画や役者絵で押しも押されもせぬ人気絵師、国貞といえども、

 北斎の知名度にははるかに及ばない。


 河内屋の亭主が北斎に問う。

「まずはお膳を召し上がられますか」


 北斎が横に手をふった。

「おれは知ってのとおり、野暮な下戸だ。茶でいい。それに羊羹もだ」


 ――つづく

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