メアリー・スーは醒めない夢で眠る

@memorandum

メアリー・スーは醒めない夢で眠る

 高校一年の秋。学校祭二日目。既に一日目でほとんどの出店を見て回った俺は、自分のシフトが来るまでの暇を持て余していた。体育館でのステージ発表に興味を惹かれるものはなく、一緒に回るような友人もいない。

 来校者もいていつもの数倍騒がしく人に溢れている校内に、どこか静かで落ち着ける場所はないかと彷徨っていた。学校祭のリーフレットを広げる。人が来なさそうで、静かそうなところを求めて目を滑らせる。

 文芸部。一階の端にあるそこなら、たいして人も来ないだろうし、来たとしても騒ぐような人はいないはずだ。リーフレットを畳んで階段を下りた。

 予想していた通り、そこには人がいなかった。完全な貸し切り状態。椅子が何脚か置かれており、机には過去に発行したらしい部誌が置かれている。何もせずスマホをだらだらといじることはなんだか躊躇われて、俺は一番新しそうな部誌を手に取った。天の川だろうか。表紙には、ゆるく帯状に連なった星々を背景に、「銀湾」という二文字が印刷されていた。手触りのいいそれをなんとなくひっくり返して、裏表紙を見る。宇宙は無限なのだと言いたげに広がる星が印刷されていた。

 椅子に座り、目次を見て驚いた。小説から詩、短歌や俳句、あとがきまでしっかり作りこまれているのに、作者を示す名前はすべて同じなのだ。

 「小鳥遊彼方」。百ページ近くありそうなこれを、一人で? 信じられない。俺は創作に造詣が深いわけではないが、これだけの量を書き、部誌にするために編集をして、表紙なども作ったというのか。きちんと製本されているから、製本はどこかの会社に委託したのだろう。だとしても、これは一人でできる作業量じゃない。そんなに書くのが好きなのか。

 時間があるので、小説から読み始めることにした。SF小説らしかった。わざとらしくない背景の説明、言葉遣いや癖からわかる人物たちの心情や考え。普段小説を自発的に読まない俺でも読みやすく、わかりやすい。意味や読み方がわからず突っかかることもなく、読んでいて疑問を抱いたり、さすがにそれは無理があるんじゃないかという設定や描写もない。


 読み終わった俺は、猫背になって話にのめりこんでいる自分がいることに気が付いた。顔を上げて背筋を正し、肩や肩甲骨を動かす。バキボキと骨の鳴る音がした。

 少し遠くの椅子に、人が座っているのが見えた。男だ。足を組んで小説を読んでいる。それだけで何かの雑誌に載っていそうなほど画になる男だった。格好いい、というよりも美人や綺麗という言葉のほうが似合いそうだ。背景がどこかの教会やステンドグラスだったら、宗教画として美術館に飾られていそうなほどだ。

 彼は顔を上げ、俺に微笑みかけた。見すぎた、と思って思わず顔をそらす。さっきは俯いていてよくわからなかったが、モデルのような顔立ちをしていた。これだけ顔が整っているのなら入学時にもっと話題になっていそうなものだが、そんな噂は聞いたことはない。彼は立ち上がって、俺のほうに一歩一歩近付いてきた。


「どうだった?」

「……どう、とは」


 てっきり、じろじろ見ていたことに対して何か言われるのかと思ったが、違ったらしい。彼が何に対しての答えを要求しているのか、俺には見当もつかなかった。


「僕の書いた話。どうだった?」

「書いた、って……小鳥遊彼方、さん、ですか?」

「そうだよ。というか、僕と君は同じ学年だから、敬語は不要のはずだ。楽に答えてほしい」


 なぜ俺と同じ学年なのかがわかったのかと一瞬疑ってしまったが、すぐにわかった。ネクタイの色か。たしかに、俺と彼はどちらも同じ赤いネクタイをしている。

 彼は俺の足元にしゃがみ込み、ゆるく口角を上げて俺の返答を待っていた。絵画をじっくりと見定めるような目つきだった。


「お、面白かった」

「どこが?」

「どこが……?」


 どこがと聞かれても。面白かったですとしか答えようがない。普段本を読まない俺でもわかりやすかった、情景描写も心情描写も、すべてが本当にあったことなんじゃないかと思わせるようですごかった、没入できてあっという間に読めた、と思いついた順からたどたどしく感想を伝えていく。彼は、そんな俺の拙い感想をうんうんと頷いておとなしく聞いていた。


「じゃあ、だれが一番好きだった?」

「誰……全員かな。誰が一番とかはない。一人だけ思想というか、思考回路が合わないのがいたけど、って感じ」

「ふぅん。ほかに読んだものは?」

「え? いや、ない、けど……」

「じゃあ、その本あげる。家で読んできて。それで、僕に感想教えて」

「は? いや、でもこれ、」

「大丈夫、大丈夫。それ無料で配っているやつだから、お金は取らないよ。読み終わり次第、放課後にここの教室に来てくれればいいから」

「活動日とかって」

「一応火曜日と木曜日だけど、いつでもここ空いているし、僕はいつもいるから大丈夫」


 彼はそう言って、俺にそれを押しつけた。これを無料で配っているのか。こんなに立派な本を。金取れるレベルだろ、これ。

 俺はそれを受け取って、読んだところまでの栞代わりにリーフレットを挟み込んだ。シフトの時間が迫っていたので、それじゃあ、と軽く頭を下げる。彼は「またね」と言って微笑んだ。

 静かな空間から離れると、途端に喧騒が戻ってきた。カフェの呼び込み、イベントの宣伝、はしゃぎ声。さっきまであんなに静かな空間にいたこと自体が夢みたいだった。手元にある本だけが夢からの土産みたいだ。

 自分のクラスに戻ると、「遅い!」と鋭い声が飛んできた。遅れたわけではないが、予想を超える盛況に人手が足りていないらしい。うれしい悲鳴だ。でも、大声はやめてほしい。普通にちょっと嫌だ。制服の上からエプロンを身に着けて、お客さんの注文を取ったり、会計をしたりする。こっち来て、あれやって、という指示に従って教室内を忙しなく動き回る。

 クラスメイトが少し苛立っている理由がわかる気がした。こんなに盛況するとは思っていなかったし、一日目もこれほど混んでいなかったから、店内が常に三人から四人ほどになるようシフトを組んでいたのが仇となったらしい。人手が足りなさすぎる。焦りが無駄な失敗を生み出しているらしかった。それに気づいたところで、俺にできるのは焦らないように急いで仕事をこなすだけだった。

 

 おつかれさまでした、という学級委員と担任の声にクラスメイトもそれぞれ労いの言葉を掛け合った。


「ごめんね、山田くん。あれからずっとシフト入ってもらっちゃって」

「ああ、いや……暇だったし」


 学級委員の彼女こそ、ずっと給仕しっぱなしだったはずだ。学校祭をゆっくり見て回る時間がなかったんじゃないかと思う。ジュースとお菓子の詰め合わせを俺に渡すと、彼女は行ってしまった。

 学校祭の片づけをしていると、誰かに名前を呼ばれた。振り返ると、ドアのところに今日の午前中会った男が立っていた。


「山田くん? 普遍的ないい名字だね」

「はあ。あの、何の用で?」

「感想、待ちきれなくて来ちゃった」

「まだ読んでないけど……」

「あ、そう? じゃあ、この後時間ある?」


 あると言えばあるし、ないと言えばない。このあとは学校祭の打ち上げでカラオケとかに行くらしい。けれど、自由参加らしいし、俺はいてもいなくてもいい存在だろう。行くなら行くでもいいし、行かないなら行かないでもよかった。自分の心の中の天秤は完全に中立だった。


「あるなら、このあとファミレスにでも行こう。そこで読んで、感想を聞かせてほしい」


 彼はそう言って微笑んだ。あまりに突然のその誘いに、突然心の中の天秤が傾き始めた。あまり知らない同級生とファミレス行きたくねぇな、という気持ちと、そっちのほうが打ち上げより楽しそうだなという気持ち。相反する気持ちがせめぎあった結果。


「行く、かな」

「本当? やった! それじゃあ、ええと、ライン? だっけ。交換しようよ!」

「あ、ああ、うん」


 友達の登録方法を覚えていなかった彼に、ここを押して、これ読み込んで、などと指示していく。できた、と彼が綺麗な顔で笑った。ちらりと見えた彼の友達一覧には俺しかいなかった。友達いないのか? あまりに綺麗すぎて人が寄ってこないとか、そういうことか? いやいや、たとえそうだとしても全くのゼロってことはないだろ。スマホ二台持ちとか、そういうことだろ、たぶん。

 それじゃあ校門で待っているね、と言った彼が俺に背を向けて走っていった。気のせいかもしれないが、スキップしていたようにも見える。

 自分もさっさと後片付けをして行こう、と思っていると、学級委員の女子が俺に話しかけてきた。


「さっきの人、誰? すっごいイケメンだったけど……あ、いや、別に狙ってるとかじゃなくて! あんな人、うちの学校にいたっけ?」

「えっと、小鳥遊彼方、っていうんだって。同級生らしいけど、詳しくは俺もあんまり知らなくて……ごめん」

「え、いやいや、謝らなくていいよ! あんなイケメンがいたら、入学式のときから話題になってそうだから、転校生とかかな?」


 そうじゃないかな、とあいまいな返事をする。やっぱり、彼女も見覚えがないらしい。彼に対する違和感が俺だけのものではないとわかって、少し安堵した。

 学級委員の指示が的確なものだったからか、それとも単に人数のおかげか、片づけは予想よりも早く終わった。打ち上げ行く人、と学級委員が声をかけると、ほとんどが手を挙げた。ちらほらと俺のように粛々と帰る準備を進めている人もいる。打ち上げどこ行く、なんて盛り上がっている彼らに黙って帰るのも、彼らが盛り上がっている中に「俺帰るから。また来週」と水を差すのも憚られた。結局俺は学級委員の女子に俺帰るわ、また来週、と伝えてそっと教室を出た。

 まだ片づけが終わっていないらしい教室から忙しなく人が出入りする。大きなベニヤ板や段ボールを運び出したりだとか、ビニール袋いっぱいのゴミをだれが捨てに行くかっていうじゃんけんだとか。祭りのあとの片づけは、少し寂しい気分になる。

 靴を履き替えて生徒玄関を出ると、校門に人がもたれかかっていた。ぼんやりと空を見つめていた瞳がゆるりと生徒玄関の方に落ちる。俺を認識した瞬間、わかりやすく顔を綻ばせて手を大きく振った。そんなことしなくてもわかるからいいんだけど。


「来てくれて嬉しいな」

「それで、どこ行くんだ?」

「うーん……どこがいい? 僕、あんまりお店知らないから、君のおすすめを聞きたいな」

「じゃあ、サイゼとかは? 駅前の」

「いいね、そこ行こう。道案内、任せてもいいかな」


 それに頷いて、並んで歩く。無言の時間が続くかと思ったが、予想に反して彼はずっと俺に話しかけてきた。これがコミュ強ってやつか……?


「山田くんは普段どんな本を読む? 僕は純文学とか大衆文学中心かなあ」

「あんまり読まないな。読むとしても、ラノベとかマンガとか……そこらへんだよ」

「いいね。好きな設定とかある?」

「特にはない、かな。表紙とかあらすじとか読んで面白そうだなって思ったら読んでる」

「へえ。あ、そういえば山田くんの下の名前知らないな。なんて言うの?」

「冬。季節の『冬』そのまま」

「いい名前だね。冬くんって呼んでもいい?」

「いいけど……」


 こう言われると、俺も相手のこと下の名前で呼ばなきゃダメかなって思ってしまう。彼方って呼ぶべきなのか、君付けすべきなのか、小鳥遊って呼んでもいいのか、でも小鳥遊って呼ぶより彼方って呼んだほうが呼びやすいな、とか。別になんだっていいんだろうけど。

 彼の質問に答えたり話に相槌をうったりしていると、いつの間にか店に着いた。学校終わりかつ学校祭の打ち上げで来店している人が多いらしく、少し待つことになった。待機客の一覧の一番下に自分の名字と来店人数の横に大人二人、と書いて待機用の椅子に座る。


「僕、こういうところ来たの初めてだなあ。なにか粗相したらごめんね」

「……彼方って、友達いないのか?」


 失礼なのは百も承知だが、思わずそう聞いてしまった。友達の多寡に関わらず、サイゼは来たことがあるものだと思っていた。ああでも、田舎から越してきたとかだとそれもあり得るのか。というか、ナチュラルに名前呼びしちゃったし。発言してからいろいろな考えが浮かんできて、腹の奥がきりりと軽く痛む。


「多いとは言えないけどいるよ。冬くんとか」

「ごめ……え、俺って彼方の友達なの?」

「え、違うの? ライン交換して、こういうところにも来たのに?」


 ふつうはもう少し段階を踏んでから「友達」だと断言するものじゃないのか? それまではなんとなく「同級生」とか「知り合い」とかって濁したりするだろ。しないのか?

 しかし。こう聞かれて「いや、友達ではないんじゃないか?」とか言える猛者がいるのだろうか。いや、いないだろ。


「や、……うん、そう、だな。友達だよ、俺たちは」

「そうだよね? あー、びっくりした。違うみたいに言うから」

「二名様でお待ちの山田様~」

「あ、呼ばれた。行くぞ」


 店員を先頭にして、俺、彼方の順で店内を歩く。案内された席は二人用の席だった。荷物は床に下ろし、メニューを開く。


「先選んでいいよ。俺、親に連絡してるから」

「連絡?」

「ここで夕飯食うから、家で夕飯食べないっつー連絡」


 なるほど、と彼は頷いてメニューをまじまじと見始めた。俺はスマホを持って、親とのトーク画面を開く。簡潔に「サイゼでご飯食べてくるから、夕飯いらない」「遅くはならないけど、帰るときまた連絡する」とラインして、スマホをスリーブモードにしてテーブルに伏せた。


「決まった?」

「全然。こんなに種類があるのに、そんなすぐには決められないよ」

「まあ、それもそうか。ゆっくりでいいよ。決まったら、そこの紙にメニュー番号書いといて」


 期間限定のメニューがでかでかと載っているメニューをぺらぺらと見たあと、なんとなくキッズメニューに手を伸ばす。……あ、前回来たときと絵柄違うじゃん。やってみるか。

 ……毎回、七個とか八個くらいは見つけられるんだよな。全部見つけたのなんて、二、三回だ。めちゃくちゃ見つけにくいけど、全部見つけたときの達成感がヤバいんだよな。


「決まったよ! 何してるの?」

「間違い探し。やってみるか?」


 彼方にキッズメニューを渡し、代わりにグランドメニューをもらった。ぺらぺらとメニューをめくり、いいなと思ったものを頭に留めておく。どうせ長居するだろうし、ポテトとかも頼んでおくか。ピザも食いたいけど、パスタ食ったあとで考えりゃいいか。あ、ドリンクバーもいるか。

 紙に自分の食べたいもののメニュー番号を書く。すっかり間違い探しに夢中になっている彼方に追加注文はないかどうかを聞き、呼出ボタンを押した。やってきた店員に紙を渡して、読み上げられるメニューにひとつひとつ頷く。間違いがないことを確かめると、店員は忙しそうに戻っていった。グランドメニューを片付ける。


「彼方、飲み物何がいい? ついでに取ってくるけど」

「え、飲み物自由なの?」

「そういうメニューがあるんだよ。荷物見とくから、ドリンクバー見てきたら? あっちにあるから、近くのコップセットして、飲みたいドリンクのボタン押せば飲める」

「へえ……! 行ってくる! あ、冬くんのも持ってくるよ、何がいい?」

「あー、じゃあ、俺は適当なお茶で」


 戻ってくるまで少しでも読み進めようとカバンから本を取り出す。テーブルの上を紙ナプキンで軽く拭き取ってから本を置いた。ええと、たしかここからだったな。

 もう一つの話の三分の一ほど読み終わったころに彼方が戻ってきた。彼は、制服の左の袖がびちゃびちゃだった。ドリンクバーで何をすればそんなことになるんだ、と引いている俺とは対照的に、彼方は子どもみたいに目を輝かせて「すごいね!」と言った。ドリンクバーでそこまで楽しそうにできるお前がすげえよ。

 とりあえずおしぼりで袖を拭くように促して、なんでそんなことになっているのかと聞く。コップの中にドリンクが入っているから、なんとかドリンクを入れることはできたんだろう。


「こう、真ん中からドリンクが出ると思っていて」

「うん」

「真ん中にコップを入れて、左手で支えながら左側のドリンクのボタンを押したんだ」

「うん、まあ、うん……言いたいことは分かった。俺も説明不足だった」

「これ、どうやって綺麗にしたらいいんだろう……」

「クリーニングじゃないか? 学祭の振替休日で三連休になってるから、ちょうどいいだろ」

「クリーニングかあ。うん、そうしようかな」


 濡れたブレザーを脱いで畳んだ彼方がテーブルの下でごそごそしている。ブレザーをカバンにしまっているのだろう。本に目線を戻すと、ゴン、と衝撃が手に伝わってきた。


「大丈夫か? 結構な音したけど」

「ん? 大丈夫だよ」


 石頭なのだろうか。けろっとしている。本人が言うのなら大丈夫なのだろう、と判断して再び本に目線を戻す。

 いま読んでいる話は、登山にやってきた名探偵とその助手の話だ。天候が悪くなってきたがために泊まった小屋で事件が起こる。一緒に泊まっていたカップルの男と、助手が殺されてしまったのだ。前者だけならばまだしも、名探偵の助手も殺されてしまった。助手と深い信頼関係にあった名探偵は、男が殺された謎とトリックは解いたが、助手が殺された謎は解かなかった。そして、そのまま探偵は一人で下山をする。そこまでは読んだ。

 ありがちな設定のミステリーだと思っていたのに、全然違うじゃないか。最初は傲岸不遜で驕っていた天才の名探偵の、助手を失ったことに動揺しながらも、しっかりと謎は解く責任感。それでも、助手が誰かの手によって死んだことを認めたくない一心で推理を放棄し、事故死だと決めつける人間らしさ。最初はなんだこいつ、と思っていたのに、いつの間にか引き込まれている。引きずり込まれている。

 探偵は助手を新たに取らず、一人で淡々と事件を解決していく。そんなある日、助手の事件と酷似している事件に出会う。その事件解決をきっかけに、あの日助手を殺した相手に会いに行くことを決意する。

 最後まで読んで、一度本から顔を上げて深呼吸する。ようやくまともに呼吸ができた気がした。なんだ、これ。すごい。金取れるだろ。なんかの賞に応募しろよ、これ。絶対入賞するから。


「読み終わった?」

「ああ……ほんっとすごかった……」

「面白かった?」

「めちゃくちゃ面白かった。心理描写もそうだし、最初はなんだこいつって思ってたのにだんだん好きになってくるし……全部面白いんだけど。なんだこれ……」

「ふふ、そう言ってくれて嬉しいな」


 彼方が嬉しそうににこにこと笑った。ちょうどパスタが来たので、一旦本を片付ける。店員が去ってからフォークを手に取って「いただきます」と手を合わせる。彼も「いただきます」と手を合わせた。

 無言でパスタを食べ続ける。彼方はあまりパスタを食べないからか、食べるのに苦労しているみたいだった。白米派なのかな。

 一足先に俺が食べ終わった。口を拭いた紙ナプキンを皿の中に入れ、残骸をテーブルの端に置く。まだ相手が食べている中で本を読むのは憚られたので、スマホを手に取った。親からの返信が来ている。「了解」という簡潔な返事と親指を立てているよくわからないキャラクターの――おそらく、無料でダウンロードできる――スタンプが並んでいる。スタンプか返事、どっちかでいいと思う。そんな感想を胸にしまって、スマホから顔を上げる。ちょうど彼方も食べ終わったらしい。俺と同じようにテーブルの端に空の皿を置いていた。

 彼方が間違い探しに興じているのをぼんやり見つめる。立てている指の本数的に、俺と同じくらいの間違いを見つけているんだろう。

 数分すると、店員が皿を持って行ってくれた。一応紙ナプキンでテーブルを軽く拭いてから本を置いた。小説は二つだけだったらしい。数的には「二」なのだけれど、ボリュームと内容がすごかったな。順番に読むと、次は詩らしい。三つある。

 詩か、とすこし躊躇う。詩は書く側と読む側の感性が同じじゃないとわかりにくい気がする。事実、俺は今まで読んできた詩の中でも、某かまきりの詩しかきちんと理解ができなかった。あと、なんというか、教科書だとかに載っている詩は「詩」という感じだけれど、素人が書く詩は「ポエム」という感じで、読んでいるこっちが恥ずかしくなってしまう。小説はすごかったけれど、詩もそうだとは限らない。もしこれでポエムじみた詩だったら本をそっと閉じてしまうかもしれない。

 ……とか思ってすみませんでした。心の中でそう謝る。俺でもめちゃくちゃわかりやすかったです。あとめっちゃ詩。全然ポエムとかじゃない。

 一つは擬音がたくさんの詩。目にした瞬間は何を示しているかわからないまま終わるだろうな、と思っていたのに、読み進めていくうちに輪郭が定まっていく感覚。すっごいな。二つ目は繰り返しの文が続く詩。シンプルで分かりやすくて、でも、読んでいて飽きない。最後は型にはまっていない詩。繰り返しの文があるわけでもなく、共通項があるわけでもない。それでも、言葉が何を示しているのか明らかな、そんな詩。


「あと一個どこだろ……」

「詩読んだ。すごかった」

「あ、そう? よかった。どの詩が一番好き?」

「あー……最初のやつ。最後に何言ってんのか分かった瞬間鳥肌立った」

「なるほどね」


 ぺらりとページをめくって、短歌を読み始める。ときどき、短歌と俳句と川柳の違いが分からなくなるんだよな。一番字が多いのが短歌だよな。

 読んでまず思った。短歌って、古語じゃなくてもいいんだな。なんとなく、古語じゃないとダメだと思ってた。めちゃくちゃ現代の言葉使うじゃん。いいんだ、これで。

 短歌も俳句も読み終わったから感想を言おうと思ったけれど、彼はいまだに残り一個を探し続けている。後にしよう。あとがき読んでからにしよう。

 あとがきを読む。きっちりとした文章で、頭がよさそうだという感想を抱いた。最後は、「制作、製本のやり方を教えてくださった顧問の南先生、ありがとうございました」という文で締めくくられていた。


「全部読み終わった」

「本当? どうだった?」

「全部面白かった。というか、この本、本当にタダでもらっていいのか?」

「もちろん。配布用に刷ったやつだからね」

「文芸部って、いまは彼方一人なのか?」

「そうだね。まあ、部は三人以上じゃないと承認されないから、文芸部っていうか文芸サークル? 文芸同好会? になるのかな」

「そうか」

「読み終わったのなら、間違い探し手伝って。あと一個が見つからないんだ」


 俺にも見えるように置かれたキッズメニューを指差しながら間違いを説明してくれた。冷め切ったポテトをぬるいケチャップにつけて、口に入れる。見つかりにくいやつって、大抵長さが若干違うとか、大きさが若干違うとか、そういうやつなんだよな。そう思いながら左右の絵を見比べる。

 彼方が三回ほどドリンクバーに行くために席を立つほど時間が経ったころ、残りの間違いを見つけた。


「ここじゃないか?」

「え? ……あ、本当だ! ちょっと短い!」

「これで十個か?」

「いち、に、……うん、十個! むずかしかったね」

「まあ、サイゼの間違い探しは激ムズだからな。これ食ったら帰るか」

「うん、そうだね」


 そういえば、彼は親に連絡しなくてもいいのだろうか。外でご飯を食べるのなら、夕飯いらないなどと連絡するものだと思っていた。一人暮らしとか、親が放任主義とかなのだろうか。もしくは、大食いだから夕飯も入るとか? 運動部ならまだしも、文化系の部活でそういう人は珍しい気がする。

 ポテトを口に運び続ける。彼方の口数が少ない気がする。てっきり、感想を根掘り葉掘り聞いてくるかと思っていたから、少し拍子抜けした。


「冬くんは、話を書くつもりはないの?」

「え? ないよ」

「そっか」

「……彼方が話を書き始めたきっかけって、なんだ?」


 ふと気になった。これだけのすごいものが書ける人は、何をきっかけにして書き始めたのだろう、と。幼いころから本に囲まれていただとか、この人の書く文章に感銘を受けたからだとか、そういう理由だと思っていた。


「僕が話を書き始めたのは、ある日読んだ本の中で、ある登場人物が死んだからだよ。メインキャラでもない、ただ数ページ出てきただけの、ただのモブのキャラクター。生きてメインキャラと共にカーテンコールに出てきても、死んで墓に眠り続けても変わらない。それでも、彼が生きたまま迎えるエンディングはなかったのかと思った。だから、彼が生きた世界線を書いたんだ。要するに、二次創作だね」


 彼の言葉を聞いて、驚いた。始まりは、だれもが経験したであろう悲しみからであり、馴染み深い二次創作だということに。俺は、自分が少し希望を持っていることに気が付いた。


「文芸部って、何書いてもいいのか」

「もちろん」

「こんなすごいのと並んで書くのとか、気引けるんだけど」

「僕がきちんと書き始めたのだって、二……一年半くらい前だよ。上手い下手が気になったとしても楽しく書けるのが一番だし、それに、……自分が好きなもの、自分が読みたいものを完璧に書けるのは自分しかいない」

「……完全など素人だとしても?」

「大歓迎」


 彼がにんまりと口角を上げる。なんだか負けたような気分だが、俺の気持ちは昂っていた。


「文芸部、入ってもいいか」

「もちろん! あはは、うれしいな! 友達が一緒の部活に入ってくれるなんて! あ、入部届は休み明けに渡すね!」


 楽しそうにする彼方を見ていると、こちらも楽しくなってくる。

 俺が文芸部に入ろうと思った理由は二つ。一つは、自分の書きたい話を書くため。自分の望んだ結末にするために書きはじめたという彼方の話を聞いて、一から話を作り上げられなくとも、なにかの二次創作ならばできるかもしれない。書いてみたい、と思った。

 もう一つは、彼方の書く話を一番に読みたいと思ったからだった。なにかに大きく心を揺さぶられたのは久しぶりだった。最近は何を見ても冷めた気持ちでしか物を考えられなかった。どこかに感性や気持ちを置いてきてしまったような、死んでいるのに生きているような気持ちだった。今日彼の書いた話を読んで、久しぶりに鼓動が早くなった。生きているような気がした。

 それぞれに会計を済ませて、店を出た。外はすっかり暗くなっていて、少し肌寒い。まだ興奮しているらしい彼方が楽しそうに俺に話しかけてくる。それに返事する俺の声も、いつもより大きかった気がする。

 じゃあここで、と別れた改札前。改札を通り、少し進んでから振り返ってみる。彼方はまだそこにいて、振り返った俺に気が付いたのか大きく手を振った。それに小さく手を振り返す。雑踏に紛れて手は見えなかったはずなのに、彼は見えているかのようにさっきよりも大きく手を振った。また前を見て歩き始める。

 いつもより少し混んでいる列の一番最後に並び、スマホを取り出す。今から帰る、という連絡を親に入れてからSNSを開く。友達とサイゼ行ってきた、文芸部入る、という箇条書きの呟きをネットの海に放流した。いつからかは思い出せないが、最近、何をしていたか思い出せないことが多い。食事の内容、遊びの約束、一週間前に自分がしていたこと。毎日同じような繰り返しだからなのかもしれない。それでも忘れたくなくて、日記代わりにこのSNSを始めた。そのとき自分が思ったこと、何をしていたか、思い出したこと、何を考えていたのか。誰に見せるわけでもない、ただの日記。電子日記帳と言えるかもしれない。

 電車が来るアナウンスが鳴る。カバンを手で持ち、なんとかつり革の前まで移動する。発車する前にカバンを床に下ろして、つり革を掴んだ。

 電車が動き出した。なにもしないでいるのも不審かと思い、スマホを立ち上げる。ただSNSを見るのも何か違う気がする。

 なにか書いてみようか。そう思ったはいいものの、なにを書き始めていいかわからない。そもそも書き出しがわからないのだから、何も書けないんじゃないか。それに、書きたいという気持ちだけが先行して、何が書きたいのかがわからない。

 電車が止まる。右隣の人が降りて、代わりにまた違う人が俺の隣に並んだ。

 自分が読みたいものを書けるのは自分しかいない、と彼方は言っていた。それなら、自分は何が読みたいのか。俺は、彼方の書いたような話が読みたい。でも、彼の書く話はバラバラだ。今日読んだのだって、SFとミステリーで、ジャンルが全く違う。でも、共通点がある。彼の書く話は、登場人物が本当に生きていると錯覚させられるくらい生き生きとしている。残酷なまでに生々しく描かれた心情、筋の通っている思考回路、ちょっとした癖、言葉の端々。登場人物の多い話であっても、無理のないキャラ付けや無駄のない呼びかけ、説明っぽくない文章で誰が話しているのかがわかる。

 ああいう話が書きたい。そう決意した頃には、最寄り駅の一つ前の駅に停車していた。

 帰宅すると、母が歯を磨いていた。明日も早いらしい。俺は手を洗って、さっさと寝る準備を済ませて部屋着に着替えることにした。

 おやすみ、と一足先に寝室に行った母を見送る。風呂に入りながら、母を見送ってから食べる明日の朝ご飯は何にしようか、と考える。……あ、明日休みじゃん。なら、母を見送ったら二度寝するか。腹が減ったら起きる感じで。のんびりゲームするか、それとも、話を書くことについて考えるか。……明日決めるか。

 一通り寝る準備を済ませてから父の仕事部屋の扉越しにおやすみ、と声をかける。少しの間の後におやすみ、という声が返ってきた。

 自分の部屋に戻り、服を着替える。制服はスプレーをしてからハンガーにかけ、部屋着を手に取る。そろそろ半袖はきついか。長袖出しておかないとな。

 スマホを手に取ると、ラインの通知がいつもより多いことに気が付いた。いつもは切り忘れた公式アカウントからの通知が来るのだけれど、今日は違った。昼間に登録したばかりのアカウント……小鳥遊彼方からだった。フルネームのアカウント名に、小鳥――くちばしと足がオレンジ色の鳥――の写真のアイコン。


『学校祭おつかれさま!』

『クリーニングの仕方がわからないから教えてほしいんだ』

『あと、一緒に遊びに行きたい! 友達は休日に遊びに行くものらしいから』


 いくつか突っこみたい。クリーニングの仕方がわからないってなんだ。あと、そのネットから拾ってきた感じの友達の知識はなんだ。かなりの世間知らずというか、なんというか。ついこの間異世界から転生してきました、みたいな感じにも思える。そんなことは現実にないだろうから、一人暮らしを始めたばかりのお坊ちゃんとか、そんな感じだろうけど。

 遊びに行くのはいいけど、どこ行くんだ。俺も遊びに行くのは中学の友人しかいないから、普通の友達が遊びに行くところもあまり知らない。どうせなら、彼がどこに行きたいか聞いてみるか。


『彼方はどこに行きたいんだ?』


 すぐに既読がついたが、なかなか返信は来ない。なにかミスったか? そう不安になっていると、大きな吹き出しが返ってきた。


『遊園地、博物館、水族館、イオン、ゲームセンター、ドンキ、パンケーキとかも食べてみたいし、肝試しもしたいし、あと、……』


 本当に一人暮らし始めたばかり、かつ、世間知らずの箱入りお坊ちゃんかもしれない。画面の向こうで、端正な顔が子どもらしく無邪気に笑っているのが容易に想像できる。


『さすがに一日で全部はきつい。とりあえず明日はクリーニングに制服出しに行って、それからまた考えよう』

『いいの? じゃあ、何時にどこで集合する?』


 その質問に少し思案する。彼がどの辺に住んでいるかわからない。どこを集合場所にするか、その集合場所に着くのは何時ごろか。

 無難なのは、この街で一番大きく駅前が盛んな駅だろう。あそこなら東口のあたりにクリーニング店があったはずだし、駅前の豊富な店通りなら、彼の興味をひくものがあるはずだ。


『薄暮《はくぼ》駅はどうだ?』

『夕方に人ならざるものが見えるっていう噂のあるところ? いいね、検証してみようよ!』

『そういう噂はあるらしいけど、そんな理由じゃない。駅自体が大きいし、近くにたくさん商業施設とか店とかあるから』

『なるほど、素敵なところだね。時間はどうする?』

『十時に東口付近とか? 早いなら、もう少し遅くするけど』

『大丈夫! なんなら午前五時とかでも』

『電車がねぇよ』


 それは早すぎだし。うちの母親が家出る時間より早いじゃねえか。あと、単純に俺が起きられないし。

 最後にもう一度待ち合わせ場所と時間を確認してからラインを閉じた。

 用事が出来てしまった。二度寝するつもりだったのに。……まあ、誰かと遊びに行くのは楽しいからいいか。いつもより早いけれど、そろそろ寝ようかな。母を見送ったあとの朝ごはん、何食べよう。


 翌日、母を見送ったあと、寝ぼけ眼のままふらふらとリビングのソファーに横たわる。……まずい。寝る。無理にでも起きなきゃ絶対に寝る。目を覚ますためにスマホを立ち上げる。眩しい……。ちょっと暗くしよう。

 中学の時から続けているゲームと、三か月ほど前に始めたゲームにログインして、軽くデイリーミッションをこなす。少し目が覚めてきたので、ゲームもそこそこにご飯の準備をすることにした。

 料理ができると断言できるほど上手いわけではないが、卵を焼いたり、お湯を沸かしたり、チャーハンを作ったりできる程度には料理をする。母が本格的に仕事に復帰してからは、――母が残業するときは俺が夕飯を作ったり、休日に家族全員分の朝ごはんを作ったりで――料理をする頻度が増えたと思う。ウェブデザイナーの父は基本的に家で仕事をしているが、あまり顔を合わせることはない。あるとしたら、今日のような休日や父が出かけたりする時だ。

 だからと言って家族同士の仲が悪いわけではなく、休日は各々リビングで過ごしたり、買い物に行ったりしている。学校であったこともそれなりに話すし、無駄話もするから、それなりに仲が良いほうだと思う。

 よし。しっかり作るのめんどいし、ご飯温めて上に卵と冷蔵庫に残ってた唐揚げ乗っけて焼き肉のタレかけよう。

 できたご飯を口に運びながらスマホをいじる。のそのそと部屋から出てきた父が「あれ、今日はシンプルなご飯だね」とつぶやいた。


「おはよ。なんか食べる? パンあったけど」

「ああ、おはよう。そうだね、パン食べようかな。トースター使うね」

「ん。あ、イチゴジャム少ないから、使っちゃって」

「わかった。……あ、バター、なくなりそう」

「マジ? んじゃ、帰りに買ってくる」

「どこか出かけるの? 休みなのに」

「友達と薄暮駅近くで遊んでくる。そんな遅くはなんないと思う」

「そう。気を付けて行ってくるんだよ」


 それに曖昧に返事をして、スマホのリマインダーに「バター買ってくる」と登録した。

 テレビをつけて、天気予報とニュースをぼんやりと眺める。夕方は冷え込みが強くなるらしい。

 ごちそうさまでした、と手を合わせて食器をシンクに運んで水に浸す。まだ時間には余裕があるけれど、早めに準備しておこう。

 着替えと歯磨きを済ませて、時間を確認する。まだまだ時間はあるし、少しゆっくりしよう。三十分くらい前には着いておこう。彼方が迷ったら迎えに行けるように。大体の時間を計算して、家を出る時間の五分前にアラームを設定した。

 薄暮駅って何があったっけ。最近また何か施設ができたらしく、CMを頻繁に見かけるけれど、何があるのかは具体的に知らない。薄暮駅、と検索欄に入れると、サジェストに「都市伝説」と出てくる。その言葉と昨日の彼方の言葉が重なる。夕方の薄暮駅では、人ではない何かが見える、と。そんなわけあるか、と一蹴したいけれど、気になる自分もいる。迷った結果、最近できた施設についてではなく、都市伝説のことを優先的に調べることにした。何か書くきっかけみたいなものがあるかもしれないし。

 怪しい都市伝説サイトや、そういったことを扱っている掲示板を見て回る。どこも判で押したように同じことが書かれている。


『日が沈むまでの一分間、薄暮駅近くの高架橋で人でない何か――あるいは、それの本来の姿――が見える』


 実際に見た、という声はあるけれど、写真などの証拠はない。人間よりもはるかに大きい白いモヤが見えただとか、その時間になると目の前を歩いていた人が火に炙られた飴のようにどろりと溶け、そしてまた何事もなかったかのように人間の姿で歩いていた、だとか。そういう体験談は山ほどあった。さらには、クラスメイトが連れていかれてしまった、みたいなものもあった。

 一通り見終わっても、俺の考えは変わらず、心は冷えたままだった。写真だとかがあるのならばまだしも、あるのは匿名の書き込みばかり。火のないところに煙は立たないと言うが、俺にはこの場所を発展させようと誰かが仕込んだ嘘のようにしか思えなかった。時間も、曖昧な言い回しも、よくある都市伝説そのものだ。

 それに興味を失って、俺は本来調べようとしていた施設について調べようとした。が、そこでアラームが鳴った。仕方がない。電車の中で調べるか。そう思い、準備しておいた荷物を持ち、リビングでのんびりしている父に「行ってきます」と声をかける。


「いってらっしゃい、気を付けてね」

「ん。父さんも、ちゃんと昼食べろよ」

「うん、ちゃんと忘れないようにするよ」


 靴を履いて家を出る。目的地に向かうまでの間に薄暮駅近くの施設について調べた。へえ、室内アスレチックとかあるんだ。楽しそうだけど、行く人もいないし、一人で行くにはハードルが高すぎる。ふと、彼方を誘ってみようか、と思い至った。昨日知り合ったばかりだけど、今度誘ってみるか? 彼ならば断ることもしなさそうだし、何にでも楽しそうだと乗ってくれそうな安心感がある。彼のことはほとんど何も知らないけれど、なんとなくそう思った。

 薄暮駅に着いたので、降りる。待ち合わせ場所である東口の近くの柱にもたれかかって、着いた、とラインを送る。九時四十分。ちょうどいい時間だ。すぐに既読がついて、了解、という返信が来た。

 もう少しこのあたりについて調べておこう。そう思ってスマホをいじっていると、周りの空気が明らかに変わった。ざわりと色めき立つような声が上がり、小さく黄色い悲鳴が上がる。……嫌な予感がするな。


「着いたよ!」

「ああ、うん……」


 やはりと言うべきかなんというか、空気が変わった原因は彼方だった。そのまま雑誌のモデルができそうなお洒落な服装に、制服が入っているであろう紙袋を持って彼はやって来た。すらりとした脚に、人目を惹くスタイルの良さとモデルみたいな身長。そして、極めつけには凶器とも言える顔面の良さ。そこらの芸能人より完璧な存在だろう。何にもせずただぼうっとしているだけで、物憂げな青年で、絵画みたいに映える人間だろうに……。


「どうしたの? 早く行こうよ!」


 どうしたらこんなやんちゃなハスキー犬みたいに育つんだろう。俺の腕を引っ張って、「来る途中においしそうなものを見つけたんだ!」なんて言っている。まずは制服をクリーニングに出すのが先だろ。その荷物を持ち歩くつもりなのか、お前は。


「まずはクリーニング店行くぞ」

「あ、そうだったね。じゃあ、そのあとに行こうよ!」

「……なんか、テンション高くないか?」


 最初に会ったときは、なんか、もっと落ち着いていたような気がするんだけど。歩きながらそう言うと、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。


「ああ、友達と遊びに行くの、初めてで……なにか粗相したらごめんね」

「いや、別にいいけど……あ、クリーニング店ここ」


 店に制服を預けた後は、彼方の興味が向くものすべてに首を突っ込んだ。食べ物、小物、雑貨、……本当にいろいろな店に行った。普段は通り過ぎるような店も、気になっても今度でいいやと思う店も、いろいろ。どこに行っても彼方は注目を浴びて、一部の人からは連絡先を交換したい、なんて声をかけられていた。初めてこういうの生で見たなと思いつつ遠巻きに見ていると、彼はとんでもないことを言いだした。


「それ、もう知ってる。つまらないからどこかに行って」

「は?」

「え、なに怖……」


 初めて見たな、その断り方。何言っても付き纏ってくるのはいるから、あえて頭のおかしいヤツ感出したとか、そんな感じか? だとしたら大成功だよ。声かけてきた人たち、すぐどっか行ったし。

 すぐにぱっと表情を切り替えて、彼方が俺に話しかけてきた。怖いよ、お前が。いくら逆ナンに慣れていると言っても、切り替えが早すぎて怖い。


「冬くん、行きたいところある?」

「あー……ちょっとカフェかどっか行きたい。歩きっぱなしで疲れた」

「そっか? じゃあ、……あ、あそこは? 空いているみたいだから、多分すぐ入れるよ」

「じゃあ、そこで」


 彼方が指差したカフェに入り、店内を見渡す。先に席を確保しなくとも大丈夫そうだ。そう判断して、注文して支払いを済ませる。席について待っていてください、という店員の声に従い、適当な二人用の席に先に座った。後から来た彼方のトレーには、大量のお菓子が乗っていた。


「食べすぎだろ」

「どれも美味しそうだからね。このあと、ピザトーストも来るよ」


 さっき、鳥ネギ蕎麦とフルーツワッフルとチョコレートパフェ食ってなかったか? どこにそれが入る胃袋があるんだ。

 チョコチップクッキーが入っている袋を破ってもぐもぐと美味しそうに、幸せそうに頬張る彼方を眺める。見てるだけで腹いっぱいになってくる。店員が来て、俺のミルクティーと彼方のホットココアを置いていった。


「ン、なんふぁあぅ」

「食べてから喋れ。……連絡先っぽいの書かれてるけど」

「いらない。捨てといて」

「そうもいかないだろ、個人情報だし……そのままトレーに残しておくか」

「うん」


 連絡先が書かれている方を内側に折り、トレーの端に置いておく。彼方は、いつのまにか次のお菓子を食べようとしていた。次のお菓子は……バタークッキーか。


「僕、やってみたいことあるんだ」

「なに」

「都市伝説、試してみたい」

「……別にいいけど、でも、何もないと思う」

「なにもなかったらなかったでいいじゃん。あったらあったで楽しいし」


 そう言って、彼方はまたバタークッキーを齧った。

 カフェの中は心地良い騒めきで満たされていた。声を張らなければ相手の声が聞こえないというほどでもなく、声を小さくしなければ周りに聞こえてしまいそうなほどでもない。曲名も作曲者も知らないクラシックが静かに流れている。


「彼方って、どうやって書いてるんだ?」

「それは何? 執筆環境の話? それとも、どうやったらネタが思い浮かぶのかっていう話?」

「どうやったら書きたいものが思い浮かぶのか、っていう話」


 うーん、と彼が首を傾げる。三つ目の包装に手を伸ばしながら、彼は口を開いた。


「僕は、今まで読んできた話の中の、ここがいいな、って思うところを抽出してるよ。その抽出したものから『こういう設定なら、こういう人物ならどうなるかな』っていうのを書き留めておいて、それを組み合わせてる」

「なるほど? 自分の好きなものをアレンジして組み合わせたものを書いてる、っつーことか?」

「まあ、そうだね。どういう話が好きか、もっと言うと、どんな設定や展開が好きなのか。そういうのを深掘りしていくといいと思うよ」

「……それでも書きたいものがわからなかったら?」

「簡単だよ。自分の心が震えた話の二次創作を書けばいい。もしくは、自分の中の大きな出来事をオマージュした話を書けばいい」


 テーブルにピザトーストが乗った皿が来た。二人用の狭いテーブルのど真ん中に、厚めに切ったパンで作られた、チーズたっぷりのピザトーストがある。フォークやナイフが入っている細長い箱の傍らには、タバスコの瓶が置いてある。

 心が震えた話か。直近だと、彼方が書いていた話だな。あと、自分の中の大きな出来事と言えば……中三のときの修学旅行とか、昨日の学校祭とか? どうやってオマージュしろと。

 途方に暮れている俺の目の前で、彼方がピザトーストを手掴みで食べていた。フォークがあるんだから、それを使えよ。どうして手掴みで食べてるんだ。行儀が悪いなと思いつつも、こんな食べ方であってもどこか品の良さを感じさせる彼に感心した。


「彼方って、色恋沙汰とか興味ねぇの?」

「ないね。それほど重要性を感じないし、僕からしたら、趣味とかでやっているようにしか見えない」

「冷めてんなあ」

「冬くんはあるの? 恋人ほしいとか」

「あるけど、急いでない」

「でしょ? 恋を知らない僕たちは、恋をなんだか美しくて甘くて素晴らしいものだと思っているけれど、たぶん、そんな美しいものなんてこの世の中にないんだよ。……ン、トマト落ちた」


 ぼたりと落ちたトマトを指先でつまみ上げ、口の中に入れている。冷めてるな、本当に。もぐもぐと咀嚼を繰り返していた彼方が、突然思い出したように声を上げた。


「そうだ。それ関連で質問があるんだけど」

「なに」

「文通って、浮気だと思う?」

「……いやあ、浮気ではない、んじゃねえかなあ」

「たとえば、配偶者や恋人にする話よりももっと他愛なくて、くだらない話をするだけの文通だったら?」

「なおさら浮気ではないだろ」

「ところが、世間では浮気になるってジャッジする人もいるみたいだよ」

「へえ。肉体関係も愛を伝える言葉もないのに、それでも浮気になるんだな」

「らしいよ。なんでも、相手のことを思って手紙を書いて封筒に入れて、封筒に切手を貼ってポストに投函する、っていう行為の手間暇に好意があるってことらしい」

「はあ。ラインよりも面倒だけど、その手間も惜しまないくらい好きだからっつーことか」

「そういうこと。よくわかんないね」

「そうだな」


 現代において、時間をかけて手紙を書くことや、それによって完成した手紙に好意が表れている、という考えは、まあ、わからなくもない。だが、だからと言ってそれを浮気だなんだと騒ぎ立てるのも違う気がする。

 恋愛だとかそういったことにまったく興味がないというわけではなく、むしろ人並みかそれ以上に恋愛に興味はある。けれど、実際にあったらしいカップルのヤバい話や浮気されただのなんだのという話を耳にするたびに気が滅入る。そういったことで傷つくのなら、恋だの愛だのはいらないと思ってしまう。恋愛は素晴らしくて美しいものかもしれないが、少しでも自分が傷つく可能性があるのならいらないな、と思ってしまう。

 まあ、今はいいか。好きな人もいないし、そもそも俺モテないし。うだうだ考えていたって、どれだけ恋愛を忌避していたって、そのときが来たら恋をしてしまうんだろう。


「おいしかった!」

「それならよかった。……そういや、最近、この近くに室内アスレチックできたらしくてさ。今度暇なとき行かねえ?」

「いいね、行こう! 僕は大体暇だから、冬くんに合わせるよ」

「俺も大体暇だしな……んじゃ、来週の土曜は?」

「いいよ! また十時に薄暮駅で待ち合わせる? まだまだ行きたいところあるんだ」

「まだあるのか? いいけど……」


 やった、と彼は嬉しそうに笑った。

 数十分すると、彼は残っていたお菓子もすべて平らげた。本当に、どこにそんな胃袋があるんだ。腹が膨れている様子もないし……消化がとんでもなく早いとか、そんな感じなのか?

 立ちあがって、忘れ物がないか確認してから店を出た。外は少し赤みがかっていた。スマホで今日の日没時刻を確認する。ちょうど十分前だった。


「急がなきゃ。こっちだよね?」

「そうだな」


 目の前の信号を渡って、高架橋に向かう。嘘だとわかりきっている都市伝説を確かめるために足を少し早く動かす。なんだか青春みたいだと思った。

 すぐに高架橋に着いた。すぐ近くに大きな横断歩道があるからか、人通りはまばらだ。傾く夕日に照らされて眩しい。頬を撫でる風の肌寒さに体を震わせた。目を細めながらスマホを立ち上げて時間を確認すると、日没まであと一分だった。高架橋を見下ろしても、そこには人間しかいない。帰宅を急ぐサラリーマンや、一日を楽しんだであろう友達やカップル、家族連れが見えるだけだ。違和感のあるものは何一つない。

 やっぱりな。わずかに期待していたものが消え失せて、現実的な理性だけが俺の中に残る。


「どう? なにか見えた?」

「何も。だから言っただろ、ただの都市伝説だ、って、……」


 俺は振り返って、彼方に声をかけた、はずだった。俺の後ろから彼方の声がした。俺の後ろには、彼方がいるはずだった。

 そこには、人の形をした何かがあった。人間の形をしている。だが、その肌はひどい火傷をしたときのように赤いのに、つるりとしたなめらかさを持っている。異様な肌の色。そこに顔はない。物憂げな青年のような顔立ちは消え失せていて、顔があるはずのパーツの中心にこぶし大ほどの穴が開いていた。

 生理的な嫌悪にも似た恐怖が腹の底から湧き上がって、全身を駆けていく。喉が渇いて、うまく発声ができない。呼吸もままならなくて、自分がいま息を吐いているのか吸っているのかもわからない。逃げ出したいのに、目を逸らしたいのに、彼の顔の中心にある穴から目が離せなかった。

 パアッ、と鋭いクラクションが鳴った。視線が彼から音の発生源に向いた。若い男女が横断歩道のない道路をパタパタと横切って行ったのが見えた。体から零れ落ちそうなほど心臓が大きく跳ねる。落ち着く気配はない。恐る恐る視線を元に戻すと、そこには彼方がいた。


「都市伝説、本当だったみたいだね」


 彼方は静かに微笑んだ。寂しそうだと思うのは、気のせいだろうか。


「あれ、本当にお前か」


 情けないくらい震える声でそう聞くと、彼はただ頷いた。そうか、と返事とも独り言とも取れる声が漏れた。なんだか立っていられなくなってきて、その場にしゃがみ込んだ。ざり、と靴底と砂利が擦れ合う音がする。彼方も同じように俺の目の前にしゃがんだみたいだった。


「お前、なんなの」

「知りたい?」

「知りた、……いけど、知ったら死ぬとか食われるとか、呪われるとかねぇよな……?」

「僕を何だと思ってるの? さっきいろんなもの食べたの、見てたでしょ」

「いや、そうだけど、お前のこと何も知らねぇんだから仕方ねぇだろ……」

「話してもいいけど、できるだけ人目のないところがいいな。冬くんの家でもいい?」

「いいわけねぇだろ……」


 なんでお前のことを怖がってる人間の家に行こうって言えるんだよ。おかしいだろ。

 一度落ち着こうと思って深呼吸する。冷たい空気が肺に入って、頭が少し冷えたような気がした。


「公園はどうだ。この時間なら人が少ないだろうし、住宅街の中の小さい公園だったら、人がいないかもしれない」

「じゃあ、そうしよう。……えっと、歩ける?」

「ああ、まあ……うん」


 別に腰が抜けたわけではないのだが、心配してくれたらしい。もう一度深く呼吸をして立ち上がった。

 グーグル先生に従って着いた公園には誰もいなかった。ベンチに座ろうと思ったが、彼方は迷わずブランコの方に行って座った。仕方がないので、俺も隣のブランコに座った。

 年季の入ったブランコは頼りなく、錆びついた鎖が擦れ合う音が耳元で響いて、少し不快だ。けれど、彼方は楽しそうにブランコで揺れている。


「どこから話したらいいかわからないから、冬くんに任せるよ。何から聞きたい?」


 その言葉を皮切りに、一つ一つ質問していった。何なのか。何の目的でここにいるのか。それに、人間でないことをなぜ自分から明かしたのかも。狼狽する俺とは反対に、彼方は淡々としていた。懺悔室で滔々と罪を吐き出すひとの言葉を受け止めるように。

 彼方の話をまとめると、こうだった。彼は人ではなく、俺の知らない何か――一応名前というか、種族名らしき何かは聞いたが、全くわからなかった――であること。人間に擬態して、多くの物事を知るために来たこと。多くの創作物が存在し、ご飯も美味しく、自分を許容してくれる可能性の高い日本を選んだこと。スムーズに事が運ぶように、より多くのことを知ることができるように人から魅力的に思われるような容姿を選んだこと。


「なんでここだったんだよ」

「ここには、ある都市伝説があるから」

「さっきの?」

「そう。それによって、僕の目的を果たせる協力者を作ろうと思って」


 目的。彼がさっき言っていた、「多くの物事を知るため」だろうか。けれど、それに協力者なんて必要ない気がする。


「僕の目的はふたつ。一つは、さっき言った通り、たくさんのことを知ること。もう一つは、多くの物語を読むため」

「……お前、物語が好きなの?」

「うん。日本語を学んでいるとき、たくさんの物語を読んだんだ。僕はね、もっと多くの物語を読みたい。プロからアマチュア、SF、恋愛もの、ミステリー……たくさん読みたい。日本語だけでなく、多言語の本もね」


 かなりの本好きだったらしい。国立図書館とか行ったら、喜んで端から端まで読みそうだな。

 少し緊張が和らいできた。と同時に、ふっとある質問が湧き上がってくる。


「お前、家とかは? いつになったら帰るとかあんの?」

「家? 寝る必要ないし、そこら辺でぼんやり過ごしてるよ。帰るのは……ないかな。いつ帰るとかもないよ」


 そうなんだ。……そういえば、コイツって、何から生まれてきたんだろう。両親とかいるのか? それとも分裂? ……まあ、別にいいか。

 街灯と月明りが公園を不気味に照らす。光と闇の境界が曖昧で、それがより不気味さと得体の知れなさを強調させた。


「それで、冬くんにお願いがあるんだけど」

「なんとなくわかってるけど……一応聞く。何?」

「僕の協力者になってほしい。具体的に言うと、いろんなところに行ったり、教えたりしてほしい。あと、欲を言うと、君の書いた話を読みたい」

「……それを受け入れる代わりに、俺からもひとつ、お願いしていいか」

「もちろん。何かな」


 彼の顔に空いていた穴。火傷のような赤色。悪夢に出てきそうなほど鮮烈に刻みつけられた記憶。……今思い出しても呼吸が浅くなる。彼が人間でないという事実を突きつけられたとき、ある欲が生まれたのを感じていた。

 絵に描いたような男がゆるく口角を上げながら俺を見つめる。彼の顔から目を逸らした。不気味なほど魅力的だ。けれど、恐ろしいとさえ感じるのは、彼が人間じゃないとわかったからだろうか。

 その願いを声に出すことに少しだけ躊躇いを覚えた。口に出してしまったら、もう取り返しはつかない。やらなければならない。それに、さすがにそれは、と断られる可能性だってある。

 けれど、ここまで言っておいて、やっぱなんでもない、と言う勇気もなかった。彼の顔に目線を戻す。これは、彼の顔を見て言わなければならないことだ。


「お前を題材に、小説を書きたい」


 彼は目を見開いた。予想していない言葉だったらしい。彼の口は戸惑ったように「ええと」と言葉を零した。だが、少しすると、くふふ、と堪えきれない笑いが聞こえてきた。


「ふ、ふふ……冬くん、面白いよねえ。普通さ、殺さないで、とか言うところでしょ」

「は? ……ああ、まあ、……そうかもしれないけど、お前に敵意とか害意とかがないのはわかったし……それに、俺を殺したら、また一から協力者探しだろ」

「こんな状況でも冷静だね。いいね。なんで僕を題材にしようと思ったの?」

「俺の中での大きな出来事はお前と出会ったことだから。こんな経験、そうそうないだろ」

「たしかにそうだ。僕みたいなのと出会えるのは、ツチノコを見つけるのと同じくらいの確率だ。ああ、そうだ。僕を題材にするのは全然オッケーだよ」

「ん。じゃあ、……交渉成立、っつーことで」


 彼方は、うんうん、と満足そうに頷いた。外はもう暗くなっていて、スマホを見ると、リマインダーの「バター買ってくる」と父からの「もうそろそろ夕飯だけど、まだ帰ってこない?」というラインの通知が来ていた。もうそんな時間か。ラインに「バター買ったら帰る」と返信して、駅前のスーパーまでの道のりを頭の中で確認する。……まあ、買うのはバターだけだし、そんな遅くはならない、はず。


「彼方、俺もう帰るわ」

「わかった。次いつ会える?」

「次は……月曜、じゃなくて、火曜か。火曜だと思う」

「そっか。じゃあ、また火曜日ね」

「ああ。気を付けて帰れよ」


 そう言ってその場で別れた。少し歩いてから気が付いたが、彼方は家に帰るわけじゃないから、気を付けて帰れよっていうのは変だったか。でも、まあ、言っちゃったものは仕方がない。

 信号待ちのときにスマホを開くと、新しい通知が来ていた。彼方からだ。


『気を付けて帰ってね!』

『今日、すっごく楽しかった!』

『これからもよろしくね』


 そのラインにいくつかのスタンプで返事した。スマホをポケットにしまってから今日の出来事を反芻する。あそこ行ったな、ここ行ったな、彼方はずっと何かしら食ってたな、とか。……そういえば、彼方の金ってどこから湧き出てるんだ。今日の飲食代だけでえげつない金額になってそうなんだけど。バイトしてるわけでもなさそうだし……え、マジでどこから来てんの? 偽造してたりする?

 ……考えるのやめよう。藪はあまりつつかない方がいいだろう。どんなヤバいことがあるかわからないし。それに、彼が法に触れた何かをしていたと知ったとき、俺は何をしていいかわからない。警察に行ってもどうにもならないだろうし、裁判とかになっても……待てよ。アイツ、戸籍あるのか? ダメだ。なんか、一回気になったら全部気になる。

 スーパーに着いたので、バターだけを手に取ってセルフレジで会計を済ませて退店した。電車に揺られているときも、なにかしらずっと考えていた。考えないようにしていても、ふっと思い浮かぶのは彼方に関係することばかりだ。困る。というか、今日の日記どう書けばいいんだ。友達が人間じゃありませんでしたって馬鹿正直に書く? それとも、今日のことは何があっても忘れなさそうだから書かないとか? いや、大まかなことは思い出せても、きっと、細かいことは忘れてしまう。なら、書いたほうがいい。

 SNSを開いて、友達が人じゃなかった、と打った。……字面やべぇな。まあ、だれが見てるわけじゃないし、でも、まあ、……一応鍵アカウントにしておくか……。

 今日の出来事を思い出せるだけSNSに放流してアプリを閉じた。最寄り駅に着いて、改札を通って、いつもの道を歩いていく。

 家の鍵を開けて入ると、ふわりと夕食の匂いが漂ってきた。……ケチャップの匂い、か? いや、ケチャップが焦げた匂い……? ケチャップライスかオムライスあたりだろうか。ナポリタンではなさそうだ。夕食の内容を推測しながらリビングに行くと、父と母が先に夕飯を食べていた。


「おかえり」

「ただいま。何食ってんの」

「オムライス。お昼に見た番組で、失敗しないオムライスの作り方やってたから、作っちゃった」

「作るのはいいけど、あとでちゃんと片付けなさいよ」

「わかってるって」


 買ってきたバターを冷蔵庫にしまって、手を洗ってから食卓に着いた。いただきます、と手を合わせてからオムライスを食べはじめる。卵とケチャップライスを乗せたスプーンを口に運んで咀嚼する。……うん、美味しい。卵は固くないし、ボロボロになったり破れたりしていることもない。綺麗に包まれた鮮やかな赤色と黄色とが美味しそうに煌めいている。

 空腹だったこともあり、すぐに食べ終わった。先に食べていた両親とほぼ同じぐらいに食べ終わったので、三人分の食器をまとめてシンクに下げた。俺のすぐ後に父が来て、食器を洗い始めた。

 いつもはすぐに歯を磨く母がソファーでのんびりしていた。ああ、明日休みか。俺もソファーに座り、スマホを開いた。明日何しようかな。今日はいろいろなところに行って疲れたから、昼まで寝るか。

 ぼんやりスマホをいじる。どうやって話を書けばいいんだろう。彼を題材にしたいとは言ったけれど、どんな話にすればいいんだろう。そもそも、話を書く媒体は? パソコンじゃないとダメなのだろうか。それとも、スマホでも書けるのか?

 疑問を抱えたままスマホとにらめっこする。……聞いたほうが早いな、これ。そう判断して、彼方とのトーク画面を開く。書く媒体について聞けば、スマホにデフォルトで入っているメモアプリでも書けるよ、とすぐに返信が来た。……どっかのフォルダにしまい込んだ気がする。探し出し、フォルダから出した。アプリを開いたところで、彼からまたラインが来た。


『もし何をどうやって書けばいいのかわからなかったら、まずは登場人物とか世界観の設定とかを先に考えてみるのもいいと思う』

『それに、設定やある程度のプロットを考えておいたら矛盾が生じにくいよ』


 そのアドバイスになるほど、とうなずく。たしかに、初心者の俺が思いつくままに書いていったら支離滅裂になることは火を見るよりも明らかだ。彼のアドバイスに従って、まずは設定、そして、そこからなんとなくのストーリーの流れを書き込んでいった。


「もうそろそろ寝たら?」


 母のその呼びかけに俺は顔を上げた。夕飯を食べ終えてから二時間ほどが経過していて、驚く。こんなに集中していたのか。自分が書いたものを見返すと、かなりの量になっていた。書く必要があるのかわからないほど細かな癖やこだわりも書いていたからだろう。

 俺は一度スマホを閉じてテーブルに置き、寝る準備をすることにした。風呂は……いいか。明日起きたらシャワーしよう。

 一通り寝る準備を済ませ、自室に向かう。スマホを開くと、すぐにメモアプリが立ち上がった。せめてプロットを書き終えるくらいまでやろう。そう決め、取り掛かった。

 

 ぼんやりと意識が目覚める。全ての輪郭が曖昧で、心地よい微睡みの中にいることをなんとなく理解した。今何時だろう、と思いながらスマホを開くためにボタンを押す。

 反応がない。いつまで経ってもスマホの画面が光を放つことはなく、シンとしている。違和感を抱き、カチカチと何度もボタンを押すが、それでも反応がない。

 あ、充電切れてんだな、これ。そう思い至り、充電ケーブルをスマホと繋ぐ。ようやく反応を示した画面は充電切れを示していた。意識は完全に覚醒したが、時刻は不明のまま。部屋に他に時計はないし、スマホもしばらく起きる気配がない。……リビング行くか。腹減ってきた。

 あくびしながらリビングに行くと、既に母が起きていた。父はまだ起きていないらしい。


「おはよう。昨日のケチャップライス残ってるけど、チンして食べる?」

「うん。それ食べるわ」

「あ、今日外出る予定ある?」

「ないけど」

「じゃあ、お使い頼むわ。トイレットペーパーとティッシュなくなりそうなの」


 え、話聞いてた? 外出る予定ないって言ったじゃん。そう思っても、母は有無を言わせず「頼んだ」と俺に財布を押し付けた。

 こうなっては仕方がない。ご飯食べたらシャワーして、準備して……そうだ、ついでだし、彼方の行きたいところ行くか。休日にしては早めに起きられたし。

 ラップをかけたケチャップライスをレンジに突っ込み、適当な時間に設定して温めはじめる。その間にラインを……と思ったけど、いま充電中か。手持ち無沙汰のままぼんやりとテレビを眺めていると、少し遠くの大きな公園でやっている催しを中継していた。たくさんの露店があって、楽しそうだ。……ここ行くか? 定期の区間外だけど、それほど料金はかからないし。食べ終わったら誘ってみるか。

 チン、と高い音が響いた。レンジの中から湯気が立っている皿を取り出して、ラップを取り除く。スプーンと共にテーブルに運び、手を合わせて食べ始める。


「買い物ついでにそこ行って来る」

「そこ? ……え、遠くない?」

「電車で一本だし、すぐだよ」

「そう? まあ、帰るとき連絡しなさいね」


 それに適当な返事をして、ケチャップライスを食べ進める。テレビの中継に映った人形焼きを見ながら、これ彼方食べそうだな、と思う。食べ物ばかりかと思ったが、ヨーヨー釣りや射的なんかもあるらしい。季節外れの縁日みたいだな。一応、「秋祭り」という名目らしいが。


「ごちそうさま。シャワーする」

「ああ、昨日風呂入んなかったもんね」

「ん。……あ、トイレットペーパーとティッシュ以外に買ってきてほしいものあったらメモしといて」

「あー、確認しとくわ」


 シンクに皿を下げ、水で満たしておく。一度自室にも度り、スマホを確認する。少し充電できていたので、ケーブルに繋いだまま彼方のラインに遊びの誘いを入れる。シャワーが終わったら確認しようと思っていたのに、すぐに既読がついたし、着替えを準備してからもう一度確認した時には、「もちろん行く!」という返信が来ていた。


『じゃあ、公園に近い更級駅集合でいいか?』

『いいよ! 何時集合にする?』

『十二時半ぐらいで』

『了解!』


 突然の誘いにもこうして乗ってくれる彼はかなりフットワークが軽いし、いいやつだよな。そう思いながらスマホを閉じて、シャワーを浴びに行った。

 一時間もすれば外出の準備が整った。そろそろ出かけるかと立ち上がると、父がのそのそ起きてきた。


「あれ、また出かけるの」

「まあ」

「珍しいね、二日連続でどこか行くの。気をつけて行ってくるんだよ」

「ん。じゃあ、行ってきます」


 カバンを持って家を出た。電車の行き先をグーグル先生で確認してから乗る。秋祭りがあるからだろうか。電車の中は少し混んでいて、座れなかった。

 吊革を掴んで電車に揺られる。スマホには、着いた、という彼方からの連絡が来ていた。早いな。……アイツ、普段どこにいるんだろうな。なんか、前に午前五時とかでもいいよっつってたよな? どこにいて、何を移動手段にしてるんだ。考えれば考えるほど謎が深まるな。

 更級駅に着くと、一気に人が降りて行った。マジか、これ全部秋祭りが目的の人だかりか。ちょっと憂鬱になってきたな。

 改札を通って、壁際でスマホを開く。どのあたりにいるのか聞こうとしたが、既に彼方から連絡が来ていた。


『二番出口にいるよ』


 俺が到着するのを見計らったようなタイミングで来ていたそれに今行く、と返信する。二番出口か。秋祭りに行くなら、たしかにそこが一番近いな。というか、反対側の改札から出たほうが早かったな。失敗した。

 二番出口に向かうと、やはりと言うべきかなんというか、彼方がナンパされていた。前回と違うのは、ガン無視しているところだろうか。ガン無視されているのにも関わらず、懸命に話しかけている女性が健気というか、少し可哀想というか……。何もしていなくても目立つのに、ナンパのせいで更に目立っている。俺、あそこに行けねぇよ。無理。目立つじゃん。

 どうするかな、と思案していると、突然彼方がスマホから顔を上げた。少し辺りを見渡して、それから、俺のほうを見た。勘違いとかでなく、確実に俺を視認した。だって、めちゃくちゃ真っ直ぐこっち来てるから。


「遅いよ」

「遅くはねぇだろ。時間前だわ」

「ほら、行こうよ。いっぱいご飯あるんでしょ? 楽しみだなあ」


 少し強引に俺の腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張る彼方。さっきまで彼方をナンパしていた女性が俺を見て、すれ違いざまに呟いた。


「ああ、そっちか」


 それに引っ掛かりを感じたが、どういうことですか、とすれ違う一瞬で聞けるわけもなく、俺は彼方に引きずられるようにその場を後にした。


「あんなにしつこいのは、さすがに初めてだったなあ」

「お前、その顔やめたら? 別のにしろよ」

「えー。人に不快感を与えない、魅力的な容姿なのに。まあ、こういうのが続くようだったらやめるかも」


 駅から出ても人は多くて、半分流されるように公園へ向かう。少し進んでは止まり、進んでは止まるを何度も繰り返す。周囲は騒めきで満たされていた。


「あと、さっき女性が言ってた言葉の意味、わかる?」

「ああ、それな……俺もよくわからない」


 彼方が言っているのは、「ああ、そっちか」という言葉のことだろう。どこか落胆や蔑みを持ったような呟きを頭の中で反芻する。

 ……この言葉だけじゃ判断できないな。この前の言葉もないと。


「彼方、お前、あの人とどんな会話をしたんだ」

「ええと……大切な人が待っているので、やめてくださいって言った」


 俺は頭を抱えた。なんでそんないい方したんだ。彼方の言い方は、恋人を待つ人の言葉そのものだ。もしかしなくとも、あの人は、俺たちがゲイだと思ったんだろう。


「彼方、なんでそんな言い方したんだ……」

「前にこの断り方を見たんだ。今まで友人がいなかったからこの断り方はできなかったけれど、冬くんがいるからやってみたくて」

「ゲイに間違われるからやめた方がいい」

「ゲイ? ……ああ、なるほど。人間って、性的嗜好や恋愛嗜好にも名前をつけてカテゴライズするんだったね。でも、それがナンパをやめる理由にはならない気がする。だって、ゲイであっても異性との結婚をしている人がいるのに。どう思う?」

「俺に意見を求めるな」


 ゲイでもなんでもない俺が考えるには重すぎるテーマだ。そういうのは、それがテーマの授業とかのときじゃないと考える気になれない。

 公園が見えてきた。秋祭り、と書かれたアーチが小さく見える。


「そういえば、設定とかプロットはできた?」

「ああ、大体は」

「見てもいい?」

「別にいいけど……」


 スマホを起動させて、パスワードを解除してから彼に手渡す。信号待ちのときに見るらしい。話し相手を失い手持ち無沙汰になった俺は、ぼんやりと目の前を通る車を眺めた。


「はい、読んだよ。ありがとう」

「もう読んだのかよ」

「うん。すごくいいと思う。いつ書き始めるの? 早く読みたい」

「ど素人に期待するなよ。いつ書き始めるとかは……書き方もよくわかんないし……」

「じゃあ、いま書き始めよう。この近くのカフェとか、そういうところ行って書き始めよう」

「は、……いや、秋祭りは?」

「そんなの後でいいよ。また来年もやるんでしょ? 次があるものよりも、僕は、冬くんが書いた話を早く読みたいんだ」


 人混みから俺を引っ張り上げて、人通りの少ない道端で立ち止まった。どこに行く、とでも聞きたげな、楽しそうな表情で俺を見つめた。

 これは何を言っても無駄だな。そう察した俺はスマホを開いた。昼間とはいえ、この時期になると少し肌寒い。風邪という概念が彼方にあるのかはさておき、人間である俺がいつまでも外にいたら、まず間違いなく風邪をひいてしまう。近くのカフェやファミレスを検索する。長居できて、かつ、料金が安いところ。そうなると、サイゼかネットカフェか。サイゼは前行ったし、ネットカフェの方がいいか?


「彼方、ネットカフェ行ったことあるか?」

「ううん、ない」

「じゃあ、そこ行くか」

「また新しいところだ! やっぱり、冬くんがいるといろんなところに行けるね」


 楽しそうに笑う彼が「どっちに行けばいい?」ときょろきょろする。グーグル先生のナビに従って、ネットカフェに向かうために歩き出した。


 ネットカフェって、こんな感じなんだな。俺もネットカフェに来るのは初めてで、案内された部屋を見渡す。

 靴を脱いで上がれるようになっていて、テーブルにはパソコンが置いてある。想像していた狭い部屋とは異なり、男二人がゆっくりしても大丈夫そうな大きさの畳の部屋に、丸いテーブルが置かれている。パソコンと椅子だけが置かれているブースを想像していた。彼方は積まれている座布団に目をつけ、その上に乗り始めた。そんなことするのは、お前と小学生ぐらいだよ。


「さっきあったマンガ、全部読んでもいいの?」

「ああ、うん。いいと思う。でも、片っ端から持っていくのはやめろよ」

「じゃあ、そこら辺見てくるね!」


 元気に部屋を飛び出していった彼方を見送り、スマホを開いた。

 何をどこから書けばいいんだ。登場人物の設定も世界観も、話の流れも大体考えた。きっと、書き始めればあとはプロットに沿って書いていけばいいから楽なんだろう。でも、その書き出しで躓いている。

 俺が書こうとしている物語は単純だ。なんの取り柄もない普通の男子高校生が恐ろしいほど美しい同級生と出会い、仲を深めていくうちに、同級生が人間でないということに気が付くという話。同級生から投げかけられる純粋な質問に答えたり考えを巡らせたりしていくうちに、男子高校生は無意識に自分の中に存在していた偏見に気付いていく。

 ほとんどはここ数日の俺と彼方のことだが、いくつか違うところがある。この中に出てくる同級生は文芸部じゃないし、俺はこの中の男子高校生ほど偏見にまみれていない、と思う。

 ここまでは考えたけれど、終わりは決まっていないし、断片的に浮き上がってきている書きたいシーンばかりが先行して、うまくまとまらない。

 きっと、彼方はこうじゃないんだろう。最初から最後までしっかりと書きたいものがあって、最初からまとまっている。すごいな。……それが経験者と初心者の差だと言われればそれまでだけれど。

 ブレそうになる思考を深呼吸で整える。あとでいくらでも書き直しすればいい。とりあえずいまは書き始めてしまおう。そう決めて、メモ帳に書き始めた。


 バッテリー残量が少なくなっています。そのポップアップでハッとした。かなり没頭していたらしく、突然喉の渇きが俺を襲った。いつもは煩わしく感じるポップアップに助けられた。このまま続けていたら、脱水になっていたかもしれない。


「休憩? 冬くんの分の飲み物も取ってきたけど、飲む? お茶でよかった?」

「え、……あ、ああ、うん、大丈夫。ありがとう」


 グラスの中で揺れる茶色の飲み物を傾けて、一気に飲み干す。正直、すごく助かる。取ってくるのが億劫だったから。腹の奥の奥まで水が行き渡る感覚。すっかり空になったグラスをテーブルに置き、体を伸ばした。縮んでいた筋肉がほぐれていく。


「そういえばさ、彼方って、なんでその名前にしたんだ?」

「どうして小鳥遊彼方っていう名前にしたのかってこと? まず、小鳥遊って、『鷹がいなくて小鳥が遊べる』から『たかなし』でしょ? 面白いじゃん。それに、すごく遠くのことを言う言葉が『彼方』だよ? すっごく綺麗で、素敵だなあって思ったから」

「へえ」

「冬くんは? どうして『冬』っていう名前なの?」

「……いつでも冷静な人間でいられるように、だってよ」

「なるほど。だとしたら、その通りになってるね」

「そうか?」

「そうだよ。僕のこと、冷静に受け止めてくれたでしょ」


 そう言われてみればそうか。いや、内心全然冷静じゃなかったけど。でも、まあ、そう見えたのならいい……か?

 カバンの中からケーブルとモバイルバッテリーを探して、スマホと繋ぐ。かすかな震えと共に、充電が開始されたことを知らされた。


「どれくらい書けた?」

「まだまだ。半分もいってない」

「書くの早いね。まだ一時間とか二時間しか経ってないのに」

「ああ、まあ、……書き直したりとか、そういうのは後でやればいいか、って」

「なるほどね。でも、それ抜きにしても早いと思うな」

「そうか? まあ、……ありがと」


 褒められるとは思っていなくて、ぼそぼそとした声になってしまった。そんな声も拾い上げて、彼は「どういたしまして」と笑った。

 また書き始める。一度集中が途切れたからか。さきほどまでの勢いを失い、だらだらと書き進めていった。一文書いては「なんか違う気がする」と消し、一行書いては「説明っぽい口調な気がする」と消す。さっき自分が言った「書き直したりは後でいい」はどこに行ったんだ。

 スマホを放って畳の上に寝転がる。座布団を手繰り寄せ、枕代わりに頭の下に置いた。

 一度開いていたメモを閉じて、設定やプロットを見直した。ここまで書いた。このシーンを入れたいけれど、無理に入れればそれまで作り上げてきた空気がぶち壊しになる。どうすればいいんだ。入れたいシーンを無視して進めるか?


「煮詰まってるなら、遠慮なく聞いてよ」


 その声に頭を上げた。なにかのマンガを開いている彼方が逆さまに微笑んでいる。


「入れたいシーンが入らないとき、どうする? 無理に入れたら空気ぶち壊しのとき」

「入れても違和感ないようになるまで話を繋げる。もしくは、また別の似たような話のときに入れる」

「似たような話?」

「僕が書いているのは、ほかの誰でもない、自分が読みたい話だからね。だから、また別のキャラクターが同じような世界を生きる話を書く。そのときに入れるんだよ」


 俺自身がこの話を読みたいのかと問われたら、微妙だ。読みたい気持ちはあるけれど、いくつも似たような話を書くほどじゃない。

 それなら、入れても違和感がないようになるまで書いたほうが無難か。そう判断し、彼方に礼を言ってからまたスマホを手に取った。

 ときどき手が止まることはあれど、それなりに書き進められていると思う。消すかどうか迷ったとしても、「もう書いたんだから、直すのは今度にしろ」と言い聞かせてそのまま書き進めた。

 気が付いたら、もうプロットの最後の方まで書いていた。一度手を止めて、最初から最後まで読んでみる。注意していたから、ぱっと読んでわかるような矛盾は見つからない。

 ただひとつ不安なのは、これ、面白いのか? という疑問。コミカルに書かれているわけでもなく、ただただ淡々と話が進んでいく。今いる場所は明記されているしわかるけれど、それ以上の情景描写がない。主人公である男子高校生の心情ばかりが描かれていて、場面に鮮やかさがない。

 こうして読んでみると、足りないところばかり目について気が滅入る。最初から彼方のように書くのは無理だとわかってはいても、ここまで差がついているとわかると、軽い絶望のような何かが湧き上がってくる。

 それでも、最後まで書こう。下手なのは最初からわかっていたことだ。絶望したって嫌になったって、ここまで書いたんだから、書き上げないと損だろ。


「っはあ、おわった……」

「終わった!? 見せて見せて!」

「まだもーちょい。誤字脱字確認したらいいから」


 スライディングかのような勢いの良さで俺のすぐ隣まで来た彼方。待てを命令された犬のようにそわそわしているのが手に取るようにわかった。

 誤字脱字と、ついでにちょっとした言い回しを確認してからスマホを彼方に手渡した。じっと食い入るように画面を見つめている。

 俺は起き上がって体を伸ばした。長い間畳に寝転がっていたせいで、背中が痛い。あと喉も乾いた。お茶を取ってこようとグラスを探す。グラスにはすでにお茶が入っていた。


「彼方、このお茶俺の?」

「んー……うん、冬くんの」


 その返事を聞いてからグラスの中のお茶を飲んだ。半分ほどなくなったそれを飲み干すか一瞬だけ迷って、やめた。……トイレ行ってこよう。

 トイレを終えてマンガを一通り見てから戻ってきても、彼方はまだ読んでいた。設定とかプロットとかは読むの早かったくせに、これは遅いのか。俺の文章が読みにくいってことか? ……いや、勘繰るのはよくない。後で聞けばいい話だ。

 いつ読み終わるのかわからないので、彼方が持ってきていたマンガを手に取った。知らないマンガだ。表紙を目でなぞってからひっくり返して、あらすじを読んでみる。ちょうど一巻だったので、そのまま読んで待つことにした。


「はあ! すっごい! ね!」

「うわ、びっくりした」

「ねえ本当に初めて? 面白かった! すごい!」

「え、……いや、それはない、だろ。だって、情景描写が少ないし、地の文とセリフの割合が偏りすぎてるし、何を言いたいのか、伝えたいのかわからない文だし、」

「そうかもね。冬くんが初めて書いた話だから、自分の中で納得いってないところがたくさんあると思う。あれが足りない、これがおかしいっていう反省はいくらでもあるかもしれない。でも、僕はこの話が面白いと思ったし、素敵だと思ったし、こんなに短時間で書き上げられるのがすごいと思った。ねえ、何文字か確認してみてもいい?」

「いい、けど」


 彼方は、俺の許可を取ってすぐにサイトを検索してコピペした。文字数をカウントすることに特化したツールらしく、すぐに全体の文字数とセリフと地の文の文字数まで出てきた。


「五千八百二十四文字。冬くんは、たった三時間ちょっとでこんなに書けたんだ。すごいと思うよ」


 そう言われて、なにかがじわりと心の中に広がったような気がした。うれしい。彼がお世辞でこんなことを言うような人ではないとわかっているから、なおさら。これは彼の素直な賛辞だ。まっすぐだからこそ、受け取るのに少し躊躇してしまう。調子に乗りそうで。


「その、アドバイスとかはないのか」

「どの観点から欲しいかにもよるなあ。僕は専門家じゃないから、アドバイスする立場にもないし。それに、僕は冬くん自身の文体が好きだから、下手なアドバイスをしてそれを壊したくないし」

「なんか、なんかないのか」

「ないねえ。切磋琢磨するのもいいかもしれないけど、僕、平和主義者だから。競い合うより、褒めあう方がいいなあ」


 俺もそっちの方がいいけど、なんかないのか、本当に。そう聞くと、今度は賛辞の詳細が返ってきた。ここがよかった、この文のここが、とか。もうやめてくれ。ここ最近そんなに褒められたことないから、恥ずかしくて死ぬ。なんでそんなにつらつらと誉め言葉が出てくるんだ。

 一段落したらしい彼方が、ふう、と息を吐いた。


「次は何を書くの?」

「は? いや、まだなにも決めてない……」

「じゃあ、決めた世界観で一緒に話を書いてみない? 決めるのは世界観だけで、どういう人がいるのか、どういうジャンルの話なのか、そういうのはそれぞれに任せる感じで」

「なるほど……いいと思う。どんな世界観で書くんだ?」

「未定。次の登校日のときまでに決めておくね。冬くんも、何か案があったら教えて」

「了解。……どうする、秋祭り行く?」


 まだ露店はやっているだろうし、ピークを過ぎたこの時間なら、人も少ないだろう。そう踏んで提案した。


「行きたい! いろんな食べ物があるんだよね?」

「そのはず。じゃあ、会計して出るか」


 マンガを元の場所に戻したり、後片付けしたりして会計してから退店した。秋祭りに向かうと、思っていたよりも混んでいた。けれど、昼間ほどじゃない。露店の端から見ていくことにした。


「これは知ってるけど……これは知らないなあ。おにいさん、この人形焼きください!」


 一つ目の露店でなんか買ったな。まだまだ露店あるんだけど。できたての人形焼きがいくつか入った袋と小銭を交換している。


「ひとつ食べる?」

「食べていいのか?」

「ダメだったら言ってないよ。どうぞ」


 お言葉に甘えて、袋の中に手を突っ込んで一つをつまんだ。口の中に入れれば、ほどよい甘みが口に広がり、容赦なく口内の水分を奪っていった。……飲み物の露店見つけたら、なんか買うか。

 彼方は露店の出し物ひとつひとつをじっくりと見ては頼んで、食べたり遊んだりしていた。彼は、型抜きやヨーヨー釣り、金魚すくいといった縁日のようなものばかりやっていた。意外だったのは、くじ引きにほとんど興味を示さなかったことだ。

 一度手がいっぱいになったので、露店の裏側に退けた。もぐもぐと口いっぱいに物を食べる姿はリスを彷彿とさせる。


「彼方ってさ、性別あんの?」

「ないよ」


 予想通りの答えが返ってきた。特に会話を広げる気もなかったのでそのまま黙っていると、「冬くんは?」と聞かれた。


「男だよ。見りゃわかるだろ」

「うん、まあ、そうか。そうだよね。じゃあ、普段、自分は男だって意識を持ちながら生きてる?」

「……言ってる意味がよくわからんけど、どっちかっつーと、俺は俺って感じで生きてる」

「だよね。僕も似たようなものだよ。僕に性別はないし、この男性の容姿もなにか特別な理由があって選んだわけじゃない。ただ、僕という自我が僕を形作っているだけ。僕も冬くんも、男とか女とか特に気にせず生きている。でも、人間の冬くんと違うのは、容姿を選べる点かな」

「……よくわからん」

「あはは、だよね。僕も言っててよくわかんなくなっちゃった」


 くしゃりと袋を潰した彼が笑う。残りは、プラスチックのコップに入ったザンギか。


「お前、どうやって増えるの」

「繁殖方法のこと? いつの間にか増えてるからわからないなあ」

「金持ちに金の増やし方聞いたときみたいなトーンだな。分裂ってこと?」

「そうなるね。でも、思考が分裂して僕のクローンが増えるわけじゃなくて、独立したひとつの自我が芽生えるんだよね。どうしてそうなるのかは生命の神秘って感じ」

「へえ……」


 そんな感じなんだ。正直、「全然想像はつかないけどなんかわかる」って感じだな。言われてみればそうかもな、って感じ。

 ザンギの油でテカっている形のいい唇が「食べ終わった」と動いた。……なんか、化粧品のCMでもできそうな唇だな。リップでもなんでもなく、油のテカリだけど。

 また歩き始めては注文して食べ、遊びを繰り返す。俺もなにか食べようかと思ったが、彼方が何かしら少しずつくれるので、食べる気が失せてしまった。あと、めちゃくちゃ食べるヤツが目の前にいるからっていうのもある。見てるだけで腹がいっぱいになる。

 ようやく一周する頃には、いくつかの露店が後片付けの準備を始めていた。親から頼まれた焼きそばをはじめとしたいくつかの袋を手に持ち、彼方が食べ終わるのを待つ。

 ぼんやりと露店を眺めていると、「花くじ」という文字が目に飛び込んできた。彼方に一言かけてからその露店に近付くと、閉店時間が近いためかセールしていた。


「お兄さん、やります?」

「え。あ、あー……やります」


 周りとは違うものを景品にしているという物珍しさで来てしまっただけなのだが、そう声をかけられて断ることはできなかった。

 半額だったのもあり、五回やることを告げて、料金を支払う。百均で購入したような安っぽい箱の中に手を突っ込み、紙きれを五枚取り出す。取り出したものを店員に渡して、言われるがままの景品をもらった。大きな花束と、可愛らしいクマのぬいぐるみと共にいくつかの花があしらわれたブーケがひとつずつ、小さな鉢に入った様々な植物が三つ。店員の厚意で袋に入れてもらい、その場を後にした。


「わ、すごいね」


 彼方のところに戻ると、そう言われた。植物やブーケはまだしも、こんなデカい花束、どうすればいいんだ。家にこの大きさの花束を飾れる花瓶なんかないし……。


「彼方、これいるか?」

「え。いいの? 僕が持っていても枯らしちゃうだけだと思うけど」

「そんなの、俺だって同じだよ。今日なんかいろいろもらったお礼」

「えー……? 僕の方がいっぱいもらってるんだけどなあ」

「いらないなら、なんかデカいペットボトル花瓶代わりにするだけなんだけど」

「情緒がないなあ。というか、いらないとは言ってない。ほしい」


 欲しいのか。まあ、こんな花束もらうなんて、一生に一度あるかないかだろうしな。

 彼方に花束を手渡すと、彼は嬉しそうに笑って俺に礼を伝えた。花に埋もれると、一層綺麗さが際立つな。花の綺麗さに負けていないというか、引き立てあっているというか。

 そのまま帰るために道を歩いて、駅に着いた。改札を通り抜ける前に彼に一言別れを告げようと後ろを振り返る。そこに彼はいなくて、思わず目線を左右に揺らした。


「こっち。今日は僕も電車に乗ろうと思って」

「あ……そう。じゃあ、行くか」


 改札を通って、ホームに向かう。大切そうに花束を両手で抱いて歩く彼方からは、嬉しさが滲み出ていた。


「冬くんは、花が好きなの?」

「……嫌い、っていうわけではない。から、まあ、好きなんだと思う」

「そっか。僕も好き。食べると美味しいから」

「……そっか」

「何その間。冗談だって。食べないよ」

「お前の冗談、本気なのかどうなのかわかんないんだよ」


 知らないことだらけなんだから。急にそういう情報ぶっこまれても、まあ、そういうもんか……って思っちゃうから。

 電車が来たので、二人で乗る。少し人が多いけれど、押し潰されるほどじゃない。車内には家族連れや学生が多い。スーツ姿もちらほら見える。吊り革を掴むと、電車が動き出した。


「なあ、彼方」

「なに、冬くん」

「俺たちが知り合って仲良くなるまでに数日しか経ってないけど、これってお前の能力か何か?」

「え、違うけど。そんな能力あったら一人目で成功してるよ」

「……一人目?」

「うん。冬くんと仲良くなる前、協力者を見つけるために、知り合って都市伝説を利用したりしてた。でも、なかなかうまくいかなくて。冬くんは……四十三人目ぐらいかな」

「そんなに試してたのか」

「うん。だから、どっちかというと、これで培ったコミュニケーション能力のおかげじゃないかな」


 なるほど。……いや、待てよ。だとしても、まだ疑問が残る。


「なんでお前のことが話題になってないんだ? その容姿なら、もっと話題になっててもおかしくないし、話題になってない方がおかしい」

「そうなの? あんまり絡まれるから、協力者が見つかるまでは目立たないようにしてたんだ」

「……なんかの能力?」

「秘密」


 くそ、気になる。あるのかないのかだけ教えてほしい。いや、知ったから何ってわけじゃないけど。

 そのうち電車は俺の最寄り駅に着いた。彼方と一緒に電車から降りて、いつもと少し違う風景の通路を抜けて改札を通る。駅から出ても、まだ彼方は俺の隣にいた。


「お前、いつ帰るの」

「冬くんを家まで送ったら」

「なんでだよ。帰れよ」

「ダメ?」

「ダメに決まってるだろ」


 少し落ち込んだ様子の彼方がそっか、とほほ笑む。どうしてそんなに着いてきたがるのかと不気味に思ったが、気に留めないことにした。無理やり別れる雰囲気を作り、駅の前で別れた。少し歩いてから振り返ると、彼はまだそこにいて、振り返った俺に見えるように大きく手を振った。俺も小さく手を振り返して、その場を後にする。家に帰るまで後は振り返らなかった。

 

 それから、彼方と俺は、ほとんど毎日顔を合わせては小説や創作について――時には、彼方が疑問に思うことについても――話した。

 学校のある日は昼休みになったら彼方が俺を誘って食堂でご飯を食べて、放課後になったら部室に行って駄弁りながら創作する。休日でも、彼方が行きたいと言っていたところに赴いて、二人で遊ぶことが多くなった。インドア派で、休日は惰眠を貪るだけだった俺がアクティブになったことには俺だけでなく、両親も驚いていた。最初は恋人ができたのかと神妙な顔で聞いてきた両親に「友達ができただけだ」と言うと、なぜかちょっと落胆していた。

 そういうわけで、俺がSNSに書く内容も、彼方とのことについてが中心になっていった。


「もうそろそろ学校祭の部誌のデータ作らないと」

「もう? 早くないか?」


 カレンダーを確認すると、彼方と出会ってから、もう一年近く過ぎようとしていた。高校二年生になるというのに、色恋沙汰は全くない青春を送っている。


「学祭まではまだあと三か月あるだろ」

「時間に余裕を持っておいたほうがいいでしょ。今回は冬くんもいるから、分厚い本になりそうでいいなあ」

「まあ、この一年でかなり書いたしな……」


 俺は筆が早い方らしく、この一年で短編中編合わせて三十本ほど書いていた。一時間という時間制限を設けて書いてみる、テーマを決めて書いてみる、などの制限付きのものも含めたら、その倍近くはあるだろう。


「どれ入れるか絞らないとな」

「え、全部入れないの?」

「……エグい厚さになるぞ」

「いいじゃん、分厚い本大歓迎。それに、紙の薄さ調整すれば、厚すぎて重たくなることは回避できるよ」

「でも、ページ数だけは誤魔化せないだろ」

「それはそうなんだけど」


 とりあえず、物は試しということで、今まで書いてきたものを入れてみた。ページ数だけでも見たことない数字なのに、見積もりをしてみたらもっとヤバかった。


「二十部にしてもこの値段か……。やっぱり、絞ったほうがいいって」

「……他の印刷所見てみる。もっと安く見積もってくれるところあるだろうから」

「なんでそんなに頑ななんだよ……」

「僕は他の印刷所見てみるから、冬くんはデータ整えておいて。目次とか作ったりして」


 こうなると引かないことは今までの付き合いでわかっていたので、こちらが折れることにした。了解、と返事してパソコンに向かう。少し古くて動作が遅いパソコンを動かして、ただ話を詰め込んだだけのデータを開いた。

 ひとつひとつの話を確認して、タイトルと作者名を一番最初のページに書いていく。


「なあ、部誌の名前何にすんの」

「『銀湾』。代々この名前なんだって」

「へぇ」


 なんとなく検索してみる。一番上に天の川のことであり、初秋の季語であると出てきた。なるほど。だから表紙が星だったのか。それに、時期的にもちょうど良い。目次の一番最初に「銀湾」と打ち込み、目次作りを続けた。

 目次を作り終えて表紙の素材を探していると、「ここは?」と彼方がスマホの画面を見せてくれた。


「ギリ部費オーバーしてるけど」

「ちょっとくらいなら南先生が出してくれるよ」

「それは……なんかダメだろ……」

「じゃあ、印刷する量少し減らす?」

「それが無難だな。十五とかにするか?」

「そうだね。それなら……うん、部費に収まる。そうしよう」


 その日は丸々部誌のデータを作ることに費やした。目次も表紙も作り終え、あとはそれぞれあとがきを書くだけとなった。そのころには下校時間が迫っていて、半分追い出されるように学校を出た。


「大学に行っても、社会人になっても、書き続けてほしいな」

「約束はできないけど、できるだけそうする」

「約束してよ。冬くんの書く話とか文体とかが大好きだから。一生読んでいたいくらい」

「そんなにか」

「そんなに。僕は、誰かの文体を真似して書くことしかできないから」


 俺が読んだ彼の話は、どれも見たことがない文体のものばかりだった。だから彼のものだと思っていたのだけれど、そうじゃなかったらしい。


「まあ、俺もお前の文体に影響されてるところあるし。全部が全部自分のものっていうわけじゃないだろ」

「そうかもしれないけれど……それでも、僕は誰かの真似しかできないっていう事実を突きつけられているみたいで、ときどき苦しい」


 彼方は少し俯いた。夕陽に照らされた横顔があの日見た赤色に似ていて、思わずどきりとした。

 俺は彼のことをほとんど知らない。性格的なことは少しずつ分かってきたけれど、それでも、理解には程遠い。生態のことについてなんか、知らないに等しい。けれど、彼が口癖のように「模倣」「真似」と言うのには気が付いていたし、その言葉が彼の生態に関係しているのはなんとなく気付いていた。

 俺は彼のことを知らない。だから、今の彼が何を欲しているのかわからなかった。慰めを必要としているようにも、励ましを欲しているようにもみえた。放っておいてほしいのかもしれなかった。


「俺はお前のことを何も知らないから、なんにもできねぇよ。何してほしいか端的に言え」

「……大きいパンケーキ食べたい。言葉はいいや。いらない。どうせ、冬くんには人間じゃない僕のことなんてわからないだろうし」

「わかんないね。でも、何かしらの言葉をかけたかった人間の俺のこともわからないだろ、お前は」


 いつもと違う電車に乗って、薄暮駅に向かう。珍しく無言で窓の外をぼんやり見つめている彼からは哀愁が漂っていた。いつも元気で無邪気なところしか見たことがなかったから、新鮮に感じる。彼方でも落ち込むことがあるんだな。……まあ、あるか。人間ではないかもしれないけれど、同じ感情がある生き物だし。犬も猫も落ち込むし。


「冬くんはすごいと思うんだ」

「……急になんだ」

「僕は人の真似しかできない。でも、冬くんは真似じゃなくて、自分のものにしてる。それって、すごいことだと思うんだ」

「彼方もしてるだろ」

「そうかな」

「そうだと思うけど。というか、俺たちはプロになろうとしてるわけじゃないだろ。ただ自分たちが読みたい話を書いてるだけ。必要以上に上手くなる必要はない」

「趣味だから、ってこと?」

「そう。部活に入ってるけど、何かのコンクールとかに出すわけじゃない。向上心があるのはいいことかもしれないけど、全てのものとセットにするのは疲れるだろ」

「……なんか、僕みたいなこと言ってるね。そういうこと言うのは、僕の役目だと思っていたのに」

「お前がうじうじしてるからだろ。それに、俺は必要以上に頑張りたくないだけ」


 そう言ってもまだなんかごにょごにょと言っていた。けれど、カフェに入って目当ての大きくてふわふわと弾むパンケーキが来ると、幸せそうに頬張りはじめた。腹減ってただけじゃねぇか。


「あ~~、おいしかった!」

「よかったな。機嫌は治ったか?」

「うん!」

「それはよかったよ」


 腹が減ると思考がマイナスになるのは、なんか人間っぽいな。会計を済ませてカフェを出ると、「さっきはごめんね」と彼方が眉を下げて笑った。


「別に気にしてないけど」

「八つ当たりしちゃったから、怒ってるかなって」

「いや、別に。つーか、八つ当たりだったんだな。なんかメンタルヘラってんなってくらいだった」

「めん……あ、そうなんだ……嫌われたかなって思ってた……」

「こんなくだらないことで……? まあ、さすがに毎日とかだったら疲れるけど」


 心底安心したように笑って、帰ろっか、と彼方が言った。彼から帰りを促されるのは初めてかもしれないと気が付いたのは、帰りの電車に乗ってからだった。

 

 学校祭一か月前のある日の放課後。浮足立ち始める学校の片隅で、俺たちは部誌が入った段ボールの前に立っていた。


「開けるね」

「南先生待たなくていいのか」

「待てない。僕が」

「そうか……」


 カッターが段ボールに突き立てられる。長い間使いこまれたボロボロの刃は、ガリガリと削るように段ボールを開けていく。残ったテープ部分を無理やり開けたために、バリッ、という鋭い音が大きく耳に響いた。開けるの雑だな。

 段ボールには、文芸本サイズの本が梱包材とともに綺麗に並べられて入っていた。十五冊しか頼んでいなかったのにもかかわらず、予備用に三冊入っている。ちょうど部員と顧問の人数分だけある。


「本だ!」

「本だな。……ページ数のわりに重たくないな。あと、思ったより厚くない」

「本文のページに使う紙を薄くしたからね。あ~~、いいなあ、厚いなあ。ふふふ……」


 本に頬擦りしかねない勢いで喜んでいる。そこまでではないが、まあ、気持ちはわからなくもない。ぱらぱらとめくってみると、自分の書いた話がちらちらと見える。こうして本になっているのはなんだか恥ずかしいけれど、少し誇らしくもある。

 座って、一番最初からページをめくる。飾り枠なども入れて作り込んだ目次も、今まで自分たちが書いてきた話も、後書きも、一通り目を通す。ページをめくる度にどきどきして、落ち着かなくなる。

 もっと作ってみたい。一度本を閉じたとき、そう思っていた。


「もうこれ部誌じゃないね」

「部誌じゃなければなんだよ」

「二人で作った合同誌」

「あー……まあ、そうだな。……また作ろう」


 俺の言葉に、彼は目を見開いた。なにか変なことでも言っただろうか。わずかに生じた焦りを払拭するような顔で彼方が笑って頷いた。また作ろう、絶対に、と小指を差し出してきた。


「高校生にもなって指切りは恥ずかしいって」

「でも、口約束じゃ果たされないかもしれないし」

「……じゃあ、誓約書。それならいいだろ」

「それなら」


 数学のノートの一番最後のページを破る。綺麗には破けなかったが、特に支障はないはずだ。俺は、誓約書、と書いた下に「また二人で本を作ることを誓います」と書いて彼方に渡した。彼は満足そうに笑って、綺麗に折り畳んだそれをカバンに丁寧にしまった。


「南先生に渡したら帰ろう」

「そうだな。今日はどこ行く?」

「遊園地」

「放課後に遊園地はキツいって」


 くだらない話をしながら、二人で放課後を過ごした。

 

 *

 

 あっという間というか、なんというか。俺と彼方は同じ大学に進学したあと、俺は中小企業の会社員に、彼方は小説家になっていた。

 それでも俺は書き続けていたし、彼方との関係も続いていた。さすがに毎日顔を合わせることはなくなったが、休みが合えばご飯に行ったり、どこかに行ったりしていた。何度か二人で一緒に本を作り、即売会とやらで作った本を販売していたりもした。俺も彼方も作品を投稿する専用のSNSアカウントを作り、そこで自由にやっていた。彼方と一緒に何度か本を作っていたからか、何度か出版しないかという話を持ち掛けられたが、断った。それを本業にできるほどではないとわかっていたし、なんとなく、本を作るのなら彼方と一緒の方がいいと思ったから。


「お前、歳取らねえなあ」

「そう? まあ、僕はイケオジとやらでやっていこうかなって思っているからね」

「いや、イケオジというか……いつまでもあのときのままなんだけど」

「え、そうなの? えー……じゃあ、次会うときは顔変えてくるね」

「やめろ。いま急に変えても手遅れだ。少しずつ歳をとれ。アハ体験みたいに」

「難しいこと言うなあ……。吸血鬼の設定で行ってもいい?」

「お前が言うと、本当にそうなってもおかしくないな……」


 今日は喫茶店で、次のイベントに出す本について話すことになっていた。彼方はメロンクリームソーダとプリンアラモードを頼んでいた。学生時代と変わらぬ食欲と胃袋の大きさと丈夫さに、羨望の眼差しを向けることがある。この歳になってくると、ボリュームのあるものや脂っこいものを食べるときは、胃薬と友人にならなければなってくるものだ。あの時のようにたくさんのものを気兼ねなく食べたいと思うことはあるが、願っても仕方のないことだ。


「冬くんは変わったね。コーヒー飲めなかったくせに」

「歳を取ると、味覚が変わるのかね。いつのまにか飲めるようになってたよ」

「歳って。冬くん、まだそんな歳じゃないでしょ」

「そんな歳なんだよ、三十代後半は」


 人生百年時代とは言うものの、自分がそこまで生きられるとは思っていない。創作をしたり、本を販売したりするために動けるのは、長くてあと十年ほどだろう。両親を介護施設に預けることになるかもしれない。創作への情熱を失ったりしたら、その時点で終わるかもしれない。そうなったらあとは定年を迎え、年金とともに緩やかな死を迎えるだけだ。


「あと六十年もあるのに?」

「みんながみんな百年まで生きるわけじゃない。それに、寿命自体は百年でも、創作ができる年齢は限られているだろうし」

「……死ぬまで書いてくれないの?」

「そのつもりだけど、人生何があるかわからないしな」


 彼方の表情が少し曇る。注文したものが届いても、表情は晴れなかった。紙ナプキンに包まれたスプーンを手に取ることさえしない。一分、二分、……時間が過ぎていく。


「よもつへぐいができればいいのに」

「……できたとしても、食べねえよ」

「自分の家の食糧、なにか持ってくればよかった」

「あ、そっち? 持ってきたとしても、さすがに腐ってるだろ」


 いや、そうとも限らないのか? わからないな。何年一緒にいても。

 重たい溜息を吐いた彼がようやくスプーンを持ち上げ、紙ナプキンを取った。しかし、プリンをつつくだけで一向に食べる気配がない。アイスクリームが溶けかけてきている。


「もし不死になったら、一生書いててくれる?」

「お前、『もしも話は叶わないんだからするだけ無駄じゃない?』って前言ってただろ」

「いいから。前は前、今は今」

「はあ。……不死になっても、病気とか筋力の衰えとかでそのうち書けなくなるだろ」

「屁理屈」

「なんとでも言え。一生創作していたくても、死にたくなくても、俺には無理なんだよ」


 彼方に寿命があるのか気になったが、生きとし生けるものは大体すべて死ぬ。彼方も例外ではないはずだ。彼方の様子を見るに、短命ではなく、むしろ長寿の方なのだと思う。彼の時間感覚的にも。


「死なないで、って思うのはおかしいかな」

「おかしくはないんじゃないのか? 俺も死にたくはないしな」

「僕が死ぬまで書き続けてよ。君が死んだら、新作を読めなくなっちゃう」


 彼の声が震えているのがわかった。俯いていて、表情はよく見えない。


「まだ、……まだ行きたいところがあるんだ。最近新しくできたテーマパーク、とか、温泉とか」


 隠しているつもりなんだろう。潤んで震える声を。


「千ページ超えの本作ってみたいって言ってたでしょ? それもやろうよ。まだやってない。それに、」

「まだ泣くのは早いだろ」


 俺の声に、彼の肩がびくりと跳ねた。そして、ゆるゆると顔を上げて、「ないてない」とぼやく。無理があるだろ。その赤くなった鼻先と潤んだ瞳で。


「まだ死んでない。仕事の都合とか体力の問題とかあるけど、行けるだけ行くぞ。この歳でテーマパークは恥ずかしいからパスだけど」

「……テーマパークも」

「ひとりで行け。車は出すから」

「……温泉、泊りで」

「ああ、いいな」

「温泉とテーマパークの違いは何……?」


 まだ人間の感覚がわからないらしい彼が首を傾げた。そうして、ようやく彼はプリンアラモードを食べ始めた。


「そういえば、編集さんとはどうなんだ?」

「特になにも。好きなもの書いてください、締め切りは守ってくださいねってだけ」

「へえ。まあ、お前は何書いても面白いもんな」

「いろんなものを吸収して成長してるからね」


 いつの日だったか、自分は人の真似しかできないのだと吐露していたことを思い出した。今は胸を張って成長だと言えるようになったらしい。


「次のイベント、千ページ超えのやつ作ろう」

「急だな」

「いつ死んじゃうかわからないし」

「まだ死ぬつもりはねぇよ」


 今から千ページ超えのものか……。一人当たり五百ページで、サイズは新書判としても結構な文字数書かなきゃいけない。彼方は、普段の執筆と並行してだから、なおさら大変じゃないか? いや、それは俺もか。暇を見つけてやらなきゃいけないから。

 それでも、わくわくするな。どんな装丁にしようか、どんな内容にしようか……。彼方といろいろ話しながらこれからに胸を弾ませた。

 

 *

 

 冬くんが死んだ。九十五歳。大往生で、人間にしては長生きだった、らしい。今も生きていたら、百歳超えてるのに。ギネスとか狙えたかもしれないのに。もうちょっと生きていてくれればよかったのに。

 彼が死んでから僕は変わった、と周りの人間は言っている。変わるに決まっている。唯一の親友で、一番の理解者で、協力者。それらを一気に失ってしまった。変わらない方がおかしな話だ。そんな人がいるとしたら、その人は同族なんじゃないかと疑ってしまう。


「小鳥遊先生。前にも鈴木さんに言われたかと思いますが、文体を直してください」

「……好きに書けと言ったくせに」


 そう吐き捨てて、僕を引き留める声も無視して店を出た。そうして向かったのは、冬くんと何度か来たことがある、メニューが豊富な喫茶店。もう全てのメニューは食べたというのに、僕は未だにここに来ている。彼が好んで飲んでいたコーヒーを頼んで飲んでは、苦さに顔を顰める。

 ノートパソコンを開いて、文体を直せと言われた物語を目でなぞる。わかっている。これは、僕の文体じゃない。冬くんの文体だ。少し前にこの文体で無理やり出した本は、酷い売り上げと酷評の嵐だったらしい。

 今思い出しても胸が痛む。冬くんが死んでから作った、彼が今まで書いた話を全てまとめた本はほとんど売れなかった。大損したことがショックなわけじゃない。今まで本が売れていたのは、僕が一緒に書いていたからであって、「山田冬」という人間が書いた話はそれほど魅力的ではなかったということを突き付けられたからだった。その事実を理解してから、僕は人間に対して酷い嫌悪感を覚えるようになった。

 僕が小説家になったのはここに滞在する費用を稼ぐためだったし、好きなことを生業にできるのなら、そっちの方が良いと思ったからだった。口を出されることもなかったし、経費だと言えば大体なんでもできたし。

 ……もう潮時かな。読みたいものを書くことをモットーとしていた僕が今読みたいものは、冬くんが書いた話だ。世界中で僕一人だけがそれを欲しがっていたとしても、ほかに読む人がいなくても、……書く人がいなかったとしても。僕は、彼の書いた新しい話が読みたい。

 編集からの連絡を無視して、新しく話を書き始めた。冬くんだったら、どんな話を書くだろう。彼もいろんな話を書いていたけれど、全く思いつかなかった。

 ラストオーダーを聞かれてしばらくすると、聞きなじみのある音楽が流れ始めた。店内にいた客がおもむろに帰り支度を始めたのを見て、僕も帰ろうと腰を上げた。ノートパソコンは真っ白だった。

 家に帰ってからも、僕はノートパソコンと向き合っていた。最初の一文も、書きたいシーンも、最後の一文も、何も思い浮かばない。こんなことは初めてだった。冬くんは、いつも僕に初めてを体験させてくれる。

 本棚のとある本を手に取る。僕と冬くんで作った、初めての本。冬くんがあからさまに喜ぶことはなかったけれど、嬉しそうに口角を上げていたことを今でも鮮明に思い出せる。あのとき、たぶん僕たちは同じことを思った。もっと本を作ってみたい、って。そうじゃなきゃ、彼は死ぬまで創作をして本を作るなんてことはしなかったと思う。彼の性格的にも。

 彼が生まれて初めて書いた話を読み返す。僕を題材に話を書いてくれた話。彼から見た僕って、こうだったんだなあ。初めて読んだときと同じ感想を抱いたとき、僕は閃きや直感に似た何かが体を走り抜けるのを感じた。

 そうだ。僕も、冬くんを題材に話を書こう。

 そうと決めてからは早かった。スリープモードになっていたノートパソコンを叩き起こし、情熱的なクラシックを弾くようにキーボードを叩いた。

 あの日、彼を初めて見たとき、読む姿勢が悪いな、という感想を抱いた。拙くもしっかりと感想を伝えてくれた彼に誠実さを見出した。人間の学生は恋愛するのが普通だという偏見を覆してくれた。人間ではないと知っても彼は冷静で、僕に協力してくれた。彼が死ぬまで。

 時計の針が何周しても書き足りなかった。彼との思い出も、僕が抱いた感情も、あの日の風も、匂いも、景色も、食べたものも。けれど、日記みたいに味気ないものにはしたくなかった。かといって、うたた寝したときに見た夢みたいに儚いものにもしたくなかった。

 だって、あれは全部本当のことだった。現実だった。冬くんは生きていた。僕と一緒にいて、笑っていたし、よく僕に呆れていた。冬くんが本当はどう思っていたのかわからない。もしかしたら、本当は気持ち悪がっていたのかもしれない。人間は、未知のものに強い恐怖を抱くのが普通だから。たとえ、表面上は友好的であっても。

 ……ああ、そういう意味では、冬くんは僕に似ていたかもしれない。「らしくない」ところで。まったく違う存在だと思っていたけれど、少しは似ていたんだなあ。

 

 ふっと糸が切れたように集中が途切れた。スマホの充電は切れていて、付けっぱなしのテレビは打ち合わせをした日から二週間が経っていることを僕に教えてくれた。しばらくぼんやりとノートパソコンを見つめていたが、今はこれ以上書けないと悟った。保存してから立ち上がる。スマホを充電ケーブルに繋げてから冷凍庫を開けた。冷凍のキムチチャーハンの袋をつまみ上げて、どれくらい温めればいいのか確認する。電子レンジに放り込んで、確認した時間プラス二十秒で温めを開始した。

 スマホの元に戻ると、少しだけ元気になっていた。通知を確認すると、編集からいくつも連絡が来ていたのがわかった。あまりに返事がないことを不審がっている。そろそろ家に行きますよ、という連絡が最後だった。


「生きてるから大丈夫、……と」


 こんなに集中したのも初めてだった。今までは空腹が過集中を止めてくれたから。冬くんは、死んでからも僕に初めてを経験させてくれるらしい。

 僕は出来上がったチャーハンをぺろりと平らげ、シャワーを浴びた。食事以外はあまり必要のない行為だけれど、人間として生きていく以上、やっておくに越したことはない。

 最低限の荷物を持って、ドアのカギをかけてから冬くんのお墓へ向かった。僕の家からあまり離れていないところだから、すぐに着いた。桶に水を汲んで、ぱちゃぱちゃと白い石に水をかける。


「最近、暑いよね。……って言ってもわからないか。いいなあ、冬くんはいつでも快適に過ごしていそうで」


 するりと滑り落ちていく水滴をぼんやりと眺める。山田家、と彫られた石の側面の最後には、冬、と彫られていた。今の季節とは真逆のその文字。いつでも冷静であられるようにと願って名付けられた名前。彼が生きていたという証明。


「山田家最後の家系だね、冬くん。僕に構ってばっかりで、全然恋愛とかできなかったもんね」


 僕がいなくても一人だったかな。……いや、それはないか。冬くんは素敵な人だ。僕が見つけなくても、きっと、他の誰かが見つけてくれていたはず。


「冬くんは、……冬くんの書く話があまり求められていないこと、知っていたのかな」


 冬くんが話を書き続けていた理由はわからない。僕と同じ理由だったかもしれない。違ったかもしれない。けれど、承認欲求のためではなかったと思う。

 じわじわと太陽の熱が僕を蝕む。目の前の白色が、痛いくらい目に刺さる。


「冬くん、どこにいるかな。天国? 地獄はないよね。輪廻転生した? どこかの星にいる? それならまだ会いに行けそうなんだけど。もしかして、僕が死んだら会えるとか、ある? それとも、……本当にもう二度と冬くんには会えないのかな」


 人間が死後の場所を作った理由がわかる気がする。……もしかしたら、こんなに冬くんのこと考えたの、初めてかも。今までは、冬くんが死んだという事実だけを抱えていたから。それ以上は何も考えていなかったから。

 僕って、どうやったら死ぬんだろう。自然死が可能だとしたら、僕はあと何百年生きるんだろう。病死が可能だとしても、風邪すらひいたことがない僕は何なら罹患するんだろう。誰かに殺してもらうか、自殺でしか死ぬことができないのだろうか。

 けれど、死んだからといって、冬くんに会えるわけではない。そうわかってはいても、思考を止められなかった。

 花を何本か買ってから家に帰る。仏壇に供えられている花と水を取り換えた。あの祭りの日と、棺桶の中で眠っている姿が重なる。本当に花が似合わないな、と何度目かわからないことを呟いた。

 また話の続きを書いた。今度は、ひとつひとつ思い出を手繰り寄せていくように丁寧に書いた。あの日もらった花の匂い。感情の高ぶり。冬くんの呆れた顔と、薄く笑った顔。

 なんとなく読み返してみた。冬くんの文体だったらいいなと思ったけれど、僕の文体だった。少し落胆した。

 

 どれくらい日にちが経ったかわからない。僕は冬くんとの日々をただただ書き綴った。僕が彼と過ごした日々の色鮮やかさ。彼が生きていたという証明。

 僕が人間に対して持っていた偏見をいくつも覆してくれた。たとえば、人間は理解できないものを見たとき、現実逃避したり攻撃的になったりすると僕は思っていた。それは生物として正しいことだ。でも、冬くんは違った。大きなショックを受けていたけれど、僕を知ろうとした。僕に協力してくれた。僕の唯一だった。それがどれだけ僕の拠り所となっていたのか。君が歳をとるたびに不確かになっていく「また明日」も。……きっと、人間の君にはわからないだろうね。

 そういえば、冬くんが盛大に失恋したときがあったなあ。慰めようとしたら、「お前みたいな人外に人間の何がわかるってんだよ!」って怒鳴られたな。冬くんが怒鳴ったのなんて初めてで、嫌われたかもしれないって思って、冬くんが喜びそうなものをいろいろ周りに並べた。冷静になった冬くんが八つ当たりしたことを謝ってくれて、それから、「儀式みたいだからやめろ」って言っていたなあ。……お墓でそれやったら、化けて出てきてくれるかな。カラスについばまれるだけかな。


「九十五歳……晩年だ」


 あれだけ長かった彼の人生が終わってしまう。物語の中でも死んでしまう。

 …………いや、違う。彼は殺されるんだ。今度は僕の手で、彼を殺してしまう。

 その事実に気が付いて、僕は耐えられなかった。僕はそのままノートパソコンを乱暴に閉じて、震える息を吐いた。

 生きていたらいいのに。生きていてほしいのに。誰よりも強くそう願う僕が、彼を殺そうとしていた。恐ろしかった。

 ゆるりと視線を上げる。目に留まったのは、僕が一番初めに書いた本だった。ほとんど無意識にそれを手に取って、ぱらりとページをめくる。何もかも初めてだった僕には何もわからなくて、余白を多くとってしまって見づらくなってしまっている上に、表紙の画質も粗い、僕の本。それでも、生まれて初めて僕の本ができたことが嬉しかった。

 ……そうだ。冬くんを死なせなかったらいいんだ。どれだけ強引でありえなくても関係ない。生きてさえいてくれればいい。

 それに気が付いた僕は、さっき閉じたパソコンを開いて、続きを書き始めた。

 僕が神様みたいだったらよかった。なんでもかんでも思い通りになるような、そんな存在。弱って床に臥せっていた冬くんを食べて、悪いものと老いだけを僕が取り込んで、それで、冬くんが不老不死になって、一生僕と一緒にいてくれる。

 冬くんが生きている。この歳ならきっとテーマパークにも一緒に行ってくれるし、疲れたからとすぐに休憩することもないし、車も乗れるから、いろんなところに行ける。仕事というしがらみもなく、昼間から遊びに行ける。いろんなものを食べられる。

 僕は最初から読み直した。冬くんと出会ったとき。僕が人間じゃないと冬くんが知ったとき。僕のことを知っても、行ったことのない場所に連れて行ってくれたこと。経験したことのない感情。一緒に創作してくれたこと。本を作ったこと。僕の疑問を人間からの目線で答えてくれたこと。少しずつ弱っていく冬くんに感じた恐怖と寂しさ。

 そして、あまりに強引で現実味のないハッピーエンド。

 僕は最後まで読んで、思わず笑ってしまった。駄作だ。夢オチや爆発オチと何ら変わりない。編集が読んだら、「本当におかしくなりましたか?」と聞いてきそうなくらい、僕の今までの作風と大きくかけ離れている。それに、これは僕が嫌いな結末でもあった。現実味がなく、あまりに勝手で、今までの話の流れをぶった切る結末。そしてなにより、つまらない。

 でも、それがなんだ。どれだけありえなくてくだらなくても、冬くんはこの中で生きている。これからも、この物語の中で彼は生き続ける。それだけでよかった。それだけが僕の救いだった。


「はあ……あー……テーマパーク行ってこよう」


 テーマパークに行ったら、冬くんはどういう反応をするだろう。大学生のときに一度行ったけれど、そのときよりも楽しいかな。一通り遊んで食べたら書こう。冬くんと僕がテーマパークに行って遊んだ話を。

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