塩垣蓮司の夢想
マシュマロさん太郎
塩垣蓮司の夢想
塩垣蓮司は夢を見る。
酒を飲みすぎたり、禿げ頭の上長にちくちくと小言を刺されたり、肩こりと低気圧で引き起こされる頭痛に顔をしかめるような夜に見る。
夢に現れるのは、いつも同じ男である。
そいつはベッドにしなりと身を預け、目を伏せている。パジャマのボタンを二、三個外し、ズボンはいつも履いていない。
自然のまま放り出された足に体毛は少ない。思春期の峠を1mm下り始めたことを示すかのように、少し緩んだ筋肉がシーツの上に横たわっている。
塩垣の姿をその視界に認めると、男はふっと表情を緩める。塩垣はいつも、男が泣きだしそうなのか笑いだしそうなのかがわからなくて、どうしたものかと口ごもる。
そうすると男は塩垣の背に腕を回すのだ。
そして耳元でつぶやく。
「言わないとわからないか」
男は塩垣にキスをする。二回、三回と繰り返しキスをする。柔い唇が徐々に酸素を求めて開き始めたら、塩垣はなし崩しでそのまま体に触れる。
服を脱がせるときもある。
足を大きく開かせるときもある。
「しおがき」
「しおがき…」
繰り返し、男が自らの名前を呼ぶ。
火照る体とうらはらに、脳髄の芯はひどく冷え切って、徐々にその温度差に不快感が募っていく。
手足にじんと痺れが走り、その痺れが引くごとに感覚が消えていく。と同時に、末梢から皮膚がゴムのようになっていく気がして、気持ち悪い。
気持ち悪いのを誤魔化そうとして、男の首筋を噛む。
男が背を反らす。
「あっ」
飛び出した声にすら苛立つ。
反射で拳を握りしめる。
勢いをつけて思いっきり男の頬を打つ。
「保科っ」
大声で、目が覚める。
※
塩垣蓮司は夢を見る。
でも、その夢のことは誰にも言わない。
真横で、今年三歳になる長男と結婚五年目の妻が眠っている。起こさないように静かにベッドから体を滑らせ、汗で張り付いた寝間着を取り換える。
二度寝をしてもいいけれど、もう眠れそうもないほど目が冴えてしまった。
塩垣は、リビングへと向かうことにした。
コーヒーを淹れながら、夢に出てきた男の顔が思い浮かんで思わず頭を振った。
二日酔いには酷な揺れ。頭蓋の中で、脳みその収まりが悪くなったような心地。
軽めの目まいを覚えて、塩垣は目元を掌で覆った。
やっぱり、保科孝文である。
あの夢に決まって出てくる男は、大学時代の同期だ。
保科と別段深い交流があったわけではない。ゼミが一緒だったからたまにつるみはしたものの、卒業後は遠い存在になり果てた。
なぜ、保科の夢を見るようになったのか、塩垣には皆目見当がつかなかった。
初めてあの夢を見たのはいつ頃だったか。塩垣はコーヒーを一口すすりつつ、ソファに座り込む。
……三年前、のような気がする。
三年前に何かあったか、とさらに頭を巡らせてみる。三年前とは、塩垣の人生において記念すべき年であり、かつ忌むべき年でもある。
長男が生まれ、この世で最も大事な守るべき存在ができた。妻も塩垣も、涙を流して喜び、お互いの両親にもなんとか孫の顔を見せることができた。ギリギリセーフで誰も欠けることなく、本当によかったね、と妻と笑いあったものである。
しかし、その一か月後に人事異動が起こった。上長が変わり、やりがいとしていたプロジェクトからも外され、職場ではトラブル続きに見舞われた。
生後一か月の息子の面倒を見ることもできない目の回るような忙しさの中で、妻との関係もずいぶんとぎくしゃくしたものである。
今は別の部署に配属され、状況はかなり落ち着いたが、新生児の最も厳しい時期に手を貸せなかったことを、今もちくちくと妻に刺され続けている。
ここまで考えて、保科は夢の原因を「ストレス」と断定することにした。
どう考えたって、それしかないからである。
息子が生まれたことと、保科とセックスする夢を見ることは全く関連性がない。
妻との関係がぎくしゃくしたことは認める。だが、浮気をするような肉体的・精神的な余裕は、あの頃の塩垣にはなかった。
誰かを抱こう、という姦淫の欲望も一切ない。第一、保科は男である。塩垣は同性愛者ではなかった。
ストレスが溜まっていると、あの夢が現れるのだろう。ある意味では、体からの警告だととらえておくのが良いかもしれない。
保科がそう結論づけたときだった。
「ぱぱ」
振り返ると、長男がリビングのドアからおずおずと顔をのぞかせていた。
「おはよう」
長男は、口の中でなにやらもちゃもちゃと口ごもり
ながら、もちもちとした小さな手で目をこすっている。
髪の毛がぴょこんと跳ねて、とさかのようだ。
思わず笑みがこぼれて、塩垣は両手を広げた。
「おいで、和馬」
息子が胸の中に飛び込んでくる。温いミルクのような優しい匂いがふわりと広がった。
柔らかで愛おしい生き物。
胸の中で二度寝を始めようとする和馬の頭を撫でながら、塩垣は夢の中の保科の温度をまた思い出してしまっていた。
※
塩垣蓮司は夢を見る。
実のところ、保科と夢で出会う頻度は、徐々に減りつつあった。
三年前などは、週に三回か四回は見ていたものである。よっぽど誰かに相談しようかとも思ったが、とてもできそうになかった。
そして頻度が下がるほどに、光景や五感の鮮烈さも少しずつ鈍くなっていった。
夢であるかも判断できないほどにリアルだった肌の温度や感触は、もう今ではさほど感じられない。
塩垣自身は、これを非常に良い兆候だと受け取っていた。生活の落ち着きと共に、ストレスも減ってきたと考えるのが妥当だろう。眠りも随分と深くなり、保科はおろか、そもそも夢を見ることすら少なくなりつつあった。
そんな折に大学時代のゼミの同窓会の知らせが来た。
「パパ、珍しいね。同窓会は基本行ってたじゃない」
夕食の席で、同窓会を行くのを迷っているとついこぼした。妻は、長男の口を拭いている手を止め、目を丸くして塩垣のほうを見た。
「うん。なんかあんま、気が乗らなくて」
「…行かなきゃいいんじゃないの」
「そうもいかないよ。同期が来いってしつこくて」
「いつも付き合いがいいと、大変だね」
「……他人事だと思ってるでしょ」
「個人的には行ってきてくれると嬉しいけど? 晩ご飯一人分用意しなくて済むし!」
言葉尻に、微妙にちくりと刺さるものを感じる。ろくに食事の準備もしないのだから、たまには外で食べてこいという意だろう。
塩垣は、口の中に含んでいた白飯を飲み込んだ。
「わかったよ、行ってくるよ」
正直、行きたくない。もし同窓会に保科本人がいたら、あまりに気まずすぎる。
就寝前、ベッドの上に寝転がりながら、塩垣はメッセージアプリを開いた。
《行くよ、同窓会》
即座に既読がついて、同期から返信が来る。
《わかった、じゃあ幹事に連絡しておく》
《ところでさ》
《今のところ、どれくらいの人数来る?》
やや空白があって
《今のところ、ほぼ全員》
塩垣はためいきをついた。では、保科が来る確率も高いということだ。ここで、保科は来るか?と聞いてもよかったのだが、一度行くと言ってしまった手前、聞きづらくなってしまった。
塩垣は、保科が来ない可能性に賭けることにした。同期の口ぶりからしてかなり低いけれど。
もし、保科が来ていたら、よくつるんでいた同期の近くに席を陣取ろう。そして、さっと顔だけ出したらすぐに帰ろう。
塩垣はそう決心した。
スマホをベッドボードに置き、目を閉じた。
※
塩垣蓮司は夢を見る。
夢を見た次の日は、大概気分が重い。
これまでに何度、夢の中で保科を殴っただろうか。何度保科とキスをしただろうか。考えるだけで気が重い。
「はあ」
思わず口からため息が零れる。丸ノ内線の車窓に視線を移す。
同窓会当日に限って、保科の夢を見てしまった。
ただでさえ気まずいのに、輪をかけて気まずい状況になってしまった。
車窓に映る自らの顔は、大学時代よりも随分とくたびれている。目の下には色素沈着のクマ、たるみ始める頬、への字に曲げられた唇。
塩垣は再びため息をついた。
目的地のホームで降りると、大学時代の同期が手を振ってこちらに近づいてきた。
「よお、こっちこっち」
「悪い、急に仕事入って遅くなっちゃって……」
「いい、いい。今日はそういうのなし。大変だね、お前もさあ」
同期は笑いながらポケットからスマホを取り出した。
「みんな、もう始めてるっぽいわ。行こう」
改札を抜けると、駅前繁華街の雑踏が全身を包む。同期と並んで夜風に身を任せていると、少し大学時代に戻ったような気分になってくる。
しかし、塩垣の脳裏に、保科の顔がよぎった。
「あのさあ」
思わず口を開いてしまった。
「なに」
振り返った同期は「早く行こう」と言わんばかりに、ほぼ進行方向へ体を向けている。
「ほ、保科って、今日来てる?」
「えっ」
瞬間、同期の表情が不自然に引き攣った。
「えっ?」
塩垣は不安になって、思わずそう繰り返した。
「保科はさ、お前さ……聞いてないの?」
「…な、何が……」
「死んだじゃんかよ、三年前に」
※
塩垣蓮司は夢を見た。
見るだろうと思っていた。遠方まで墓参りに行ったうえに、酒まで飲んでしまったから。
夢に出てくる男は、三年前に死んでいる。
塩垣は、ベッドの上で横たわる保科に向かって手を伸ばした。彼は何一つ服を身に着けていなかった。
残念ながら、塩垣はその姿を見ても何の情欲もわかなかった。だけど、この男の掴みがたい表情が、不安の表れなのだとわかった今は、少し可愛らしく見えるのも事実だった。
塩垣はそのまま、ぎゅうと保科を抱きすくめた。
保科の体が緊張している。
今までにない夢の展開で、塩垣もまた緊張しながら自身の行動を見守った。だが、悪いようにはしないと謎の確信があった。いつものように、体を暴き、頬を打つようなことはしないだろうという直感があった。
夢の中の塩垣は、保科の背を撫でた。
優しく上下に何度も撫でさすった。じょじょに保科の体から力が抜けていく。すり、と塩垣の肩に頬を寄せ、保科は目を閉じた。
塩垣は、保科の顎をすくった。
薄い唇に、優しくキスをした。
塩垣からキスをしたのは、これが初めてだった。
「どこが好きだったんだよ、俺なんかの」
塩垣の言葉に、意外にも保科は笑みを浮かべた。
「悪かった」
保科は確かにそう言った。
「いや、謝られても」
そこで、目が覚めた。
以来、塩垣蓮司が保科孝文の夢を見ることはなかった。
(了)
塩垣蓮司の夢想 マシュマロさん太郎 @sumoayade_sumoa
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