北斎は豪雨の中を駆けた。何処へ!

海石榴

第1話 弘化元年二月、本所榛馬場の長屋

「お父っつぁん、雨になってきたね」

 北斎と娘お栄が暮らす長屋の屋根を雨が叩く。

 

 ややあって、お栄が再び独り言のように言う。

「お父っつぁん、雨がひどくなってきたよ」


 北斎は無言で絵筆を走らせつづけた。

 お栄も枕絵の筆を執っていたが、またもや天井を見上げた。


 二月の冷たい驟雨だ。

 やむ気配はない。


 つと北斎が筆をおいた。

 それに気づいたお栄も筆をおいた。


 北斎がのそりと起ち上がった。

 六尺の身の丈をお栄が見上げる。


「やはり行くのかえ」

 その娘の言葉に構わず、北斎が土間に出て、草鞋を履く。


 お栄が唇を歪めた。

「義を見てせざるは勇なきなり、ってえわけだ」


 北斎が蓑を着込みながら、言葉を返す。

「バッカヤロー。そんなんじゃねえ」


「ふーん。なら、どうしてこんな雨の中を出かけるのさ」

「………」


 破れ笠の紐を顎に結び、北斎は腰高の油障子に手をかけた。

 その背中に、お栄が声をかけた。


「お父っつあんも、いいとこあるねえ」

「ふん、おれは五渡亭の泣きっ面なんか見たくねえだけだ」


 五渡亭とは歌川豊国の一番弟子、国貞のことである。

 この画号命名は大田南畝こと蜀山人による。

 

 画号の由来は、国貞が武州葛飾郡本所五ツ目の出自で、

 そこの船頭の倅だったことに由来する。


 北斎は長屋の油障子をガラリと開けた。

 豪雨が地を叩く。長屋の路地に風がヒュンと唸りを上げる。


「お栄、行ってくるぜ」

「あいよ。それにしても野暮な格好だねえ。まるで田舎の爺さんだ」


「へんっ」

 北斎が老躯を風雨の中に躍らせた。


 笠亭仙果が驚いたという達者な足取りで、豪雨の中をゆく。

 北斎が菅笠を指で押し上げて、天を仰いだ。


「アタンダイ、タンダバーティ……」

 陀羅尼の呪文を雨天に咆えたかと思うや、いきなり駆けた。


「待ってろ、国貞。おれがついてる」

 篠突く雨の中を、北斎は長年の友のために疾駆する。


「お父っつぁん、頑張るんだよ」

 本所榛馬場の長屋で、風雨の音を聞きながら、お栄は独りごちた。


 ――つづく

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